戦国九州三国志

谷鋭二

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【第三章】立花宗茂と肥後国人一揆

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   さて立花宗茂は、筑後四郡十三万石を与えられ、大友家から独立した豊臣政権下の一大名にとり立てられた。そして秀吉の命により、居城を立花城から、新たに柳川城へ移すこととなったのである。だがこの移封には、思わぬところから反対の声があがることとなる。
  その日宗茂は、久々に家臣と共に城下の見回りをして帰路を急いでいた。不意に供回りが、夜に静けさに敏感に何者かの殺気を感じ取ったのは、一行がまばらな民家にさしかかった時だった。突如として、数本の矢が一行に向けられたのである。
 

「何奴!」
  宗茂は、突然の狼藉者に瞬時に刀に手をやった。時を経ず、忍び達が一斉に宗茂と供回りに襲いかかる。だが宗茂と配下の武士達は、いずれも屈強の猛者そろいである。忍び達はたちまちのうちに多くが斬りふせられ、残った者も退散した。逃げ後れた一人の忍びだけが捕らわれの身となる。
 「何者じゃ、何故我等を狙う」
 「立花家は我等の仇敵、我等はそなた等の柳川城入城など決して歓迎せぬ」
  そこまでいうと忍びは、不意にぐったりとなった。舌を噛み切ったのである。

  
  ただちに黒幕の探索が始まった。そして予想外の事実が明らかとなる。宗茂が久方ぶりに妻ぎん千代のもとへ通ったのは、事件から数日後のことだった。
 「恐れながら、よもや本気で殿を殺めるつもりであったとは思えませぬ。くれぐれも亡き道雪様の忘れ形見であることをお忘れあるな」
 「わかっておる」
  家老薦野増時の言葉に、宗茂はかすかに頷いた。
 

「おや、今日は随分と早い時分にお越しであること」
  ぎん千代は、この時鏡に向かい、髪を一本ずつ櫛でとかしているところだった。
 「今日はそちに大事な話しがある。そなた達は下がれ」
  宗茂は最初に、かたわらに控える侍女達を下がらせた。
 「いかがなされましたか? 久しぶりに通ってきたというのに、今日は機嫌がよろしくないご様子で?」
  ぎん千代は鏡に映った宗茂の顔が、かすかに怒気をふくんでいるのを見て、疑念をていした。
 「場合によっては、今日そなたを斬らねばならぬかもしれぬ」
  宗茂がはっきりいうと、ぎん千代の髪をいじる動作がピタリと止んだ。

 
「何故、わしに刺客をさしむけたりしたのだ!」
 「理由は……お察しくださればわかるはずです。私はこの城で育ち、成長しました。今更柳川へなど移りたくありません。それに亡き父上様は、柳川城の方角に甲冑をつけたまま埋葬しろと遺言なされました。よもやお忘れではありますまい。かような城に移れば、必ずやよからぬことがおこりまする」
  ぎん千代の言葉に宗茂は、かすかに拳を握りしめた。
 「無体なことを申すな。関白殿下の命じゃ、何人たりとも逆らうことできぬ」
 「どうしても柳川に移ると申すなら、どうぞ私を成敗してください。成敗せずと申しても、私は自害いたします」
  

 ぎん千代は顔を紅潮させていい放った。さすがに道雪の娘だけあって、死を恐れる様子は微塵も感じられない。このぎん千代の様子に、宗茂は怒りよりも、別な感情がこみあげてきた。ぎん千代の抵抗が、宗茂の欲情を刺激したのである。不意に宗茂は、ぎん千代の胸を鷲つかみにした。
 「なにをなさいます!」
  声をあげる間もなく、ぎん千代は寝床に倒された。
 「そなたは最早、この城の主ではないのだ! おとなしくいたせ!」
  しばし必死にもがいたぎん千代であったが、やがて体をえび反りにして悦楽の叫びをあげた。宗茂もまた突き上げてくる官能のおもむくままに、ぎん千代の体をむさぼるのだった……。

  
  結局この年天正十五年(一五八七)、立花家は嫌がるぎん千代を最後に、柳川城入城を果たす。だが席が温まる間もなく、隣国肥後で一大事が勃発する。
  肥後の国(熊本県)は、かって戦国動乱只中にあった頃複数の豪族が割拠し、統治が最も困難な土地の一つとされてきた。秀吉の九州平定後、肥後の国の統治を任されたのは、かっての織田家旧臣の一人佐々成政だった。だが成政は肥後の統治の完成を急ぐあまり、秀吉の三年の間検地をおこなうなという命に背いてしまったのである。
  火の手はまず、菊池・山鹿・山本三郡の領主隈部但馬守親永が、隈府城(熊本県菊池市)に籠城するという形であがる。隈部但馬守は間もなく降伏したが、但馬守嫡子親安及び一族有動大隅守兼元、それに肥後の諸豪は一斉に立ち上がり、天正十五年八月十五日ついに佐々成政の居城隈本城を包囲するに至る。

  
  上方の秀吉は、肥後で一揆勢が蜂起したという知らせに激怒し、開催中だった北野大茶会も中止となる。ただちに九州及び西国の大名が、一揆鎮圧のため肥後に赴くこととなった。宗茂もまた現地に急行した。
  一揆勢の勢いは宗茂等の予想をはるかに越えていた。同じく救援にかけつけた鍋島直茂の一隊は、佐々方の平山城(熊本県山鹿市)への兵糧輸送に失敗する。平山城へ続く大竹林の中で、一揆方の大津山出羽守の部隊により、小荷駄隊が鉄砲の狙撃を受け大多数が死傷、小荷駄も奪われてしまったのである。
  

 やがて毛利・小早川・安国寺・筑紫等の軍勢が続々と到着する。鎮圧軍の総大将をつとめるのは山陰・山陽の覇者毛利元就の九男小早川秀包である。秀包はこの年二十一歳。元就実に七十一歳の男児で、長兄で誕生した時すでに世を去っていた隆元とは、四十五年も生年に隔たりがあった。本来兄である小早川隆景の養子となり、後に毛利家から人質として秀吉のもとへ送られることとなる。人質の身ではあったが、秀吉の小牧・長久手、四国征伐、九州征伐などに従軍し手柄をたて、秀吉も秀包を愛した。九州平定後は筑後三郡七万五千石を与えられ、宗茂の柳川とは隣合わせである。

  
 秀包が諸将を集め軍議を開いていると、宗茂が挨拶のため本陣を訪れた。秀包は軍議を一旦休止し宗茂を出迎えた。
 「おお左近(宗茂のこと)その後変わらなんだか、夫人の勘気に苦しんでいるというは誠の話か?」
  秀包は宗茂の手を取り、満面の笑みをうかべた。
 「なにさしたることではない。そなたこそ、姫を粗略に扱ってはおるまいのう」
  宗茂もまた喜色を表情にうかべた。
 「粗略に扱っておるわけがあるまい。仮にもそなた等の旧主の娘じゃぞ」
  秀包は、大友宗麟の娘桂姫を室としていた。
  両者は、秀吉と島津家の合戦に際し初対面し、その後幾度も陣を共にする。再会を喜び、二人はほどなく義兄弟の契りまで結ぶ。むろん秀包の義父隆景は、宗茂にとっても父ということになる。よほど両者は気脈相通じるところがあったようである。

  
 ただちに宗茂を加えて軍議が再開された。
 「宗茂、そなたならどうする。失敗はゆるされんぞ」
  平山城周辺の図面に、食い入るように目をやる宗茂に秀包が声をかける。宗茂は急ぐ心をおさえ、その明晰な頭脳で戦略を練りなおしていた。平山城の兵糧が尽きる時は刻一刻と迫っていた。
  翌払暁、宗茂は鍋島勢が壊滅した竹林に再び小荷駄隊を入れた。立花勢の動きに気づいた大津山出羽守は一隊を送りこむも、これを予期していた立花勢は力戦奮闘し、一気に大津山勢が籠もる砦まで押し返す。この間小荷駄を積んだ他の隊が、別のルートから平山城へ兵糧を運びこむ。陽動作戦である。謀られたと大津山勢が気づいた時はすでに遅かった。


 『己、小癪な!』
  一揆方の有動大隅守は、ただちに三千の兵を三手に分け、宗茂の帰路に立ちふさがった。対する立花勢はおよそ千五百。宗茂もまた兵を三手に分け、中備え五百を自ら指揮するところとする。
 「怯むな! 敵は烏合の衆ぞ!」
  黒鞍の鐙をした、黄瓦毛のたくましい馬に乗った宗茂は、黒糸威の当世具足の鎧に、五枚鉄矧合わせ冑といった出で立ちで味方を叱咤する。
  城門から一団となり有動勢に切りこんだ立花勢は、たちまちのうちに敵の第一陣、第二陣を突破するも、有動もさるもの、伏兵を配置し宗茂揮下の中備えに襲いかかる。


 「我こそは有動下総守なり! そこに見えるは敵の御大将とみた。覚悟されよ!」
  有動大隅守の一族有動下総守が、名乗りをあげて突進してくる。両者は刃を交えること数合、宗茂に槍の逆輪をおさえられた有動下総守は、歯を食いしばり槍をぬこうとする。ついには両者とも落馬、先に立ち上がった下総守が、宗茂の首を討ち取ろうとした時、数本の矢が背を貫いた。下総守は無念の形相と共に斃れる。周囲を取り囲んだのは、小早川家の『違い鎌』の旗印だった。
 「左近怪我はないか?」
  秀包が馬を寄せて気づかうと、
 「なに案ずることはない、それより敵は動揺している。今こそ勝機ぞ」
  と、宗茂は再び馬上の人となる。
 この乱で、宗茂率いる立花勢は一日に十三度合戦し、七つの城を奪う力戦ぶりを見せたといわれる。立花勢の活躍もあり、一揆は一時小康をえる。十月再び一揆勢は蜂起するも、立花・小早川・鍋島等にたちまちのうちに鎮圧されてしまった。
  

 哀れなのは佐々成政である。かって織田信長揮下で、黒母衣衆といわれるエリート集団に属していた成政は、草履取り上がりの秀吉を、もとよりこころよく思っていなかった。本能寺の変後急速に台頭した秀吉と敵対し、徳川家康に助力を請うため、一国の主の身でありながら、自ら冬の日本アルプスを越えたこともあった。この良くいえば硬骨漢、悪くいえば処世下手な男は、尼崎に送られ切腹を命じられてしまう。
 「秀吉見ておれ!」
  成政は腹を十文字に斬り、腸を引きずりだし壮絶に果てた。

  
 成政亡き後、新たに隈本を中心とした肥後の北半国二十六万石の主となったのは、秀吉子飼いの名将で、賤ヶ岳七本槍の一人加藤虎之助清正だった。そして天草を中心とした肥後南半分二十四万石を与えられたのは、堺の薬問屋出身の切支丹大名小西行長だった。いずれも異例の大抜擢である。この両者がゆくゆく豊臣政権を、いや日本国を、いや東アジアの歴史をも大きく左右することになろうとは、この時多くの者は知らずにいる。






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