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【第三章】慶長の役・鳴簗沖海戦
しおりを挟む李舜臣はようやく水軍の将に復帰をはたした。だが朝鮮王朝内部では、わずか十三隻を残すだけとなった水軍の存続に、疑念の声を抱く者もいた。むろん李舜臣とて陸に上がれば、まさしく丘の上の河童である。水軍を陸軍に編入するという意見を持つ者の中には、李舜臣を憎み、その活躍の場を奪わんとする者も含まれていた。だが李舜臣はきっぱりといった。
「いまだ軍船十三隻あり、望みなきに非ず」
かって科挙の武科を受験した際に誤って馬から落ち左足を骨折し、柳の枝を折って当て木とし、所定の科目を終えたという李舜臣は、いかなる事態に陥っても最善を尽くす。とにかく胆力が尋常一様ではない。
やがて高く掲げられた『起復授三道水軍統制使』の旗のもと、李舜臣の就任式が挙行されることとなった。夜の闇を月の光だけがかすかに照らす中、松明を片手に掲げた水兵達のもとに、李舜臣は再び姿を現わした。
「敵はすでに勝利を確信していることだろう。次の戦で我等ことごとく滅び、日ならずして我国は敵の領土となる。敵はそう信じている。私は今までの六年間、多くの部下達を戦場に送り、一度も負けた事はない。それは勝利を確信できない戦場に、部下達を率いた事はないからだ。
しかし今は違う。我等に残された船は十三隻、到底互角に敵と渡りあえる兵力ではない。それでも、このすべての悪条件を抱いても、私はあなた達と共に戦場に出たい。勝利への確信はない。たった一人の戦死者も出さず、戦場を脱出できるとも断言できない。私がただ一つ約束できる事は、私が朝鮮水軍の最前線を守る前衛隊になるということだけだ。大将船が一番先に敵陣に向けて進撃し、敵を全滅させない限り、絶対海から逃げ出せない。
生きようと思えば死ぬだろう、死のうと思えば生きるだろう。命に代えてでもこの祖国を守りたい者は我に続け。決戦の地は、鳴簗海じゃ!」
と李舜臣は、最後に戦場を予告して演説を締めくくった。つまり李舜臣は、集まった水兵達に半ば公然と死の宣告をし、自らも死ぬといったわけである。だがこの時期李舜臣の不幸は、義禁府の獄での拷問の痛みがまだ消えていないことだった。その様子は、李舜臣自身が残した乱中日記に詳しい。
八月二十日戉寅 晴 移陣于梨津下倉舎 而気甚不平 廃食呻吟
(梨津に陣を移した 身体の調子がひどく悪く、食事は摂取せずに苦しんだ)
八月二十二日庚辰 晴 不省人事 下気亦不通
(昏睡状態が続く。便も出ない)
八月二十三日辛已 晴 痛勢極重 而泊船不便 棄船出海而宿
(症状は極めて重い。船にいるのが苦痛で上陸した)
果たしてかような国家に仕えることに、いかほどの意味があろうか。痛みにのたうち回るたび、李舜臣は疑念を抱かずにはいられなかった。
「なんと、李舜臣は動けぬと申すか?」
と敵方に放った乱波からの知らせに驚いたのは、瀬戸内の村上水軍の傍系ともいえる、来島村上水軍の長来島通総だった。かって毛利家に属し、大友方との合戦にも参加したといわれる来島通総は、この年三十七歳。今は伊予の大名でもある。
「なんでも、李舜臣は牢に入れられた際ひどい拷問を受け、その傷の影響で病の床にあるとか」
「ふむ、それは残念じゃのう。こたびこそは兄上の仇をとれると思うておったのに」
来島通総の兄来島通之は、文禄三年の海戦で、李舜臣の水軍と戦い戦死していた。
「まあよいわ、わずか十三隻しか船がなく、李舜臣のおらぬ朝鮮水軍など風の前の塵も同じ。よし出陣じゃ、我が武功朝鮮の民にとくと思いしらせてくれるわ」
大太鼓とともに、来島通総は日本軍の先陣をきって露簗海峡を出航した。八月二十三日のことである。二十七日には藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治等も続いた。
一方、朝鮮水軍は八月二十四日梨津から於蘭浦(朝鮮半島南岸の最西端)に出航。そのまま動かなくなった。二十八日梨津に入った来島通総は、敵艦隊の様子いぶかしんだ。
「今日も敵水軍に動きなしか、何事か策でもなければよいがのう」
「やはりかねてからの噂どおり、李舜臣重傷のため、動くに動けないのではありますまいか? こちらから仕掛けてみるのも手ではありますな」
側近がいうと通総は、
「いや、動けぬとみせかけて策があるかもしれん。藤堂、加藤等の後続部隊も遅れておる。今は待ちに徹するが肝要」
と、通総は自らもはやる心を抑えた。
二十九日、朝鮮水軍は於蘭浦から二十七キロの碧波津に移動を開始した。碧波津から李舜臣が決戦場とした鳴簗まで約五キロである。一方、日本側の後続部隊はなかなか到着しなかった。しびれを切らした通総は九月八日夜半、敵の斥候船とおぼしき船数十隻を襲撃。生け捕りにした朝鮮水夫の口から、李舜臣の重病を確信した。
日本側の水軍が一同に会したのは、ようやく九月十四日になってのことだった。総勢三百隻にもなる大船団である。その威容は浮かぶ要塞といってよく、十三隻のみの朝鮮側の水兵を動揺させずにはいられなかった。翌十五日移動開始。十六日、ついに敵水軍が待つ鳴簗海峡といわれる狭い水路に入った。
日本水軍は鳴簗海峡に横一列の陣形を敷く。先陣は来島通総、その後に藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治と続く。むろんそのいずれもが、海戦の勝利を確信していた。
「ええい! 先陣が壁になって動けんではないか。早よう前へ進まんか!」
来島水軍の後に続く藤堂高虎はいらだった。状況は藤堂水軍の後に続く、加藤嘉明も同様で、最後尾の脇坂安治の水軍に至っては、もはやこの海戦での功をあきらめたに等しい有様であった。
先頭をいく来島通総は、鳴簗海峡の潮の流れが予想外に速いことに驚いた。やがて眼下に、あまりに微弱な朝鮮水軍とおぼしきものが見えてきた。戦闘開始を告げる合図の太鼓を鳴らすよう配下に命じようとした時、不意に敵水軍の銅鑼が先になった。先頭の亀甲船に剣を逆さにし屹立するのは、まぎれもなく李舜臣だった。
李舜臣は、ようやく回復の兆しを見せ始めていた。だが鳴簗海峡という、この潮流の速い船の難所に日本軍をおびきよせるため、自らの重病説をも利用した。碧波津に停泊し動かなかったのも、そのためである。
来島通総は、しばし海峡を吹きぬける冷たい風にさらされながら瞑目した。長く船戦を経験してきた者の勘であろうか、すでに何事か不吉なものを感じはじめていた。むろんわずか十三隻の敵船に恐れをなしたとあっては、武門の恥辱である。室町時代以来の村上水軍の歴史の担う者として、他国の水軍に後れをとるわけにはいかないのである。やがて軍配を返すと、
「突撃!」
と号令を下す。この時朝鮮水軍にとっての幸運は、残存艦隊の全てが亀甲船であったことだった。しかも李舜臣は、この海峡を熟知していた。船の数こそ差はあるものの、縦に伸びきった陣形では大軍といえど威力を発揮できない。一隻、また一隻と亀甲船に翻弄され沈んでいく。
「砲撃用意!」
李舜臣は素早く指揮系統に命令をくだした。命令は旗手によって他の艦隊にも伝達されていく。再び朝鮮水軍の誇る玄字砲、地字砲等の各砲台が火を噴いた。これにより来島水軍は一層混乱した。大砲に当たらないまでも、暗礁に乗り上げ座礁していく船が後をたたない。
「ええい、なにをしておる! 敵は小勢ぞ押しだせ!」
通総は必死に下知するも、突如不意に、海峡を吹きぬける風が先刻来より一層冷たく思えた。通総は確かに海の慟哭を聞いた。まるで自らを死へと誘っているかのように……。その時だった。
「申し上げます!」
配下の一人が血の気が引いた顔で、その場に片膝を突いた。
「潮の流れが変わりました」
「なんだと!」
通総は、驚きしばし呆然とした。鳴簗海峡の潮の流れは日に四回、予告なしに変わるのである。李舜臣が待っていたのは、まさに潮の変化だった。逆流に変わった潮流の中、来島水軍の船は次第に離散していく。こうなるともはや戦闘どころの騒ぎではなかった。やがて孤立した通総の船は、敵亀甲船に取り囲まれ命運尽きた。来島通総は玄字砲の直撃を受け、その原型すら定かならぬ肉塊となり、鳴簗海峡に飲みこまれていった。
「己! 来島水軍のふがいないことよ!」
後に続いたのは藤堂高虎の水軍だった。だがこれも逆流のため、操船が思うにまかせない。すでに李舜臣から死をも宣告された朝鮮水軍は必死だった。砲撃を弾が尽きるまで繰り返し、亀甲船で体当たりし、格軍も手が血まみれになっても船を漕ぎ続けた……。
その頃島津義弘は奇妙な夢を見た。いずこかの海を船頭と二人でさすらう夢である。むろん義弘自身も、船がいずこへ赴くのかわからない。終始瞑目していた義弘が目を開くと、眼前に断崖絶壁が見えてきた。と突如として崖が倒壊し、闇の中、風雨が義弘を襲った。落雷と同時に天から飛来したのは、一匹の巨大な龍だった。
「己化け物!」
義弘が刀をぬこうとした時、不意に龍が口をきいた。
「日本の武者よ、早くわしの首を取りにこい!」
それだけいうと龍は天に消えた。
数日して、鳴簗海峡で水軍が大敗したという噂が、日本の各諸将に広まった。藤堂高虎は負傷し撤退、後続の部隊も戦わず撤兵した。日本側はこの海戦で三十一隻もの船を失ったのであった。
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