天命に導かれし時~明清興亡の戦い

谷鋭二

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サルフ戦役(一)

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   女真族は大金国をモンゴルに滅ぼされて以降、東北の野で狩猟、木の実などの採取そして原始的な農業で生計をたててきた。一方で明国と毛皮や薬用人参の取引きなどもおこなったが、いずれにせよ貧しく、豊かな経済基盤を築くことは不可能だった。
  明王朝は女真族の各部族長に官職を授けては、朝貢や馬市等の特権を与えた。このことは女真族の部族長達の間に、明との取引きの権限をめぐって、争いを生じさせる結果となった。まさしく明側の思うつぼである。
  明王朝はもともと、女真内部にヌルハチのような、強大な支配者が出現することを望んではいなかった。例えば近代になり大英帝国が新大陸で、インディアンの各部族を争わせ弱体化させ、ついに漁夫の利を得たように、明王朝もまた女真の内部分裂こそ望むところであった。
  もちろんヌルハチによる全女真統一は、明をして激しく憂慮させるところであった。そして撫順が早くもやぶれたという報に国都・北京は動揺し、明の百官達は昼夜問わず対策を議論した。
  明王朝はこの頃、相次ぐ国難と神宗・万暦帝の奢侈等により、極度の財政難であった。そのため兵を集めることにも、軍費の調達にも手間がかかった。翌年の二月、明の年号で万暦四十七年、後金の年号で天命四年、すなわち一六一九年に至り明側ではようやく、およそ八万ほどの兵を集め、撫順に向けて進発させた。この時の明側の総指揮官は、かって豊臣秀吉の朝鮮出兵の際も明軍の一翼を担った、楊槁という将軍だった。
  しかしヌルハチほどの将に一年もの時間を与えてしまったことは、明側の一大失策だった。 



 
 
  

  二月二十九日、後金側では辰の刻(午前七時から九時)に斥候があわただしく、昨夜遅く撫順方面に、敵の放つかがり火が大量に見えたとヌルハチに報告した。さらに時を置くことなく、ドンゴ方面にも敵のかがり火が見えたと斥候が報告した。
  この時、明側では楊槁を総司令官とし、全軍を四路に分けて侵攻途上だった。すなわちヌルハチの本拠地ヘトゥアラを包み込むようにして、北路は開原総兵官の馬林が、ヌルハチと敵対するイェヘ部族の援軍とともに開原から(左翼北路軍)、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から進発した(左翼中央軍)。両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流して、ヘトゥアラを目指す計画をたてていた。
 また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え(右翼中央軍)、東南路からは遼陽総兵官劉エンがヘトゥアラに迫った(右翼南路軍)。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の瀋陽で待機し、全軍の総指揮にあたった。全てあわせると十万近くになる大軍で、一方の後金側は、どう多く見積もってもその半分にも満たなかった。
  
  
 この布陣を知ったヌルハチは、敵の主力を杜松の左翼中央軍とみた。ただちに諸将・諸大臣を集め軍議を開き、次いで厳かな祭壇を設け、敵撃滅を天に祈った。祈りが終わるとヌルハチは、
 「国境付近で明の間者らしき者を捕らえたそうじゃな。ここへ連れてまいれ」
  とやや表情を険しくしていった。やがて小太りの四十ほどの男が、縄で縛られた状態で姿を現した。
 「汝は明国の手の者なのか? なにゆえ国境付近をうろついておった?」
  しかしヌルハチの問いに対し男は、おろおろするばかりでなにも答えられない。
 「恐れながら父上、この者は我が国の言葉が理解できませぬ。また明国人でもないようです」
  口を挟んだのはホンタイジだった。
 「なに明国人でもない。すると朝鮮の者か?」
 「いやそれが身振り手振りでこの者が申すに、どうも倭国の者である様子」
  ヌルハチは思わず、まじまじと男の顔を見た。当時、明国には文禄・慶長の役で明側に投降した日本側の兵士などが多数住みついていた。どうやら男は明の軍隊に徴兵され、軍の生活に我慢がならなくなった脱走兵のようだった。
 「なるほど、それで国境付近をうろついておったわけか」
 「父上、なにやら怪しゅうございます。もしや我らの言葉がわからぬというは、我らの追求を逃れるための真っ赤な偽りでは? この者釈放いたしますか」
  ヌルハチの耳もとでささやいたのは代善だった。ヌルハチはしばし男の様子をうかがった後、
 「いや、この者を貂の毛皮で幾重にもくるみ川に沈めよ。天への生贄とする」
  と冷厳にいいはなった。
  日本人らしき男は必死に命乞いするも許されず、毛皮でくるまれた。その時ヌルハチは、。
 「天よ御覧あれ。我らまず一丸となり右翼南路の敵を殲滅いたす」
と大音声をあげた。
  ところがである。この倭人らしき者は、実は脱走兵とは真っ赤な偽りで、しかもしっかりと女真の言葉をも理解していた。川に沈められたものの、かろうじて窮地を脱し、岸へたどりつくとそのまま明側の将軍・杜松のもとへ赴いた。そして事の次第とヌルハチがまず、右翼南路の敵を殲滅しようとしていることを告げた。
  しかしこの密偵さえもヌルハチの腹の底を知らずにいた。ヌルハチが敵に偽りの情報を流すため、あえてこの男を泳がせたことを、よもや知るよしもなかった。
  
  
  明の杜松は、かって寧化の乱といわれる帰化モンゴル人の反乱鎮圧に功のあった猛将である。命からがら戻ってきた間者の報告を聞き、総司令官たる楊槁に事の次第を伝えようともせず、独断で軍を動かしてしまう。実は両者はこれに先立つ軍議で、作戦上のことで激しく対立していた。
 「兵を四つに分けるとは、これでは兵力を分散しすぎだ。大軍も個別に敵に当たればまったく意味がない」
  もともと杜松は楊槁を、大軍の将としてあまりに器の小さい男と見ており、一方の楊槁も杜松を、蛮勇だけの猪武者と侮っていた。この時、両者は激論となった。
 「その方、それほど命が惜しいか。ならばここで我等の戦ぶりを拝観しておればよかろう」
  吐き捨てるように楊槁がいうと杜松も、
 「何を言う。その昔、倭国の加藤清正のこもる、いまだ建設途上の城すらろくに落とせなかったのはどこの誰だ? しかも敗戦を勝利と偽った罪で、本来なら罰せられるところを、陛下の側近の宦官(去勢した男子)に賄賂をおくって、かろうじて許されたこと忘れたか。貴様のような輩に、戦の何がわかるというのだ!」 
  この一言に、楊槁も激昂して立ち上がり剣に手をかけた。これに対し杜松も剣に手をかけ、あわや一瞬即発というところで、その場にいあわせた朝鮮国の将軍達までもが仲裁に入り、ようやく事なきをえた。
  結局、杜松は総司令官たる楊槁に何も告げることなく、軍勢を動かしてしまった。決戦を前に、この明側の足並みの乱れは、ヌルハチに利するばかりだった。




 
 




 

























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