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【大坂湾争奪編】死闘天王寺口 毛利動く
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(一)
長島一向一揆平定後の信長の勢いは、まるで日の出のようだった。天正三年(一五七五)五月には、武田信玄の後を継いだ武田勝頼に、設楽原にて壊滅的な打撃を与える。
さらに同じ年の九月には、越前でおきた一向一揆を殲滅。この時、一向宗約二千人が討ち取られ、さらに捕虜となった一万二千人も容赦なく処刑されたといわれる。
信長にとって恐ろしい敵は、残すところあとわずかだった。まず、なんといっても大坂の本願寺と一向宗である。次に北陸において軍神とまでいわれた上杉謙信。そして西国には毛利家が、あの元就がすでに世を去ったとはいえ、いまだ隠然たる勢力をほこっていた。
特に信長が最も恐れたのは、毛利氏と本願寺が手を結ぶことだった。天正四年(一五七六)がおとずれ、毛利勢が海路大軍をもって、大坂へ向けて進発したという風聞が、どこからともなく流れた。
信長は、本願寺との再戦を覚悟した。まず信長の家臣で荒木村重が、尼崎から海・陸同時進行作戦で、野田に進出する。野田に三つの砦を築き、海上と石山を結ぶ川筋の通路を遮断した。
一方、明智光秀と細川藤孝は、守口と森河内に砦を構えた。そして同じく信長の臣で原田直政という者は、天王寺口を砦とした。これにより本願寺は北方、南方、東方が封じられた。残すところは西方の楼の岸と木津、そして難波の砦から海へ出る道のみである。時に天正四年四月のことだった。
信長にしてみれば、なんとしても、この楼の岸と木津をも完全制圧して、本願寺への水路を遮断したいのである。
一方の本願寺も事ここにいたって、総力戦の構えを見せはじめていた。この時、石山本願寺側で戦闘に加わった者の数は、多くの資料から換算すると、一万二千にものぼったと推定される。ほぼ大坂の本願寺において、寺内町に居住する戦力たりうる男子は、全て戦闘に参加したものと思われる。兵力では、織田方の三千をはるかに上回る。
織田軍はしばしば猛攻をしかけるも、本願寺側では雑賀党を中心として頑強に守りを固め、戦いは長期化する様相を見せはじめていた。そして戦いは五月を迎えるのである。
大坂・天王寺口、この地は後年、大坂夏の陣最後の激戦地となった舞台でもある。この天王寺口を守るのは、原田直政という将である。信長揮下のエリート集団・赤母衣衆の出身といわれ、将として幾多の合戦に参加し、良くも悪くも円熟の境地といったところであろう。
ただこの人物は生真面目すぎた。武士の嘘は武略であるというが、その武略においては、決して長じているとはいえなかった。そして敵の武略を見破る眼力においても、決して優れているとはいえなかった。
事の発端は雑賀の者らしき兵士が、天王寺口からさして遠くない場所で、倒れているのが発見されたことだった。あの雑賀衆の象徴ともいうべき、奇怪な雑賀兜をかぶっていたのである。すでに死んでおり、死体を検分したところ、懐から、恐らく本願寺の首脳部宛てたであろう密書が発見された。
その夜の丑の刻に、雑賀衆が天王寺口に夜襲を仕掛けると書かれていた。直政が喜んだのはいうまでもない。その夜、敵の夜襲に備えて、万全の体制が敷かれたのもいうまでもない。最も、実は問題の敵の間諜らしき屍は、死んだ織田方の兵士に、雑賀兜をかぶせたものであることに、原田直政とその直臣達は気付かなかった。
その夜、果たして雑賀衆の夜襲はあった。だが万全の備えをして待ち構えていた原田隊は、雑賀衆に向かい鉄砲を猛射。雑賀隊は驚き逃げ出した。
もちろん原田隊はただちに追撃にうつる。だがこれが罠だったのである。雑賀衆は上町台地を、大坂本願寺の方角へと逃げたが、やがて原田隊の左側面から歓声があがり、鉄砲の凄まじい轟音が響いた。伏兵である。実は敵が来るのを今か、今かと待ち構えていたのは、雑賀衆の側だったのである。
この側面攻撃により、原田隊はもろくも崩れた。原田直政は壊走する味方の部隊を立て直そうと、必死の踏ん張りをみせるも、実は部隊の右側面の草わらにも伏兵が潜んでいた。伏兵といっても、たったの五人しかいなかった。鈴木孫一その人と、そして雑賀衆の中でも選りすぐりの射撃の名手が四人。
孫一が混乱する原田隊の中で、敵の将とおぼしき者を発見するのに時間はかからなかった。織田軍の将は皆ことごとく、鎧・具足がきらびやかであったためである。孫一と四人の者が一斉に射撃の体制にはいった。むろん例え五人のうち四人がしくじっても、一人が命中すれば、敵将を討ち取ることができるという算段である。
「今だ! 放て!」
孫一の叫びと同時に轟音が響いた。果たして五発のうち四発が命中した。直政は無残にも地に伏し、闇の中、織田方の混乱は頂点にたっした。
(二)
この雑賀衆の勝利は、本願寺と一向宗に勇気をあたえることとなった。翌日には天王寺砦を完全包囲し、あの明智光秀をも孤立無援の状況にいたらしめた。織田方の敗北は時間の問題かと思われた。ところが七日昼頃、一人の人物の出現が、本願寺陣営を動揺させ、異常な混乱状態にいたらしめた。
その人物は南蛮式の胴具足に身を包み、黒のマントをはおり、騎馬で敵味方からよく見える位置に出現した。この時代の日本で、このような出で立ちで戦場に出現する人物は、他に存在しなかった。織田信長その人が大坂の危急を知り、京より大坂に急行したのである。
古今いかな名将もそうであったように、信長もまたそこに存在するのみで、揮下の将をして勇気を与え、進んで死地に赴かしめる。だが、この場合織田陣営よりも、本願寺側に与えた衝撃のほうが大きかった。
伊勢・長島で二万人、越前で一万二千人の一向衆を抹殺した信長の残忍性は、すでに本願寺の上層部から、末端の信者に至るまで知らぬ者はない。さしも死を恐れぬ一向衆ですら、その出現は恐怖を抱かせるのに十分であった。
死を恐れぬからこそ、一向衆は天下二十数カ国を制圧した織田軍団が相手でも、互角に戦できるのである。一旦、恐怖と動揺が広がれば、もはやそれは、ただの百姓・土民の群れにすぎなかった。
信長は決して戦機を見逃す男ではない。ここを境とし、織田方の猛反撃がはじまった。織田軍は、まるで猟師が狩猟の獲物を狩るかのように、一向衆をなで切りにしていった。このままでは伊勢・長島、そして越前と同じ運命が待ちかまえているのは間違いなかった。事ここに至って本願寺首脳部は、最後のカードを切るにいたるのである。
八日未明のことである。本願寺の阿弥陀堂では、いつもどおり本願寺のトップである顕如上人と、寺の最高首脳が顔をそろえ、朝の法要をいとなんでいた。突如として遠くから、何者かの足音が響いてきた。その音が次第、次第に大きく、そしてけたたましくなり、ついには襖が勢いよく開かれた。
姿を現したのは鈴木孫一だった。その形相にはあきらかに怒気がうかんでおり、大童の髪を後ろで軽くたばねたのみで、髷もろくに結ってない。心の動揺があきらかに見てとれた。そして顕如上人と目があうやいなや、
「貴様等!」
と、怒号をあげた。
「貴様等! 一体どういうつもりだ? あの旗はなんの戯言だ!」
この日、日の出とともに石山本願寺の信徒からよく見える場所に、巨大な旗指物がさっそうと翻った。そこには『進者 往生極楽 退者 無間地獄』と大書されていたのである。
浄土真宗の宗祖たる親鸞聖人は、このようなことは一言もいっていない。浄土真宗では、いかな悪人でも一心不乱に念仏さえ唱えれば、極楽往生できるとしかいっていない。これは信者に対する、教団トップの違約以外の何者でもなかった。
その場には、本願寺の最高幹部である下間頼龍他数名がいたが、孫一はその一人一人の胸ぐらをつかんでは、
「貴様か指図したのは! それとも貴様か?」
と、恐ろしい剣幕で迫った。寺院という環境でぬくぬくと育ってきた僧侶達は、その獲物を狙う鷹のような眼光を目の当たりにし、恐怖で震えあがった。
孫一はついには顕如上人の胸ぐらをもつかみ、
「己は、信徒を一体なんだと思っている!」
と、その常人の倍はあるであろう太い腕に力をこめ、声を震わせながら迫った。
「仏敵が眼前に迫っておるというに……。教団そのものが消滅しては……。わしの代で教団をつぶすわけにはいかんのだ!」
顕如上人は声をうわずらせながらも、かろうじて、必死の抗弁をした。
この時すでに戦闘は開始されていた。門徒達は死を恐れぬという境地から、すでに進んで死地に赴くという境地に達しようとしていた。実に奇怪な戦争が始まった。もはや門徒達には全軍の布陣も、戦術も、戦略も、作戦も存在しなかった。ただやみくもに刀・槍をふりかざしては、南無阿弥陀仏を唱え、そしてひたすら死にむかって進んでゆく。
この戦いの奇妙さは、死に物狂いの門徒達に押されているのは、織田勢であるにも関わらず、死傷者はむしろ本願寺側がはるかに上回っていることだった。いわば巨大な自殺者の群れのごときものであった。これを迎え撃つ織田軍の兵士もまた恐れをなし、いずれの兵士も蒼白の形相をしていた。
「いかん! これはいかん! これ以上、この戦いの犠牲者を増やすわけにはいかない」
この合戦を櫓の上から見上げる孫一は、ここである悲壮な覚悟を固めようとしていた。
やがて織田方は浮き足立ち、全軍が崩れ始めた。信長は覚悟した。この状況で味方を立て直すには、方法は限られている。一つは大将である自らが今一度、全軍の最前線に立ち、全軍を叱咤することである。『将は帷幄の中にあって謀を巡す』というのが、日本を始めとして、東アジア世界における常識である。信長もまた、戦いの最中、自らの身を危険にさらすことは滅多になかった。
「己等、土民や坊主風情に何を恐れておるか! 我が軍は天下無敵ぞ! 尾張を、美濃を、伊勢を、いや畿内を、いや満天下を制覇したのは我らぞ! 臆するな者ども続け」
信長は、ついに全軍の最前線にでてきた。西欧式の甲冑がこの時ほど、凛凛しく異彩をはなったことはなかった。まぎれもなく天下人の姿がそこにあった。兵士達は心の平静を取り戻し、戦は膠着状態となった。
戦闘は、そのまま夕刻をむかえつつあった。本願寺の側から、ほら貝の音が鳴り響いた。一時撤退の合図である。いかに退けば無間地獄とはいえ、命令は命令である。中にはそれでもなお、念仏とともに敵陣に無謀な突撃を決行する者もいたが、ようやく正気に戻った多くの信徒達は撤退を開始する。すでに一向宗の側では、体力の限界に近づきつつあった。それを見越しての一時撤退の合図だった。
一方、織田方も体力の限界が見えはじめていた。しかし信長は、ここを正念場と思い、無理を押して追撃を命じた。本願寺の寺内町の木戸口までも敵を追撃した。この信長の追撃に、木戸口に殺到した門徒達は混乱を極めた。敵の槍にかかるならまだしも、背後から迫ってくる味方に押しつぶされる者が続出し、ある種のパニック状態と化した。
信長は、相変わらず全軍の最前線に近いところにいた。ここで信長の不覚は、孫一の火縄銃の射程距離に入ってしまったことだった。孫一は、木戸口を一望に見下ろすことができる櫓の上にいた。
「あれが信長か」
例の西欧式の甲冑が、孫一に自らの居場所を知らせる目印と化していた。
「己の命をもって、この合戦に終止符を打つ」
孫一は装填を始めた。その獰猛な眼光を大きく見開くと、銃の引き金に手をかけた。その刹那、信長は衝撃音とともに馬から転落した。信長を守る馬廻衆、赤母衣衆、黒母衣衆等が一斉に倒れた主を取り囲み、やがて撤退の合図がだされるまで時はかからなかった。
「己、仕損じたか! 信長めつくづく運のよい奴よ」
孫一の言葉通りだった。信長は右太腿を狙撃されたが、命に別条はなかった。まさしくこの時が、石山合戦のターニングポイントであったといえるだろう。信長には大局観があった。所詮、ただ念仏をとなえながら、やみくもに刀・槍をふりかざすだけの集団が、天下の大半を制した織田軍団相手に、最後の勝利をえることは不可能だった。
六月五日、ついに楼の岸と木津砦は織田方の手に落ち、さらに難波の海への道も封鎖された。本願寺に残された道はもはや二つしかなかった。信長にくだるか、それとも全軍本願寺を枕に餓死、もしくは討ち死にするかである。しかし残された希望が一つだけあった。それが今や信長と互角に戦える数少ない勢力の一つ、西国の毛利勢の存在であった。
(三)
この頃、信長のため、京を追われた前将軍の足利義昭は備後の鞆にいた。将軍という地位は失ったものの、なおも策動を続け、第三次信長包囲網を形成しようとしていた。北国の上杉謙信及び中国の毛利輝元に、同時に密書を送り、信長打倒を呼びかけたのである。しかし毛利の側では、信長と開戦に及ぶか否か、いまだ決めかねていた。本願寺が信長の大軍に包囲され、明日をも知れぬ運命にあるこの時期、毛利家の本拠の安芸・郡山城では、重臣達が軍議を開くこととなった。
「織田信長が領有する土地は、今や二十数カ国にも及ぶ。甲斐の武田をも先年設楽原にて倒し、今や日の出の勢い。対する我等の領土は、せいぜい十数カ国にすぎない。戦するは無謀と思うがいかに?」
最初に口を開いたのは、今は亡き毛利元就の三男で、智将として天下に名高い小早川隆景だった。
「あいや待てい。確かに兵の数、国力からしたら無謀な戦かもしれぬ。なれど、我等だけで戦するわけでもあるまい。石山本願寺も次第、次第に信長に追いつめられているとはいえ、まだ信長に抗するだけの力は十分にある。それに今、かの前将軍足利義昭公が、北陸の上杉謙信殿と交渉中とのこと。早急に上洛し信長を討伐する兵をあげるよう激を発しておる」
と反対意見を口にしたのは、隆景の兄で、やはり元就の次男吉川元春だった。智将として名高い隆景に対し、こちら剛勇無双をもって天下にその名がとどろいていた。
「恐れながら兄者、他人に力をあてにし、一国の浮沈をかけて賭博を打つは無謀かと。やはり我等は今、我等が持てる兵と領土と国力をもって、信長と戦できるか否か判断するが得策とおもうがいかに」
「何が他人の力じゃ! この戦国の世に互いに同盟・離合集散するは当然のことであろう。我等とて、我等の力だけで安芸の小領主から、今日に至ったわけではあるまい。だいたい御主はいつも、いつも慎重すぎる。まさか厳島を忘れたわけではあるまいな。あの時、戦せねば我等は陶にひねり潰されていた。戦は兵の数だけではないこと、そなたも学んだであろう」
元春は思わず声を荒げた。
「兄者、それがしはあの厳島合戦のおりも申したはずでござる。陶晴賢殿は焦っている。商人の特権を廃止し、寺社の特権をも廃止し、そこにおる村上武吉殿の駄別銭をも廃止しようとなされた。そのようなことでは陶殿の足元は実に危ういと。あの合戦は我等の軍略・武略だけで勝てたわけではござらぬ。いうなれば陶殿が自分で転ばれたのだ」
隆景は、今この席に列している能島村上水軍の村上武吉にかすかに目をやり、兄の言葉に反論した。武吉はじっと目をつむり、腕を組み、何事かを思案している様子だった。
「なるほど、ならばいずれ信長も自分で転ぶと申すか? 信長が転ぶのを待てと? なれど転ぶにしても、大坂の本願寺が滅ぼされ、我等も滅ぼされた後では遅すぎるぞ。その兆しがあるとでも申すか?」
「いや、拙僧も信長はいずれ転ぶものと思っておる」
と言葉を挟んだのは、毛利家の外交僧で安国寺恵瓊という者だった。
「僧侶の立場からいわせてもらうと、この国では仏法を犯す者は、いずれ天罰がくだることになっておる。仏罰を恐れる故、白河院の昔より何人も叡山に手をくだすことなどできなかったのだ。それを信長は犯した。信長の世はもってせいぜい後数年ほどであろう」
「では、その数年後に信長が転ぶまで、我等に高みの見物をせよと申すか。なれど今日この軍議は、まさに一国が生きるか死ぬかを決める軍議。例え高みの見物をするにしても、戦に及んだ時いかように戦うか、それをも皆で考えるべきだ。そうであろう」
元春は、安国寺恵瓊の言葉を鼻で一蹴するかのようにあざ笑った後、一息にいった。
「さればでござる。今、この日本国全土を見渡して、信長にとって最も恐ろしい敵は我等と、そして北陸の上杉謙信殿かと思われる」
次に口を開いたのは、小早川隆景の重臣で乃美宗勝という者だった。乃美宗勝は、もとの名を浦宗勝といった。毛利家の厳島合戦、伊予出兵と武功をあげ、さらには九州の大友家との豊前・門司城攻防戦にも参加。敵、味方見守る中で大友方の勇者と一騎打ちに及び、見事その首を討ち取り存在を誇示した人物である。
「実はそれがし、密かに我が手の者を商人に化けさせ、上杉謙信なる者がいかなる者か探らせましてござる」
「ほう、していかなる者であった。上杉謙信なる人物は?」
吉川元春が、興味津々といった様子で問いただした。
「それが我が手の者が申すに、恐ろしくて身震いしたとか、あまりの威厳に心うたれて、顔を上げることさえできなかったとか……」
「それほどの者か? 上杉謙信と申す御仁は」
座はしばしどよめいた。
「確かにいえることは、上杉謙信と申す御方は、決して利害・打算だけで動く人物ではないということでござる。かって甲斐の武田信玄に追われた信州の小豪族達を助け、北条氏康に追われた先の関東管領上杉憲正殿を助け、常に義を旗印にしておるとか。故に天下の信を集めて久しゅうござる。確かな伝聞とは申せませぬが、長年敵対した武田信玄公でさえ、死を前にして武田勝頼殿に、武田に万一のことあれば上杉謙信を頼れと遺言したとか」
「なるほど、信じるに値する人物かもしれぬのう。かの上杉謙信と申す者は。ところで村上武吉殿、そなたは先程から黙りこくっておるが、なにか意見はないのか」
と元春は、今度は相変わらず腕組みして黙ったままの村上武吉にたずねた。
「信長が何故、驚くほどの損害をだしながら石山本願寺との戦をやめないか。答えは簡単じゃ。信長は大坂の地を欲しておるからだ」
武吉はようやく口を開いた。
「わしはかって、船で大坂の地へ赴いたことがある。我等海に住む者は、陸に住む者よりも、はるかに遠く将来を見るものだ。大坂の地には、まさしくこの国の将来があった。人・者・金が集まる。明国から来た者もいれば、我等がいまだ伝聞でしか知らぬ、南蛮とかいう遠い地からはるばるやってきた者もいた。
あの地を、ゆくゆく我等が手に入れれば、あれいは天下は我等のものとなろう。なれどもし信長が手にいれれば、西国の大名そのいずれもが、やがては信長に滅ぼされることになるだろう」
「ならばそなたは信長と戦せよと申すか? そなたならいかように信長と戦う」
元春が、武吉に具体的な戦略をたずねた。
「さればそれがし、実は偶然織田家の水軍の将である九鬼嘉隆という男と、伊勢・大湊で顔をあわせ、一晩ほど船のこと、合戦のことなど語りあったことがござる。なるほど確かに、かの信長公より水軍を託されるだけあって、将として実に類まれな素質をもった男であった。
なれどあの男をもってしても、瀬戸内の複雑な潮の流れのことまでは、あずかり知らぬこと。あの男は船は巨大であることがまず第一と考えておるようだ。巨大な軍船を建造し、そして敵に数倍する兵力をもって戦に勝つ。なれど瀬戸内の水路は狭い。必ずしも船が大きければよいというわけではない。むしろ小早の軽快さこそ、力を発揮するものじゃ。
あの男は敵が十なら百の力で戦に勝つを常としておる。なれど我等の戦の仕方は違う。我等にとり十に十をたすは必ずしも二十にあらず。みかけは二十でも実際は二百いや二千の力となすこと、それが我等の軍略である。
織田の水軍が、瀬戸内の海に入ってきたらその時が最後、かの九鬼なる者にとっても瀬戸内の海が墓場となろう。信長との戦、我等なら二年、三年は戦える。その後はさしもの我等も天のみぞ知るといったところだ」
元春は、改めて村上武吉という男を見た。なるほど改めて見ると、驚くほど頼りになりそうな男である。この男なら織田軍十万といえど戦できるのではないか。武吉は、元春にそのような幻想すらいだかせた。
「なるほど、大坂を制する者がゆくゆく天下をも制す。ならば我ら、決して信長に大坂の地を渡してはならぬ。各々等奮闘して、信長を打ち負かし、こたびは本願寺を救うがよいぞ」
と声をあげたのは、上座にいながら、軍議の席上一言も発しなかった、他ならぬ毛利輝元だった。その声はいささか力がたりなかった。軍議で何事か意見しようにも、輝元にはそれだけの能力がなかった。いわば飾り物の君主であるが、それ相応に主として自負心だけはあった。故にここで最終決断だけはくだしたわけである。これにより毛利は、織田信長と一国の命運をかけた一戦へとのりだそうとしていた。
(四)
古今東西の合戦において、籠城戦こそ無残なものはそうざらにない。籠城する側は次第、次第に痩せ衰えてゆき、食べることさえできれば草木や、昆虫すら食べたという記録さえある。体力のない老人や子供からばたばたと倒れてゆき、子をなくした母親が数日泣き叫び、ついには自らも命を絶つ。この状況に至っても城内には、なおも読経の音が響きわるも、教団のトップである顕如上人は、彼等をどうすることもできなかった。籠城開始およそ一ヶ月。本願寺を囲む織田陣営に、衝撃的な情報が流れた。
「毛利が現れたぞ!」
「木津川口に姿を現したぞ!」
はたして天正四年七月十一日の夕刻、毛利勢は村上水軍の村上武吉を事実上の大将とし、大坂の木津川河口に兵糧船とともに出現した。船の数およそ七百艘余りと伝えられる。一方これを迎えうつ織田方の水軍は、泉州の海賊を中心とし、船の数およそ三百艘ほど。織田方の大将は泉州海賊の長で、真鍋七五三兵衛という者だった。
兵力的には劣勢な織田水軍。正面からの戦で勝ち目がないなら、奇襲により血路を開くのが得策である。ところがである、織田水軍は思わぬ形で、逆に敵の奇襲を受けるはめとなる。
時に天正四年七月十三日夜半のことである。織田方の陣営にゆっくりと近づいてくる千石船数艘の姿があった。織田方の旗を風になびかせており、恐らくは兵糧を積んだ船と思われた。木津川口の警護の者もさして警戒せず、船の浸入を許してしまった。
「止まれ。何者であるか」
船が眼下まで迫り、警護の者は手続き上、船主にたずねた。ところが突如として異変はおこった。織田方の旗はすべておろされ、代わりに丸に『上』の字の旗がさっそうと翻ったのである。村上水軍の旗だった。
「しまった! 敵の謀か!」
気付いた時にはもう遅く。弓矢・鉄砲が織田方の陣地めがけてはなたれた。村上武吉が敵の兵糧船を拿捕し、村上水軍の将兵を乗船させたのである。
「親方、敵は混乱しておりまするぞ」
側近がいうと、武吉は大きくうなずいた。
「さぞや敵は我等を卑怯とそしっていることであろう。なれど戦にあるは勝ち負けのみ。これが我等海賊の戦であるぞ。敵は混乱している。一気に踏み潰すぞ」
村上水軍は海上に魚鱗の陣をしき、織田方の水軍に迫った。織田家と毛利家、海における戦が開始されようとしていた。
……それから一月もたたぬうちに、志摩の国の波切の砦で九鬼嘉隆は、現地に物見として派遣していた平八から、織田水軍の壊滅を知らされた。
「いかになんでも早すぎるではないか。一体なにがあった?」
「それが、戦の決着がつくのに一昼夜もかかりませんでした。村上武吉殿の戦の采配、まことに見事というより他ござりませぬ」
「なに? 一昼夜かからなかったと? 詳しく話すがよい」
嘉隆はさらに驚き、平八は見たままを語りだした。
織田方の水軍は安宅船数艘と関船を主力としており、一方の村上水軍は、小早を自由自在に操った。その操船の妙は、さすがに日本一の海賊を自認するだけあり見事であった。織田方の水軍は翻弄されるばかりで、弓矢を放ってもなかなか敵にあたらなかった。戦闘開始から半刻あまり、さらに織田軍の将真鍋七五三兵衛を動揺させる知らせがもたらされた。
「恐れながら、弓矢に当たった我が軍の将兵の様子がおかしゅうござります」
「何? どういうことだ?」
「それが、弓矢が当たった箇所が浅黒く変色し、その苦しむ様も尋常一様ではありません。恐らく敵は毒矢を放っているものとおもわれまする」
「己! なんという輩だ! どこまで卑怯な手を使えば気がすむのだ」
七五三兵衛は、思わず歯ぎしりした。この毒矢は、織田方の兵士を精神的にも苦しめる結果となった。この時代、鎧・甲冑はかなり頑丈に作られていた。弓矢が五本ほど刺さっても、なお戦闘を継続する兵士もいたほどである。しかし毒矢は別である。多くの兵士がこれに恐れをなし、戦いの最中に弱腰となった。
しかし織田方の水軍もやられてばかりではなかった。鉄砲の装備においては、村上水軍を上回り、敵の魚鱗の陣の中央に突撃して、鉄砲を凄まじい勢いではなった。
しかし、なりふりかまわぬ村上水軍の戦ぶりは、ある意味さらに卑劣だった。
「遠慮するな。敵の水夫を狙え!」
武吉は、全軍に水夫の攻撃を命じたのである。当時の船の上の戦では、水夫を狙わないことが暗黙のルールとなっていた。武吉はこれを平然とやぶったのである。これにより、織田方の船の多くが操船不能となり、海上に立ち往生した。
しかしこのような遠慮会釈ない攻撃にも屈することなく、織田方の水軍は、魚鱗のはるか後方に陣を構える、村上武吉の大将船とおぼしき船が見える場所までせまった。
この時、村上水軍の長たる村上武吉は、関船の甲板上で戦機がくるのをじっと待っていた。
「よし、あともう少しだ。後今一歩じゃ。引きつけられるところまで、敵を引きつけろ。今じゃ太鼓を鳴らせ!」
太鼓の音が海上に響きわたった。それとほぼ同時に、織田水軍の将真鍋七五三兵衛初め、主力船の多くがガクンと傾き、大揺れに揺れた。なんと村上水軍は、魚を獲る用の網を水中にあらかじめ潜ませていて、敵がかかるや否や、前後左右の船がいっせいに網を引いたのである。
「よし! 敵はほぼ再起不能だ。焙烙玉を用意せよ!」
武吉は勝利を確信し、さらに素早い指示をあたえた。焙烙玉はある種の手投げ弾である。その爆発の威力はそれほどでもないにせよ。衝撃音の凄まじさが、兵士に与える心理的ショックのほうが深刻だった。この戦いから、かろうじて生きて帰還した織田方の兵士が、それから何十年も後まで、度々夢に見てうなされほど、その着弾の際の恐怖は凄まじいものだった。
動きがとれなくなった織田方の主力船は、この焙烙玉により次から次へと炎上し、海の藻屑と消えていく。多くの兵士が火傷を負い、あれいは炎を背にしたまま海に飛びこみ、そのまま海中に消えていく。
頃合を見計らって、ついに村上武吉自身の関船が動いた。武吉はこの時、混乱する敵軍の中に、敵の大将とおぼしき者を発見したのである。その眼光が、獲物を狙う狩人のそれになった。
その接近に、敵の将、真鍋七五三兵衛はもはやどうすることもできなかった。村上武吉はこの時、重さ百二十斤(約七十二キロ)はあるであろう巨大な銛を、片手で軽々と持ちあげていた。そして敵の将をその射的距離にとらえると、大きく振りかぶり、なんの苦もなく放り投げた。その飛距離はにわかに信じがたいものであり、七五三兵衛が気がついた時はもはや手遅れだった。断末魔の叫びが、この戦いの決着を物語っていた。
「織田方では真鍋七五三兵衛殿討死、沼野伝内殿討死、宮崎鎌大夫殿討死、宮崎鹿目介殿討死。一方、村上水軍の船は一艘の被害もなかったとか」
嘉隆は、額に脂汗を浮かべながら平八の報告に聞き入った。大湊で会った時の村上武吉の顔が浮かんでは消えた。恐ろしい男とは思っていたが、想像以上の敵と見た。そしてほどなくして、嘉隆は信長に呼び出された。この時信長の姿は、すでに大坂にはなかった。完成したばかりの近江・安土城にあった。しかし嘉隆が、その豪華絢爛ぶりに驚嘆の声をあげている余裕はなかった。信長からの新たな命は、燃えない鉄の船を作れという無理難題だったのである。
長島一向一揆平定後の信長の勢いは、まるで日の出のようだった。天正三年(一五七五)五月には、武田信玄の後を継いだ武田勝頼に、設楽原にて壊滅的な打撃を与える。
さらに同じ年の九月には、越前でおきた一向一揆を殲滅。この時、一向宗約二千人が討ち取られ、さらに捕虜となった一万二千人も容赦なく処刑されたといわれる。
信長にとって恐ろしい敵は、残すところあとわずかだった。まず、なんといっても大坂の本願寺と一向宗である。次に北陸において軍神とまでいわれた上杉謙信。そして西国には毛利家が、あの元就がすでに世を去ったとはいえ、いまだ隠然たる勢力をほこっていた。
特に信長が最も恐れたのは、毛利氏と本願寺が手を結ぶことだった。天正四年(一五七六)がおとずれ、毛利勢が海路大軍をもって、大坂へ向けて進発したという風聞が、どこからともなく流れた。
信長は、本願寺との再戦を覚悟した。まず信長の家臣で荒木村重が、尼崎から海・陸同時進行作戦で、野田に進出する。野田に三つの砦を築き、海上と石山を結ぶ川筋の通路を遮断した。
一方、明智光秀と細川藤孝は、守口と森河内に砦を構えた。そして同じく信長の臣で原田直政という者は、天王寺口を砦とした。これにより本願寺は北方、南方、東方が封じられた。残すところは西方の楼の岸と木津、そして難波の砦から海へ出る道のみである。時に天正四年四月のことだった。
信長にしてみれば、なんとしても、この楼の岸と木津をも完全制圧して、本願寺への水路を遮断したいのである。
一方の本願寺も事ここにいたって、総力戦の構えを見せはじめていた。この時、石山本願寺側で戦闘に加わった者の数は、多くの資料から換算すると、一万二千にものぼったと推定される。ほぼ大坂の本願寺において、寺内町に居住する戦力たりうる男子は、全て戦闘に参加したものと思われる。兵力では、織田方の三千をはるかに上回る。
織田軍はしばしば猛攻をしかけるも、本願寺側では雑賀党を中心として頑強に守りを固め、戦いは長期化する様相を見せはじめていた。そして戦いは五月を迎えるのである。
大坂・天王寺口、この地は後年、大坂夏の陣最後の激戦地となった舞台でもある。この天王寺口を守るのは、原田直政という将である。信長揮下のエリート集団・赤母衣衆の出身といわれ、将として幾多の合戦に参加し、良くも悪くも円熟の境地といったところであろう。
ただこの人物は生真面目すぎた。武士の嘘は武略であるというが、その武略においては、決して長じているとはいえなかった。そして敵の武略を見破る眼力においても、決して優れているとはいえなかった。
事の発端は雑賀の者らしき兵士が、天王寺口からさして遠くない場所で、倒れているのが発見されたことだった。あの雑賀衆の象徴ともいうべき、奇怪な雑賀兜をかぶっていたのである。すでに死んでおり、死体を検分したところ、懐から、恐らく本願寺の首脳部宛てたであろう密書が発見された。
その夜の丑の刻に、雑賀衆が天王寺口に夜襲を仕掛けると書かれていた。直政が喜んだのはいうまでもない。その夜、敵の夜襲に備えて、万全の体制が敷かれたのもいうまでもない。最も、実は問題の敵の間諜らしき屍は、死んだ織田方の兵士に、雑賀兜をかぶせたものであることに、原田直政とその直臣達は気付かなかった。
その夜、果たして雑賀衆の夜襲はあった。だが万全の備えをして待ち構えていた原田隊は、雑賀衆に向かい鉄砲を猛射。雑賀隊は驚き逃げ出した。
もちろん原田隊はただちに追撃にうつる。だがこれが罠だったのである。雑賀衆は上町台地を、大坂本願寺の方角へと逃げたが、やがて原田隊の左側面から歓声があがり、鉄砲の凄まじい轟音が響いた。伏兵である。実は敵が来るのを今か、今かと待ち構えていたのは、雑賀衆の側だったのである。
この側面攻撃により、原田隊はもろくも崩れた。原田直政は壊走する味方の部隊を立て直そうと、必死の踏ん張りをみせるも、実は部隊の右側面の草わらにも伏兵が潜んでいた。伏兵といっても、たったの五人しかいなかった。鈴木孫一その人と、そして雑賀衆の中でも選りすぐりの射撃の名手が四人。
孫一が混乱する原田隊の中で、敵の将とおぼしき者を発見するのに時間はかからなかった。織田軍の将は皆ことごとく、鎧・具足がきらびやかであったためである。孫一と四人の者が一斉に射撃の体制にはいった。むろん例え五人のうち四人がしくじっても、一人が命中すれば、敵将を討ち取ることができるという算段である。
「今だ! 放て!」
孫一の叫びと同時に轟音が響いた。果たして五発のうち四発が命中した。直政は無残にも地に伏し、闇の中、織田方の混乱は頂点にたっした。
(二)
この雑賀衆の勝利は、本願寺と一向宗に勇気をあたえることとなった。翌日には天王寺砦を完全包囲し、あの明智光秀をも孤立無援の状況にいたらしめた。織田方の敗北は時間の問題かと思われた。ところが七日昼頃、一人の人物の出現が、本願寺陣営を動揺させ、異常な混乱状態にいたらしめた。
その人物は南蛮式の胴具足に身を包み、黒のマントをはおり、騎馬で敵味方からよく見える位置に出現した。この時代の日本で、このような出で立ちで戦場に出現する人物は、他に存在しなかった。織田信長その人が大坂の危急を知り、京より大坂に急行したのである。
古今いかな名将もそうであったように、信長もまたそこに存在するのみで、揮下の将をして勇気を与え、進んで死地に赴かしめる。だが、この場合織田陣営よりも、本願寺側に与えた衝撃のほうが大きかった。
伊勢・長島で二万人、越前で一万二千人の一向衆を抹殺した信長の残忍性は、すでに本願寺の上層部から、末端の信者に至るまで知らぬ者はない。さしも死を恐れぬ一向衆ですら、その出現は恐怖を抱かせるのに十分であった。
死を恐れぬからこそ、一向衆は天下二十数カ国を制圧した織田軍団が相手でも、互角に戦できるのである。一旦、恐怖と動揺が広がれば、もはやそれは、ただの百姓・土民の群れにすぎなかった。
信長は決して戦機を見逃す男ではない。ここを境とし、織田方の猛反撃がはじまった。織田軍は、まるで猟師が狩猟の獲物を狩るかのように、一向衆をなで切りにしていった。このままでは伊勢・長島、そして越前と同じ運命が待ちかまえているのは間違いなかった。事ここに至って本願寺首脳部は、最後のカードを切るにいたるのである。
八日未明のことである。本願寺の阿弥陀堂では、いつもどおり本願寺のトップである顕如上人と、寺の最高首脳が顔をそろえ、朝の法要をいとなんでいた。突如として遠くから、何者かの足音が響いてきた。その音が次第、次第に大きく、そしてけたたましくなり、ついには襖が勢いよく開かれた。
姿を現したのは鈴木孫一だった。その形相にはあきらかに怒気がうかんでおり、大童の髪を後ろで軽くたばねたのみで、髷もろくに結ってない。心の動揺があきらかに見てとれた。そして顕如上人と目があうやいなや、
「貴様等!」
と、怒号をあげた。
「貴様等! 一体どういうつもりだ? あの旗はなんの戯言だ!」
この日、日の出とともに石山本願寺の信徒からよく見える場所に、巨大な旗指物がさっそうと翻った。そこには『進者 往生極楽 退者 無間地獄』と大書されていたのである。
浄土真宗の宗祖たる親鸞聖人は、このようなことは一言もいっていない。浄土真宗では、いかな悪人でも一心不乱に念仏さえ唱えれば、極楽往生できるとしかいっていない。これは信者に対する、教団トップの違約以外の何者でもなかった。
その場には、本願寺の最高幹部である下間頼龍他数名がいたが、孫一はその一人一人の胸ぐらをつかんでは、
「貴様か指図したのは! それとも貴様か?」
と、恐ろしい剣幕で迫った。寺院という環境でぬくぬくと育ってきた僧侶達は、その獲物を狙う鷹のような眼光を目の当たりにし、恐怖で震えあがった。
孫一はついには顕如上人の胸ぐらをもつかみ、
「己は、信徒を一体なんだと思っている!」
と、その常人の倍はあるであろう太い腕に力をこめ、声を震わせながら迫った。
「仏敵が眼前に迫っておるというに……。教団そのものが消滅しては……。わしの代で教団をつぶすわけにはいかんのだ!」
顕如上人は声をうわずらせながらも、かろうじて、必死の抗弁をした。
この時すでに戦闘は開始されていた。門徒達は死を恐れぬという境地から、すでに進んで死地に赴くという境地に達しようとしていた。実に奇怪な戦争が始まった。もはや門徒達には全軍の布陣も、戦術も、戦略も、作戦も存在しなかった。ただやみくもに刀・槍をふりかざしては、南無阿弥陀仏を唱え、そしてひたすら死にむかって進んでゆく。
この戦いの奇妙さは、死に物狂いの門徒達に押されているのは、織田勢であるにも関わらず、死傷者はむしろ本願寺側がはるかに上回っていることだった。いわば巨大な自殺者の群れのごときものであった。これを迎え撃つ織田軍の兵士もまた恐れをなし、いずれの兵士も蒼白の形相をしていた。
「いかん! これはいかん! これ以上、この戦いの犠牲者を増やすわけにはいかない」
この合戦を櫓の上から見上げる孫一は、ここである悲壮な覚悟を固めようとしていた。
やがて織田方は浮き足立ち、全軍が崩れ始めた。信長は覚悟した。この状況で味方を立て直すには、方法は限られている。一つは大将である自らが今一度、全軍の最前線に立ち、全軍を叱咤することである。『将は帷幄の中にあって謀を巡す』というのが、日本を始めとして、東アジア世界における常識である。信長もまた、戦いの最中、自らの身を危険にさらすことは滅多になかった。
「己等、土民や坊主風情に何を恐れておるか! 我が軍は天下無敵ぞ! 尾張を、美濃を、伊勢を、いや畿内を、いや満天下を制覇したのは我らぞ! 臆するな者ども続け」
信長は、ついに全軍の最前線にでてきた。西欧式の甲冑がこの時ほど、凛凛しく異彩をはなったことはなかった。まぎれもなく天下人の姿がそこにあった。兵士達は心の平静を取り戻し、戦は膠着状態となった。
戦闘は、そのまま夕刻をむかえつつあった。本願寺の側から、ほら貝の音が鳴り響いた。一時撤退の合図である。いかに退けば無間地獄とはいえ、命令は命令である。中にはそれでもなお、念仏とともに敵陣に無謀な突撃を決行する者もいたが、ようやく正気に戻った多くの信徒達は撤退を開始する。すでに一向宗の側では、体力の限界に近づきつつあった。それを見越しての一時撤退の合図だった。
一方、織田方も体力の限界が見えはじめていた。しかし信長は、ここを正念場と思い、無理を押して追撃を命じた。本願寺の寺内町の木戸口までも敵を追撃した。この信長の追撃に、木戸口に殺到した門徒達は混乱を極めた。敵の槍にかかるならまだしも、背後から迫ってくる味方に押しつぶされる者が続出し、ある種のパニック状態と化した。
信長は、相変わらず全軍の最前線に近いところにいた。ここで信長の不覚は、孫一の火縄銃の射程距離に入ってしまったことだった。孫一は、木戸口を一望に見下ろすことができる櫓の上にいた。
「あれが信長か」
例の西欧式の甲冑が、孫一に自らの居場所を知らせる目印と化していた。
「己の命をもって、この合戦に終止符を打つ」
孫一は装填を始めた。その獰猛な眼光を大きく見開くと、銃の引き金に手をかけた。その刹那、信長は衝撃音とともに馬から転落した。信長を守る馬廻衆、赤母衣衆、黒母衣衆等が一斉に倒れた主を取り囲み、やがて撤退の合図がだされるまで時はかからなかった。
「己、仕損じたか! 信長めつくづく運のよい奴よ」
孫一の言葉通りだった。信長は右太腿を狙撃されたが、命に別条はなかった。まさしくこの時が、石山合戦のターニングポイントであったといえるだろう。信長には大局観があった。所詮、ただ念仏をとなえながら、やみくもに刀・槍をふりかざすだけの集団が、天下の大半を制した織田軍団相手に、最後の勝利をえることは不可能だった。
六月五日、ついに楼の岸と木津砦は織田方の手に落ち、さらに難波の海への道も封鎖された。本願寺に残された道はもはや二つしかなかった。信長にくだるか、それとも全軍本願寺を枕に餓死、もしくは討ち死にするかである。しかし残された希望が一つだけあった。それが今や信長と互角に戦える数少ない勢力の一つ、西国の毛利勢の存在であった。
(三)
この頃、信長のため、京を追われた前将軍の足利義昭は備後の鞆にいた。将軍という地位は失ったものの、なおも策動を続け、第三次信長包囲網を形成しようとしていた。北国の上杉謙信及び中国の毛利輝元に、同時に密書を送り、信長打倒を呼びかけたのである。しかし毛利の側では、信長と開戦に及ぶか否か、いまだ決めかねていた。本願寺が信長の大軍に包囲され、明日をも知れぬ運命にあるこの時期、毛利家の本拠の安芸・郡山城では、重臣達が軍議を開くこととなった。
「織田信長が領有する土地は、今や二十数カ国にも及ぶ。甲斐の武田をも先年設楽原にて倒し、今や日の出の勢い。対する我等の領土は、せいぜい十数カ国にすぎない。戦するは無謀と思うがいかに?」
最初に口を開いたのは、今は亡き毛利元就の三男で、智将として天下に名高い小早川隆景だった。
「あいや待てい。確かに兵の数、国力からしたら無謀な戦かもしれぬ。なれど、我等だけで戦するわけでもあるまい。石山本願寺も次第、次第に信長に追いつめられているとはいえ、まだ信長に抗するだけの力は十分にある。それに今、かの前将軍足利義昭公が、北陸の上杉謙信殿と交渉中とのこと。早急に上洛し信長を討伐する兵をあげるよう激を発しておる」
と反対意見を口にしたのは、隆景の兄で、やはり元就の次男吉川元春だった。智将として名高い隆景に対し、こちら剛勇無双をもって天下にその名がとどろいていた。
「恐れながら兄者、他人に力をあてにし、一国の浮沈をかけて賭博を打つは無謀かと。やはり我等は今、我等が持てる兵と領土と国力をもって、信長と戦できるか否か判断するが得策とおもうがいかに」
「何が他人の力じゃ! この戦国の世に互いに同盟・離合集散するは当然のことであろう。我等とて、我等の力だけで安芸の小領主から、今日に至ったわけではあるまい。だいたい御主はいつも、いつも慎重すぎる。まさか厳島を忘れたわけではあるまいな。あの時、戦せねば我等は陶にひねり潰されていた。戦は兵の数だけではないこと、そなたも学んだであろう」
元春は思わず声を荒げた。
「兄者、それがしはあの厳島合戦のおりも申したはずでござる。陶晴賢殿は焦っている。商人の特権を廃止し、寺社の特権をも廃止し、そこにおる村上武吉殿の駄別銭をも廃止しようとなされた。そのようなことでは陶殿の足元は実に危ういと。あの合戦は我等の軍略・武略だけで勝てたわけではござらぬ。いうなれば陶殿が自分で転ばれたのだ」
隆景は、今この席に列している能島村上水軍の村上武吉にかすかに目をやり、兄の言葉に反論した。武吉はじっと目をつむり、腕を組み、何事かを思案している様子だった。
「なるほど、ならばいずれ信長も自分で転ぶと申すか? 信長が転ぶのを待てと? なれど転ぶにしても、大坂の本願寺が滅ぼされ、我等も滅ぼされた後では遅すぎるぞ。その兆しがあるとでも申すか?」
「いや、拙僧も信長はいずれ転ぶものと思っておる」
と言葉を挟んだのは、毛利家の外交僧で安国寺恵瓊という者だった。
「僧侶の立場からいわせてもらうと、この国では仏法を犯す者は、いずれ天罰がくだることになっておる。仏罰を恐れる故、白河院の昔より何人も叡山に手をくだすことなどできなかったのだ。それを信長は犯した。信長の世はもってせいぜい後数年ほどであろう」
「では、その数年後に信長が転ぶまで、我等に高みの見物をせよと申すか。なれど今日この軍議は、まさに一国が生きるか死ぬかを決める軍議。例え高みの見物をするにしても、戦に及んだ時いかように戦うか、それをも皆で考えるべきだ。そうであろう」
元春は、安国寺恵瓊の言葉を鼻で一蹴するかのようにあざ笑った後、一息にいった。
「さればでござる。今、この日本国全土を見渡して、信長にとって最も恐ろしい敵は我等と、そして北陸の上杉謙信殿かと思われる」
次に口を開いたのは、小早川隆景の重臣で乃美宗勝という者だった。乃美宗勝は、もとの名を浦宗勝といった。毛利家の厳島合戦、伊予出兵と武功をあげ、さらには九州の大友家との豊前・門司城攻防戦にも参加。敵、味方見守る中で大友方の勇者と一騎打ちに及び、見事その首を討ち取り存在を誇示した人物である。
「実はそれがし、密かに我が手の者を商人に化けさせ、上杉謙信なる者がいかなる者か探らせましてござる」
「ほう、していかなる者であった。上杉謙信なる人物は?」
吉川元春が、興味津々といった様子で問いただした。
「それが我が手の者が申すに、恐ろしくて身震いしたとか、あまりの威厳に心うたれて、顔を上げることさえできなかったとか……」
「それほどの者か? 上杉謙信と申す御仁は」
座はしばしどよめいた。
「確かにいえることは、上杉謙信と申す御方は、決して利害・打算だけで動く人物ではないということでござる。かって甲斐の武田信玄に追われた信州の小豪族達を助け、北条氏康に追われた先の関東管領上杉憲正殿を助け、常に義を旗印にしておるとか。故に天下の信を集めて久しゅうござる。確かな伝聞とは申せませぬが、長年敵対した武田信玄公でさえ、死を前にして武田勝頼殿に、武田に万一のことあれば上杉謙信を頼れと遺言したとか」
「なるほど、信じるに値する人物かもしれぬのう。かの上杉謙信と申す者は。ところで村上武吉殿、そなたは先程から黙りこくっておるが、なにか意見はないのか」
と元春は、今度は相変わらず腕組みして黙ったままの村上武吉にたずねた。
「信長が何故、驚くほどの損害をだしながら石山本願寺との戦をやめないか。答えは簡単じゃ。信長は大坂の地を欲しておるからだ」
武吉はようやく口を開いた。
「わしはかって、船で大坂の地へ赴いたことがある。我等海に住む者は、陸に住む者よりも、はるかに遠く将来を見るものだ。大坂の地には、まさしくこの国の将来があった。人・者・金が集まる。明国から来た者もいれば、我等がいまだ伝聞でしか知らぬ、南蛮とかいう遠い地からはるばるやってきた者もいた。
あの地を、ゆくゆく我等が手に入れれば、あれいは天下は我等のものとなろう。なれどもし信長が手にいれれば、西国の大名そのいずれもが、やがては信長に滅ぼされることになるだろう」
「ならばそなたは信長と戦せよと申すか? そなたならいかように信長と戦う」
元春が、武吉に具体的な戦略をたずねた。
「さればそれがし、実は偶然織田家の水軍の将である九鬼嘉隆という男と、伊勢・大湊で顔をあわせ、一晩ほど船のこと、合戦のことなど語りあったことがござる。なるほど確かに、かの信長公より水軍を託されるだけあって、将として実に類まれな素質をもった男であった。
なれどあの男をもってしても、瀬戸内の複雑な潮の流れのことまでは、あずかり知らぬこと。あの男は船は巨大であることがまず第一と考えておるようだ。巨大な軍船を建造し、そして敵に数倍する兵力をもって戦に勝つ。なれど瀬戸内の水路は狭い。必ずしも船が大きければよいというわけではない。むしろ小早の軽快さこそ、力を発揮するものじゃ。
あの男は敵が十なら百の力で戦に勝つを常としておる。なれど我等の戦の仕方は違う。我等にとり十に十をたすは必ずしも二十にあらず。みかけは二十でも実際は二百いや二千の力となすこと、それが我等の軍略である。
織田の水軍が、瀬戸内の海に入ってきたらその時が最後、かの九鬼なる者にとっても瀬戸内の海が墓場となろう。信長との戦、我等なら二年、三年は戦える。その後はさしもの我等も天のみぞ知るといったところだ」
元春は、改めて村上武吉という男を見た。なるほど改めて見ると、驚くほど頼りになりそうな男である。この男なら織田軍十万といえど戦できるのではないか。武吉は、元春にそのような幻想すらいだかせた。
「なるほど、大坂を制する者がゆくゆく天下をも制す。ならば我ら、決して信長に大坂の地を渡してはならぬ。各々等奮闘して、信長を打ち負かし、こたびは本願寺を救うがよいぞ」
と声をあげたのは、上座にいながら、軍議の席上一言も発しなかった、他ならぬ毛利輝元だった。その声はいささか力がたりなかった。軍議で何事か意見しようにも、輝元にはそれだけの能力がなかった。いわば飾り物の君主であるが、それ相応に主として自負心だけはあった。故にここで最終決断だけはくだしたわけである。これにより毛利は、織田信長と一国の命運をかけた一戦へとのりだそうとしていた。
(四)
古今東西の合戦において、籠城戦こそ無残なものはそうざらにない。籠城する側は次第、次第に痩せ衰えてゆき、食べることさえできれば草木や、昆虫すら食べたという記録さえある。体力のない老人や子供からばたばたと倒れてゆき、子をなくした母親が数日泣き叫び、ついには自らも命を絶つ。この状況に至っても城内には、なおも読経の音が響きわるも、教団のトップである顕如上人は、彼等をどうすることもできなかった。籠城開始およそ一ヶ月。本願寺を囲む織田陣営に、衝撃的な情報が流れた。
「毛利が現れたぞ!」
「木津川口に姿を現したぞ!」
はたして天正四年七月十一日の夕刻、毛利勢は村上水軍の村上武吉を事実上の大将とし、大坂の木津川河口に兵糧船とともに出現した。船の数およそ七百艘余りと伝えられる。一方これを迎えうつ織田方の水軍は、泉州の海賊を中心とし、船の数およそ三百艘ほど。織田方の大将は泉州海賊の長で、真鍋七五三兵衛という者だった。
兵力的には劣勢な織田水軍。正面からの戦で勝ち目がないなら、奇襲により血路を開くのが得策である。ところがである、織田水軍は思わぬ形で、逆に敵の奇襲を受けるはめとなる。
時に天正四年七月十三日夜半のことである。織田方の陣営にゆっくりと近づいてくる千石船数艘の姿があった。織田方の旗を風になびかせており、恐らくは兵糧を積んだ船と思われた。木津川口の警護の者もさして警戒せず、船の浸入を許してしまった。
「止まれ。何者であるか」
船が眼下まで迫り、警護の者は手続き上、船主にたずねた。ところが突如として異変はおこった。織田方の旗はすべておろされ、代わりに丸に『上』の字の旗がさっそうと翻ったのである。村上水軍の旗だった。
「しまった! 敵の謀か!」
気付いた時にはもう遅く。弓矢・鉄砲が織田方の陣地めがけてはなたれた。村上武吉が敵の兵糧船を拿捕し、村上水軍の将兵を乗船させたのである。
「親方、敵は混乱しておりまするぞ」
側近がいうと、武吉は大きくうなずいた。
「さぞや敵は我等を卑怯とそしっていることであろう。なれど戦にあるは勝ち負けのみ。これが我等海賊の戦であるぞ。敵は混乱している。一気に踏み潰すぞ」
村上水軍は海上に魚鱗の陣をしき、織田方の水軍に迫った。織田家と毛利家、海における戦が開始されようとしていた。
……それから一月もたたぬうちに、志摩の国の波切の砦で九鬼嘉隆は、現地に物見として派遣していた平八から、織田水軍の壊滅を知らされた。
「いかになんでも早すぎるではないか。一体なにがあった?」
「それが、戦の決着がつくのに一昼夜もかかりませんでした。村上武吉殿の戦の采配、まことに見事というより他ござりませぬ」
「なに? 一昼夜かからなかったと? 詳しく話すがよい」
嘉隆はさらに驚き、平八は見たままを語りだした。
織田方の水軍は安宅船数艘と関船を主力としており、一方の村上水軍は、小早を自由自在に操った。その操船の妙は、さすがに日本一の海賊を自認するだけあり見事であった。織田方の水軍は翻弄されるばかりで、弓矢を放ってもなかなか敵にあたらなかった。戦闘開始から半刻あまり、さらに織田軍の将真鍋七五三兵衛を動揺させる知らせがもたらされた。
「恐れながら、弓矢に当たった我が軍の将兵の様子がおかしゅうござります」
「何? どういうことだ?」
「それが、弓矢が当たった箇所が浅黒く変色し、その苦しむ様も尋常一様ではありません。恐らく敵は毒矢を放っているものとおもわれまする」
「己! なんという輩だ! どこまで卑怯な手を使えば気がすむのだ」
七五三兵衛は、思わず歯ぎしりした。この毒矢は、織田方の兵士を精神的にも苦しめる結果となった。この時代、鎧・甲冑はかなり頑丈に作られていた。弓矢が五本ほど刺さっても、なお戦闘を継続する兵士もいたほどである。しかし毒矢は別である。多くの兵士がこれに恐れをなし、戦いの最中に弱腰となった。
しかし織田方の水軍もやられてばかりではなかった。鉄砲の装備においては、村上水軍を上回り、敵の魚鱗の陣の中央に突撃して、鉄砲を凄まじい勢いではなった。
しかし、なりふりかまわぬ村上水軍の戦ぶりは、ある意味さらに卑劣だった。
「遠慮するな。敵の水夫を狙え!」
武吉は、全軍に水夫の攻撃を命じたのである。当時の船の上の戦では、水夫を狙わないことが暗黙のルールとなっていた。武吉はこれを平然とやぶったのである。これにより、織田方の船の多くが操船不能となり、海上に立ち往生した。
しかしこのような遠慮会釈ない攻撃にも屈することなく、織田方の水軍は、魚鱗のはるか後方に陣を構える、村上武吉の大将船とおぼしき船が見える場所までせまった。
この時、村上水軍の長たる村上武吉は、関船の甲板上で戦機がくるのをじっと待っていた。
「よし、あともう少しだ。後今一歩じゃ。引きつけられるところまで、敵を引きつけろ。今じゃ太鼓を鳴らせ!」
太鼓の音が海上に響きわたった。それとほぼ同時に、織田水軍の将真鍋七五三兵衛初め、主力船の多くがガクンと傾き、大揺れに揺れた。なんと村上水軍は、魚を獲る用の網を水中にあらかじめ潜ませていて、敵がかかるや否や、前後左右の船がいっせいに網を引いたのである。
「よし! 敵はほぼ再起不能だ。焙烙玉を用意せよ!」
武吉は勝利を確信し、さらに素早い指示をあたえた。焙烙玉はある種の手投げ弾である。その爆発の威力はそれほどでもないにせよ。衝撃音の凄まじさが、兵士に与える心理的ショックのほうが深刻だった。この戦いから、かろうじて生きて帰還した織田方の兵士が、それから何十年も後まで、度々夢に見てうなされほど、その着弾の際の恐怖は凄まじいものだった。
動きがとれなくなった織田方の主力船は、この焙烙玉により次から次へと炎上し、海の藻屑と消えていく。多くの兵士が火傷を負い、あれいは炎を背にしたまま海に飛びこみ、そのまま海中に消えていく。
頃合を見計らって、ついに村上武吉自身の関船が動いた。武吉はこの時、混乱する敵軍の中に、敵の大将とおぼしき者を発見したのである。その眼光が、獲物を狙う狩人のそれになった。
その接近に、敵の将、真鍋七五三兵衛はもはやどうすることもできなかった。村上武吉はこの時、重さ百二十斤(約七十二キロ)はあるであろう巨大な銛を、片手で軽々と持ちあげていた。そして敵の将をその射的距離にとらえると、大きく振りかぶり、なんの苦もなく放り投げた。その飛距離はにわかに信じがたいものであり、七五三兵衛が気がついた時はもはや手遅れだった。断末魔の叫びが、この戦いの決着を物語っていた。
「織田方では真鍋七五三兵衛殿討死、沼野伝内殿討死、宮崎鎌大夫殿討死、宮崎鹿目介殿討死。一方、村上水軍の船は一艘の被害もなかったとか」
嘉隆は、額に脂汗を浮かべながら平八の報告に聞き入った。大湊で会った時の村上武吉の顔が浮かんでは消えた。恐ろしい男とは思っていたが、想像以上の敵と見た。そしてほどなくして、嘉隆は信長に呼び出された。この時信長の姿は、すでに大坂にはなかった。完成したばかりの近江・安土城にあった。しかし嘉隆が、その豪華絢爛ぶりに驚嘆の声をあげている余裕はなかった。信長からの新たな命は、燃えない鉄の船を作れという無理難題だったのである。
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「あの事件の真相を明らかに致せ」
それが上様にとって好ましい結果になるという保証はない。そのような懸念を抱きつつ、五十畑は頭を垂れた。
五十畑は配下の徒目付安堂に赤穂城を離散した元家臣から浅野家内部情報の収集を命じ、自らは関係者の聴取に入った。吉良上野介に向かって小刀を振り被った内匠頭を制止した梶川与惣兵衛と上野介から始まった聴取において真相解明に直結し得る新情報の入手は無かったが、浅野家の江戸家老安井彦右衛門から気になる発言を引き出すことができた。浅野家主君と家臣の間には君臣の義と言えるものはなかった。問題があったのは主君の方。安井はそこまで言うと口を閉じた。
それは安堂からの報告からも裏付けられた。主君と家臣の間の冷めた関係性である。更に続いた安堂の報告に、五十畑は眉を寄せる。赤穂城内から頻繁に搬出された侍女の斬殺死体。不行跡により手打ちにあったということである。さらに浅野刃傷事件の際に内匠頭の暴走を制止した茶坊主の発言として、内匠頭から何かが臭ったというものである。五十畑はそれらの情報を繋ぎ会わせ、浅野刃傷の原因についてある結論を導き出す。
安堂の報告は、浅野家元城代家老大石内蔵助にも及んだ。京の郭で遊蕩にふける内蔵助の元へ頻繁に訪れる武士の姿。その武士は京都所司代の筋らしく遊蕩費の出所はそこらしいということであった。
五十畑は柳沢に密命の最終報告を行う。
内匠頭の家臣斬殺及び義や情を欠いた君臣の原点を知った柳沢は唸った。それは内匠頭の内面に潜む危険なる性であった。
その報告の中から、五十畑が敢えて除外したものがあった。京都所司代より流れた内蔵助の遊蕩費の件である。五十畑はその狙いが内蔵助を遊蕩漬けにし吉良仇討ちから遠ざけること、そしてそれを主導するのが柳沢であるとの確信を得ていた。
元禄15年末、泰平の夜に激震が走った。47名の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、上野介の御首級を上げたのである。
五十畑は赤穂浪士討ち入りの影に潜む悪意を見定めるため、細川越中守邸に預けられていた大石内蔵助に面会する。内蔵助は、遊蕩狂いが吉良方の目を欺くためではなく、自らの性癖により衝き動かされた自発的行為であることを認めた上で、そんな自分を吉良邸討ち入りに誘導したのは柳沢より提示された討ち入り後の無罪裁決及び仕官であると語る。そこまでは五十畑も想定の範囲内であったが、内蔵助は意外な人物の介入を口にする。上杉家家老色部より金銭的援助及び吉良方の内部情報提供の申し出があったというのである。
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