海将・九鬼嘉隆の戦略

谷鋭二

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【伊勢湾制圧編】尾張の国にて……

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(一)


(小牧山城)

 濃尾平野は一面の沃野だった。万の軍勢を養うに足る豊かさは、志摩の国を追われた嘉隆達一行を驚かすのに十分だった。そして織田信長という人物の目は、濃尾平野よりさして遠くない京の地を、すでに見すえていた。


 永禄八年(一五六五)年のこの時期、美濃制圧に燃える織田信長は、自らの居城を、かっての清洲から美濃最前線に近い小牧山に移していた。小牧山は標高約八十五メートル、面積約二十一万平方メートル。濃尾平野に孤立する小さな山である。
 信長は、小牧山をことごとく要塞化しようとしていた。山頂から麓まで五段の塁濠をつくり、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくった。中腹には馬場をつくり、井戸を掘る。また武家屋敷も存在し、すでに兵農分離の芽生えがあったようである。
 小牧山城は夜になって灯がともれば、火の車輪が山全体をとりまいているようで、人々は密かに火車輪城とよんだ。

 
 嘉隆はこの城の規模に半ば畏敬の念を持った。志摩の城は、城というより砦といった規模のものでしかなかった。嘉隆はじめ志摩の地頭衆いずれもである。ここに来るまでの間、驚くことの連続であった。
 なにしろ志摩の国という日本国中の最僻地で過ごし、遠く広がる海だけを見て生きてきた嘉隆は、生涯ではじめて都市という名の人間の生活空間を見た。
 まず人の多さに驚嘆した。そして行き交う尾張はじめ諸国の人間が、皆ことごとく油断ならぬ目をしている。それに比べると志摩の国は、人は確かに温良であった。
 

 後に信長が天下の覇権を掌握できたのは、信長自身の武将としての類まれなる才覚もさることながら、多くの人馬を養いうる、尾張の豊かさも重要であった。
 以前も紹介した慶長三年(一五九八)にまとめられた、検地による日本六十四州の石高換算によると、尾張は約五十七万石で全国的にもかなり高い。特に米麦の生産力が極めて高い。また信長が一銭切りと称して、例え一銭でも盗んだ者は斬罪にするという厳格さをしめしたことにより、領内の治安も安定していた。
 商業も盛んだった。楽市楽座はもう少し後のことになるが、尾張には津島・熱田といった良港があり、各地の物産が領内で売買されていた。


 嘉隆は寄親である滝川一益に案内され、小牧山を山頂へと登っていく。
 この時代、新規採用の武士は寄親という推薦者がいなければ、縁もゆかりもない他国の大名家に仕官するのは至難の業だった。滝川市郎兵衛が先に尾張に潜入し、遠い親戚筋にあたるらしい滝川一益にわたりをつけたのであった。
 滝川一益は四十歳である。中肉中背であるが全身に精気がみなぎり、腕は常人の倍ほどはあろうかというほど太い。その一方で、誰からも好感を持たれるような一種の愛嬌があり、嘉隆もすぐに一益に好感をもった。
 一益の出自については謎が多い。甲賀忍者の出であるといわれ、諸国の事情に通じているうえに、鉄砲を持たせれば百発百中の腕の持ち主であった。
 

 この年二十三歳になる嘉隆は、ふと志摩の国を思った。生まれて初めて遠い他国に身を置くと、生まれ育った地が夢か幻のようである。
 断崖絶壁に白い波しぶきが打ちつけ、荒涼とした砂鉄の浜に大の字になった幼い頃の風景。海底深くへ潜ると、そこはさながら小さな宇宙で、貝殻が星のようにさえ思えた。
 そういえばしのは今どうしているだろう? 最近は夢でさえ会う機会も少なくなった。抱き合った夜のこともまた、遠い夢のようである。


(二)


『よいか、なにはともあれ我が殿は気性が激しい方。何事か問われた際は、決して臆することなく即答されよ。とにかく織田家に仕えるにあたって、必要なことそれは、少ない言葉で殿の胸中を察して行動に移すことじゃ』
 滝川一益は、噛んで含めるように嘉隆にいって聞かせた。
 

 侍烏帽子に直垂の礼服に着替えた嘉隆は、緊張した面持ちのまま、小牧山城の客人を応接するらしき間にて、四半刻(およそ三十分)も待った。やがて甲高い笑い声とともに、色白で痩せ型の人物が小姓を伴って現れた。どうやらいましがた入浴を終えたばかりのようである。
 当時の入浴は湯につかるものではなく、蒸気を沸かし垢を落とすものだったといわれる。痩せ型の人物の全身から、ほどよく蒸気がたちのぼっていた。嘉隆は直感的に、この人物が織田上総介信長その人であると悟り頭を低くした。
 

 織田信長という人物は、残された鎧・甲冑のサイズから、体重は六十キロほどだったと推察される。武将として決して恵まれた体格とはいえない。また色白で、どちらかというと女性的な容姿であったともいわれる。
「生まれ育った地を追い出された、九鬼なんとかとか申す、奇怪な名をした志摩の田舎者とはそのほうか? わしが織田上総介信長である。まずは楽にせよ」
 嘉隆は内心の不快感をこらえつつも、
「九鬼右馬允嘉隆にござる。以後お見知りおきを」
 と型通りの挨拶をした。初対面の相手に向かって、いささか礼儀に欠ける人物だと思った。若いころ異様な風体で町を闊歩し、人から大うつけといわれただけのことはある。果たしてまことに仕えるに値する人物であろうか? 嘉隆はまず疑念をもった。
 

 それから嘉隆は、自らの生い立ちと志摩の国を追い出された経緯、陸での戦ではなく船戦で役に立ちたいことなどを、必死に信長に訴えた。
「なるほど、それで汝は生まれ育った地を追い出され、身一つでこの尾張にまいったわけか。今の世の中だれも信じられぬ。わしも斉藤や今川どころか、血をわけた親類筋とまで争って今日まで来た。わしを亡き者にしようとする者、その中にはわしの弟までおった」
 信長は思い出すだけで興奮がこみあげてくるのか、思わず唇をかんだ。


「なれどな九鬼とやら、人は生まれ育った地を離れて、はじめて見えてくるものが必ずあるはずじゃ。わしは今美濃を攻めておる。来年あたり美濃はわしのものとなるだろう。その際わしは国の中心を、この小牧山から美濃に移すつもりじゃ」
 これはかたわらに控える滝川一益でさえ初耳で、一瞬驚きの色をうかべた。国政の中心を他へ移すという発想は、他の大名にはない。諸国の大名いずれもが、生涯一つの地にこだわり続けた。
「なにしろ尾張の夏は暑くてかなわぬ。人もまた油断ならぬしのう。それにのう、わしが見たところ、尾張より美濃のほうが美しい女子(おなご)が多いようだ」
 と、信長は最後は苦笑まじりにいった。


「そなたは今まで海を見て育ち、船の戦でわしの役に立ちたいと申したな。試みに聞こう。陸の合戦と異なる、水軍というものの利点とはなにか?」
「されば水軍の利するところは、船なればこそ、人をいずこの地へでも移動させることが可能で、敵の思いもよらぬ場所へと、軍勢動かすことが可能でござる」
 嘉隆はすらすらと答えた。
「では聞くがそなたにとって、つまるところ海とはなんであるか?」
 嘉隆はしばし沈黙したが、信長が沈黙を嫌うという一益の言葉を思いだし、
「されば心狭き者にとり、海とは己が今いる場所と、遠い地とを隔てる巨大な壁のようなものにござる。なれど我等海に生きる者は違い申す。海とは、遠い地へと延々続く一本の道にござる」
 信長はかすかに眉を動かした。


「そうか海とは道か……。聞けば昨今は、唐・天竺よりはるか遠い地からも人が訪れると聞く。果たして、そなたのいう延々続く道の果てる場所とは、いかなる場所であろうかのう」
 信長は遠い目をした。これより数年の後、信長は南蛮の宣教師により地球が球形であるという、衝撃の事実を耳にするのである。
「船ならばこそ、いずこの地へでも軍勢動かすことできると申したな。ならばそのほう、わしがこの地の果てへ、軍勢とともに赴くと申したらいかがする?」
「されば九鬼右馬允嘉隆、地の果てであろうと、この世の尽きるところであろうと、喜んで赴く所存でござる」
 嘉隆はいっそう平伏していった。
 

 信長は胡坐を組むでもなく足をだらりとさせ、時折目の前の菓子をほおばりながら、嘉隆の言葉に耳をかたむけた。その有様は決して品がよいものではない。やがて最初の謁見が無事終わり、去り際、同行した滝川市郎兵衛が耳元で、
「いやはや我等を田舎者と見下し申したが、信長公とて田舎侍そのものでござりますなあ」
 と、ぼそりと本音をいった。
「わからなんだか、あの方はただ者ではないぞ。あれいは軍神かもしれぬ」
 嘉隆は真顔でいった。その表情には並々ならぬ決意が秘められていた。
 結局嘉隆は三十貫という、他国の新参者にしては破格の高禄で、織田家の一員として召抱えられた。


 さて十六世紀も半ばを過ぎたこの時代、はるか遠く西欧では、後に鎖国後も日本と唯一国交を結ぶことになるオランダが、スペインの圧制に対して独立戦争の最中だった。まもなくこの国は商業と金融の力により、西欧はおろか世界最大の国力をもつ国家へと変貌していくのである。
 一方スペインはフェリペ二世の時代である。中南米のインカ・マヤ・アステカ等の古代文明を滅ぼしたスペインの支配は、今日の国名でいえばアルゼンチン・チリ・パラグアイ等に及んでいた。しかしこの国はまもなく英国とのアルマダの海戦に敗れ、その国威は急速に失われていく。
 

 アジアに目をうつせば、中国の明王朝の支配は、すでに二百年近くに及んでいた。しかしこの国も代々暗愚な君主が続き、民はたび重なる天災などにより貧苦にあえいでおり、まもなく豊臣秀吉の朝鮮出兵等の影響により、滅亡をむかえる運命にあった。
 そしてこの時代、世界は海という一本の道により一つに結ばれようとしていた。志摩の国を追われた嘉隆達は、今まさにその巨大な道へと、一歩踏みだそうとしていたのである。しかし嘉隆の織田家での初陣は、海ではなく陸の合戦だった。
 

(三) 


 ここは美濃の国の木曾川沿いである。この界隈はここ数年に及び、織田家と美濃・斎藤家の小競り合いの舞台となってきた。小競り合いといっても、織田勢は約三千ほど、対する斉藤勢もほぼ同数であろう。
 やがて頃合を見計らって、大将である織田信長がさっと軍配を振りかざした。同時に織田軍の最前線で鉄砲が一斉に火を吹いた。断末魔の叫びとともに、美濃兵数名がバタバタと倒れた。
 

 信長はいち早く鉄砲に目をつけた大名といわれる。記録によると天文十八年(一五四九)には、信長はすでに近江・国友の鉄砲鍛冶に、鉄砲五百丁を注文していたといわれる。この年まだ信長は十六歳にすぎず、資金がどこからでたのか全くの謎である。
「かかれい!」
 敵方のいずこからか叫び声があがり、織田勢も槍隊が応戦する。凄まじい突き合いが始まり、敵味方で死傷した足軽兵が、一人また一人と地に伏してゆく。信長が三間半(約六メートル)の長槍を好んだのは、有名なエピソードである。そして機を見計らって騎馬隊の突撃となる。
 

 滝川一益隊の一翼を担うこととなった嘉隆は、思わず息を飲んだ。なにしろ志摩では百やそこいらの戦いの経験しかなく、合戦の勝敗もまた、個人の武勇に左右されることが多かった。三千もの部隊による集団戦というのは、嘉隆の想像をはるかに越える血生臭いものだった。
「よし我等も傍観しているわけにはいかん。皆続け!」
 嘉隆は配下の将兵に号令した。もちろん嘉隆等は海での戦こそ専門であり、陸戦となれば、まさしく丘の上の河童である。まして嘉隆指揮下の将兵は、せいぜい二百ほどにすぎない。
 しかし嘉隆は乱戦のさなかに自ら馬を乗り入れ、勇敢に戦った。阿修羅のような形相で敵に挑んだ。率いられる兵卒等も、嘉隆の気迫が乗り移ったかの如くであった。志摩の国を追い出された嘉隆等は、もはや帰る場所がない。なんとしても己の行く手を開きたい。そうした思いが、嘉隆等をして決死の戦いへとかりたてた。
 
 
 尾張勢と美濃勢の戦いはすでに九年に及び、もともと兵として決して強くない尾張勢は、美濃勢に手痛い敗戦をさっすることも多々あったが、大局的には信長は徐々に美濃を蚕食しつつあった。信長の美濃制圧はこれより二年後、永禄十年(一五六七)のことである。


(四)
 

 その頃、嘉隆の妻子は伊勢・志摩国境に位置する金剛證寺という、千年の歴史を持つ古い寺に隠まわれていた。嘉隆の妻の名を倫といい、志摩の国の豪族の娘であったようである。
 忍びを通じ、嘉隆が織田家に仕官したことが伝えられ、倫や嘉隆の幼い娘達は金剛九兵衛とともに、尾張へ赴くべく支度におわれていた。しかし九兵衛が少し目をはなしたすきに、その惨劇はおきてしまった。
 

 出立を間近に控えた、とある蒸し暑い日のことである。まだ陽も登りきらない夜明け前、倫は水汲みのため軽装で外へでて、ふと馬のいななき声を聞いた。視界の彼方に騎乗した何者かの姿があった。倫はなにやら不審なものを感じずにはいられず、その後を追った。やがて眼前で目にしたのは、背に『九』と大書された陣羽織をはおった武者の姿だった。
「もしや貴方様は嘉隆様?」
 倫は思わず叫んだ。嘉隆が好んで使用した陣羽織と似ていた。むろん嘉隆が今このような場所にいるわけがない。すぐに倫が他人の空似であることを察した時、異変はおこった。

 突如として、倫の眼前で黒い何者かが天へ舞いあがった。空中でくるくると回転し、そのまま倫の背後に回り、鋭い刃の切っ先を喉元に押し当てた。倫の視界には主なき馬と、脱ぎ捨てられた陣羽織、そして兜だけが残された。倫は瞬時、体がふわっと軽くなるかのような感覚のあと、何がおきたのかわからなかった。
「ほどなく屍となるそなたに名乗っても、詮無きことかもしれぬが、我は甲賀の忍で麻鳥という」
 どうやら女のようである。しかし女にしては恐ろしい力である。しかも声音がこころなしか憎悪にうち震えていた。


「我は、汝の夫九鬼嘉隆の罠にかかり全てを失った。忍仲間や北畠の者等からは裏切り者の汚名を着せられ、愛した男からも見捨てられた。そして今は身一つで逃げる身。私は汝の夫への恨み必ず晴らす。汝には恨みはないが、ここで死んでもらうより他ない」
 倫はとっさに、叫び声をあげ助けを求めようとしたが、麻鳥はそれをも許さず、喉元からまるで、噴水のような鮮血が飛び散った。ゆっくりと意識が遠のいていく。
「嘉隆め待っておるがよい! 恨みは必ず張らず」
 麻鳥は悪鬼のような形相で復讐を誓うのだった。嘉隆に再び災いが迫っていた。
 
 

 



 
 
 
 
 
 


 

 
 
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