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寧遠城の砲煙(四)
しおりを挟む(紅夷砲)
二十四日午前六時、後金側の攻撃は東門より開始された。まず後金の精兵の中でも選りすぐりの者が、鉄頭子とよばれる二重の鉄の鎧を着用し、盾車を擁して先頭に立ち、その後に鉄騎が従った。
盾車は双輪で盾の背後に厚さ数寸の板で、箱のようなものが造られており、表面には牛皮、その内部に兵が伏せていた。まず盾車をようする兵が、敵の猛攻撃を退けながらも城壁下に殺到。伏していた兵が鉄槌でもって城壁を破壊しようと試みた。
ヌルハチは圧倒的大軍ゆえ、自軍の勝利を疑っていなかった。だがそのヌルハチをもってしても、まったく想定外の事態が勃発した。
開戦からわずかは半刻とたたないうち、ヌルハチは自軍の兵士らしい悲鳴、いや絶叫といっていいだろう。そして今まで聞いたことのない鈍い衝撃音を耳にした。それは紅夷砲と名付けられた、西洋渡来の新式の大砲だった。
明王朝がマカオのポルトガル人から購入したもので、前装砲(弾薬を前部から装填する構造)であるため、銃筒壁をいっそう厚くすることが可能だった。重い砲弾を安全により遠くに発射することができ、その衝撃は計り知れない。
戦場にしばしの間、もあもあと煙がたちこめた。その後ヌルハチが目にしたのは、味方の兵士、そして馬が、おり重なるようにして倒れている光景だった。盾車もまた粉々に破壊されていた。
結局この日の総攻撃は、後金側が甚大な被害をだし、一旦兵を退くこととなる。
ヌルハチはただちに作戦を変更する。圧倒的な兵力にものをいわせて城を取り囲み、持久戦の構えを見せると同時に、城に多くの斥候を放って、城砦の弱点を探った。
結局、延輝門の防備が最も弱いことを知ると、ヌルハチは今度はその一点に八旗の全兵力を集中させた。ちょうど日付けがかわる頃、後金軍の総力をあげた夜襲が開始されたのである。この夜襲は成功した。後金軍の猛攻の前にやがて城壁に巨大な亀裂が生じ、ついには大穴が開いた。まだ寝ぼけまなこの明兵にとり、それはまさに眼下に迫り来る悪夢そのものだった。
この混乱の中、袁崇煥もまたしばし動揺するも、すぐに立ちなおった。自ら剣をぬき敵を斬りふせる。しかし乱戦の最中、ついに左臂を負傷するに至る。
「これまでか…」
袁崇煥は膝をつき、がっくり頭をたれた。しかしその時、ふとまだ書生だった時代に学んだ漢詩の一節が脳裏をよぎった。
行行重行行 行き行きて重ねて行き行き、
與君生別離 君と生きて別離す。
相去萬餘里 相い去ること万余里、
各在天一涯 各おの天の一涯に在り。
道路阻且長 道路 阻しく且つ長く、
會面安可知 会面 安くんぞ知るべけん。
――どこまでも旅路は続き、君と離ればなれになってしまった。互いに万里あまりも離れてしまい、それぞれ天の両端にいるかのようだ。道は険しく長く、いつになったらまた会えるのかもわからない。
これは遠く離れて故郷を思う詩である。袁崇煥がまだ書生だった頃、将来を誓いあった女性がいたが、その女性は病のため早世した。生死の瀬戸際で袁崇煥の脳裏をよぎったものは、彼女の遺髪を胸にだきながら見た、故郷・広東の海だった。
「ここで、屈するわけにはいかぬ」
一旦は後方に退いた袁崇煥であったが、自らの軍服をちぎって傷口をふさぐと、再び剣をぬいて最前線に姿を現した。所詮は文官上がりと半ば侮っていた将兵達も、指揮官のこの気迫に驚き、全軍一丸となって敵に向かい、ついには後金兵を退けてしまう。
穴は即座に埋められたものの、しばし時を経て、こんどは別の箇所から後金軍が攻めいろうとした。だが袁崇煥は冷静だった。敵の数が決して多くないことを見抜いていた。必死に城への潜入をはたそうとする後金兵の様子を、団扇であおぎながらしばし見物した後、
「それぃ!」
と叫び声をあげた。同時に油がまかれ、火がはなたれた。後金兵は紅蓮の炎に巻かれ、多くの兵が焼殺され、またしても城をぬくことができなかった。
後金軍の第二次攻撃もまた失敗に終わった。さらに後金軍の心胆を寒からしめる事態が勃発した。輜重車(補給車)が明軍の攻撃を受け焼き払われたというのである。これにより後金軍は、補給を絶たれ、もはや一刻の猶予も許されない状況となった。
一月二十五日、ヌルハチはついに覚悟の城攻めを決行するに至る。しかし紅夷砲を防御の要とし、主将である袁崇煥を中心として心を一つにした明軍の守りは固く、時間の経過とともに、後金側の犠牲者が続出した。
城内では婦人達が給食や給仕にあたっていたが、紅夷砲が炸裂し、敵の犠牲者がでるごとにこれを喜び、手を打ってはやしたてる始末だった。
さて袁崇煥は、純白のマントに身を包み、剣を片手に戦況を見守った。さらに袁崇煥は、恐るべき秘策を用意していた。新たに新式の火器を用意していたのである。まず木人火馬天雷砲。これは人型の木の人形に、爆薬一斗、毒火(毒物入りの火薬)一斗を詰め、それを馬の上にくくりつけ、馬の尾の葦に火をつけて敵陣に放すものである。
単飛神火箭。これは火箭である。銅で作られた3尺程度の筒に火薬がつめられ、それが矢の根についていたといわれる。さらに沖鋒神火胡廬。瓢箪型の鉄製の器に毒火一升と鉛弾を詰めたもので、火槍の発展型といえる。
これらの火器が、後金側の混乱をさらに助長させることとなった。
時間の経過とともに犠牲者が続出し、自軍の劣勢にヌルハチはいらだった。
「己! 何をしている。戦とはこうするものだ!」
ついにヌルハチは自ら最前線で、敵を退けながら戦いの指揮にあたった。その有様は阿修羅のようであり、到底七十近い老人にはみえなかった。しかし、やがてそのヌルハチの視界が、一個の黒い点をとらえた。点は次第に大きくなり、ヌルハチに恐怖を感じる余裕すら与えず。鈍い衝撃音をあげた。
しばし戦場に沈黙があった。火薬の臭いが周囲に充満し、立ちこめていた煙のあとに、そこには、地に伏したヌルハチの姿、そして転倒した馬の姿があった。紅夷砲の直撃を受けたヌルハチは、人事不肖の状態で陣幕に担ぎこまれた。
大将不在の後金軍が、四大ベイレ協議の上、撤退を決意するまでさほどの時間はかからなかった。
後金軍の撤退に寧遠城は、たちまちのうちにお祭りさわぎになった。
「将軍おめでとうござる。あの後金軍が尻尾をまいて逃げてゆきまするぞ!」
「将軍! 我等感服いたした。以後は我等一同、将軍のためなら火の中、水の中」
「まことにもって将軍の用兵は、神がかりのようでござる」
将兵達は口々に袁崇煥をほめたたえた。
「いや何、全ては皆が一丸になればこそ。これでわしも胸を張って、紫禁城の陛下に拝謁できるというものだ。わしは己が首になって戻るか、敵将の首を持参するか、いずれかであると陛下と宮中の百官に言上した。まあ敵将の首はとれなんだが、なんなら棺に敵将の人形でもいれて戻るとするか。さすがにかようなもので騙される者はおるまいか」
と袁崇煥はまたしても意味不明の冗談をいい、将兵達もまた大笑いした。
しかし、この袁崇煥には後日の運命がある。後金がヌルハチの後を継いだホンタイジの代になり、ホンタイジは父と同じ過ちは決して犯さなかった。軍事力を用いることなく、明の紫禁城に間者を放ち、袁崇煥が敵と通じているという偽の情報を流したのである。
この時の明の皇帝は、すでに十七代目の崇禎帝である。この皇帝は人として決して愚鈍ではなかったが、しかし猜疑心が強すぎた。まんまとホンタイジの策にはまったのである。哀れな袁崇煥は投獄され、後に凌遅刑とされた。英雄の末路無情とはよくいったものである。
この救国の英雄が、その最期をいかように受け止めたか、それを物語る資料はあまりに少ない。袁崇煥の死により、明王朝の滅亡は決定的になったいっても、いいすぎではないだろう。
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