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【第四章】関ヶ原・決戦前夜
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その後、西軍諸将は伊勢路を経て東西両軍決戦の地、美濃へと進出した。一方、家康とこれに従う福島正則・黒田長政等の豊臣恩顧の大名達は小山での評定を経た後、一路大返しして、やはり尾張・美濃へと進出した。ただし家康自身は江戸をどどまったまま動かない。この間家康は敵・味方問わず、日本国中の大名に手紙を送っていたのである。その数は確認されているだけで、百五十五通にも及んでいる。
家康が、まだ関東にいる間にも福島正則等の東軍諸将は、八月二十三日には美濃岐阜城を落とすなどして意気盛んだった。岐阜城は織田信長の孫である織田秀信が守っていたが、圧倒的な東軍の数の前にはひとたまりもなかった。岐阜城の陥落により、西軍は戦略上、最も重要な拠点を失ったのである。
結局家康の美濃・赤坂着陣は九月十四日となるが、その間、西軍の側では統帥である三成に対する不信が高まる一方だった。
まず島津義弘を動揺させる事件は、東軍の諸将により岐阜城が陥落したという報せが入った直後のことだった。
この時、三成は大垣城にほど近い、尾張清洲から美濃大垣への通過点にあたる沢渡村にいた。三成の手許にいる西軍諸将といえば小西行長・島津義弘だけである。毛利輝元は大坂から動く気配がない。盟友の大谷吉継は北陸での作戦に赴いていた。西軍諸将の中で最大規模をほこる一万七千の宇喜多秀家の部隊もまた、伊勢路での作戦のため手許にはいない。
「恐れながら、いささか兵を分散させすぎるのではござらぬか?」
と三成の作戦に疑念をいだいたのは、その腹心として世によく知られた島左近だった。だが三成には、家康は奥州の動向が気がかりであるため早々に江戸を動けないという、不動の信念のようなものがあった。家康が動かぬ以上、東軍諸将もまた動かぬはずである。ところが敵は動いた。この報がもたらされると同時に、三成の頭脳の中にある必勝の戦略は、音を立てて崩れはじめた。
三成にしてみれば、戦場の全てが、己が当初絵に描いたように進行しなければおかしい。だが三成の予想に反し敵は動いた。岐阜城を落とし、こちらに向かっているという。
『ただちに大垣城に戻らねば』
三成の頭にとっさにひらめいたのは、まずそれである。
「三成殿どちらへいかれるおつもりか?」
馬の手綱を引く三成に、義弘が声をかけた。
「とにかく、ここにいても埒があかん。ひとまず大垣城に戻り、宇喜多秀家殿に急使を出し宇喜多勢が戻るのを待つ」
「馬鹿な!」
と義弘は呆れた。島津勢は数日前、三成の命により墨俣の渡河点の守りを任されたばかりである。墨俣には島津豊久がいる。三成が退けば、島津豊久は敵の中に孤立してしまう。
「我が島津隊を敵の中に捨てて、一人逃げるとは卑怯ではごわはんか!」
義弘は口調は穏やかだが、言葉の奥底に深い憤怒が沈んでいた。三成という計数家にしてみれば、これから天下の大会戦が始まるに及んで、島津隊の一千という兵力はあまりに微小である。捨て殺しにするも栓ない部隊だった。あくまで墨俣の島津隊は一千という数量でしかなく、これは官僚としての三成の不覚といわざるをえない。
「おまんは人の上に立つ人間ではなか! こげんことなら家康殿にお味方すべきであった」
この義弘の言葉には、さすがにその場に居合わせた義弘の家臣等も驚き顔色を変えた。むろん三成もである。
『よもや、この男本気で敵に寝返る腹か?』
と三成は当然のように疑念をていしたが、疑念が頭をもたげるより先に、三成の鋭敏すぎる頭脳はすでに計算を始めていた。
『天下を二分する乱に及び、いかに精強とはいえ、高が一千の部隊が敵につこうと味方につこうと戦局にさして影響はない』
「島津殿、言葉を慎まれよ。味方の信を失うことになりまするぞ」
それだけいうと三成は、がっくりと頭を垂れる義弘の横を騎馬ですりぬけた。三成の幕僚等も、いっせいに後に続く。やがて最後に残った島左近が義弘の側近くで片膝をつき、
「こたびは真に主の不覚なれば、島左近、主に変わりお詫びつかまつる。我が殿はあのとおり人の情に疎い方なれど、豊臣家を思う心にいささかも曇りはござらぬ。どうかこたびだけは御容赦のほどを」
と侘びの言葉を一言入れ、三成のもとへ急ぎ立ち去った。義弘はかろうじて墨俣にいる豊久の一隊を救出したが、三成に対する不信感は簡単にぬぐい去れるものではなかった。
やがて一万七千という西軍中最大規模の軍勢をもって、伊勢路より宇喜多秀家が引き返してきた。だが宇喜多秀家を新たに加えての軍議は、大もめにもめることとなる。
「馬鹿な! 御主は間違っておる!」
まず声を荒げたのは宇喜多秀家だった。秀家は大垣の西北一里の赤坂という、小高い丘陵に陣取った東軍を、夜襲をもって一気に粉砕するという策を三成に進言したが、三成はにべもなくこれを却下した。
「敵はここ数日の間の強行軍で疲労しきっておる。これを奇襲すれば勝利はいとたやすいこと。御主なにを迷っておる!」
「秀家殿、今すこし待たれよ。我等はまだ数が揃っておらん。時を待てば北陸の大谷隊、伊勢路からは吉川広家殿の部隊、さらには長宗我部殿、長束殿の部隊もかけつける。大坂にいる毛利殿もおいおいはせ参じるというもの。敵方に内府がまだ着陣してもおらんのに、無駄に兵を損じる必要はござらぬ」
「逆であろう! 内府が到着してからでは遅いのだ。それが何故わからん!」
「こたびの戦ただの戦ではござらん。内府の首をあげねば意味がないのでござる。無用の戦は控えるべきでござる」
秀家は言葉を失い、憤然として席を立ってしまった。
「おいも今が好機と思いもうす。せめて我が一手のみをもってしても、敵の陣に奇襲をしかけることお許し願いもうはんか?」
と進言したのは島津義弘だった。
「無用なことじゃ、こなたの一千の軍勢のみで、戦況がどうこうなるものではない」
「奇襲に数は関係なか! 敵陣の混乱を誘えば我等の思う壺でごわす」
「そなたは、この合戦を九州の田舎での小戦と勘違いしてはおらぬか? 今は天下を争う大戦の前でござるぞ。まずはそれがしの命に従ってもらわねば困るというもの」
『小戦も大戦もなか。合戦というものは一度戦機を失えば、そいを取り戻すは容易なことでんなか! そいがわからんか愚かもんが!』
義弘は思わず叫びたい衝動にかられて、かろうじて言葉を飲みこんだ。先日も三成と一悶着あったばかりで、ここでさらに自らの立場を弱めたくはなかった。
さらに義弘をして三成に対する不信感を募らせる事件が、数日しておきた。
「今戻り申した」
とちょうど朝餉の最中にある義弘の前に姿を現わしたのは、島津豊久だった。
「おうどげんじゃ、敵にないごてか動きでんあったか?」
義弘が飯を噛みながらいった。
「敵は動いておりもうさん。ただ諜者が奇妙な武者を見たとかで……。なんでもその武者は供の者二人ほどを従えて、龍ノ口門から西に向かったということでござる」
「そん者はまた、どげな身なりをしとった?」
「粗末な小袖に伊賀袴だったとか、治部少輔殿の手形を持ち、騎乗していた馬は黒鹿毛の逸物であったとのこと」
「なんとそいは三成の馬じゃ! 間違いなか!」
義弘はあまりのことに、箸を落とし絶句した。
三成は前日、中山道垂井から関ヶ原の方角に火の手があがるのを見た。もしや自らの居城佐和山がもしや危ういのではと想像し、自ら二人の供とともに大垣を出立してしまった。
「大将がみだりに城を動くものではござらん。もしどうしても佐和山のことが気がかりなら、それがしが参りもうす」
謀臣島左近は当然のように三成を制止したが、三成は聞かなかった。
「そげなこと信じられもうはん。これから天下を争う戦が始まるというのに、大将がまるで一騎武者のように……。どげんしたらよかと!」
豊久はしばし茫然自失の体となった。
「躊躇している余裕はなか、豊久おまんは兵五十ほどでよか、ただちに治部少輔殿の後を追うのじゃ。もし治部少輔殿が敵に捕らわれでもしたら、そいこそ天下の一大事」
豊久はただちに出立し、数日して三成は何事もなかったかのように大垣に帰陣した。だが義弘の困惑は並大抵のものではなかった。もし敵の将家康なら、兄龍伯なら、果たして戦の最中無断で陣をぬけだすであろうか。そもそも何故かような将が、天下を争う土俵に立つことになったのか。義弘は、この合戦の意味を考えずにはいられなかった。
九月十四日、家康着陣。こうして西軍諸将は三成という大将の器にほど遠い人物を頭とし、足並みそろわぬまま、九月十五日決戦をむかえるのである。この日未明、関が原は濃い霧に包まれていた。
家康が、まだ関東にいる間にも福島正則等の東軍諸将は、八月二十三日には美濃岐阜城を落とすなどして意気盛んだった。岐阜城は織田信長の孫である織田秀信が守っていたが、圧倒的な東軍の数の前にはひとたまりもなかった。岐阜城の陥落により、西軍は戦略上、最も重要な拠点を失ったのである。
結局家康の美濃・赤坂着陣は九月十四日となるが、その間、西軍の側では統帥である三成に対する不信が高まる一方だった。
まず島津義弘を動揺させる事件は、東軍の諸将により岐阜城が陥落したという報せが入った直後のことだった。
この時、三成は大垣城にほど近い、尾張清洲から美濃大垣への通過点にあたる沢渡村にいた。三成の手許にいる西軍諸将といえば小西行長・島津義弘だけである。毛利輝元は大坂から動く気配がない。盟友の大谷吉継は北陸での作戦に赴いていた。西軍諸将の中で最大規模をほこる一万七千の宇喜多秀家の部隊もまた、伊勢路での作戦のため手許にはいない。
「恐れながら、いささか兵を分散させすぎるのではござらぬか?」
と三成の作戦に疑念をいだいたのは、その腹心として世によく知られた島左近だった。だが三成には、家康は奥州の動向が気がかりであるため早々に江戸を動けないという、不動の信念のようなものがあった。家康が動かぬ以上、東軍諸将もまた動かぬはずである。ところが敵は動いた。この報がもたらされると同時に、三成の頭脳の中にある必勝の戦略は、音を立てて崩れはじめた。
三成にしてみれば、戦場の全てが、己が当初絵に描いたように進行しなければおかしい。だが三成の予想に反し敵は動いた。岐阜城を落とし、こちらに向かっているという。
『ただちに大垣城に戻らねば』
三成の頭にとっさにひらめいたのは、まずそれである。
「三成殿どちらへいかれるおつもりか?」
馬の手綱を引く三成に、義弘が声をかけた。
「とにかく、ここにいても埒があかん。ひとまず大垣城に戻り、宇喜多秀家殿に急使を出し宇喜多勢が戻るのを待つ」
「馬鹿な!」
と義弘は呆れた。島津勢は数日前、三成の命により墨俣の渡河点の守りを任されたばかりである。墨俣には島津豊久がいる。三成が退けば、島津豊久は敵の中に孤立してしまう。
「我が島津隊を敵の中に捨てて、一人逃げるとは卑怯ではごわはんか!」
義弘は口調は穏やかだが、言葉の奥底に深い憤怒が沈んでいた。三成という計数家にしてみれば、これから天下の大会戦が始まるに及んで、島津隊の一千という兵力はあまりに微小である。捨て殺しにするも栓ない部隊だった。あくまで墨俣の島津隊は一千という数量でしかなく、これは官僚としての三成の不覚といわざるをえない。
「おまんは人の上に立つ人間ではなか! こげんことなら家康殿にお味方すべきであった」
この義弘の言葉には、さすがにその場に居合わせた義弘の家臣等も驚き顔色を変えた。むろん三成もである。
『よもや、この男本気で敵に寝返る腹か?』
と三成は当然のように疑念をていしたが、疑念が頭をもたげるより先に、三成の鋭敏すぎる頭脳はすでに計算を始めていた。
『天下を二分する乱に及び、いかに精強とはいえ、高が一千の部隊が敵につこうと味方につこうと戦局にさして影響はない』
「島津殿、言葉を慎まれよ。味方の信を失うことになりまするぞ」
それだけいうと三成は、がっくりと頭を垂れる義弘の横を騎馬ですりぬけた。三成の幕僚等も、いっせいに後に続く。やがて最後に残った島左近が義弘の側近くで片膝をつき、
「こたびは真に主の不覚なれば、島左近、主に変わりお詫びつかまつる。我が殿はあのとおり人の情に疎い方なれど、豊臣家を思う心にいささかも曇りはござらぬ。どうかこたびだけは御容赦のほどを」
と侘びの言葉を一言入れ、三成のもとへ急ぎ立ち去った。義弘はかろうじて墨俣にいる豊久の一隊を救出したが、三成に対する不信感は簡単にぬぐい去れるものではなかった。
やがて一万七千という西軍中最大規模の軍勢をもって、伊勢路より宇喜多秀家が引き返してきた。だが宇喜多秀家を新たに加えての軍議は、大もめにもめることとなる。
「馬鹿な! 御主は間違っておる!」
まず声を荒げたのは宇喜多秀家だった。秀家は大垣の西北一里の赤坂という、小高い丘陵に陣取った東軍を、夜襲をもって一気に粉砕するという策を三成に進言したが、三成はにべもなくこれを却下した。
「敵はここ数日の間の強行軍で疲労しきっておる。これを奇襲すれば勝利はいとたやすいこと。御主なにを迷っておる!」
「秀家殿、今すこし待たれよ。我等はまだ数が揃っておらん。時を待てば北陸の大谷隊、伊勢路からは吉川広家殿の部隊、さらには長宗我部殿、長束殿の部隊もかけつける。大坂にいる毛利殿もおいおいはせ参じるというもの。敵方に内府がまだ着陣してもおらんのに、無駄に兵を損じる必要はござらぬ」
「逆であろう! 内府が到着してからでは遅いのだ。それが何故わからん!」
「こたびの戦ただの戦ではござらん。内府の首をあげねば意味がないのでござる。無用の戦は控えるべきでござる」
秀家は言葉を失い、憤然として席を立ってしまった。
「おいも今が好機と思いもうす。せめて我が一手のみをもってしても、敵の陣に奇襲をしかけることお許し願いもうはんか?」
と進言したのは島津義弘だった。
「無用なことじゃ、こなたの一千の軍勢のみで、戦況がどうこうなるものではない」
「奇襲に数は関係なか! 敵陣の混乱を誘えば我等の思う壺でごわす」
「そなたは、この合戦を九州の田舎での小戦と勘違いしてはおらぬか? 今は天下を争う大戦の前でござるぞ。まずはそれがしの命に従ってもらわねば困るというもの」
『小戦も大戦もなか。合戦というものは一度戦機を失えば、そいを取り戻すは容易なことでんなか! そいがわからんか愚かもんが!』
義弘は思わず叫びたい衝動にかられて、かろうじて言葉を飲みこんだ。先日も三成と一悶着あったばかりで、ここでさらに自らの立場を弱めたくはなかった。
さらに義弘をして三成に対する不信感を募らせる事件が、数日しておきた。
「今戻り申した」
とちょうど朝餉の最中にある義弘の前に姿を現わしたのは、島津豊久だった。
「おうどげんじゃ、敵にないごてか動きでんあったか?」
義弘が飯を噛みながらいった。
「敵は動いておりもうさん。ただ諜者が奇妙な武者を見たとかで……。なんでもその武者は供の者二人ほどを従えて、龍ノ口門から西に向かったということでござる」
「そん者はまた、どげな身なりをしとった?」
「粗末な小袖に伊賀袴だったとか、治部少輔殿の手形を持ち、騎乗していた馬は黒鹿毛の逸物であったとのこと」
「なんとそいは三成の馬じゃ! 間違いなか!」
義弘はあまりのことに、箸を落とし絶句した。
三成は前日、中山道垂井から関ヶ原の方角に火の手があがるのを見た。もしや自らの居城佐和山がもしや危ういのではと想像し、自ら二人の供とともに大垣を出立してしまった。
「大将がみだりに城を動くものではござらん。もしどうしても佐和山のことが気がかりなら、それがしが参りもうす」
謀臣島左近は当然のように三成を制止したが、三成は聞かなかった。
「そげなこと信じられもうはん。これから天下を争う戦が始まるというのに、大将がまるで一騎武者のように……。どげんしたらよかと!」
豊久はしばし茫然自失の体となった。
「躊躇している余裕はなか、豊久おまんは兵五十ほどでよか、ただちに治部少輔殿の後を追うのじゃ。もし治部少輔殿が敵に捕らわれでもしたら、そいこそ天下の一大事」
豊久はただちに出立し、数日して三成は何事もなかったかのように大垣に帰陣した。だが義弘の困惑は並大抵のものではなかった。もし敵の将家康なら、兄龍伯なら、果たして戦の最中無断で陣をぬけだすであろうか。そもそも何故かような将が、天下を争う土俵に立つことになったのか。義弘は、この合戦の意味を考えずにはいられなかった。
九月十四日、家康着陣。こうして西軍諸将は三成という大将の器にほど遠い人物を頭とし、足並みそろわぬまま、九月十五日決戦をむかえるのである。この日未明、関が原は濃い霧に包まれていた。
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