戦国九州三国志

谷鋭二

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【第三章】慶長の役・露梁海峡の戦い

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   島津義弘は漆黒の闇の中にいた。眼下には海峡があり潮が渦を巻いている。海鳴りが雄叫びをあげ、潮の香りが心地よい。不意に義弘は一匹の巨大な龍がとぐろを巻きながら、眼下に飛来する光景を目撃する。その着地地点に炎があり、炎の中に一人の筋骨隆々たる武人の姿があった。
 「汝が李舜臣か!」
  義弘は本能的に刀の鞘に手をかけた。
 「汝、祖国のため数限りなく功をたてながら、俗人どものため命すら失いかけたと聞く。かような国のため尽くすことにいかほどの意味があるか。刀を捨て、国をも捨てれば、そなたは命永らえよう。戦するは無意味ごわんと」
  義弘は李舜臣を哀れむかのようにいった。
 「笑止! ならば汝は何故に戦するか。汝の国の主は、己の欲を満たしたいがためだけに我国土を犯し、それがため汝は数多くのものを失った。汝こそ国に帰るがよい。この異国に屍をさらすは、汝の本意ではあるまい」
 「己許せん!」
  義弘は刀をぬき、炎の中にある武人を斬ろうとした。
 「かような刀さばきでは、わしを斬ることはできん!」
  李舜臣は同じく刀をぬき、軽々と義弘の剣を受け止めたかと思うと、再び飛龍と化し天へ消え去った。


 李舜臣は武装を解くことなく戦鼓を枕に、船上でしばし横になっていた。不思議な夢であった。その意味するところは、李舜臣自身にも確たることはわからない。
 気がつくとそこはすでに露梁海峡だった。月灯りが実に鮮明に海峡を照らしている。すでに帰るべき地はなく、ほどなく自らの墓場となるであろう海峡を照らす月明りに、李舜臣はかすかに笑みさえ浮かべた。
  
 
 李舜臣にとっての痛恨事は、郷里忠清道の牙山での戦闘で、最愛の三男を失ったことだった。『乱中日記』には、
 『天は何故かくも不仁なるか。臓腑みな煮えくりかえる。我死し汝生きるこそ理の常である。汝死し我生きるとは、なんぞ理にそむけるや。天地は暗黒となり、白日は光を失った……』
  と無念のほどが書き記されている。とにかく李舜臣は世のことごとくに絶望していた。今となっては李舜臣を支えるもの、それは日本軍に対する復讐の一念のみだった。
 「見えましたぞ敵艦隊が……」
  と側近が、やや声をうわずらせながらいう。

  
 李舜臣は船上に祭壇をもうけて香を焚き、
 「我死すとも、敵を殲滅すればまた怨まず」
  と必勝を祈願する。
  日朝両軍の水軍が激突したのは寅の刻(午前四時)のことだった。
  頭頂に玉鷲をいただく鉄冑をかぶった李舜臣は、自ら水軍の先頭をいく船の舳先に立つ。その号令一下亀甲船が水上を滑るように、日本水軍の先陣を担う立花宗茂の部隊に襲いかかる。
 「鉄砲隊射撃用意!」
  立花水軍の鉄砲部隊が、露梁海峡の潮の流れをもろともせず攻め寄せてくる敵亀甲船に、鉄砲を雨あられと浴びせる。
「よし、着火用意!」
 朝鮮水軍の格軍達は火薬を大量に搭載した船に、自ら火をはなった。亀甲船は炎を放ち、一個の炎上する海の悪霊と化し、鈍い衝撃音と同時に日本側の船に激突した。同時に格軍は一斉に海中に身を投じる。中には逃げ遅れる者もいたが、格軍もまた李舜臣とともに海峡に散る覚悟を決めており死を恐れなかった。さしもの宗茂も半ば戦慄し、恐れを抱かずにはいられなかった。


「構わぬ敵は小勢ぞ、敵の大将船を狙え」
  素早く宗茂の命令が、各戦艦に伝令されていく。李舜臣は目立つ鎧で船の先頭に立ち、旗指物がきらびやかであったため、即座にそれが大将船であることが明らかになった。立花隊の戦艦が殺到するも、ただちに数隻の亀甲船が大将船の護衛にまわる。非常な接近戦となり鉄砲、火薬壺、まき束双方あらゆるものが攻撃手段として動員された。立花家家臣池辺彦左衛門は敵の船に飛び移り『一番乗り』と名乗りをあげると同時に、槍で内股から脳まで串刺しとされ絶命する。


 「わしはここじゃ、見事わしの首を討ち取って手柄にせい!」
  激戦の最中、李舜臣は大音声をあげた。
 「己、鉄砲隊前へ!」
  宗茂の号令とともに、鉄砲そして弓が李舜臣の大将船めがけて放たれた。そのうち数発が李舜臣に命中した。
 「うぬ、わしは死なぬぞ! これしきのことで死なぬぞ」
  李舜臣は血反吐をはきながら絶叫し、そして倒れた。
 

「敵の大将討ち取ったり!」
  宗茂が李舜臣の討ち死にを確信し、勝ち鬨をあげた時だった。突如として予想外の事態が待ちかまえていた。
 『どこを見ている小僧!』
  油断していた立花水軍の虚を突くかのように、一隻の亀甲船が弓の射程距離まで迫り、鉄の鎧に身を包んだ武人が弓を構えていた。宗茂は自らの命を狙う敵の武者の眼光に、一時死神を見た。次の瞬間武者の放った矢が命中し宗茂はその場に昏倒した。勝利を確信していた立花水軍の将兵達は瞬時にして沈黙する。死んだはずの李舜臣は影武者だったのである。

  
 大将が重傷を負った立花隊は非常な混乱に陥った。だがその時、丸十字の新手の船団が出現し朝鮮水軍を翻弄した。大将島津義弘はしばし潮の流れに耳を傾けていたが、静かに矢倉から立ち上がると、
 「砲撃用意!」
  と気迫に満ちた声で号令を下した。不意に朝鮮水軍は、予想外の日本水軍による天字砲の攻撃に動揺した。その威力は絶大で、朝鮮水軍の船は激震し、戦闘不能に陥るほど甚大な損壊をこうむる船が続出する。水兵達の多くが錯乱したかのような悲鳴をあげながら、露梁海峡の波に消えていった。李舜臣の不覚は、すでに死を覚悟しての出征であったため、敵の大砲に応戦する砲を積んでいなかったことだった。
 「さしずめ我が方の戦艦を拿捕し、手にいれたものだろう。案ずるには及ばん。弾の数はせいぜい限られたものに違いない」
  その言葉通り、島津軍による大砲の攻撃は長く続くものではなかった。

  
 やがて潮の流れが日本側にとって逆流に変わった。島津隊の水軍は次第に離散し、義弘の船はわずかな味方の船とともに敵中にとり残された。幾度が浅瀬に乗り上げそうになり、朝鮮側の水兵が義弘めがけて熊手を打ちかけ、投げ鎌を放ってくる。
 「我こそは島津義弘なり! 敵の大将はいずこか!」
  死を覚悟した義弘は、抜刀して船頭に立った。
 「日本の侍よわしはここじゃ!」
  義弘の声に応じるように、一人の黄土色の鉄製の鎧をまとった武人が、船頭に姿を現わした。だが同じ声は、義弘の船を取り囲む左の船からも、さらに右の船からも聞こえた。いずれも同じ鎧を身にまとっている。


 『果たしていずれが影武者で、いずれが真の敵将か……』
  しばし躊躇した義弘だったが、この時軍旗に宿る鋭気と、李舜臣を取り囲み護衛する水兵達の緊張感から、中央の船の先頭に屹立する者を敵の大将と確信した。
 「種子島久時はおるか」
 「ここにおりまする」
  と島津家中において、鉄砲の名手として知られた種子島久時が片膝をつく。
 「あれに見えるがまっこて敵の大将じゃ、あん者を狙撃せよ」
  久時は銃を構え着火する。義弘の指さす方角に狙いを定めると、失敗が許されぬため一呼吸してから引き金をひいた。次の瞬間鈍い音がした。同時に噴出する血潮がはっきりと見てとれた。明らかに致命の一撃だった。


 「将軍!」
 「将軍しっかりなされませ!」
  李舜臣側近達は一斉に集まり、すでに血の気のない李舜臣の体を抱きあげた。
 「うぬ! 見事だ日本の侍よ……。国王に伝えてくれ、わしは敵に寸土たりとも与えなかったと……。わしはここに眠る。人は必ず死ぬが、わしの魂は……」
  さらに何事かいおうとしたが、すでにその力は残されていなかった。李舜臣はそのままゆっくりと、眠るように息を引き取った。李舜臣享年五十四歳。不意にその目に宿るものは血の涙であった。
  
 
 李舜臣の甥にあたる李莞は、まるで本物の李舜臣が生きているかのように戦闘を継続し、やがて島津隊は海峡の出口にさしかかった。ほどなく勝利の太鼓と笛が狂ったように響いたが、手旗信号で各艦隊に李舜臣の死が知らされると、全ての船が沈黙し、慟哭が海鳴りをも打ち消した。

  
 ようやく夜明けをむかえようとしていた。島津義弘及び日本側の水軍は海峡をぬけ、ようやく外洋に達しようとしていた。
 「命の心配なか、養生すれば治る」
  医学の心得もある義弘は、戦の最中負傷した宗茂の手当てを自らして、完治するのに多少時間がかかるが、生命の危険がないことを確信した。
 

「それにしても、討ち死にしたんはまっこて敵の大将でごわんしょうか?」
  種子島久時が疑念をていした。
 「いや間違いなか、あれを見い」
  義弘とその側近達は一斉に東の空を仰ぎみて、思わず驚嘆の声をあげた。天空を朝日を浴びて、一匹の龍が昇っていく光景が目撃されたからである。
 「李舜臣、敵ながらあっぱれといわざるをえまいて……」
  義弘は手を合わせ、龍が消えていった方角にしばし祈りをささげた。

  
 七年にも及んだ朝鮮戦役は終焉をむかえようとしていた。宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で曰く、
 『もっとも信頼できるかつ正確と思われる情報によれば、兵士と輸送員含めて、十五万人が朝鮮に渡ったと言われている。そのうち三分の一に当たる五万人が死亡した。しかも敵によって殺された者はわずかであり、大部分のものは労苦、飢餓、寒気、および疫病によって死亡したのである。朝鮮人の死者は知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大である……』

  
 島津隊は巨済島を発し、安骨浦、天城等を経由し十一月二十二日釜山に到着した。無事博多に帰還したのは十二月十日のことである。十二月二十七日には五大老にも謁見している。
 「もし貴殿がいなければ、日本の軍兵十万余は、外土の枯骨となっていたことであろう。いやはや、まこと稀代の大功、異国・本朝に類がない」
  と徳川家康がいえば、他の大老達も義弘を絶賛した。
  

 島津家は朝鮮戦役での大功により、特別に五万石の加増まで得ている。だが義弘は素直に喜ぶことができなかった。島津家が払った犠牲はあまりに甚大で、義弘自身も最愛の息子久保を失ったばかりか、ようやく帰還した薩摩では、弟歳久の慰霊と対面しなければならなかったからである。義弘は戦うことの意味を、改めて思わずにはいられなかった。
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