戦国九州三国志

谷鋭二

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【第四章】天下分け目の決戦2 島津の退き口

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 関ヶ原で天下分け目の合戦が行われている頃、西軍大将毛利輝元の姿は大坂城にあった。この人物は、戦国随一の器量の持ち主だった祖父元就の血を、ほとんど継承していないといっていい、驚くほど凡庸な資質の持ち主であった。
  石田三成は、確かに頭脳明晰といううえでは、他に並びなき人物であったかもしれない。しかし、やはり大将の器ではなかった。この人物はむしろ、大将の横にあり作戦計画を練る、参謀にこそふさわしい人物であったろう。だが本来大将であるべきはずの毛利輝元が、到底家康に敵しようもない凡庸な人物であったことは、もはや西軍諸将を哀れむしかない悲痛事であった。
  

 毛利家の領土は山陰・山陽に十二カ国。この時毛利方に属する村上水軍の長村上武吉は、四国から伊勢湾までの広大な領域で東軍に属する勢力と争い、東軍の補給線を海路遮断する作戦を進めていた。また毛利家には、石見の銀山という巨大な財源もあった。さらに大坂城までも手中におさめていたこの時期、輝元にその意思さえあれば、天下をうかがうことすら夢ではなかったろう。
  なにしろ当事の大坂城は、本丸といわれる部分だけでも、昭和になって再建された現在の大坂城とほぼ同様の規模で、地下鉄の駅四つ分という壮大な要塞であった。しかも西欧の要塞にあるトーチカといわれる、防御用システムまで完備していたといわれる。
  

 西軍が関ヶ原の一戦で完敗したとしても、もし輝元が戦意を見せれば、関ヶ原より十四年後の大坂の陣と違い、家康とて大坂城を陥落させることは容易でなかっただろう。いやそれ以前に、表向きは家康に従った福島正則等、豊臣恩顧の諸将が、果たして豊臣秀頼に弓矢を向けることができたか、はなはだ疑問である。

  
 かって輝元の祖父毛利元就は三人の息子に矢を与え、一本の矢は簡単に折れるが、三本束になれば容易に折れぬと諭し、毛利・小早川・吉川三家の結束を説いたといわれる。同様な話は古代中国にもあり、朝鮮にもあり、またモンゴルの正史元朝秘史にもある。事実であるとは到底思えないが、元就が三家の結束をといたことだけは、どうやら事実であるようだ。
  だがその毛利両川体制は、この関ヶ原の合戦の時点では、すでに完全に機能不全状態におちいっていた。両川のうち小早川家は、豊臣の一族である小早川秀秋に乗っ取られたも同然であり、もう一方の吉川家の当主である吉川広家は、当主の輝元の意向など構いもせず、家康と不戦の密約まで結ぶという始末であった。
  

 関ヶ原の合戦は、一面徳川と毛利による天下分け目の合戦でもあった。結果は毛利の不戦敗といっていいだろう。せめて当主輝元の叔父にあたる小早川隆景が、この時まで存命で大坂城にあったなら、あれいは家康の天下はなかったかもしれない。家中に人材がなかったことが、毛利家にとっての不幸であった。関ヶ原の合戦の鍵は、情緒に著しく安定性を欠いた、十七歳の小早川秀秋が握っていた。その秀秋は正午頃、なお松尾山にあって動こうとしない。


 「小早川はなにをしておる。今一度合図の狼煙をあげよ!」
  西軍優勢のこの時期、三成は幾度も松尾山の小早川秀秋にむかって攻撃の合図を告げる狼煙をあげた。だが違鎌文様陣羽織をはおった金吾中納言こと、小早川秀秋は動こうとしない。すでに戦前から怪しい動きがあった。事実秀秋は東軍に内通していたのである。
  三成は関ヶ原の合戦の前日、松尾山を訪れた際、秀秋の寝返りを恐れたか否かはわからないが、戦後の関白職を約束するという、破格の待遇をしめしている。意志薄弱な秀秋の心は揺れた。
 

「かような口約束当てにはなりませぬ。お忘れになりましたか、三成めの讒言により筑前の領地を追われそうになった一件を」
  と主を説いたのは、親家康派の家老の稲葉正成だった。この人物の妻は福といい、後年三代将軍家光の乳母となり、江戸城大奥で権勢をふるう女性である。
 『ええい! わかっておる。わしには、わしの考えがある』
  と家来筋から厳しく諭される度に、秀秋は反発したい心を抑えてきた。だが考えといってもさして深い考えではない。
  

 秀秋は朝鮮の役の際、事実上の総大将の身分にも関わらず、敵の雑兵はむろんのこと、非戦闘員までも、血の気にかられて殺戮するという過ちを犯している。身分にあるまじきふるまいであると秀吉は激怒し、筑前五十二万石の領土を、越前十五万石にまで大幅に減封されるところであったが、秀吉の死で沙汰止みになり、家康のとりなしにより事はうやむやになってしまった。秀秋はこの件を、奉行である三成の讒言のせいであると信じていた。自然秀秋は三成を怨み、家康に恩義を感じている。

  
 正午頃ようやく霧が晴れた。標高二百九十三メートルの山頂に陣どる秀秋の目に映ったものは、西軍圧倒的有利の戦況であった。
 『やはり西軍に味方するべきであろうか……』
  秀秋の心はまたしても大きく揺らいた。と、その時であった。不意に松尾山の方角に向かって大筒を打ち込む者がいた。その耳をつんざくような音に、秀秋はかすかに震え、
 「何事ぞ! 誰が打ちかけてまいった!」
  と、甲高い声でいった。
 「恐れながら、打ちかけてまいったのは徳川勢の模様」
  稲葉正成もまた、かすかな精神の高揚を抑えながらいった。
 「何故じゃ……何故内府がわしを狙う?」
  あきらかに気が動転している主君の様子を見ながら、正成はむしろこれを好機と判断した。
 「恐れながら、内府は立腹の様子でござる。いま合戦に及ばねば、後日いかなる咎めが待っているかわかりませぬ」
  正成は半ば脅し口調になり、秀秋は無我夢中の心境で、西軍大谷隊への攻撃命令を下した。後のことはよく覚えていない……。

  
 歴史は時として、百人の賢者よりも一人の愚者によって動くものなのかもしれない。
  大谷吉継は、すでにこのことあるを予期して、小早川隊の進軍経路の要所に馬防柵を築いていたといわれる。ところがここに、その大谷吉継の予想をも、はるかに越える事態が待ち構えていた。小早川秀秋の裏切りに触発されて、さらに寝返る者がいたのである。脇坂安治だった。『輪違い』の旗が、突如として大谷隊の横腹を突いた。
  

 脇坂安治を東軍に寝返るよう説いたのは、藤堂高虎であったといわれる。両者は朝鮮の役のおり共に李舜臣の水軍と戦った仲で、奇妙な連帯感ができていたのである。脇坂安治はさらに赤座直保・朽木元綱・小川祐忠をも説き伏せ寝返りを約束させた。これらの将は小早川勢の裏切りを契機に、雪崩をうって西軍大谷吉継隊に襲いかかった。
  大谷隊はこの非常事態の中にあっても、簡単には崩れなかった。その奮闘ぶりは、遠く観望した島津勢をして、驚嘆させるほど見事なものであった。だがその大谷隊にも最後の時がきた。
  

 吉継は戦線から離れた場所で輿を降ろさせると、目が見えぬため、敵陣に向かってかけようとする者に名を名のらせ、最後は湯浅五助に介錯を命じ見事に腹を切った。辞世の句は、

  契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも

 生死を共にと誓った石田三成への、訣別の旬であった。大谷吉継は四十二歳であったといわれる。

  
 毛利家という巨大な後ろ盾に、戦う前から見限られていた西軍諸将は、徳川の世へと向かう巨大な時世の力に、すりつぶされていくだけの存在だったかもしれない。大谷隊の壊滅から、西軍の各隊が崩壊していくまで時はかからなかった。小西隊が崩れ、西軍中最大勢力であった宇喜多隊も崩れた。後日のことになるが、逃げのびた宇喜多秀家は島津家にかくまわれ、後徳川家に身柄を渡されることになる。死は免れ、八丈島に流罪となった。明暦元年(一六五五年)死去。享年八十三歳。このときには既に、徳川幕府も四代将軍家綱の治世になっていた。

  
 三成は窮した。完璧であったはずの打倒家康の計が、眼前で崩れていく様を、いかなる思いで見つめていたのであろうか? あれいはこの時になってようやく、自らが家康の掌の上で、転がされていたことに気付いたかもしれない。だが三成にはなお生きようとする意欲があった。午後二時頃、石田三成戦場離脱。関が原は雨にみまわれていた。

  
 筆者はかって、関ヶ原に赴いたことがある。決戦場となった場所は、想定していたよりは、はるかに狭い空間だった。筆者は他の古戦場にも足を運んだことがあるが、いずれも予想よりはるかに狭い。日本史における合戦とは、西欧や中国における本格的な戦争に比べるとはるかに規模が小さく、戦争というよりは、命をかけておこなう祭りのようなものだったかもしれない。
  だが関ヶ原の合戦において特筆すべきことは、この合戦で東西両軍合わせての鉄砲装備率が、世界のいかな戦場におけるそれよりも高かったという事実である。種子島に初めて鉄砲が伝わってから約半世紀。この間の日本の軍事的進歩は、あれいは世界史上特筆すべきものであったかもしれない。
  そして日本戦史上初めて鉄砲を実戦使用したのは、なにを隠そう島津義弘なのである。薩摩・大隅国境にある標高二一〇メートルの岩剣山頂での戦いのことで、義弘はこの時まだ十九歳、初陣でのことだった。その義弘も今や六十六歳となり、西軍の武将として唯一、東軍の中に取り残されていた。

  
 戦場に一陣の風が舞った。冷たい風だった。
 「さあて、どげんすっか。よもや、こげん早くに敗戦が訪れようとは夢にも思わなんだ」
  島津義弘は長嘆息した。義弘はわずか千五百の手勢ながら、島津の名に恥じぬ戦をするため時を待っていた。だが決戦に及ぶ前に敗戦が訪れてしまった。義弘もまた窮した。すでに退路は東軍の兵で閉ざされている。側面からは小早川の部隊が攻撃の機を窺っている。そして眼前には徳川の本陣があった。しかも東軍との小競り合いの末、今手許に残された兵は、三百を数えるのみとなっていた。


 「恐れながら、もはやこれまででごわす。我等共に家康の陣に突撃し、覚悟の斬り死にをとげましょうぞ」
  と義弘に進言したのは京都出身で、島津家家臣として新参の長寿院盛淳だった。
 「うむ、おまんらようこん義弘に従ってくれた。おまんらを無事薩摩に帰還させれなかったことのみが、おいの心残り。じゃっどん我等主従、冥途の果てまでも共にあろうぞ」
  義弘の言葉に、義弘を取り囲む将兵の間から嗚咽がもれた。
 「いいや、そいは違い申すぞ」
  異論をとなえたのは、島津豊久だった。
 「ここで我等全員死ねば、東軍の奴腹は我等が卑怯なふるまいに及んだの、見苦しか真似ばしたのと、後世に好き勝手に偽りを伝えるに相違ごわはん。そいはたえがたきことでごわす。我等盾となりもうす。殿には薩摩にご帰還あれ」
  一旦床机から立ち上がった義弘であったが、豊久の言葉を聞き、再び座りこんでしまった。冷たい雨が義弘の鎧・兜を打った。
 

 義弘は思った。今ここに集っている兵のほとんどは、兄である龍伯や現国主である忠恒の許しをえず、薩摩からはるばるかけつけてきた者達である。島津家における法というものの厳格さは他家の比ではない。恐らく彼等が無事薩摩に戻れたとしても、最悪切腹が待っているかもしれないのである。彼等に帰るべき地はもはやない。ならば死に場所を与えてやるのもまた、主将としての己の務めではないのか? こうして義弘の腹は決まろうとしていた。


 戦勝を確実にした家康は、周囲の者に軽口をたたくなどして、実に上機嫌だった。ところがである。すでに戦闘が終息したはずの関ヶ原の地で、家康は突如として視界の彼方に一団の黒い塊を見た。瞬時家康は、眼前で今おころうとしている事態を、信じることができなかった。鋒矢の陣形を敷いた島津隊は、島津義弘以下三百の兵ことごとくが、文字通り一本の巨大な矢となって家康の本陣へ迫ったのである。
  

 島津隊はまず、福島正則の部隊の前を横切った。福島正則は勇猛比類なき将であったが、それでもなお、島津隊のことごとくに決死の形相を見て怯んだ。
  島津隊は福島隊の前を通り、次第、次第に家康の前に巨大な影を露わにする。
  家康を取り囲む井伊隊、本多隊が槍を構え、あわや一瞬触発という時、突如として島津兵のことごとくが、
 「チェストォォォ!」
  と大音声をあげ、伊勢街道めがけて進路を変える。むろんその声は家康の耳にも達していた。それは数多くの合戦の修羅場をくぐりぬけてきた五十八歳の家康をしても、しばし魂が凍る一瞬であった。
  家康は薩摩隼人の咆哮を忘れなかった。いや、徳川の歴史が永久にそれを記憶し、滅亡の時まで忘れなかったといってよい。この時から徳川三百年を通して、島津家は幕府の最大の仮想敵国となるのである。

  
 正気に戻った家康は、ただちに島津隊への追撃を命じた。だがその前に長寿院盛淳率いる一隊が立ちはだかった。
 島津家家臣として新参である盛淳は、そのため不当な扱いを受けることも多々あった。しかも有名な太閤検地の際、薩摩国内全域から不協和音が聞こえる中、最もこれに協力的な姿勢を示したのは、何を隠そう盛淳なのである。
 結果、島津家中で孤立無援となった盛淳は、逃げるようにして上方まではせ参じたのである。盛淳にも意地があった。その意地は主君を守り、自らの犠牲をかえりみない行動へとかりたてた。
 

「殿、どうか無事ご帰還あれ。わしが薩摩の武士として名に恥じぬ最期であったことを、お伝えくだされい」
  長寿院盛淳は、島津義弘の着用していた鎧に身を包み、
 「我こそは島津惟新入道義弘なり!」
  と叫び、全軍朱一色の井伊隊の中に消え二度と戻ることはなかった。長寿院盛淳五十三歳の壮絶な最期だった。

  
 島津隊はなおも疾走を続け、鳥頭坂の地点まで到達した。だが徳川勢は追撃の手を緩めない。
 紺糸威腹巻に身を包んだ島津豊久は馬を返し、井伊隊の前に立ちふさがる。島津の軍法に捨て奸もしくは座禅陣というものがある。殿の兵が逃走する道筋に沿って、数人ずつ点々と銃を持ち、敵が来るまでその場に座り、追ってくる敵軍の指揮官を狙撃し、 狙撃後は槍で敵軍に突撃するというものである。むろん狙撃手の生還率は、ほぼゼロである。

 
 ちなみに日本戦史上で最も早くに鉄砲を実戦使用し始めた島津家は、鉄砲撃ちの練度もかなりのものとなっていた。早合はやごうと呼ばれる弾と火薬を一体化させた弾薬包を持って、その場に座る。そして僅か十八秒で装填を済ませ、近づいてくる徳川方の追手を次々に射抜いていった。
  島津豊久率いるわずかな手勢は、この捨て奸によって井伊隊の前に一人、また一人と立ちはだかり、そのことごとくが時を稼いだ後討ち死にした。井伊直政は乱戦の中銃弾を右足に受け落馬。さらに家康四男松平忠吉までもが負傷した。
  
 
 島津豊久は再び逃走をはかろうとした。しかし井伊隊の背後から姿を現わしたのは、本多忠勝率いる一隊だった。本多忠勝は生涯百度以上の合戦に赴き、かすり傷一つ負ったことがないという化け物だった。秀吉が西の立花宗茂そして東の本田平八郎忠勝と評したのは、あまりに有名である。

 
 その本田隊が一直線に迫ってくる。島津豊久の一隊は最後は十数人に減った。そしてついに豊久は、敵の足軽に槍で馬のわき腹を突かれ地に伏した。だがすでに死を覚悟した豊久には、草の香りさえここちよく思えた。立ち上がると群がる敵の足軽二、三人を槍でたちどころに倒した。
 「覚悟!」
  敵の武者の一人が背後から豊久の腹に槍をいれた。豊久は一瞬顔をゆがめ再び地に倒れた。
 「死なぬ……こげなことでは島津の武士は死なぬ」
  ようやく立ち上がった豊久に、敵兵数名が一斉に槍を刺した。
 「なんのまだまだ! おいはまだ死んではおらん!」
  すでに冑を失い血染めの総髪をした豊久は、なおも戦意を両の眼光に満々とたたえ立ち上がった。
 

「死んでない化物だ!」
  敵の足軽等は槍をかまえたが、豊久の気迫におされ二、三歩後ずさりした。そこにとどめの銃弾が額を貫通した。地に伏した豊久、兜の上帯をがほぐれ鈍い音が響いた。かすかに豊久の脳裏をよぎったものは、父家久の影だった。
 「すまぬ父上、おいは……新たなる世をあおぎみることかなわなんだ……」
 島津豊久享年三十一歳。現在この時豊久が着用していた鎧が、当時のまま保存されている。全身隙間なく槍の穴だらけで、この時の撤退戦がいかほど凄まじかったかを、如実に物語っている。
 島津勢が東軍の追撃部隊を完全に振り切ったのは伊勢街道沿いを約一里、牧田でのことだった。島津義弘は生死不明となった。



 雨はなお降り続いていた。島津隊が去った関ヶ原の野に東軍の勝ち鬨があがった。徳川三百年の夜明けを告げる勝ち鬨といっていいだろう。累々と横たわる西軍諸将の屍には容赦なく冷たい雨が打ちつけるが、歴史は彼等のことを多くは語ろうとしない。
  関ヶ原の合戦は半日で東軍の圧勝で幕を閉じたが、日本国中でいまだ合戦は続いていた。奥州でも、北陸でも、そして九州における合戦も、まだ終息したわけではなかった。
 




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