天命に導かれし時~明清興亡の戦い

谷鋭二

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寧遠城の砲煙(一)

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 サルフ戦役の後も、ヌルハチの快進撃は止まらなかった。時をおかず明の開原城をも陥落せしめ、明の力を頼って、細々と独立をたもってきたイェヘ部族をも屈服させた。
 天命六年(一六二一)には瀋陽城を攻撃し、これを陥落させ、さらに南下して遼東の中心たる遼陽城を攻撃した。遼陽城が落ちたことにより、遼河以東はまたたく間にヌルハチの支配するところとなった。さらに翌年には遼西の重鎮たる広寧と義州を攻略した。ついに東北地方のほぼ全域が、後金の支配するところとなったのである。
 
 この間、後金国は幾度も遷都した。天命四年にはヘトゥアラからジャイフィヤンに、翌年にはサルフへと、戦勝の余勢をかって連続して遷都を繰り返した。さらに天命六年遼陽、翌年には東京、そして天命十年に瀋陽に遷都した時には、ヌルハチもすでに六十七歳になっていた。



清代の紫禁城(明代のものとは多少異なる)

 
 都北京、この都市の名が中国史に登場するのは、春秋戦国時代に戦国の七雄の一つ燕の都としてである。はるか時をへて十世紀の遼、十二世紀の金はいずれもこの地を都とした。そしてモンゴル族の元もまた、この地を大都と呼び都とする。
 元の後を継いだ明は、最初、南京を都とした。北京に遷都したのは、三代目の永楽帝であった。以来、今日まで北京は中華の要である。
 紫禁城、この巨大な皇帝の権威を象徴する建造物は、やはり永楽帝の御世に建造された。以来、明そして清の王城となる。その規模は南北九百六十メートル、東西七百六十メートルにも及ぶ壮大なものであり、トルコのトプカプ宮殿、フランスのヴェルサイユ宮殿をもしのぐ規模である。
 高さ十メートルの厚い城壁に囲まれ、四面に各一門、四隅に角楼を設け、その外に幅五十メートル余の堀をめぐらしている。この中に九千近くの部屋があり、明代では九千人の宮女、それに宦官十万人が住んでいたというから驚嘆のほかない。
 まず午門をくぐると前三殿といわれる皇極殿・中極殿・建極殿(清代でいうと太和殿、中和殿、保和殿、上図参照)が、ほぼ縦一列に連なっている。その先に乾清門があり、ここを通過し真っすぐに進むと、やがて乾清宮が見えてくる。この乾清宮こそ明代の皇帝達が日常政務を行った場所である。


 ヌルハチの動きに動揺する明の宮廷では、この日、大臣で遼東経略の孫承宗が、皇帝と明の宮廷の百官に一人の逸材を紹介した。その人物こそ広東省出身で袁崇煥という名の四十二歳の武官だった。字は元素という。
 武官といっても、この人物はもともと進士に及第した文官で、そのせいか色白で、体格も華奢だった。
「大丈夫であろうか、この男で?」
 宮廷の百官が不安を感じたのも、やむを得ぬところだった。
「この袁崇煥元素、国家の大事なれば、力の限り戦う所存でござる。敵将の名を……なんと申しましたかな? シャクハチとか申しましたかな」
「たわけ! シャクハチではないヌルハチだ」
「ああ左様でござりましたか。いずれにせよ奇怪な名でござりまするな。中々の策士と聞き及んでおります。生ける孔明、死せる仲達を走らすという、我が国の有名な故事を逆手に取ったとか」
「生ける孔明、死せる仲達を走らす……?」
 百官はいよいよもって袁崇煥を不安視した。しかし去り際になり袁崇煥は、
「恐れながら陛下及び百官の皆々様方、拙者、次に謁見する際は敵の首を持参するか、もしくは臣自らが首となって戻るかいずれかでござる。そう御心得あれ。また臣の敗北はすなわち、明の滅亡でござる。百官の皆々様方におかれては覚悟なされませ」
 といって、かすかに笑みをうかべた。




(寧遠城と見取り図)
 

 この時、明王朝にとって対後金の最前線は、現在の遼寧省葫芦島市に位置する寧遠城である。寧遠城は南北が八二五.五メートル、東西八〇三.七メートル、高さ十メートルの城壁に囲まれていた。城は四つの門(東門・春和門、西門・永寧門、南門・延輝門、北門・威遠門)があり、各門は半円形の甕城で守られ、その上に二層の楼閣があった。城郭の四隅には砲台が置かれ、城内には十字型に大通りが走っている。十字路の中央には三層で高さ十七メートルの鼓楼があったといわれる。
 もしここが後金の手に落ちれば、後に残る明側の防衛拠点は山海関のみとなってしまう。明の命運は今や、この袁崇煥という華奢で色白の文官上がりの男にかかっていた。
  監関外軍事に任命された袁崇煥が、寧遠城の現地に赴任して、まず最初に行ったことは城壁の増強であった。諸将に工事区画を割り当て、城壁の高さは三丈二尺、防壁の高さは六尺、上部の広さは二丈四尺となり、後金軍をもってしても、簡単には崩せないほど堅固なものとなった。
 さらに袁崇煥は屯田を回復し、流浪している人民を集めて養い、軍糧を多く蓄積することに着手した。それと同時に、積極的に後金が占拠している遼西に進出する。将軍達を派遣して遼西諸城を取り返し、錦州・松山・杏山と各要塞を攻略した。
 そして今ひとつ袁崇煥には秘策があった。それが西欧式の大砲の使用であり、やがてそれがヌルハチの命取りとなるのである。
 
 
 これらの袁崇煥の方針に、袁崇煥の直属の上司である遼東督帥・孫承宗は、実によく理解を示した。ところがこの人物は突如として罷免され、遼東督帥に地位は高第という、無能な男が就任することとなる。
「馬鹿な! 何故に錦州・松山・杏山から部隊を撤収すると申される?」
 この報を接したとき、袁崇煥は最初驚き、そして必死に高第という男につめよった。
「兵が分散しすぎじゃ。こう分散していてはかえって寧遠の守備が危ない」
 高第ははき捨てるようにいった。
「何を申される。兵が足りないと仰せなら、北京にただちに使者を送り増強すればよいだけのこと。今は国家危急の時ですぞ」
「兵が多ければ戦に勝てるとの限らぬ。そなたはよもやサルフの戦いを知らぬわけではあるまい。我等の兵は蛮族にはるかに勝りながら、結局個別にばらばらに戦ったおかげで、全て滅ぼされたではないか」
「サルフと今回ではまったく状況が違いまする」
 袁崇煥も食い下がるが、ここで高第は、さらに袁崇煥の言葉を遮り、
「所詮、そなたは文官にすぎぬ。実戦のことはわかるまい」
 としたり顔でいった。
 結局、袁崇煥はせっかく手にした錦州・松山・杏山を放棄せざるをえなかったのである。
 このことはヌルハチをおおいに喜ばせた。今が千載一遇の好機と見たヌルハチは、各将、各ベイレに出陣の命令を下した。祭壇を設け天に祈ると、自ら十三万もの大軍を率いて、寧遠を目指すのである。





 









 



 
 

 
 
 
 




 
 
 
 
 
 

 
 









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