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【伊勢湾制圧編】永禄八年という年~天下の行末
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九鬼嘉隆が坂手島の合戦に勝利したものの、最終的に志摩の国を追放され、紆余曲折の末に織田信長に仕えたのは永禄八年(一五六五)という年だった。ある意味では、九鬼嘉隆がようやく新たな人生へ向かって船出をした同じ年、やはり時代は新たな世へと向かって刻々と動いていた。
(一)
猛火は次第、次第に御所ことごとくを包みこもうとしていた。武者はすでに身に十数箇所の傷を負っていた。しかしその眼光は天下を見据えるがごとくして、いまだ死んではいない。
武者は漆四十二間小星兜そして、本小札浅葱糸素懸威胴丸具足といういでたちにして、無数の刀が床に突き立てられている。通常刀というものは、人を数人斬りふせれば血脂で切れ味が悪くなる。そのため多くの敵を相手にする時は、刀は一本では足りないのである。武者の足下には、敵味方無数の軍兵の屍が横たわっており、激戦の凄まじさをものがたっていた。
武者の名は室町幕府十三代将軍足利義輝。落ちぶれはてたとはいえ、事実上天下の主である。
この日、永禄八年(一五六五)五月十九日、都にて将軍のおわす二条御所は、松永久秀及び三好三人衆等により十重二十重に取り囲まれた。
すなわち御所の東側、三本木東洞院に総大将の三好義継が本陣をかまえ、西の大手前には三好康長が布陣した。そして御所の北、室町勘解由小路には岩成友通が陣をかまえる。さらに南の烏丸春日表には、戦国の世に肝雄として名高い松永弾正久秀が布陣した。
この日は未明から蒸し暑い日であった。夜明けとともに三好三人衆及び、松永久秀等による総攻撃は開始された。その数およそ一万ほど、対する将軍側は女子供まで含めても百ほどでしかなかった。
すでに将軍側近達は、この危急時に水杯を交わし最後の別れを惜しみ、不気味に動めく万の軍兵相手に、石火矢による砲撃をおこなうなどして士気盛んだった。
しかし人間の体力の限界を越えた戦いも、正午頃には決着がつこうとしていた。もはや残るは将軍のみであった。足利義輝は、将軍としての実権こそ三好三人衆等に奪われ、無きに等しい有様であったが、その武勇のほどは尋常一様なものではなかった。
なにしろ剣豪として名高い塚原卜伝から、指導を受けた直弟子の一人であったといわれている。その太刀さばきの凄まじさは、謀反軍の将兵等をして心胆まで寒からしめた。
数時間に及ぶ激闘の末、将軍もまた身に深手を負っていたが、心は奇妙なほど静かだった。決して揺らぐことのない確固たるなにかが、末期を迎えようとする今、将軍の胸中に一筋の灯をともそうとしているかのようであった。
「そこに見えるは公方様とお見受けつかまつる。それがしの如き下郎が、公方様相手に名乗る名などないが、謹んで御首ちょうだいつかまつる」
群がる敵兵の中で、一際大柄な体躯をした武者が大音声で叫んだ。
「面白い卑しき者よ、ならばその目にしかと焼きつけるがよいぞ、秘伝一の太刀を」
瞬時、将軍の全身から凄まじい殺気が放たれた。そして武者の眼下で信じられないことがおきた。まさに武者が瞬きしたその瞬間に、歩幅にして五歩ほど距離を置いていた将軍が、いつの間にか背後にまわっていたのである。武者が気がついたその時には、臓腑から鮮血が飛びちっていた。武者にも、見守っていた他の兵士にも、まったく何がおきたのかわからなかった。
『まさに鬼人! 人間ではない』
兵士達は皆恐れおののき、将軍一人を相手にじりじり後退した。ところがその時である。突如として将軍の体が炎に包まれた。不敵な笑い声とともに、十三代将軍足利義輝の姿は、地上から消えてしまったのである……。ちなみに将軍義輝らしき辞世の句が残されている。
五月雨は つゆか涙か 時鳥 わが名をあげよ 雲の上まで
……伊勢の国司北畠具教は、自らの居館である多芸御所にて、異様な夢からようやく覚めた。
「一体、今の夢は何事ぞ? あまりに生々しい」
むろん具教が、何者かが軍勢に襲われて末路を迎えるということ以外に、具体的な夢の詳細は覚えていなかった。その時である。突然具教の視界が何かによってふさがれた。目隠しをされたのだ。
「殿、いかがなされたのです? 夜分にそんな恐ろしい顔をなさって」
目の前に女の顔があった。具教の幾人かの側室の一人で名を阿美という。齢十七にして常に笑みを絶やさない、実に明るい性格の女性だった。
「いや、なんでもないのだよ。気にするほどのことでもない」
さすがの具教も、この可憐な大人になりかけの少女を前にすると、一瞬にして心が和んだ。だがこの阿美という名の女性は、実に悲しいさだめのもとに生まれた女性だった。
むろん具教はまだ都での異変を知らない。まもなくやってくる己の運命の変転も、目の前にいる阿美を襲う不幸も、まだ知らずにいる。
(二)
永禄八年はまた、中国地方の毛利氏が長年の宿敵尼子氏を滅ぼし、名実ともに山陰山陽十数カ国の主となった年でもあった。
出雲は神話の国である。山河をおおいつくす薄暗さが、古来より人をして神秘なものへと誘う妖しさを秘めている。山陰特有の凍てつく冷気が肌を刺す。風は常に唸りをあげ、延々と連なる山々の鳴動が、すでに屍となった武者達の叫びにさえ聞こえる。
現在の島根県安来市広瀬町富田に、尼子氏およそ百七十年、六代の象徴ともいえる難攻不落の要塞・月山富田城があった。
月山富田城は標高百九十一メートルの月山、その山頂部に本丸を置く典型的な山城である。周囲は断崖絶壁が多く、それだけで敵兵をして畏怖せしめる。城郭は内郭、外郭から構成されており、侵入路は塩谷口、お子守口、菅谷口の三方向である。それぞれが詰の城である山頂部へと連なっている。
六十八歳の毛利元就は生涯の大半を尼子氏、そして大内氏への屈従に費やしてきた。安芸の国(広島県)の吉田荘のわずか三百貫から身をおこした元就が、人生の最後に欲したものそれが月山富田城だった。
元就は狡猾だった。合戦に先立ち、石見銀山という名の無尽蔵の財源を、すで尼子方から奪回済みだった。さらに得意の調略をもって、尼子の現当主である義久の孤立化をはかる。さらに力攻めでの損害が多くなると、ただちに兵糧攻めに切り替え、城を十重二十重に包囲した。
それだけではなかった。攻囲が長引き将兵に厭戦気分がただよいだすと、市を開き物を売買させ、また遊女まで呼びよせた。
はるか後年のことになるが、この時の元就の長期攻囲戦の教訓は、豊臣秀吉の小田原城攻囲戦に生かされる。
小田原城は都市そのものが要塞といっていい。さすがの秀吉も攻めあぐねた。焦りが見えだした頃に、この時の月山富田城攻めの教訓を秀吉に伝えたのが、元就の三男小早川隆景だったといわれる。
しかし元就には、難攻不落の要塞や城を守る敵の将兵の他に、戦わなければならない恐ろしい敵が他にあった。時々刻々と自らの体をむしばむ老いだった。
「申し上げます。城内の兵糧ほぼ底をつき、さしもの月山富田城もそろそろ限界にござる」
と元就に告げたのは、次男の吉川元春であった。元就は床に伏せたままで、
「大儀。どうやら迎えがくる前に、月山富田城の落城を確認できそうじゃな」
と多少力ない声でいった。元就はこのところ体調を崩すことが多く、陣中、寝たり起きたりの生活をくりかえしていた。
「なれば昨今はそれがしも暇を持て余し、陣中のことよりも。太平記を筆写することに精力をそそいでおりまする」
太平記はもちろん、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂等を描く、我が国古典文学の傑作である。元春は本来武辺者ながらも、今、太平記の筆写に心血を注いでいる最中だった。
「太平記か……して何を思った」
横になったまま元就がたずねた。
「なれば、この国の歴史の重み、そして朝廷というものの重みを、元春肌で感じておる所存でござる」
「この国の歴史の重み、朝廷の重み……。そうか、なれど我が毛利はその重みを背負ってはならぬ」
「なんとおおせられた?」
元春は怪訝な顔をした。
「足利将軍家も衰微して久しい。長い年月そなたのいうこの国と、朝廷を背負い、少しずつ力を失い今日の有様じゃ。我等ほどなく中国の主となり、あれいは諸国の大名で我等に及ぶ者は、もはや存在せぬかもしれぬ。なれどこの国と朝廷を背負ってはならぬ。
わしは凡庸な男なれど、そなたと隆景、そして死んだ隆元という優れた息子三人に恵まれた故、こうして今日ある」
元就の表情がかすかに曇った。元就の嫡男隆元は、永禄六年(一五六三)すでに急逝していた。病とも尼子の刺客の凶刃に倒れたともいわれるが、真相は闇の中である。毛利家の後取りは隆元亡き後、わずか十二歳の隆元の嫡男輝元だった。
「足利家も尊氏公は傑物であったやもしれぬが、しかし以後の将軍家では尊氏公ほどの傑出した人物は出たためしがない。恐らく我が毛利家も同様であろう。輝元を見ていればわかる」
元就が見たところ、まだ幼い輝元は器量にかなり問題があり、天下どころか毛利家さえも背負えるか否か不安に思えた。
「よいか夢にも天下を背負うことなど考えるな」
「お言葉、肝に命じまする」
元春は寝たままの元就相手に、頭を垂れて返事をした。
「天下を望まず我等為さねばならぬこと、それは降りかかる火の粉はらうことじゃ。火の粉払うには、家中の結束がなにより。なれど平時ならともかく、一朝事あった際、あの輝元を頭として家中がまとまるか否か」
思わず元就はため息をついた。
「足利将軍家も内紛の歴史であったのう。一つそなたにものをたずねる」
一時、元就の表情が険しくなった。
「もし仮に輝元が小人の言にそそのかされ、濡れ衣で隆景に謀反の疑いありと、軍勢さしむけたら主はいずれに味方いたす?」
「なんとも難しい質問にござるなあ。なれば、それがし隆景の潔白証明するため最善をつくしまする。なれど力及ばぬ時は……。濡れぎぬとは申せ、謀反の疑いもたれるは隆景の不覚。隆景には腹を切らせまする。その時は、介錯はそれがしがつとめ申す」
元春は明らかに困惑の色を浮かべながらいった。
「うむ、では次の質問じゃ。隆景が死んだ後、輝元が次はそなたにも謀反の疑いありと申したら、そのほういかがする」
元春はしばし言葉を失った。薄灯かりに照らされた元就の顔が、かすかに殺気さえ帯びてみえた。
「それもまた、それがしの不徳なれば、その時は元春腹切りまする」
「ではそなたと隆景がいなくなり、誰が毛利を支える?」
元春は言葉をなくした。
「輝元、あやつではいかんのじゃ。今にして思えば陶晴賢は恐ろしい男だった。いつの日か毛利を根底から侵す、第二、第三の陶晴賢が現れるような気がしてならんのじゃ。その時に輝元ではならぬ。むしろそなたこそ輝元を斬れ。そして毛利はそなたが支えよ」
「恐れながら、それがしは最後まで若君を支え……」
何事かを試されているようで、元春は元就の言葉に必死に反論しようとした。
「なに、ここにはわしと御主しかおらぬ。なにも隠すことはない。政(まつりごと)と申すは、しょせん最後はその器にある者にしか動かせぬものじゃ。毛利存亡の時は、そなたが国政をきめよ。よいな」
その時元春は、ようやく元就の腹の底を察した。恐らく父と自分との、この重大なやり取りは、どこかで間諜が聞いているに違いない。やがて輝元の耳にも入るだろう。
幼少の頃より元春は、輝元という若い主君を知っている。気が弱く、例え自らか隆景が本当に謀反したとしても、軍勢さしむけることなどできるか否か? それほどある意味ひ弱な御曹司であった。
恐らくこれは、父である元就の最期の調略であろうか。自らに対する警告というより、むしろ輝元に対しての警告であろう。乱世というものは力なき者にとり、例え血をわけた叔父であろうと油断ならぬという戒めに違いない。
「お言葉、元春生涯忘れませぬ」
心中の動揺を抑えながら、元春はかろうじて返答した。
「それと、もう一つ申しておく。村上武吉、あやつには十分気をつけよ」
と元就は以外な名を口にした。
「それも元春、肝に命じまする」
今一度、元春は声を大きくして返答した。
ほどなく月山富田城は陥落。尼子氏は滅び、毛利氏はまさしく中国地方の覇者となった。この国で最大といっていい、大大名へと成長したのである。そして毛利元就という一世の傑物の寿命も、あとわずかに迫っていた。
(三)
さて、その村上武吉は自らの本拠能島(現在の愛媛県今治市宮窪町能島)にて、水軍の軍事訓練に日々いそしんでいた。訓練の方法にはいくつか種類があった。その一つに数艘の小早が対岸まで速さを競う、今風にいえばヨットレースのようなものがあった。
一艘につき十数人ほどの乗組員で、海上に丸に『上』の字の村上水軍の旗をさっそうとなびかせて、それぞれが懸命に櫓を漕ぎながら目的地を目指す。
「どうした、どうした! どいつもこいつももっと気合を入れんかい! そんなことではいざ船戦になったら、海に沈められるぞ」
武吉は浜で床机に腰をかけ、酒の入ったひょうたんを片手に、上機嫌でこの小早による競技を観戦した。武吉は三十二歳、かって若かった頃の荒々しさに加え、どこか狡猾な印象が加わりつつあった。しかし荒々しいことを好む様は、若い頃となにも変わってはいなかった。
やがて競技が一段落すると武吉は、参加した者それぞれに賞賛の言葉や、あれいは叱責を一人一人ずつかけてまわった。そして、
「例の怪しき輩はどうなった?」
と、表情をかすかにこわばらせていった。
「あちらに倒れており申す」
武吉の側近が指さした場所には、なるほど得体の知れぬ何者かが、砂浜に息も絶え絶えになりながら横たわっていた。やはり他国の間者なのだろう。不覚にも捕らえられた後も、己の素性を明かさぬ間者に業を煮やした武吉は、非常の手段にでた。なんと間者の両手を縛り、小早に縄でくくりつけ海を引き回したのである。
「どうじゃ、己の素性を明かす気になったか?」
武吉は、声にかすかに凄みをきかせてたずねた。
「知らぬ! 己の素性などとうに忘れた!」
間者が、はき捨てるようにいうと武吉は刀をぬき、
「どうじゃ、これでも言わぬか! 素直にしゃべれば里に帰してやってもよいぞ」
と間者の背中から腰のあたりにかけて、刀でゆっくりとえぐった。
「さあ素性をいわぬと今一度小早で海を引き回すぞ! この傷に海水がいかほどしみるか味わってみなければわかるまい!」
間者はついに口をわった。自らが毛利と敵対する、豊後の大友の間者であることを明らかにした。
「して、大友は今なにを画策しておる。いわぬとわかっておろうな」
「豊前……。松山城」
「そうか、大友が豊前の松山城を狙っておるのだな? ようわかった。誰かある」
武吉は大声で側近の一人を呼んだ。
「こやつは用済みだ。袋に包んで重りをつけて海に沈めるがよいぞ」
武吉は、眼を血走らせながら冷酷にいいはなった。
こうして武吉は残忍な行いを好むいっぽう、迷信や祟りなどは信じることなく、とことん現実主義者だった。
ある秋の日の夜半のことである。能島村上の縄張りを、駄別銭を払うことなく通行しようとする船があった。見張りが発見し、たちまち法螺貝が夜の静寂をやぶるかのように、けたたましく鳴らされた。
「そこの船止まれ! 我が村上水軍の縄張りを許可なく通過するつもりか!」
ただちに小早が数艘が接近を試みたが、船を間のあたりにし、村上水軍の誰しもが夢を見ているかような錯覚を覚えた。
どう考えても、平家物語の中からでも脱けだしてきたとしか思えない。到底戦国のこの時代に、海上を走る船舶とは思えない代物だった。
余談だが我が国の造船技術は、四面海で囲まれながら中世まで実にお粗末極まりないものだった。有名な遣唐使を乗せた船などは、無事唐土までたどりつけるかは半ば運まかせで、少しでも嵐に遭遇すると必ず沈んだ。
鎌倉時代までは準構造船の域を出ることがなかった。平安末期ようやく推進力が櫂から櫓に変わり、船体の周りを木で囲うようにセガイが出現したといわれる。セガイと船体の間に櫓棚という櫓を漕ぐスペースもできた。つまり、少ない人数で船の推進力を稼ごうという考えが、ようやくめばえたのである。帆には、まだ布を使用することがなく莚を使用していた。そして船体は主屋形や艫屋形など特長ある形を有していた。
「己! 止まらぬというなら矢を放つぞ!」
ただちに弓矢が雨あられと打ちこまれた。ところが、なんとも奇怪なことに矢は船体に突き刺さることなく、そのまますり抜けてしまった。まるで影に矢をはなつかのように。
「やめい! 間違いないあれは幽霊船だ!」
果たして謎の船は、村上水軍が追撃をやめてほどなくして、闇の中へ忽然と姿を消してしまった。
それからしばらくして村上水軍内部で、不慮の事故に遭遇して命を失う者、あれいは突如として発狂する者等が相次いだ。そしてついに武吉自身が、高熱は発して倒れてしまった。
武吉は重病の床で夢に海を見た。珊瑚の海だった。小さな小早を一人で漕いでいると突如として海が荒れ、巨大な軍神が姿を現した。
「汝、人間の分際で我が船の行く手を阻み、矢を射かけるとは無礼なり! 世田山にある我が社へ罪を詫びに来るがよい。さもなくば、さらに死者がでるであろう」
病がいえた武吉は数人の供を連れただけで、さっそく夢で軍神が告げた世田山へと赴くと、はたして社はあった。
「己! 我に仇をなすとは許せん。我等は村上天皇の末裔ぞ! お前達ただちにこの社に火を放て」
さしもの武吉の子分等も、祟りを恐れて及び腰になった。
「親分それはさすがにまずい。やはり神仏には逆らわないほうが身のためでは」
「かまわん! 祟りなど恐れて水軍がつとまるか!」
やがて不気味な炎が、天高くまいあがった。悪臭が周囲をおし包む。
それから半年ほどの間、村上水軍内部では以前にもまして、発狂者や死人が相次いだが、武吉は後悔しなかった。村上武吉とはそのような男であった。
(四)
やがて都で将軍討たれるの報は、日本全国津々浦々をかけめぐった。むろん伊勢の国司北畠具教も第一報を耳にすることになる。
「そうか公方は討たれたか……。今の公方とは面識こそないが、師を同じくして剣の修行にはげんだいわば同門の間柄。また我が北畠と足利将軍家には数百年の因縁がある。是非一度、太刀を交えてみたかった」
具教は大きくため息をついた。
「足利幕府ができてからおよそ二百年。我が北畠は南朝を守ることできなんだ。なれど足利が衰微し、今の体となったはまさに天罰。例え南朝すでに滅びようとも、北畠はいつの日か必ずや、この国を正しい方向に導かねばならぬ宿命背負っておること、ゆめ忘れてはならぬ」
「なれど父上、まずはその前に己の足元を見なければなりませぬ」
と発言したのは、具教の嫡子にして北畠家の現当主でもある北畠具房だった。具教はこの時点では事実上隠居しているが、なお家中の実権を完全に掌握し、事実上の主といってよかった。
「一体なんのことかな具房?」
「木造の動きが怪しいとの情報、間者がもたらしました。尾張の織田との間になんらかの密約あるやもしれませぬ。警戒が必要かと」
北畠家臣団の中でも長老格で、同時に武勇において傑出した存在といわれる大宮含忍斎がいった。
「尾張の織田なら今美濃を攻めている最中であろう。密かに、この伊勢へも手を伸ばそうとしておると申すか」
「恐れながら、いざという時は殿も覚悟が必要かと」
「なんの覚悟だ?」
「阿美殿のことでござる」
同じく北畠の重臣で鳥尾屋石見守が、やや深刻な表情をうかべていった。
「わかっておる。わしとてこの北畠を背負っている立場で、決して私情に流されたりはせぬ」
と具教は、かすかに額に脂汗をうかべながらいった。
伊勢北畠氏には、木造氏という有力な支族がいた。しかし親類筋でありながら北畠氏と木造氏は代々仲が悪かった。例えば北畠氏は三代将軍足利義満の時代に、南朝を支える有力者として、一度幕府に反旗をひるがえしている。結果はさんさんたる敗北に終わったが、その際も木造氏は宗家に味方せず幕府側についていた。
その後も代を重ねるごとにもめごとが絶えなかったが、北畠氏の先代晴具と木造家との間に協議がなされ、現在の木造家の当主は具教の弟だった。この妥協策により、北畠宗家と木造家の間の溝は埋まるかにみえた。しかし具教は、木造の当主が血を分けた弟であることをよいことに、なにかにつけて木造家の内政に干渉した。
これには木造家の家臣の間からも不満の声があがり、当の木造の当主具政もまた、兄である具教に次第に不満を募らせていた。
そして木造家が北畠の宗家にさしだした人質が、あの阿美だったのである。彼女は木造家の重臣の娘だった。
ようするに阿美という女性は、木造家が北畠宗家から離反すれば、首が飛ぶ運命なのである。そのような運命を知らぬはずはないにも関わらず、この女性はつねに明るく。彼女がその場いるだけで座の空気が和んだ。それ故にこそ、具教も大勢の家臣の反対を押し切って、自らの側室にして寵愛していたのである。
彼女は幼い頃から聡明で心根の優しい女性だった。まだ七つか八つの頃のことである。乗馬の訓練をしていて城下から一歩外へでて、うっかり遠乗りしすぎてしまい、不幸にして人さらいにつかまってしまった。
戦国のこの時代、いわゆる人身売買は合法ではないが、日本国中どの町や村でも日常茶飯事的に行われていた。北畠家中は動揺した。大事な人質の身に何事かあれば、北畠にとっても木造にとっても一大事である。ただちに大規模な捜索が開始された。
「いたぞー! 捕らえろ!」
多芸の館からまだそれほど離れていない近くの山で、脇に阿美を抱きかかえながら馬で走る怪しげな男が、北畠の追っ手に見つかった。なにしろ幼女を抱きかかえての馬での逃走なので、なかなか要領をえない。弓矢が射られて、人さらいは右の太腿を強く射抜かれてしまった。
かろうじて追っ手をふりきったが、人さらい男はとある山中の洞窟で、激痛で動けなくなり、ついには高熱を発した。しかし阿美は逃げなかった。
「なぜ逃げぬ?」
「おじさん一人をおいてはいけない」
人さらいは唖然として、しばし言葉を失った。それから阿美は、近くから水を汲んでくるなどして、自らを拉致した人さらいのためにつくした。しかし三日後には、ついに両名は北畠の手の者に発見されてしまい、具教のもとに引きすえられた。
「覚悟はできておろうな?」
多芸の桜の馬場にて、具教は人さらいの男にあらためてたずねた。
「やめて! おじさんを討たないで!」
泣きじゃくりながら、人さらい男の命ごいをする阿美に、具教もまた動揺した。
「阿美に免じて命だけは助けてやる。どこへなりと立ち去るがよい」
具教ははき捨てるようにいった。
このように心根の優しい少女が人質であることは、周囲の同情をひかずにはいられなかった。しかし時勢は残酷である。やがて伊勢に姿を現す織田信長が、この可憐な女性の運命をも変えてしまうのである。
(五)
さて九鬼嘉隆は、信長から新たに織田水軍創設の大任を与えられ、伊勢の国の大湊(現在の三重県伊勢市)を訪れていた。
大湊は伊勢神宮の外港として古くから栄えてきた。北は伊勢湾に面し、西を宮川、東を五十鈴川及び勢多川に挟まれた三角州に位置している。南は大湊川によって区切られているので島といってもいい。現在では、大湊川にかかる二つの橋によって伊勢市側と結ばれている。
伊勢神宮は伊勢湾(三河湾も含む)沿岸や東国各地に荘園を持っていた。伊勢神宮の荘園を御園や御厨という。各地の荘園から年貢や産物を運ぶため、伊勢湾の水運が発展した。伊勢湾水運の中心が大湊だったのである。
大湊の歴史を語ることは、この国の海の歴史を語ることに等しい。伝承によると三世紀、神功皇后の新羅遠征のための兵船の建造が、大湊でおこなわれたという。
また南北朝時代、吉野の南朝方が半世紀以上も政権を維持できたのは、吉野方の北畠氏が、諸国の物資の流通の拠点である伊勢湾をおさえたことが、かなり大きいといわれる。その中心を担ったのも大湊であった。
さらにこの時代よりはるか後のことになるが、江戸時代には、角屋七郎次郎が安南(ベトナム)へ赴くための渡航船を建造。伊能忠敬による日本地図作成のための測量船をも建造した。
そして大湊の造船の町としての伝統は、近現代まで継承された。二十世紀初頭、白瀬南極観測隊の『開南丸』は、やはり大湊の市川造船所で建造されたものだった。
この時代の大湊は、堺や博多とならぶ自治都市であり、二十四人の会合衆により都市が運営されていた。会合衆達は大湊をして公界(くかい)と称し、大名など外界の権力が及ばない世界であることを誇示していた。
嘉隆がたずねていったのは、二十四人の会合衆の一人で諸崎七郎左衛門の屋敷だった。七郎左衛門の屋敷は、うっそうと生い茂る鵜の森の中にあり、意外と質素な建物だった。
半刻(およそ一時間)ほど待たされた後、背丈こそ小さいが意外とがっしりとした、五十ほどの人物が姿を現した。
「初次 ジェン面 我 姓 諸崎」(初めまして 私が諸崎です)
「は……?」
嘉隆はまず唖然とした。
「いや失礼、この半年ほどの間事情があり明国におったもので、ついうっかりと……。私が諸崎七郎左衛門です」
諸崎七郎左衛門を名乗る人物は風采こそいまいちだが、常に笑みを絶やさず、耳が大きく、いかにも福相をしている。
「して、尾張の織田殿の御家来の方が、今日は何用あってこの大湊まで?」
「実はそれがしは今、信長様に命じられて織田水軍の創設を目指しております。金に糸目はつけぬので、安宅船を建造していただきたい」
「とりあえず、お金になるのであれば一艘どころか二艘でも三艘でも船を作りましょ」
と、七郎左衛門はあっさりと承諾した。
「時に嘉隆殿は将軍足利義輝公が、都で討たれたことご存知か?」
と、七郎左衛門は今度は思いもかけぬことをいいだした。
「存じております。都は大混乱とか」
「さようでござる。足利将軍家はもはや虫の息なれば、次の天下人は諸国のいずれの者か? 嘉隆殿、貴殿なら諸国の武士のうち、いずれが天下を取ると考えまするかな?」
「さあ? それがしはついこの間まで志摩の田舎におったもので、なにしろ世間狭く」
と、嘉隆は言葉を濁した。
「いや、人に仕える者なれば、誰しもが己の主に天下を取らせたいのが人情。私は条件付きで、織田殿が天下人になることは可能と考えておるのです」
「ほう……。してその条件とは?」
嘉隆は少しだけ真顔になった。
「実は半年明国にいて感じたのです。この日の本は小さく、諸国の武将等皆ことごとく小さいと。明国という土地は、人はこの日の本よりはるかに多く、そして土地が広大無辺であるためおよそ統一性がありませぬ。表裏さだかならぬ者が多く、この日の本の民ならば、武士はおろか民、百姓でさえ自然と身につけている道理すら、時として平然と踏みにじり、しかも恥じることさえない。言葉は悪いが、ならず者の国といってもいい。
しかしそれらを束ねるため、乱世ならば必ずや、まるで大海のごとき人物が出現するものです。古ならば秦の始皇帝や漢の高祖、あれいは唐の李世民、明をおこした洪武帝然り。
それにひきかえ、この日の本の諸国の大名はいずれも小さすぎる。口では天下を取ると公言しながら、己が所領を守ることで精一杯の有様」
ここで七郎左衛門は、一つ大きくため息をついた。
「しかしそれは詮無きことかと、人は誰しも己の基盤を強固なものにせずして、何事もなしえませぬ」
と、嘉隆はあえて反論してみた。
「明国いや唐土では、乱世になれば、多くの食っていけなくなった民が土地を捨て流民となる。その流民の群れが、他の流民の群れを飲み込んで際限なく大きくなり、やがてはその流民の群れを束ねる者の中から、新たな国興す者が現れる。今の明国を興した者も、そうした流民の頭だった者です。しかし、この国の民の土地に対する執着は尋常一様ではない」
嘉隆は、七郎左衛門が何をいいたいのか理解しかねて、やや困惑の様子を見せた。
「おわかりになりませんか? 私は織田上総介信長という人物が天下を取ることは、不可能ではないと考えています。しかし天下取るには羽が必要であると」
「羽とは……?」
嘉隆はまたしても困惑した。
「いや、羽といえば語弊がありましょう。あえて申せば広大無辺な地へと赴く勇気・知略・胆力、そしてそれを可能にする技術のことなのです。決して狭い土地にこだわることなく、誠に天下国家というものをいかようにすべきか考察し、それを実行に移す。そのためには船が必要なのです。いや船があれば可能なのです。すなわち織田殿が天下取れるか否かは、貴殿にかかっているのですよ」
「なんと! それがしに?」
「いや本音を申せば、貴殿に会うまでは、たかが知れた志摩の田舎者とばかり思っており申した。なれど実際こうして会ってみて思ったのです。貴公ならあれいは大業をなしえると」
不思議なものである。嘉隆はこの時、己がこの日の本の国の歴史において、決定的に重要な時点に到達したかのような錯覚におそわれた。はたしてそれが嘘であるのか誠であるのか、嘉隆自身にもわからない。
嘉隆はこの頃、尾張の小牧山の城下に、滝川一益から決して大きくはない仮屋敷を与えられ、そこで家臣達とともに寝起きしていた。
すでに金剛九兵衛に連れられて、妻と子供達が戻っていた。大湊で商談を済ませ尾張に戻った嘉隆は、その夜、早速妻の体を求めた。もちろん妻のお倫は、実はすでに死んでいるわけではあるが……。
「お倫喜んでくれ、もうじきわしの安宅船ができあがる」
妻の細い肩に手を回しながら嘉隆は、小声でつぶやいた。
「そなた少し痩せたのではないか?」
嘉隆が疑念をていすると、お倫に化けた麻鳥はかすかに動揺した。
「それは長い間不自由な暮らしでしたから、痩せるのは当然です。それより船が完成したら、私も安宅船に乗りたい」
「なんと不思議なことをいいだす奴だ。以前のお前なら船のことなど、まったく関心がなかったではないか?」
「いえ、山奥にいたらむしょうに海が恋しくなって……。安宅だけでなく、もっと船のことが知りたい」
嘉隆はしばし妻の体に触れていた手を休め、
「お前が船に興味があるというなら、いずれ案内してやろう。なあに、やがてはわしは日本一の船大将になる。その時はお前を万里の波濤の彼方まで連れていってやるぞ!」
嘉隆は大志を口にした。しかしすでに、その夢は困難にぶつかりつつあった。すでに死んだ妻に化けた麻鳥の体に毒が塗られていた。かって兄浄隆を死に至らしめた毒だった。
(一)
猛火は次第、次第に御所ことごとくを包みこもうとしていた。武者はすでに身に十数箇所の傷を負っていた。しかしその眼光は天下を見据えるがごとくして、いまだ死んではいない。
武者は漆四十二間小星兜そして、本小札浅葱糸素懸威胴丸具足といういでたちにして、無数の刀が床に突き立てられている。通常刀というものは、人を数人斬りふせれば血脂で切れ味が悪くなる。そのため多くの敵を相手にする時は、刀は一本では足りないのである。武者の足下には、敵味方無数の軍兵の屍が横たわっており、激戦の凄まじさをものがたっていた。
武者の名は室町幕府十三代将軍足利義輝。落ちぶれはてたとはいえ、事実上天下の主である。
この日、永禄八年(一五六五)五月十九日、都にて将軍のおわす二条御所は、松永久秀及び三好三人衆等により十重二十重に取り囲まれた。
すなわち御所の東側、三本木東洞院に総大将の三好義継が本陣をかまえ、西の大手前には三好康長が布陣した。そして御所の北、室町勘解由小路には岩成友通が陣をかまえる。さらに南の烏丸春日表には、戦国の世に肝雄として名高い松永弾正久秀が布陣した。
この日は未明から蒸し暑い日であった。夜明けとともに三好三人衆及び、松永久秀等による総攻撃は開始された。その数およそ一万ほど、対する将軍側は女子供まで含めても百ほどでしかなかった。
すでに将軍側近達は、この危急時に水杯を交わし最後の別れを惜しみ、不気味に動めく万の軍兵相手に、石火矢による砲撃をおこなうなどして士気盛んだった。
しかし人間の体力の限界を越えた戦いも、正午頃には決着がつこうとしていた。もはや残るは将軍のみであった。足利義輝は、将軍としての実権こそ三好三人衆等に奪われ、無きに等しい有様であったが、その武勇のほどは尋常一様なものではなかった。
なにしろ剣豪として名高い塚原卜伝から、指導を受けた直弟子の一人であったといわれている。その太刀さばきの凄まじさは、謀反軍の将兵等をして心胆まで寒からしめた。
数時間に及ぶ激闘の末、将軍もまた身に深手を負っていたが、心は奇妙なほど静かだった。決して揺らぐことのない確固たるなにかが、末期を迎えようとする今、将軍の胸中に一筋の灯をともそうとしているかのようであった。
「そこに見えるは公方様とお見受けつかまつる。それがしの如き下郎が、公方様相手に名乗る名などないが、謹んで御首ちょうだいつかまつる」
群がる敵兵の中で、一際大柄な体躯をした武者が大音声で叫んだ。
「面白い卑しき者よ、ならばその目にしかと焼きつけるがよいぞ、秘伝一の太刀を」
瞬時、将軍の全身から凄まじい殺気が放たれた。そして武者の眼下で信じられないことがおきた。まさに武者が瞬きしたその瞬間に、歩幅にして五歩ほど距離を置いていた将軍が、いつの間にか背後にまわっていたのである。武者が気がついたその時には、臓腑から鮮血が飛びちっていた。武者にも、見守っていた他の兵士にも、まったく何がおきたのかわからなかった。
『まさに鬼人! 人間ではない』
兵士達は皆恐れおののき、将軍一人を相手にじりじり後退した。ところがその時である。突如として将軍の体が炎に包まれた。不敵な笑い声とともに、十三代将軍足利義輝の姿は、地上から消えてしまったのである……。ちなみに将軍義輝らしき辞世の句が残されている。
五月雨は つゆか涙か 時鳥 わが名をあげよ 雲の上まで
……伊勢の国司北畠具教は、自らの居館である多芸御所にて、異様な夢からようやく覚めた。
「一体、今の夢は何事ぞ? あまりに生々しい」
むろん具教が、何者かが軍勢に襲われて末路を迎えるということ以外に、具体的な夢の詳細は覚えていなかった。その時である。突然具教の視界が何かによってふさがれた。目隠しをされたのだ。
「殿、いかがなされたのです? 夜分にそんな恐ろしい顔をなさって」
目の前に女の顔があった。具教の幾人かの側室の一人で名を阿美という。齢十七にして常に笑みを絶やさない、実に明るい性格の女性だった。
「いや、なんでもないのだよ。気にするほどのことでもない」
さすがの具教も、この可憐な大人になりかけの少女を前にすると、一瞬にして心が和んだ。だがこの阿美という名の女性は、実に悲しいさだめのもとに生まれた女性だった。
むろん具教はまだ都での異変を知らない。まもなくやってくる己の運命の変転も、目の前にいる阿美を襲う不幸も、まだ知らずにいる。
(二)
永禄八年はまた、中国地方の毛利氏が長年の宿敵尼子氏を滅ぼし、名実ともに山陰山陽十数カ国の主となった年でもあった。
出雲は神話の国である。山河をおおいつくす薄暗さが、古来より人をして神秘なものへと誘う妖しさを秘めている。山陰特有の凍てつく冷気が肌を刺す。風は常に唸りをあげ、延々と連なる山々の鳴動が、すでに屍となった武者達の叫びにさえ聞こえる。
現在の島根県安来市広瀬町富田に、尼子氏およそ百七十年、六代の象徴ともいえる難攻不落の要塞・月山富田城があった。
月山富田城は標高百九十一メートルの月山、その山頂部に本丸を置く典型的な山城である。周囲は断崖絶壁が多く、それだけで敵兵をして畏怖せしめる。城郭は内郭、外郭から構成されており、侵入路は塩谷口、お子守口、菅谷口の三方向である。それぞれが詰の城である山頂部へと連なっている。
六十八歳の毛利元就は生涯の大半を尼子氏、そして大内氏への屈従に費やしてきた。安芸の国(広島県)の吉田荘のわずか三百貫から身をおこした元就が、人生の最後に欲したものそれが月山富田城だった。
元就は狡猾だった。合戦に先立ち、石見銀山という名の無尽蔵の財源を、すで尼子方から奪回済みだった。さらに得意の調略をもって、尼子の現当主である義久の孤立化をはかる。さらに力攻めでの損害が多くなると、ただちに兵糧攻めに切り替え、城を十重二十重に包囲した。
それだけではなかった。攻囲が長引き将兵に厭戦気分がただよいだすと、市を開き物を売買させ、また遊女まで呼びよせた。
はるか後年のことになるが、この時の元就の長期攻囲戦の教訓は、豊臣秀吉の小田原城攻囲戦に生かされる。
小田原城は都市そのものが要塞といっていい。さすがの秀吉も攻めあぐねた。焦りが見えだした頃に、この時の月山富田城攻めの教訓を秀吉に伝えたのが、元就の三男小早川隆景だったといわれる。
しかし元就には、難攻不落の要塞や城を守る敵の将兵の他に、戦わなければならない恐ろしい敵が他にあった。時々刻々と自らの体をむしばむ老いだった。
「申し上げます。城内の兵糧ほぼ底をつき、さしもの月山富田城もそろそろ限界にござる」
と元就に告げたのは、次男の吉川元春であった。元就は床に伏せたままで、
「大儀。どうやら迎えがくる前に、月山富田城の落城を確認できそうじゃな」
と多少力ない声でいった。元就はこのところ体調を崩すことが多く、陣中、寝たり起きたりの生活をくりかえしていた。
「なれば昨今はそれがしも暇を持て余し、陣中のことよりも。太平記を筆写することに精力をそそいでおりまする」
太平記はもちろん、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂等を描く、我が国古典文学の傑作である。元春は本来武辺者ながらも、今、太平記の筆写に心血を注いでいる最中だった。
「太平記か……して何を思った」
横になったまま元就がたずねた。
「なれば、この国の歴史の重み、そして朝廷というものの重みを、元春肌で感じておる所存でござる」
「この国の歴史の重み、朝廷の重み……。そうか、なれど我が毛利はその重みを背負ってはならぬ」
「なんとおおせられた?」
元春は怪訝な顔をした。
「足利将軍家も衰微して久しい。長い年月そなたのいうこの国と、朝廷を背負い、少しずつ力を失い今日の有様じゃ。我等ほどなく中国の主となり、あれいは諸国の大名で我等に及ぶ者は、もはや存在せぬかもしれぬ。なれどこの国と朝廷を背負ってはならぬ。
わしは凡庸な男なれど、そなたと隆景、そして死んだ隆元という優れた息子三人に恵まれた故、こうして今日ある」
元就の表情がかすかに曇った。元就の嫡男隆元は、永禄六年(一五六三)すでに急逝していた。病とも尼子の刺客の凶刃に倒れたともいわれるが、真相は闇の中である。毛利家の後取りは隆元亡き後、わずか十二歳の隆元の嫡男輝元だった。
「足利家も尊氏公は傑物であったやもしれぬが、しかし以後の将軍家では尊氏公ほどの傑出した人物は出たためしがない。恐らく我が毛利家も同様であろう。輝元を見ていればわかる」
元就が見たところ、まだ幼い輝元は器量にかなり問題があり、天下どころか毛利家さえも背負えるか否か不安に思えた。
「よいか夢にも天下を背負うことなど考えるな」
「お言葉、肝に命じまする」
元春は寝たままの元就相手に、頭を垂れて返事をした。
「天下を望まず我等為さねばならぬこと、それは降りかかる火の粉はらうことじゃ。火の粉払うには、家中の結束がなにより。なれど平時ならともかく、一朝事あった際、あの輝元を頭として家中がまとまるか否か」
思わず元就はため息をついた。
「足利将軍家も内紛の歴史であったのう。一つそなたにものをたずねる」
一時、元就の表情が険しくなった。
「もし仮に輝元が小人の言にそそのかされ、濡れ衣で隆景に謀反の疑いありと、軍勢さしむけたら主はいずれに味方いたす?」
「なんとも難しい質問にござるなあ。なれば、それがし隆景の潔白証明するため最善をつくしまする。なれど力及ばぬ時は……。濡れぎぬとは申せ、謀反の疑いもたれるは隆景の不覚。隆景には腹を切らせまする。その時は、介錯はそれがしがつとめ申す」
元春は明らかに困惑の色を浮かべながらいった。
「うむ、では次の質問じゃ。隆景が死んだ後、輝元が次はそなたにも謀反の疑いありと申したら、そのほういかがする」
元春はしばし言葉を失った。薄灯かりに照らされた元就の顔が、かすかに殺気さえ帯びてみえた。
「それもまた、それがしの不徳なれば、その時は元春腹切りまする」
「ではそなたと隆景がいなくなり、誰が毛利を支える?」
元春は言葉をなくした。
「輝元、あやつではいかんのじゃ。今にして思えば陶晴賢は恐ろしい男だった。いつの日か毛利を根底から侵す、第二、第三の陶晴賢が現れるような気がしてならんのじゃ。その時に輝元ではならぬ。むしろそなたこそ輝元を斬れ。そして毛利はそなたが支えよ」
「恐れながら、それがしは最後まで若君を支え……」
何事かを試されているようで、元春は元就の言葉に必死に反論しようとした。
「なに、ここにはわしと御主しかおらぬ。なにも隠すことはない。政(まつりごと)と申すは、しょせん最後はその器にある者にしか動かせぬものじゃ。毛利存亡の時は、そなたが国政をきめよ。よいな」
その時元春は、ようやく元就の腹の底を察した。恐らく父と自分との、この重大なやり取りは、どこかで間諜が聞いているに違いない。やがて輝元の耳にも入るだろう。
幼少の頃より元春は、輝元という若い主君を知っている。気が弱く、例え自らか隆景が本当に謀反したとしても、軍勢さしむけることなどできるか否か? それほどある意味ひ弱な御曹司であった。
恐らくこれは、父である元就の最期の調略であろうか。自らに対する警告というより、むしろ輝元に対しての警告であろう。乱世というものは力なき者にとり、例え血をわけた叔父であろうと油断ならぬという戒めに違いない。
「お言葉、元春生涯忘れませぬ」
心中の動揺を抑えながら、元春はかろうじて返答した。
「それと、もう一つ申しておく。村上武吉、あやつには十分気をつけよ」
と元就は以外な名を口にした。
「それも元春、肝に命じまする」
今一度、元春は声を大きくして返答した。
ほどなく月山富田城は陥落。尼子氏は滅び、毛利氏はまさしく中国地方の覇者となった。この国で最大といっていい、大大名へと成長したのである。そして毛利元就という一世の傑物の寿命も、あとわずかに迫っていた。
(三)
さて、その村上武吉は自らの本拠能島(現在の愛媛県今治市宮窪町能島)にて、水軍の軍事訓練に日々いそしんでいた。訓練の方法にはいくつか種類があった。その一つに数艘の小早が対岸まで速さを競う、今風にいえばヨットレースのようなものがあった。
一艘につき十数人ほどの乗組員で、海上に丸に『上』の字の村上水軍の旗をさっそうとなびかせて、それぞれが懸命に櫓を漕ぎながら目的地を目指す。
「どうした、どうした! どいつもこいつももっと気合を入れんかい! そんなことではいざ船戦になったら、海に沈められるぞ」
武吉は浜で床机に腰をかけ、酒の入ったひょうたんを片手に、上機嫌でこの小早による競技を観戦した。武吉は三十二歳、かって若かった頃の荒々しさに加え、どこか狡猾な印象が加わりつつあった。しかし荒々しいことを好む様は、若い頃となにも変わってはいなかった。
やがて競技が一段落すると武吉は、参加した者それぞれに賞賛の言葉や、あれいは叱責を一人一人ずつかけてまわった。そして、
「例の怪しき輩はどうなった?」
と、表情をかすかにこわばらせていった。
「あちらに倒れており申す」
武吉の側近が指さした場所には、なるほど得体の知れぬ何者かが、砂浜に息も絶え絶えになりながら横たわっていた。やはり他国の間者なのだろう。不覚にも捕らえられた後も、己の素性を明かさぬ間者に業を煮やした武吉は、非常の手段にでた。なんと間者の両手を縛り、小早に縄でくくりつけ海を引き回したのである。
「どうじゃ、己の素性を明かす気になったか?」
武吉は、声にかすかに凄みをきかせてたずねた。
「知らぬ! 己の素性などとうに忘れた!」
間者が、はき捨てるようにいうと武吉は刀をぬき、
「どうじゃ、これでも言わぬか! 素直にしゃべれば里に帰してやってもよいぞ」
と間者の背中から腰のあたりにかけて、刀でゆっくりとえぐった。
「さあ素性をいわぬと今一度小早で海を引き回すぞ! この傷に海水がいかほどしみるか味わってみなければわかるまい!」
間者はついに口をわった。自らが毛利と敵対する、豊後の大友の間者であることを明らかにした。
「して、大友は今なにを画策しておる。いわぬとわかっておろうな」
「豊前……。松山城」
「そうか、大友が豊前の松山城を狙っておるのだな? ようわかった。誰かある」
武吉は大声で側近の一人を呼んだ。
「こやつは用済みだ。袋に包んで重りをつけて海に沈めるがよいぞ」
武吉は、眼を血走らせながら冷酷にいいはなった。
こうして武吉は残忍な行いを好むいっぽう、迷信や祟りなどは信じることなく、とことん現実主義者だった。
ある秋の日の夜半のことである。能島村上の縄張りを、駄別銭を払うことなく通行しようとする船があった。見張りが発見し、たちまち法螺貝が夜の静寂をやぶるかのように、けたたましく鳴らされた。
「そこの船止まれ! 我が村上水軍の縄張りを許可なく通過するつもりか!」
ただちに小早が数艘が接近を試みたが、船を間のあたりにし、村上水軍の誰しもが夢を見ているかような錯覚を覚えた。
どう考えても、平家物語の中からでも脱けだしてきたとしか思えない。到底戦国のこの時代に、海上を走る船舶とは思えない代物だった。
余談だが我が国の造船技術は、四面海で囲まれながら中世まで実にお粗末極まりないものだった。有名な遣唐使を乗せた船などは、無事唐土までたどりつけるかは半ば運まかせで、少しでも嵐に遭遇すると必ず沈んだ。
鎌倉時代までは準構造船の域を出ることがなかった。平安末期ようやく推進力が櫂から櫓に変わり、船体の周りを木で囲うようにセガイが出現したといわれる。セガイと船体の間に櫓棚という櫓を漕ぐスペースもできた。つまり、少ない人数で船の推進力を稼ごうという考えが、ようやくめばえたのである。帆には、まだ布を使用することがなく莚を使用していた。そして船体は主屋形や艫屋形など特長ある形を有していた。
「己! 止まらぬというなら矢を放つぞ!」
ただちに弓矢が雨あられと打ちこまれた。ところが、なんとも奇怪なことに矢は船体に突き刺さることなく、そのまますり抜けてしまった。まるで影に矢をはなつかのように。
「やめい! 間違いないあれは幽霊船だ!」
果たして謎の船は、村上水軍が追撃をやめてほどなくして、闇の中へ忽然と姿を消してしまった。
それからしばらくして村上水軍内部で、不慮の事故に遭遇して命を失う者、あれいは突如として発狂する者等が相次いだ。そしてついに武吉自身が、高熱は発して倒れてしまった。
武吉は重病の床で夢に海を見た。珊瑚の海だった。小さな小早を一人で漕いでいると突如として海が荒れ、巨大な軍神が姿を現した。
「汝、人間の分際で我が船の行く手を阻み、矢を射かけるとは無礼なり! 世田山にある我が社へ罪を詫びに来るがよい。さもなくば、さらに死者がでるであろう」
病がいえた武吉は数人の供を連れただけで、さっそく夢で軍神が告げた世田山へと赴くと、はたして社はあった。
「己! 我に仇をなすとは許せん。我等は村上天皇の末裔ぞ! お前達ただちにこの社に火を放て」
さしもの武吉の子分等も、祟りを恐れて及び腰になった。
「親分それはさすがにまずい。やはり神仏には逆らわないほうが身のためでは」
「かまわん! 祟りなど恐れて水軍がつとまるか!」
やがて不気味な炎が、天高くまいあがった。悪臭が周囲をおし包む。
それから半年ほどの間、村上水軍内部では以前にもまして、発狂者や死人が相次いだが、武吉は後悔しなかった。村上武吉とはそのような男であった。
(四)
やがて都で将軍討たれるの報は、日本全国津々浦々をかけめぐった。むろん伊勢の国司北畠具教も第一報を耳にすることになる。
「そうか公方は討たれたか……。今の公方とは面識こそないが、師を同じくして剣の修行にはげんだいわば同門の間柄。また我が北畠と足利将軍家には数百年の因縁がある。是非一度、太刀を交えてみたかった」
具教は大きくため息をついた。
「足利幕府ができてからおよそ二百年。我が北畠は南朝を守ることできなんだ。なれど足利が衰微し、今の体となったはまさに天罰。例え南朝すでに滅びようとも、北畠はいつの日か必ずや、この国を正しい方向に導かねばならぬ宿命背負っておること、ゆめ忘れてはならぬ」
「なれど父上、まずはその前に己の足元を見なければなりませぬ」
と発言したのは、具教の嫡子にして北畠家の現当主でもある北畠具房だった。具教はこの時点では事実上隠居しているが、なお家中の実権を完全に掌握し、事実上の主といってよかった。
「一体なんのことかな具房?」
「木造の動きが怪しいとの情報、間者がもたらしました。尾張の織田との間になんらかの密約あるやもしれませぬ。警戒が必要かと」
北畠家臣団の中でも長老格で、同時に武勇において傑出した存在といわれる大宮含忍斎がいった。
「尾張の織田なら今美濃を攻めている最中であろう。密かに、この伊勢へも手を伸ばそうとしておると申すか」
「恐れながら、いざという時は殿も覚悟が必要かと」
「なんの覚悟だ?」
「阿美殿のことでござる」
同じく北畠の重臣で鳥尾屋石見守が、やや深刻な表情をうかべていった。
「わかっておる。わしとてこの北畠を背負っている立場で、決して私情に流されたりはせぬ」
と具教は、かすかに額に脂汗をうかべながらいった。
伊勢北畠氏には、木造氏という有力な支族がいた。しかし親類筋でありながら北畠氏と木造氏は代々仲が悪かった。例えば北畠氏は三代将軍足利義満の時代に、南朝を支える有力者として、一度幕府に反旗をひるがえしている。結果はさんさんたる敗北に終わったが、その際も木造氏は宗家に味方せず幕府側についていた。
その後も代を重ねるごとにもめごとが絶えなかったが、北畠氏の先代晴具と木造家との間に協議がなされ、現在の木造家の当主は具教の弟だった。この妥協策により、北畠宗家と木造家の間の溝は埋まるかにみえた。しかし具教は、木造の当主が血を分けた弟であることをよいことに、なにかにつけて木造家の内政に干渉した。
これには木造家の家臣の間からも不満の声があがり、当の木造の当主具政もまた、兄である具教に次第に不満を募らせていた。
そして木造家が北畠の宗家にさしだした人質が、あの阿美だったのである。彼女は木造家の重臣の娘だった。
ようするに阿美という女性は、木造家が北畠宗家から離反すれば、首が飛ぶ運命なのである。そのような運命を知らぬはずはないにも関わらず、この女性はつねに明るく。彼女がその場いるだけで座の空気が和んだ。それ故にこそ、具教も大勢の家臣の反対を押し切って、自らの側室にして寵愛していたのである。
彼女は幼い頃から聡明で心根の優しい女性だった。まだ七つか八つの頃のことである。乗馬の訓練をしていて城下から一歩外へでて、うっかり遠乗りしすぎてしまい、不幸にして人さらいにつかまってしまった。
戦国のこの時代、いわゆる人身売買は合法ではないが、日本国中どの町や村でも日常茶飯事的に行われていた。北畠家中は動揺した。大事な人質の身に何事かあれば、北畠にとっても木造にとっても一大事である。ただちに大規模な捜索が開始された。
「いたぞー! 捕らえろ!」
多芸の館からまだそれほど離れていない近くの山で、脇に阿美を抱きかかえながら馬で走る怪しげな男が、北畠の追っ手に見つかった。なにしろ幼女を抱きかかえての馬での逃走なので、なかなか要領をえない。弓矢が射られて、人さらいは右の太腿を強く射抜かれてしまった。
かろうじて追っ手をふりきったが、人さらい男はとある山中の洞窟で、激痛で動けなくなり、ついには高熱を発した。しかし阿美は逃げなかった。
「なぜ逃げぬ?」
「おじさん一人をおいてはいけない」
人さらいは唖然として、しばし言葉を失った。それから阿美は、近くから水を汲んでくるなどして、自らを拉致した人さらいのためにつくした。しかし三日後には、ついに両名は北畠の手の者に発見されてしまい、具教のもとに引きすえられた。
「覚悟はできておろうな?」
多芸の桜の馬場にて、具教は人さらいの男にあらためてたずねた。
「やめて! おじさんを討たないで!」
泣きじゃくりながら、人さらい男の命ごいをする阿美に、具教もまた動揺した。
「阿美に免じて命だけは助けてやる。どこへなりと立ち去るがよい」
具教ははき捨てるようにいった。
このように心根の優しい少女が人質であることは、周囲の同情をひかずにはいられなかった。しかし時勢は残酷である。やがて伊勢に姿を現す織田信長が、この可憐な女性の運命をも変えてしまうのである。
(五)
さて九鬼嘉隆は、信長から新たに織田水軍創設の大任を与えられ、伊勢の国の大湊(現在の三重県伊勢市)を訪れていた。
大湊は伊勢神宮の外港として古くから栄えてきた。北は伊勢湾に面し、西を宮川、東を五十鈴川及び勢多川に挟まれた三角州に位置している。南は大湊川によって区切られているので島といってもいい。現在では、大湊川にかかる二つの橋によって伊勢市側と結ばれている。
伊勢神宮は伊勢湾(三河湾も含む)沿岸や東国各地に荘園を持っていた。伊勢神宮の荘園を御園や御厨という。各地の荘園から年貢や産物を運ぶため、伊勢湾の水運が発展した。伊勢湾水運の中心が大湊だったのである。
大湊の歴史を語ることは、この国の海の歴史を語ることに等しい。伝承によると三世紀、神功皇后の新羅遠征のための兵船の建造が、大湊でおこなわれたという。
また南北朝時代、吉野の南朝方が半世紀以上も政権を維持できたのは、吉野方の北畠氏が、諸国の物資の流通の拠点である伊勢湾をおさえたことが、かなり大きいといわれる。その中心を担ったのも大湊であった。
さらにこの時代よりはるか後のことになるが、江戸時代には、角屋七郎次郎が安南(ベトナム)へ赴くための渡航船を建造。伊能忠敬による日本地図作成のための測量船をも建造した。
そして大湊の造船の町としての伝統は、近現代まで継承された。二十世紀初頭、白瀬南極観測隊の『開南丸』は、やはり大湊の市川造船所で建造されたものだった。
この時代の大湊は、堺や博多とならぶ自治都市であり、二十四人の会合衆により都市が運営されていた。会合衆達は大湊をして公界(くかい)と称し、大名など外界の権力が及ばない世界であることを誇示していた。
嘉隆がたずねていったのは、二十四人の会合衆の一人で諸崎七郎左衛門の屋敷だった。七郎左衛門の屋敷は、うっそうと生い茂る鵜の森の中にあり、意外と質素な建物だった。
半刻(およそ一時間)ほど待たされた後、背丈こそ小さいが意外とがっしりとした、五十ほどの人物が姿を現した。
「初次 ジェン面 我 姓 諸崎」(初めまして 私が諸崎です)
「は……?」
嘉隆はまず唖然とした。
「いや失礼、この半年ほどの間事情があり明国におったもので、ついうっかりと……。私が諸崎七郎左衛門です」
諸崎七郎左衛門を名乗る人物は風采こそいまいちだが、常に笑みを絶やさず、耳が大きく、いかにも福相をしている。
「して、尾張の織田殿の御家来の方が、今日は何用あってこの大湊まで?」
「実はそれがしは今、信長様に命じられて織田水軍の創設を目指しております。金に糸目はつけぬので、安宅船を建造していただきたい」
「とりあえず、お金になるのであれば一艘どころか二艘でも三艘でも船を作りましょ」
と、七郎左衛門はあっさりと承諾した。
「時に嘉隆殿は将軍足利義輝公が、都で討たれたことご存知か?」
と、七郎左衛門は今度は思いもかけぬことをいいだした。
「存じております。都は大混乱とか」
「さようでござる。足利将軍家はもはや虫の息なれば、次の天下人は諸国のいずれの者か? 嘉隆殿、貴殿なら諸国の武士のうち、いずれが天下を取ると考えまするかな?」
「さあ? それがしはついこの間まで志摩の田舎におったもので、なにしろ世間狭く」
と、嘉隆は言葉を濁した。
「いや、人に仕える者なれば、誰しもが己の主に天下を取らせたいのが人情。私は条件付きで、織田殿が天下人になることは可能と考えておるのです」
「ほう……。してその条件とは?」
嘉隆は少しだけ真顔になった。
「実は半年明国にいて感じたのです。この日の本は小さく、諸国の武将等皆ことごとく小さいと。明国という土地は、人はこの日の本よりはるかに多く、そして土地が広大無辺であるためおよそ統一性がありませぬ。表裏さだかならぬ者が多く、この日の本の民ならば、武士はおろか民、百姓でさえ自然と身につけている道理すら、時として平然と踏みにじり、しかも恥じることさえない。言葉は悪いが、ならず者の国といってもいい。
しかしそれらを束ねるため、乱世ならば必ずや、まるで大海のごとき人物が出現するものです。古ならば秦の始皇帝や漢の高祖、あれいは唐の李世民、明をおこした洪武帝然り。
それにひきかえ、この日の本の諸国の大名はいずれも小さすぎる。口では天下を取ると公言しながら、己が所領を守ることで精一杯の有様」
ここで七郎左衛門は、一つ大きくため息をついた。
「しかしそれは詮無きことかと、人は誰しも己の基盤を強固なものにせずして、何事もなしえませぬ」
と、嘉隆はあえて反論してみた。
「明国いや唐土では、乱世になれば、多くの食っていけなくなった民が土地を捨て流民となる。その流民の群れが、他の流民の群れを飲み込んで際限なく大きくなり、やがてはその流民の群れを束ねる者の中から、新たな国興す者が現れる。今の明国を興した者も、そうした流民の頭だった者です。しかし、この国の民の土地に対する執着は尋常一様ではない」
嘉隆は、七郎左衛門が何をいいたいのか理解しかねて、やや困惑の様子を見せた。
「おわかりになりませんか? 私は織田上総介信長という人物が天下を取ることは、不可能ではないと考えています。しかし天下取るには羽が必要であると」
「羽とは……?」
嘉隆はまたしても困惑した。
「いや、羽といえば語弊がありましょう。あえて申せば広大無辺な地へと赴く勇気・知略・胆力、そしてそれを可能にする技術のことなのです。決して狭い土地にこだわることなく、誠に天下国家というものをいかようにすべきか考察し、それを実行に移す。そのためには船が必要なのです。いや船があれば可能なのです。すなわち織田殿が天下取れるか否かは、貴殿にかかっているのですよ」
「なんと! それがしに?」
「いや本音を申せば、貴殿に会うまでは、たかが知れた志摩の田舎者とばかり思っており申した。なれど実際こうして会ってみて思ったのです。貴公ならあれいは大業をなしえると」
不思議なものである。嘉隆はこの時、己がこの日の本の国の歴史において、決定的に重要な時点に到達したかのような錯覚におそわれた。はたしてそれが嘘であるのか誠であるのか、嘉隆自身にもわからない。
嘉隆はこの頃、尾張の小牧山の城下に、滝川一益から決して大きくはない仮屋敷を与えられ、そこで家臣達とともに寝起きしていた。
すでに金剛九兵衛に連れられて、妻と子供達が戻っていた。大湊で商談を済ませ尾張に戻った嘉隆は、その夜、早速妻の体を求めた。もちろん妻のお倫は、実はすでに死んでいるわけではあるが……。
「お倫喜んでくれ、もうじきわしの安宅船ができあがる」
妻の細い肩に手を回しながら嘉隆は、小声でつぶやいた。
「そなた少し痩せたのではないか?」
嘉隆が疑念をていすると、お倫に化けた麻鳥はかすかに動揺した。
「それは長い間不自由な暮らしでしたから、痩せるのは当然です。それより船が完成したら、私も安宅船に乗りたい」
「なんと不思議なことをいいだす奴だ。以前のお前なら船のことなど、まったく関心がなかったではないか?」
「いえ、山奥にいたらむしょうに海が恋しくなって……。安宅だけでなく、もっと船のことが知りたい」
嘉隆はしばし妻の体に触れていた手を休め、
「お前が船に興味があるというなら、いずれ案内してやろう。なあに、やがてはわしは日本一の船大将になる。その時はお前を万里の波濤の彼方まで連れていってやるぞ!」
嘉隆は大志を口にした。しかしすでに、その夢は困難にぶつかりつつあった。すでに死んだ妻に化けた麻鳥の体に毒が塗られていた。かって兄浄隆を死に至らしめた毒だった。
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