天命に導かれし時~明清興亡の戦い

谷鋭二

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寧遠城の砲煙(三)

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(上・袁崇煥、下・ヌルハチ)


 天命十一年(一六二六)一月、後金軍はついに寧遠の城に殺到した。
「恐れながら、山海関にいる高第殿が、兵を山海関まで撤退するようと申しておりますがいかがいたしまするか」
 側近の問いに袁崇煥は、
「高第殿に申し伝えよ。わしが職責を全うする場は今ここにしかない。わしの死に場所もまた、ここ以外にない。絶対にこの場は動かぬとな」
 とはっきりと言いはなった。
 やがて不気味な、ヌルハチをはじめとして八旗の全部隊が、昼は獰猛な叫び声をあげ、夜は篝火を煌々と照らし、寧遠城の城兵達の心胆を寒からしめた。
「まことに勝てるのであろうか?」
「サルフでは、数倍の兵力差があったのに負けたのだぞ」
 将兵達の間に不安がよぎるのも当然だった。後金軍十三万に対し、袁崇煥揮下の兵は一万ほどでしかない。山海関には十万の兵がいたが、高第は戦いを静観するかまえでいた。
「仕方あるまい。孤立無援というわけかそれもまた一興。よいか古人いわく、三十にして勃つ、四十にして惑わずとな。敵はもう七十近い老人だ。恐らくもうあそこも勃たぬ齢であろう。我等は必ず勝つ。かような老人に負ける道理がない」
 袁崇煥は扇子をあおぎながらいう。袁崇煥は、時おり意味不明の冗談を飛ばすことがあり、それが座を和やかにすることもあれば、白けさせることもあった。


 やがて後金陣営から劉通という者が、降伏勧告の使者として寧遠城を訪ねた。劉通は先の瀋陽での戦いでヌルハチに屈服し、一旦は捕虜となり、後にヌルハチの臣となっていた。
「卑怯者が何の面目あってここに参った」
 袁崇煥はまず、はき捨てるようにいった。
「ずいぶんな物言いだな。俺は瀋陽では力の限り戦った。なれど弓矢も食糧も尽き、あれ以上は将兵が飢え、痩せおとろえてゆくを見るはしのびなかった。しかもわしは幾度も北京に救援を請う使者を送ったが、北京は一兵の援軍すらよこさなかった」
 今度は劉通が、その場につばを吐いた。
「後金と、そしてヌルハチは懐が深い。わしがこうして生きておるがその証拠。わしも降伏した時は、首をはねられる者とばかり思っておったが、ヌルハチは汝を見捨てた明を今度はそなたが見切りをつけ、わしの臣となれと申してのう」
「つまり、それがしにヌルハチの臣となれと?」
 袁崇煥の顔に、あからさまに不承知の色がうかんでいると見てとった劉通は、なおも言葉を続けた。 
「袁崇煥よ、そもそも明とはなんじゃ。皇帝陛下におかれては、もはや久しく朝議の場に姿を現さず、宮廷はあのいまわしい宦官・魏忠賢のもの」
 宦官とは去勢した男子であり、むろん中国の歴代王朝で宮廷に使える奴隷であり、下僕である。しかし最も身分の高い宦官となると、ほどんど終日その姿は皇帝とともにあり、場合によっては皇帝の性行為の時でさえも、側近くにいることが許された。
 故にこのような宦官は、国家の重要機密でさえも知るところとなり、ついには皇帝に代わって国家を動かす存在となり、歴代王朝のいずれをも、その運命を左右したといっても過言ではない。 
 この時の明の皇帝・万暦帝はまさしく飾りである。政治の実権を握っていたのは、魏忠賢という中国史でも古来稀な悪宦官だった。
「そなたは一体何者のために戦っておるのだ? 無能な皇帝のためか、それともあの醜い宦官のためか? しかも今や明は土台から傾き、民は飢え苦しんでおる。どうじゃわしと共に来ぬか」
 しかし袁崇煥は立ち上がると、劉通に背をむけ、
「帰ってヌルハチ殿に伝えるがよい。貴殿ほどの戦の名人と刃を交えることできるは武人の誉れ。拙者は若輩者なれど、貴殿が国を背負っておるように、拙者もまた国を背負っている。いつ何時でも、攻めかかってくるがよろしかろうと」
 すると劉通は、突然からからと笑い出した。
「袁崇煥よ、お前は阿呆だ。そなたは狡兎死して走狗烹らるという、我が国の有名な故事を知らぬのか? そなたがヌルハチを滅ぼせば、かえって明の宮廷はそなたを恐れ、やがてはありもしない罪状をでっちあげられ、首をはねられるのだぞ。我が中華の歴史において、幾度同じ悲劇が繰り返されたか、よもや文官が上がりのそなたが存じぬわけがあるまい」
 袁崇煥は背を向けたまま拳を強く握り、
「首をはねよ」
 と一言いった。結局、劉通は首から下がない状態でヌルハチのもとへ戻ることとなる。しかし、袁崇煥の末路を考えた時、劉通の言葉は、全てが誤りではなかったのである。
「よいか城内の住民で、戦えそうな者は全て武装させよ。防壁を補強して、城の周囲にある敵に利用されそうなものはすべて取り払え。そして味方の中で、少しでも敵に内通する恐れのある者は、ことごとく斬りすてよ。この一戦に明の命運がかかっていると思え」
   袁崇煥は、ついに厳命をくだす。
 やがて夜、後金軍の動きが慌しくなった。一月二十四日、後金軍は、まるで猛虎のように寧遠城に攻めかかった。明そして後金の運命を左右する戦いの始まりだった。
 





 


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