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【志摩騒乱編】坂手島の戦い
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(一)
「我等は全軍城を出て、海で戦うこととする」
波切城での長い軍議の末、終始沈黙していた嘉隆は、ついに鶴の一声をあげた。
「敵は大軍、籠城したところで一月もつか否か。それより敵を我等に有利な場所に誘いだし、奇襲によりいっきょに殲滅! 我等が生き残るにはこれより他すべはない」
「具体的には、いずこの地に敵を誘いだす腹にござるかな」
当然のように疑念をていしたのは、九鬼家に祖父の代より仕える老臣雨宮勘八だった。
「坂手島だ」
嘉隆は、はっきりと場所を指定した。
「確かに敵は我等よりはるかに数は勝る。なれど狭い離島におびきだすことができれば、大軍といえどその力を発揮できぬ。戦とは必ずしも兵多きが勝つとは限らぬ。天の時、人の動き、そして船戦なれば潮の流れを読む者が勝利する。
こたびこそは我等一同、孫子のいう『死地』に全軍を置いて戦う。生きてこの波切の地を踏もうと考えるな」
若い嘉隆が凛呼としていい放つと、しばし一同の間に沈黙があった。
「恐れながら殿、よろしゅうござりますな」
上座には事実上の主である澄隆の姿があった。しかし澄隆は返事をするわけでもなく、空ろな目で虚空をにらんでいた。九鬼澄隆は長ずるにつれ、人間として知能の発達に問題があることは、誰の目にも明らかとなっていた。結局九鬼家の命運は、全てが嘉隆の双肩にかかることとなった。
「なれど我等にとり懸念すべきことは、この志摩の国の地頭のことばかりとは限りませぬぞ」
ようやく沈黙をやぶったのは滝川市郎兵衛だった。
「わかっておる。伊勢の北畠のことであろう」
「左様でござる。今までの戦でも幾度、北畠のために煮え湯を飲まされてきたことか。もし北畠がその気になれば、万の軍勢の動員も可能。我等とは兵の規模が違いすぎまする」
「なに案ずることはない。わしに策があってのう……。北畠のことはまかせておけ」
嘉隆はなにやら自信ありげな笑みをうかべた。
(二)
「恐れながら、何卒こたび我等に御加勢たまわるよう。切にお願いたてまつる」
北畠氏の本拠多芸御所にて、北畠具教に頭を下げたのは、志摩地頭衆の一人小浜民部景隆だった。景隆は志摩半島の小浜(現在の三重県鳥羽市)を本拠とし、二十五の若武者である。一国一城の主でありながら、かって甲賀で忍びの修行をも体験した、不思議な経歴の男でもある。
「主である汝自ら出向いてくるとは、その心意気、気に入ったぞ。加勢はかまわぬが、九鬼嘉隆の動きいま少し知りたい。敵はどうでる腹でおるのか?」
多芸館の邸内には壮大な庭園がある。池の大きさだけでも南北二十七間、東西十間に及ぶ。他に笠懸の馬場が縦六十二間、横三十三間ほどで、犬追物の馬場が縦五十間、横三十三間もあった。弓馬の稽古でここちよい汗を流した具教は、剣の手入れをしながらいった。
その時、不意に民部景隆の表情が険しくなった。突然かたわらの槍を手にすると、
「恐れながら、狼藉者にござる」
と殺気を露わにし、天井を槍で一突きした。手ごたえがあった。槍の穂先に血がこびりついていた。次の瞬間、背後で笑い声がした。
「それは野ねずみじゃ。狼藉者ならここにおる」
「お主は麻鳥ではないか。篤という女子に化けて、九鬼嘉隆の近くにおったのではないのか」
と、驚きの声をあげたのは具教だった。民部景隆の表情から先刻までの殺気が消えた。民部景隆と麻鳥はかって共に、甲賀で忍びの修行に励んだ仲であり、なにより男女の仲だった。
「恐れながら、おひさしゅうござる。北畠の殿におかれてはお変わりのう。こたびは九鬼嘉隆の寝所にて、嘉隆の本心聞きだしてまいりました」
「して嘉隆の腹は」
具教がせかすようにたずねた。
「こたびは全く勝算なき戦と申しました。故に途中神島を経由して、妻子及び一族もろとも尾張の織田を頼って逃げのびる算段とか」
「しかと嘉隆は、そう申したのじゃな」
民部景隆は、心なしか表情を曇らせながら麻鳥を問いただした。
「恐れながら、ならば我等早急に神島に兵を送り、嘉隆の首級をあげたいと存ずる。御助勢のなにとぞお願いつかまつる」
景隆は今一度、具教に頭をさげた。具教は加勢に同意はしたが、嘉隆の動きになにか裏があることを、薄々ながら察してもいた。
その夜のことである。民部景隆は数年ぶりに麻鳥と寝床をともにした。
「わしは本来人を殺すことを好まない。人を斬った夜には悪夢にうなされることもある。忍びにも、武将にも向かぬやもしれぬ」
と景隆は、髪を乱しながらも自らに寄り添う麻鳥に、弱気ともとれることをいいはじめた。
「なれど気が滅入ってつらい時は、海にもぐり珊瑚の世界を見渡す。そうすればまず真先にそなたの瞳を思いだす」
と、民部景隆は麻鳥の目を見ていった。
「おまえと修行にいそしんだ日々を私も忘れていない。時があれば、お前と私は馬を並べ狩りにでかけた。獲物はえられなくても、そなたと共に生きれることだけが、私の唯一の喜びであった」
と麻鳥は真顔でいい。するすると細い腕を景隆の首にまわした。だが景隆はゆっくりとそれをふりほどいて立ちあがった。
「もういってしまうのか。今しばらく一緒にいてもいいではないか」
困惑する麻鳥を横目に民部景隆は、
「合戦が始まる。いつまでも一緒にいたいが、わしは一国の主として、いつまでもここにいるわけにはいかぬ」
「なんじゃ、そのやましい物でも見るような目は?」
一瞬、民部景隆が自らにむけた冷たいまなざしに、麻鳥は疑念をていした。
「よもやとは思うが、そなた真に嘉隆の女になってはいまいな」
次の瞬間、刀が一閃した。寝床に下に隠し持っていた懐剣を取り出し、神業のような速さで民部景隆を切りつけた。景隆はこれを紙一重でかわした。右の肩からかすかに鮮血が飛び散った。
「見損なうな、私は娼婦ではない。誰にでもたやすく心を許すものか」
「すまなかった。念のため聞いたまでだ。わしはもちろんお前を信じている。お互いに忍び、そして私は一国の主でもある。合戦があれば死ぬかもしれぬ。なれどわしはお前とまた会える日を信じているぞ」
かすかに麻鳥の目がうるんだ。だが麻鳥には、この後不幸が待ちかまえているのである。
(三)
麻鳥が敵の間諜であることを、嘉隆はすでに知っていた。知りつつあえて偽の情報を敵に流したのである。これに伊勢の国司北畠具教と小浜民部は踊らされた。神島には猫の子一匹おらず、他の地頭達の部隊と完全に切り離された。
さらに嘉隆は敵方に多くの間者放ち、自らが坂手島に陣を構えているという情報を流した。
「坂手島だと? 嘉隆は何故かような場所に陣を構えたのだ。さっぱりわからん?」
地頭達の間にも疑念の声がおこった。七月十日夜更け、坂手島には煌々とかがり火が燃え、その有様は、敵の船団からもはっきりと目にすることができた。
ちなみ中国古代の兵法家孫子は、いわゆるスパイの活用方法について、郷間、反間、死間、生間等をあげている。郷間とは敵国の一般住民を優遇して、自軍のスパイにすることである。生間とは、使者として敵国に入り敵の情報をいろいろと探り出すことである。
そして死間とは、偽りの情報を流し敵をかく乱すること。反間とは、敵国のスパイをそれと知りながら生かして、敵に偽の情報を流すことである。
さて坂手島は、現在でいえば三重県鳥羽市の沖六百メートルの伊勢湾口に位置する島である。面積五十一万平方メートル、海岸線の長さは三キロほど。答志島と菅島にちょうど挟まれる位置に存在し、周辺は鮑,サザエ,伊勢海老,鯛等の好漁場でもある。ワカメの産地としても知られている。
「敵になにか策でもあるのでは?」
中には慎重論をとなえる者もいたが、血気にはやる主戦派が勝った。およそ九百の軍勢が怒涛のように島に上陸していく。ほどなく彼等は驚くべき光景を目撃する。島はもぬけの空で一兵たりとも存在せず、かがり火だけが燃えていたのである。かがり火は、嘉隆が間者を島に潜伏させ燃やした明かりだった。
上陸した兵士達が呆然としていると、背後で太鼓の音、そしてほら貝の音がけたたましく鳴り響いた。闇の中、小早と関船からなる九鬼船団が不気味な姿を現したのである。ちょうど左右に位置する答志島と菅島の島影に、船団はその姿を隠していたのだった。
「火矢を放て! 敵船をことごとく焼き払うのだ!」
嘉隆が大音声をあげた。ものすごい数の火矢が、薄暗い闇を切り裂くように放たれた。むろん敵の逃げ道をふさぐためである。
「己謀られたぞ! 敵は小勢だ蹴散らせ!」
地頭達はそれぞれ己の配下の将兵に命令をくだすも、統一された指揮系統を持つわけでもなく、この非常事態に混乱を極めた。
さらに不幸なことに、坂手島はほとんどが湿地帯からなっており、地頭達の配下の将兵は足元をすくわれ、対岸で待ち受ける九鬼勢の弓矢の格好の標的となった。そして激しい雨が降り始めた。
「見よ! 天が我等に味方したぞ。一兵たりとも生かして帰すな!」
突然降りだした強い雨は、地頭衆配下の兵等足元を泥土へと変えた。兵士達は押し合いへし合いし、もはや戦闘どころの騒ぎではなくなった。
夜が明けた。嘉隆の眼下には、おびただしい数の敵の屍が転がっていた。嘉隆は見事、数においては圧倒的不利な合戦に勝利したのである。この合戦で、特に戦功めざましかったのは滝川市郎兵衛だった。市郎兵衛は、弓とそして鉄砲の名手に成長していたのである。
(四)
しかし嘉隆に勝利に酔いしれている時間はなかった。時を待たず、嘉隆は信じられない悲報を耳にするのである。
「なんと、北畠の別働隊が波切に押し寄せただと。して兵の数は?」
「およそ五千ほどとのこと」
「五千だと……」
嘉隆は絶句した。到底太刀打ちできる兵力ではない。
「己、北畠め! この恨みいつか晴らしてくれようぞ!」
「殿、いかがいたす所存か?」
滝川市郎兵衛がたずねると、嘉隆は思わぬことをいいだした。
「わしはかって、亡き兄者と将来について語ったことがある。いざとなったら我等には海がある。狭い志摩の国にこだわることなく、この波の彼方に己を居場所を探そうと……。今がその時かもしれん」
「具体的にはどうするつもりで」
家臣の一人が重ねてたずねた。
「まず最初に、尾張の織田を頼ってみたいと思っておる」
「尾張の織田?」
「左様、尾張の織田信長様は桶狭間の合戦に勝利した以来、わしが知るところでは今、最も勢いがある。そしてなにより尾張はここから最も近い。
なに我等の妻子のことなら心配せずともよい。こんなこともあろうかと金剛九兵衛を城に残してきたのだ。万が一の時は安全な場所に逃がすように指図しておる」
かすかに唇を震わせながら嘉隆はいった。
こうして嘉隆一行は、海上をさすらう根なし草と化してしまった。夜がきて嵐となった。眼下の波濤の先に何が待ち構えているか、彼等はまだ何も知らないのである。
「我等は全軍城を出て、海で戦うこととする」
波切城での長い軍議の末、終始沈黙していた嘉隆は、ついに鶴の一声をあげた。
「敵は大軍、籠城したところで一月もつか否か。それより敵を我等に有利な場所に誘いだし、奇襲によりいっきょに殲滅! 我等が生き残るにはこれより他すべはない」
「具体的には、いずこの地に敵を誘いだす腹にござるかな」
当然のように疑念をていしたのは、九鬼家に祖父の代より仕える老臣雨宮勘八だった。
「坂手島だ」
嘉隆は、はっきりと場所を指定した。
「確かに敵は我等よりはるかに数は勝る。なれど狭い離島におびきだすことができれば、大軍といえどその力を発揮できぬ。戦とは必ずしも兵多きが勝つとは限らぬ。天の時、人の動き、そして船戦なれば潮の流れを読む者が勝利する。
こたびこそは我等一同、孫子のいう『死地』に全軍を置いて戦う。生きてこの波切の地を踏もうと考えるな」
若い嘉隆が凛呼としていい放つと、しばし一同の間に沈黙があった。
「恐れながら殿、よろしゅうござりますな」
上座には事実上の主である澄隆の姿があった。しかし澄隆は返事をするわけでもなく、空ろな目で虚空をにらんでいた。九鬼澄隆は長ずるにつれ、人間として知能の発達に問題があることは、誰の目にも明らかとなっていた。結局九鬼家の命運は、全てが嘉隆の双肩にかかることとなった。
「なれど我等にとり懸念すべきことは、この志摩の国の地頭のことばかりとは限りませぬぞ」
ようやく沈黙をやぶったのは滝川市郎兵衛だった。
「わかっておる。伊勢の北畠のことであろう」
「左様でござる。今までの戦でも幾度、北畠のために煮え湯を飲まされてきたことか。もし北畠がその気になれば、万の軍勢の動員も可能。我等とは兵の規模が違いすぎまする」
「なに案ずることはない。わしに策があってのう……。北畠のことはまかせておけ」
嘉隆はなにやら自信ありげな笑みをうかべた。
(二)
「恐れながら、何卒こたび我等に御加勢たまわるよう。切にお願いたてまつる」
北畠氏の本拠多芸御所にて、北畠具教に頭を下げたのは、志摩地頭衆の一人小浜民部景隆だった。景隆は志摩半島の小浜(現在の三重県鳥羽市)を本拠とし、二十五の若武者である。一国一城の主でありながら、かって甲賀で忍びの修行をも体験した、不思議な経歴の男でもある。
「主である汝自ら出向いてくるとは、その心意気、気に入ったぞ。加勢はかまわぬが、九鬼嘉隆の動きいま少し知りたい。敵はどうでる腹でおるのか?」
多芸館の邸内には壮大な庭園がある。池の大きさだけでも南北二十七間、東西十間に及ぶ。他に笠懸の馬場が縦六十二間、横三十三間ほどで、犬追物の馬場が縦五十間、横三十三間もあった。弓馬の稽古でここちよい汗を流した具教は、剣の手入れをしながらいった。
その時、不意に民部景隆の表情が険しくなった。突然かたわらの槍を手にすると、
「恐れながら、狼藉者にござる」
と殺気を露わにし、天井を槍で一突きした。手ごたえがあった。槍の穂先に血がこびりついていた。次の瞬間、背後で笑い声がした。
「それは野ねずみじゃ。狼藉者ならここにおる」
「お主は麻鳥ではないか。篤という女子に化けて、九鬼嘉隆の近くにおったのではないのか」
と、驚きの声をあげたのは具教だった。民部景隆の表情から先刻までの殺気が消えた。民部景隆と麻鳥はかって共に、甲賀で忍びの修行に励んだ仲であり、なにより男女の仲だった。
「恐れながら、おひさしゅうござる。北畠の殿におかれてはお変わりのう。こたびは九鬼嘉隆の寝所にて、嘉隆の本心聞きだしてまいりました」
「して嘉隆の腹は」
具教がせかすようにたずねた。
「こたびは全く勝算なき戦と申しました。故に途中神島を経由して、妻子及び一族もろとも尾張の織田を頼って逃げのびる算段とか」
「しかと嘉隆は、そう申したのじゃな」
民部景隆は、心なしか表情を曇らせながら麻鳥を問いただした。
「恐れながら、ならば我等早急に神島に兵を送り、嘉隆の首級をあげたいと存ずる。御助勢のなにとぞお願いつかまつる」
景隆は今一度、具教に頭をさげた。具教は加勢に同意はしたが、嘉隆の動きになにか裏があることを、薄々ながら察してもいた。
その夜のことである。民部景隆は数年ぶりに麻鳥と寝床をともにした。
「わしは本来人を殺すことを好まない。人を斬った夜には悪夢にうなされることもある。忍びにも、武将にも向かぬやもしれぬ」
と景隆は、髪を乱しながらも自らに寄り添う麻鳥に、弱気ともとれることをいいはじめた。
「なれど気が滅入ってつらい時は、海にもぐり珊瑚の世界を見渡す。そうすればまず真先にそなたの瞳を思いだす」
と、民部景隆は麻鳥の目を見ていった。
「おまえと修行にいそしんだ日々を私も忘れていない。時があれば、お前と私は馬を並べ狩りにでかけた。獲物はえられなくても、そなたと共に生きれることだけが、私の唯一の喜びであった」
と麻鳥は真顔でいい。するすると細い腕を景隆の首にまわした。だが景隆はゆっくりとそれをふりほどいて立ちあがった。
「もういってしまうのか。今しばらく一緒にいてもいいではないか」
困惑する麻鳥を横目に民部景隆は、
「合戦が始まる。いつまでも一緒にいたいが、わしは一国の主として、いつまでもここにいるわけにはいかぬ」
「なんじゃ、そのやましい物でも見るような目は?」
一瞬、民部景隆が自らにむけた冷たいまなざしに、麻鳥は疑念をていした。
「よもやとは思うが、そなた真に嘉隆の女になってはいまいな」
次の瞬間、刀が一閃した。寝床に下に隠し持っていた懐剣を取り出し、神業のような速さで民部景隆を切りつけた。景隆はこれを紙一重でかわした。右の肩からかすかに鮮血が飛び散った。
「見損なうな、私は娼婦ではない。誰にでもたやすく心を許すものか」
「すまなかった。念のため聞いたまでだ。わしはもちろんお前を信じている。お互いに忍び、そして私は一国の主でもある。合戦があれば死ぬかもしれぬ。なれどわしはお前とまた会える日を信じているぞ」
かすかに麻鳥の目がうるんだ。だが麻鳥には、この後不幸が待ちかまえているのである。
(三)
麻鳥が敵の間諜であることを、嘉隆はすでに知っていた。知りつつあえて偽の情報を敵に流したのである。これに伊勢の国司北畠具教と小浜民部は踊らされた。神島には猫の子一匹おらず、他の地頭達の部隊と完全に切り離された。
さらに嘉隆は敵方に多くの間者放ち、自らが坂手島に陣を構えているという情報を流した。
「坂手島だと? 嘉隆は何故かような場所に陣を構えたのだ。さっぱりわからん?」
地頭達の間にも疑念の声がおこった。七月十日夜更け、坂手島には煌々とかがり火が燃え、その有様は、敵の船団からもはっきりと目にすることができた。
ちなみ中国古代の兵法家孫子は、いわゆるスパイの活用方法について、郷間、反間、死間、生間等をあげている。郷間とは敵国の一般住民を優遇して、自軍のスパイにすることである。生間とは、使者として敵国に入り敵の情報をいろいろと探り出すことである。
そして死間とは、偽りの情報を流し敵をかく乱すること。反間とは、敵国のスパイをそれと知りながら生かして、敵に偽の情報を流すことである。
さて坂手島は、現在でいえば三重県鳥羽市の沖六百メートルの伊勢湾口に位置する島である。面積五十一万平方メートル、海岸線の長さは三キロほど。答志島と菅島にちょうど挟まれる位置に存在し、周辺は鮑,サザエ,伊勢海老,鯛等の好漁場でもある。ワカメの産地としても知られている。
「敵になにか策でもあるのでは?」
中には慎重論をとなえる者もいたが、血気にはやる主戦派が勝った。およそ九百の軍勢が怒涛のように島に上陸していく。ほどなく彼等は驚くべき光景を目撃する。島はもぬけの空で一兵たりとも存在せず、かがり火だけが燃えていたのである。かがり火は、嘉隆が間者を島に潜伏させ燃やした明かりだった。
上陸した兵士達が呆然としていると、背後で太鼓の音、そしてほら貝の音がけたたましく鳴り響いた。闇の中、小早と関船からなる九鬼船団が不気味な姿を現したのである。ちょうど左右に位置する答志島と菅島の島影に、船団はその姿を隠していたのだった。
「火矢を放て! 敵船をことごとく焼き払うのだ!」
嘉隆が大音声をあげた。ものすごい数の火矢が、薄暗い闇を切り裂くように放たれた。むろん敵の逃げ道をふさぐためである。
「己謀られたぞ! 敵は小勢だ蹴散らせ!」
地頭達はそれぞれ己の配下の将兵に命令をくだすも、統一された指揮系統を持つわけでもなく、この非常事態に混乱を極めた。
さらに不幸なことに、坂手島はほとんどが湿地帯からなっており、地頭達の配下の将兵は足元をすくわれ、対岸で待ち受ける九鬼勢の弓矢の格好の標的となった。そして激しい雨が降り始めた。
「見よ! 天が我等に味方したぞ。一兵たりとも生かして帰すな!」
突然降りだした強い雨は、地頭衆配下の兵等足元を泥土へと変えた。兵士達は押し合いへし合いし、もはや戦闘どころの騒ぎではなくなった。
夜が明けた。嘉隆の眼下には、おびただしい数の敵の屍が転がっていた。嘉隆は見事、数においては圧倒的不利な合戦に勝利したのである。この合戦で、特に戦功めざましかったのは滝川市郎兵衛だった。市郎兵衛は、弓とそして鉄砲の名手に成長していたのである。
(四)
しかし嘉隆に勝利に酔いしれている時間はなかった。時を待たず、嘉隆は信じられない悲報を耳にするのである。
「なんと、北畠の別働隊が波切に押し寄せただと。して兵の数は?」
「およそ五千ほどとのこと」
「五千だと……」
嘉隆は絶句した。到底太刀打ちできる兵力ではない。
「己、北畠め! この恨みいつか晴らしてくれようぞ!」
「殿、いかがいたす所存か?」
滝川市郎兵衛がたずねると、嘉隆は思わぬことをいいだした。
「わしはかって、亡き兄者と将来について語ったことがある。いざとなったら我等には海がある。狭い志摩の国にこだわることなく、この波の彼方に己を居場所を探そうと……。今がその時かもしれん」
「具体的にはどうするつもりで」
家臣の一人が重ねてたずねた。
「まず最初に、尾張の織田を頼ってみたいと思っておる」
「尾張の織田?」
「左様、尾張の織田信長様は桶狭間の合戦に勝利した以来、わしが知るところでは今、最も勢いがある。そしてなにより尾張はここから最も近い。
なに我等の妻子のことなら心配せずともよい。こんなこともあろうかと金剛九兵衛を城に残してきたのだ。万が一の時は安全な場所に逃がすように指図しておる」
かすかに唇を震わせながら嘉隆はいった。
こうして嘉隆一行は、海上をさすらう根なし草と化してしまった。夜がきて嵐となった。眼下の波濤の先に何が待ち構えているか、彼等はまだ何も知らないのである。
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