5 / 16
サルフ戦役(一)
しおりを挟む女真族は大金国をモンゴルに滅ぼされて以降、東北の野で狩猟、木の実などの採取そして原始的な農業で生計をたててきた。一方で明国と毛皮や薬用人参の取引きなどもおこなったが、いずれにせよ貧しく、豊かな経済基盤を築くことは不可能だった。
明王朝は女真族の各部族長に官職を授けては、朝貢や馬市等の特権を与えた。このことは女真族の部族長達の間に、明との取引きの権限をめぐって、争いを生じさせる結果となった。まさしく明側の思うつぼである。
明王朝はもともと、女真内部にヌルハチのような、強大な支配者が出現することを望んではいなかった。例えば近代になり大英帝国が新大陸で、インディアンの各部族を争わせ弱体化させ、ついに漁夫の利を得たように、明王朝もまた女真の内部分裂こそ望むところであった。
もちろんヌルハチによる全女真統一は、明をして激しく憂慮させるところであった。そして撫順が早くもやぶれたという報に国都・北京は動揺し、明の百官達は昼夜問わず対策を議論した。
明王朝はこの頃、相次ぐ国難と神宗・万暦帝の奢侈等により、極度の財政難であった。そのため兵を集めることにも、軍費の調達にも手間がかかった。翌年の二月、明の年号で万暦四十七年、後金の年号で天命四年、すなわち一六一九年に至り明側ではようやく、およそ八万ほどの兵を集め、撫順に向けて進発させた。この時の明側の総指揮官は、かって豊臣秀吉の朝鮮出兵の際も明軍の一翼を担った、楊槁という将軍だった。
しかしヌルハチほどの将に一年もの時間を与えてしまったことは、明側の一大失策だった。
二月二十九日、後金側では辰の刻(午前七時から九時)に斥候があわただしく、昨夜遅く撫順方面に、敵の放つかがり火が大量に見えたとヌルハチに報告した。さらに時を置くことなく、ドンゴ方面にも敵のかがり火が見えたと斥候が報告した。
この時、明側では楊槁を総司令官とし、全軍を四路に分けて侵攻途上だった。すなわちヌルハチの本拠地ヘトゥアラを包み込むようにして、北路は開原総兵官の馬林が、ヌルハチと敵対するイェヘ部族の援軍とともに開原から(左翼北路軍)、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から進発した(左翼中央軍)。両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流して、ヘトゥアラを目指す計画をたてていた。
また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え(右翼中央軍)、東南路からは遼陽総兵官劉エンがヘトゥアラに迫った(右翼南路軍)。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の瀋陽で待機し、全軍の総指揮にあたった。全てあわせると十万近くになる大軍で、一方の後金側は、どう多く見積もってもその半分にも満たなかった。
この布陣を知ったヌルハチは、敵の主力を杜松の左翼中央軍とみた。ただちに諸将・諸大臣を集め軍議を開き、次いで厳かな祭壇を設け、敵撃滅を天に祈った。祈りが終わるとヌルハチは、
「国境付近で明の間者らしき者を捕らえたそうじゃな。ここへ連れてまいれ」
とやや表情を険しくしていった。やがて小太りの四十ほどの男が、縄で縛られた状態で姿を現した。
「汝は明国の手の者なのか? なにゆえ国境付近をうろついておった?」
しかしヌルハチの問いに対し男は、おろおろするばかりでなにも答えられない。
「恐れながら父上、この者は我が国の言葉が理解できませぬ。また明国人でもないようです」
口を挟んだのはホンタイジだった。
「なに明国人でもない。すると朝鮮の者か?」
「いやそれが身振り手振りでこの者が申すに、どうも倭国の者である様子」
ヌルハチは思わず、まじまじと男の顔を見た。当時、明国には文禄・慶長の役で明側に投降した日本側の兵士などが多数住みついていた。どうやら男は明の軍隊に徴兵され、軍の生活に我慢がならなくなった脱走兵のようだった。
「なるほど、それで国境付近をうろついておったわけか」
「父上、なにやら怪しゅうございます。もしや我らの言葉がわからぬというは、我らの追求を逃れるための真っ赤な偽りでは? この者釈放いたしますか」
ヌルハチの耳もとでささやいたのは代善だった。ヌルハチはしばし男の様子をうかがった後、
「いや、この者を貂の毛皮で幾重にもくるみ川に沈めよ。天への生贄とする」
と冷厳にいいはなった。
日本人らしき男は必死に命乞いするも許されず、毛皮でくるまれた。その時ヌルハチは、。
「天よ御覧あれ。我らまず一丸となり右翼南路の敵を殲滅いたす」
と大音声をあげた。
ところがである。この倭人らしき者は、実は脱走兵とは真っ赤な偽りで、しかもしっかりと女真の言葉をも理解していた。川に沈められたものの、かろうじて窮地を脱し、岸へたどりつくとそのまま明側の将軍・杜松のもとへ赴いた。そして事の次第とヌルハチがまず、右翼南路の敵を殲滅しようとしていることを告げた。
しかしこの密偵さえもヌルハチの腹の底を知らずにいた。ヌルハチが敵に偽りの情報を流すため、あえてこの男を泳がせたことを、よもや知るよしもなかった。
明の杜松は、かって寧化の乱といわれる帰化モンゴル人の反乱鎮圧に功のあった猛将である。命からがら戻ってきた間者の報告を聞き、総司令官たる楊槁に事の次第を伝えようともせず、独断で軍を動かしてしまう。実は両者はこれに先立つ軍議で、作戦上のことで激しく対立していた。
「兵を四つに分けるとは、これでは兵力を分散しすぎだ。大軍も個別に敵に当たればまったく意味がない」
もともと杜松は楊槁を、大軍の将としてあまりに器の小さい男と見ており、一方の楊槁も杜松を、蛮勇だけの猪武者と侮っていた。この時、両者は激論となった。
「その方、それほど命が惜しいか。ならばここで我等の戦ぶりを拝観しておればよかろう」
吐き捨てるように楊槁がいうと杜松も、
「何を言う。その昔、倭国の加藤清正のこもる、いまだ建設途上の城すらろくに落とせなかったのはどこの誰だ? しかも敗戦を勝利と偽った罪で、本来なら罰せられるところを、陛下の側近の宦官(去勢した男子)に賄賂をおくって、かろうじて許されたこと忘れたか。貴様のような輩に、戦の何がわかるというのだ!」
この一言に、楊槁も激昂して立ち上がり剣に手をかけた。これに対し杜松も剣に手をかけ、あわや一瞬即発というところで、その場にいあわせた朝鮮国の将軍達までもが仲裁に入り、ようやく事なきをえた。
結局、杜松は総司令官たる楊槁に何も告げることなく、軍勢を動かしてしまった。決戦を前に、この明側の足並みの乱れは、ヌルハチに利するばかりだった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道
谷鋭二
歴史・時代
この物語の舞台は主に幕末・維新の頃の日本です。物語の主人公榎本武揚は、幕末動乱のさなかにはるばるオランダに渡り、最高の技術、最高のスキル、最高の知識を手にいれ日本に戻ってきます。
しかし榎本がオランダにいる間に幕府の権威は完全に失墜し、やがて大政奉還、鳥羽・伏見の戦いをへて幕府は瓦解します。自然幕臣榎本武揚は行き場を失い、未来は絶望的となります。
榎本は新たな己の居場所を蝦夷(北海道)に見出し、同じく行き場を失った多くの幕臣とともに、蝦夷を開拓し新たなフロンティアを築くという壮大な夢を描きます。しかしやがてはその蝦夷にも薩長の魔の手がのびてくるわけです。
この物語では榎本武揚なる人物が最北に地にいかなる夢を見たか追いかけると同時に、世に言う箱館戦争の後、罪を許された榎本のその後の人生にも光を当ててみたいと思っている次第であります。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~
橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。
猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる