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【第二章】島津家久の上洛・信長、光秀との邂逅
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天正三年(一五七五)、島津氏は長年の宿敵であった肝付氏を下し大隅をほぼ平定。残る日向への侵攻準備も着々と進んでおり、いよいよ悲願である三州統一を実現しようとしていた。そんなおり島津四兄弟の末弟家久は、不意に兄である義久に登城をうながされた。
「家久近頃大事ないか。こたびは戦意外のことでおりいって頼みたいことがある」
島津氏第十六代当主島津義久は、この時四十二歳である。三州の主として以前に比べその言葉の端々に、威厳と重みのようなものが感じられつつあるように家久には思えた。
「実は間もなく我等三州統一を現実のものとするにあたり、神仏に感謝せずばと思うてな。そこでそなたはしばしの間国許を留守にし、伊勢神宮や愛宕権現など神々に拝礼し、我等いっそう神意得られるようつとめよ。合わせて都へ登り天下の大勢いかなものか確かめて、我等今後進むべき道知る手がかりをつかんで欲しいのじゃ」
「都へ登れるのでございますか、それは楽しみでごわすなあ」
家久はこの時二十八歳。末弟としてのびのびと育った家久は、義久や義弘と違って、どこか無邪気すぎるところがあった。
「ただの物見遊山の旅ではないぞ、島津の家の代理として都へ登るのじゃ。おはんは神仏に対しても、人に対しても決して非礼があってはならん」
義久のかたわらに控える義弘が口を挟んだ。
「あいわかりもうした兄上、こん家久島津家の代理として、決して恥ずかしきことなきようつとめる次第でごわす」
「それからのう家久、上洛した後はできるだけ薩摩の言葉使うは控えよ。都人は田舎者を侮蔑すること、はなはだしいと聞くからのう」
と忠告したのは、島津四兄弟の中で三男の歳久で、この時は三十八歳だった。
義久、義弘、歳久、家久そのいずれもが、もし薩摩ではなく都に近い土地にでも生まれていたら、恐らく天下をも望めたであろう。特に家久は、この後に島津家の九州平定のための戦いでその才をいかんなく発揮する。その才はあれいは兄義弘をも越えていたかもしれない。
「なお家久上洛にあたり、和歌や茶道の道にも秀でた新納忠元を特別に同行させることとする。礼儀や作法のことは万事忠元にたずねよ」
かたわらに控えていた島津家重臣新納忠元が、軽く頭を下げた。
こうして二月上旬、家久と忠元それに供の者数名は上洛のため長い長い旅路につく。一行が宮島、厳島神社等を巡り、ついに京洛の地へと足を踏み入れたのは、四月も中旬になってからのことであった。
京都は応仁の乱以降、将軍家の権威地に落ち、管領細川家から被官の三好元長、元長が倒れた後木沢長政から元長の嫡子三好長慶へ、さらには長慶の配下松永久秀へ、そして織田信長へと支配者が目まぐるしく変わった。そして、その度ごとに京洛の地は戦雲の巷と化した。
だが民衆の息吹が絶えることは決してない。家久一行は三条大橋を過ぎ、三条小橋で高瀬川を渡ると都で最も繁華な界隈にでた。室町通りから五条通りにかけては、軸物屋や碁盤屋それに両替屋等が軒を並べている。さらには兜巾をいただき左手に金扇を持ち、右手で錫杖を振る山伏。日傘を差し白衣を着て、右手で鈴を振り歩く巫女。さらにはちょび髭を生やし、南蛮ズボンにマントをはおった南蛮人までいた。そのどれもこれも広漠とした薩摩では見られぬ風景として、若い家久には珍しく映った。
「御武家さん、今宵一晩限り遊んでいかない」
不意に声をかけ、怪しげな香とともに背後から忍びよってきたのは、遊里の女達だった。と、突然忠元が遊女の細い腕をつかんだ。
「こん、おいから盗みを働こうとは、女でなければ首の骨へし折っていたところでごわす」
遊女はあきらめたように銭入れをさしだすと、
「田舎者が調子に乗るんじゃないよ!」
と捨てぜりふを残して界隈に消えた。
「兄者達も申していたが、ほんのこつ都には異形なる者が数多おるものよのう。この中に諸国の間者も多数含まれておるんかいのう」
家久は長旅の疲れのためか、やや力ない声でいった。
「又七郎様(家久のこと)薩摩の言葉はできる限り使うなと、国許でおおせつかったはずでごわんと」
「おはんとて、国許のままではなかか?」
家久はかすかに笑みをうかべながら言った。
やがて都人達の様子が騒がしくなり、都大路の界隈に一団の武者行列が出現した。新たに都の支配者になりつつある織田上総介信長の部隊が、颯爽と出現したのである。信長はちょうど河内の三好康長や、大阪天王寺の三好一党を征伐した帰路だった。
信長の母衣衆はおよそ二十人、母衣の色は数多くあり馬廻衆約百騎。退陣であるにも関わらず各々鎧を着ている。幟は九本あり、黄永楽という銭の形が幟の紋に付けられていた。また馬衣、馬袋をした馬が三頭おり、どうやら信長の替え馬であるようだ。
家久が興味深く織田軍団の装備に目をこらしていると、やがて皮衣をまとい、馬上うつらうつらと居眠りをしている一人の男が目に映った。男は四十歳くらいであろうか。痩せていて、色白で、どこか女性的な顔立ちをしている。織田上総介信長その人であった。
信長はさる寺で家久等を引見した。
「貴公等が薩摩の国主島津義久の使いか。今この日本国のまつりごとの全ては、わしの手のうちにある。そなた等も一早く、わしの元に帰参を願うため、まかりこしたということか」
信長は最初から居丈高にいい放った。
「そうではごわはん、我等薩摩・大隅の太守義久の代理として、あくまで信長公と対等な付き合いを求め遠路はせ散じたまででごわす」
忠元が信長の傲慢な態度に内心、不快を感じながらいった。
「なんと対等な付き合いとな? 我等ゆくゆくは中国・四国を従え、遠く薩摩までも兵を向けることになろう。もしそなた等が従わずば征伐することにもなる。いかにそなた等が薩・隅の軍を全て動員したとしても、我等には到底及ばん。それでもあくまで対等と申すか?」
「恐れながら我等先日来、信長公の軍容しかと拝見いたしたる次第。なれど我等薩摩の武士に比べると、信長公配下の将兵は貧弱ごわんど。恐らく一人にて五人は相手にできるものと思われるまする」
「これ忠元やめんか」
さすがに家久が驚き、忠元の非礼をたしなめようとした。
「面白い、一人で五人か、なればそち一人で我等揮下の兵五人相手にできるか?」
信長は眉一つ動かすことなく、忠元に聞き返した。
「たやすいことにごわんど」
「忠元いいかんげんせい!」
家久が必死に止めようとしたが、忠元は聞く耳を持とうとしない。
やがて信長配下の五人の屈強なる者が、木刀で忠元と相対することとなった。だが忠元も木刀を構えた瞬間、五人の武士は瞬時に硬直した。一分の隙もなく、攻め手が見出せないのである。
「きぇぃぃぃぃ!」
五人のうち一人が、こう着状態を破るかのように忠元に攻めかかったが、それとほぼ同時に木刀が宙を舞った。
「己!」
他の武士がこれを見て続けて忠元に挑んだが、瞬時にして激しい痛みとともに、気がつくと前のめりに倒れていた。
「うぬ! かかれい!」
残った三人が一斉に忠元に襲いかかろうとする。そのとき忠元は突如として敵に背を向け、樹齢数百年はあるであろう松の大木に向かって突進した。
「ちぇすとぉぉぉぉ!」
気合とともに忠元が松の木に木刀を叩きつけると、さしも大木もばきばきと音をたてて倒れた。声をあげる間もなく、三人の武士は松の木の下敷きとなってしまった。
忠元は即座に反転すると、上座でこの様子を観望していた信長めがけて突進、鋭い刃の切っ先を押し当てた。
「この勝負、おい等の勝ちごわんと」
「やめい忠元!」
家久は都での宿泊先である、連歌師里村紹巴の弟子心前宅で夢から覚めた。里村紹巴は当代きっての文化人で、その人脈は公家衆のみにとどまらない。武家の世界ではかっては三好長慶、昨今では細川藤孝・村井貞勝・羽柴秀吉それに明智惟任日向守光秀と懇意の仲であった。
「又七郎様、いかが致しましたか」
家久がうわごとであまりに大きな声をあげたので、別室で寝ていた忠元が驚き、様子をうかがいにきた。
「のう忠元、もしこん都の兵が一斉に薩摩に攻めいってきたら、我等防ぐ手立てあろうか?」
「なんと仰せられた?」
一瞬忠元は家久が寝ぼけているのかと思ったが、やや深刻な表情をしているのを見て、居を改めた。
「恐れながら信長公が東は奥州から西は九州まで、一手に掌握せんと欲するは無理ごわんと」
「何故無理だと思う? 信長は東海から畿内まで広大な土地を支配し、装備もおい達等とは比べものにならんぞ」
「確かに信長公は、今こん日本国のいかな大名より力がありましょう。じゃっどん信長公は降伏した者を許し、昨日まで敵であった者を味方とする術を知りもうはん。なれば織田軍揮下の将兵のみで、日本国の全てを治めることできましょうか? また信長公配下の将も、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉、いずれも出自定かならぬ者ばかりでごわす。彼らは一朝事あらば、必ずや皆々己の野心のため動きましょう」
「なるほどのう、ならば信長はいずれ孤立するということか」
「またもし信長の兵攻め来たりといえど、なにしろ我等の領土は都より最も遠方にありまする。そして九州の地勢は山河の起伏多く、いかに大軍をもってしても難渋しましょう」
「うむ、もし九州まで大軍を動員するとなると、兵糧輸送の問題も軽視できぬしのう」
「なれど我等の敵は都より、むしろ九州の内にあり申す」
「豊後の大友宗麟のことか?」
明敏な家久は即座に気付いた。
「左様、あの者と我等が手を結べば、さしも都の兵も多くの犠牲払うことになりましょう。じゃっどん聞けば、あの者信長公が美濃をようやく平定した時分からよしみを通じ、唐、南蛮の珍奇な物数多く信長に献上していたとか。我等と手を結ぶどころか、恐らくいち早く信長公のもとに帰参し、薩摩侵攻の先兵となる可能性が高いものと思えまする」
余談だが大友宗麟は信長美濃平定のおり、中国南宋時代の作品である『赤壁賦図盆』を贈呈し、その盆は禅僧宗恩沢彦により創建された政秀寺(愛知県名古屋市)に今も伝わっている。
「なんと美濃を平定した時分からと? 恐ろしく目端の利く男よのう。もし大友宗麟薩摩侵攻の先兵となれば、さしも我等の兵だけでは防ぐことかなわぬのう」
「なればおい達は、先んじて大友宗麟討たねばなりませぬ」
「できるか、大友宗麟は六カ国の主だぞ?」
「確かに兵の数も我等より勝り、揮下の将にも優れた者数多くおります。なれど大友宗麟なる者、暗愚とまではいきませぬが奇行多く、南蛮の怪しげな宗教にみせられ、今まで多くの将の離反に苦しんできました。我等つけいる隙は十分にあるかと」
そこまで聞くと家久は、布団に大の字になった。
確かに忠元の言葉は的をえていた。だが他に生き残るてだてがないものか? もし自らが中央のいずれかの地に生を受けていたらどうしたか? まず攻めやすき国から攻め、着々と勢力を蓄えていくことを考えていただろう。なまじ薩摩等に生を受けてしまったことが、家久には悔やまれてしかたなかった。
五月十四日、家久等は里村紹巴とともに楽東白川から山中を越えて坂本に向かい、明智惟任日向守光秀の歓待を受けた。光秀はこの年四十七歳であるが、頭が禿上がり年よりも老けてみえる。だが挙動のすべてから思慮深さが伝わってくる人物で、また誠意にあふれた男でもあった。初対面の家久等のために御座船を用意し、琵琶湖を遊覧させた。御座船は、畳三畳ほどの家形の櫓を立てた豪勢なものだった。
翌十五日には家久一行は坂本城に招待され、城内の茶室へ通された。
「まずはお手並みを」
光秀は家久に茶をすすめた。
「いや、おいは実は茶の湯の心得がなか。でくうなら白湯を所望したか。ほんのこてすまん」
あまりに立派な茶室に面食らった様子の家久は、思わず薩摩言葉丸出しとなった。座は一瞬重い沈黙に包まれ、光秀のかたわらの紹巴までも唖然とした。家久は国許を出る時、兄達に薩摩言葉を禁じられていたことを思いだしたが、もう遅かった。
「それがしが代りに所望いたす」
座をとりつくろうかのように、忠元が茶を所望した。
忠元は茶を点て始めた。座は先程来とは違った意味で沈黙につつまれた。そこには常に戦場に身を置く鬼のような忠元とは異なる、風流人としての忠元がいた。滔々とした川のせせらぎに、かすかに虫の音が響くかのように、どこかはかなく、切なげに……。やがて忠元が作法通り茶を一服すると、
「結構なお点前で、薩摩は遠国にあり武辺のみの国と聞き及びましたが、そなた様のように涼しげなる御仁もおられるとは」
と紹巴が忠元を賞賛した。
座はしばし和やかな雰囲気につつまれ、光秀もまた作法通り茶をおしいただいた。
「見事なお手前でござる。実に日向守殿は都人ぶりが板についてござる」
家久は薩摩言葉を押し殺しながら、多少の皮肉もこめて光秀の人物をほめたたえた。
「いや、実はそれがしも元は田舎者にござる。都は嫌いでござれば」
「なんと仰せられた?」
「都は武士の性根を腐らせる土地でござる。その昔源九郎義経君や旭将軍といわれ絶頂を極めた木曽義仲公、あれいは平家の公達、皆々哀れな末路をむかえしは、そもそも都が武士の居場所ではござらぬ故と、それがしは解釈してござる。足利将軍家もまた都を居と定めたばかりに、かように衰微してござる。信長公も昨今は朝廷をないがしろにすること数多あり、一寸先は闇にてござれば」
光秀はその場に遠国に住む家久等と、気心が知れた紹巴しかいないので遠慮なく本音をいい、一つ大きくため息をついた。
旅の終わりに家久は愛宕権現に参拝した。夜が迫り、都の夕陽は薩摩とは異なった趣をたたえているかのように家久には思えた。明智惟任日向守光秀が、この愛宕山を背に、有名な『敵は本能寺にあり』の号令を下すのは、これより七年後のことである。
「家久近頃大事ないか。こたびは戦意外のことでおりいって頼みたいことがある」
島津氏第十六代当主島津義久は、この時四十二歳である。三州の主として以前に比べその言葉の端々に、威厳と重みのようなものが感じられつつあるように家久には思えた。
「実は間もなく我等三州統一を現実のものとするにあたり、神仏に感謝せずばと思うてな。そこでそなたはしばしの間国許を留守にし、伊勢神宮や愛宕権現など神々に拝礼し、我等いっそう神意得られるようつとめよ。合わせて都へ登り天下の大勢いかなものか確かめて、我等今後進むべき道知る手がかりをつかんで欲しいのじゃ」
「都へ登れるのでございますか、それは楽しみでごわすなあ」
家久はこの時二十八歳。末弟としてのびのびと育った家久は、義久や義弘と違って、どこか無邪気すぎるところがあった。
「ただの物見遊山の旅ではないぞ、島津の家の代理として都へ登るのじゃ。おはんは神仏に対しても、人に対しても決して非礼があってはならん」
義久のかたわらに控える義弘が口を挟んだ。
「あいわかりもうした兄上、こん家久島津家の代理として、決して恥ずかしきことなきようつとめる次第でごわす」
「それからのう家久、上洛した後はできるだけ薩摩の言葉使うは控えよ。都人は田舎者を侮蔑すること、はなはだしいと聞くからのう」
と忠告したのは、島津四兄弟の中で三男の歳久で、この時は三十八歳だった。
義久、義弘、歳久、家久そのいずれもが、もし薩摩ではなく都に近い土地にでも生まれていたら、恐らく天下をも望めたであろう。特に家久は、この後に島津家の九州平定のための戦いでその才をいかんなく発揮する。その才はあれいは兄義弘をも越えていたかもしれない。
「なお家久上洛にあたり、和歌や茶道の道にも秀でた新納忠元を特別に同行させることとする。礼儀や作法のことは万事忠元にたずねよ」
かたわらに控えていた島津家重臣新納忠元が、軽く頭を下げた。
こうして二月上旬、家久と忠元それに供の者数名は上洛のため長い長い旅路につく。一行が宮島、厳島神社等を巡り、ついに京洛の地へと足を踏み入れたのは、四月も中旬になってからのことであった。
京都は応仁の乱以降、将軍家の権威地に落ち、管領細川家から被官の三好元長、元長が倒れた後木沢長政から元長の嫡子三好長慶へ、さらには長慶の配下松永久秀へ、そして織田信長へと支配者が目まぐるしく変わった。そして、その度ごとに京洛の地は戦雲の巷と化した。
だが民衆の息吹が絶えることは決してない。家久一行は三条大橋を過ぎ、三条小橋で高瀬川を渡ると都で最も繁華な界隈にでた。室町通りから五条通りにかけては、軸物屋や碁盤屋それに両替屋等が軒を並べている。さらには兜巾をいただき左手に金扇を持ち、右手で錫杖を振る山伏。日傘を差し白衣を着て、右手で鈴を振り歩く巫女。さらにはちょび髭を生やし、南蛮ズボンにマントをはおった南蛮人までいた。そのどれもこれも広漠とした薩摩では見られぬ風景として、若い家久には珍しく映った。
「御武家さん、今宵一晩限り遊んでいかない」
不意に声をかけ、怪しげな香とともに背後から忍びよってきたのは、遊里の女達だった。と、突然忠元が遊女の細い腕をつかんだ。
「こん、おいから盗みを働こうとは、女でなければ首の骨へし折っていたところでごわす」
遊女はあきらめたように銭入れをさしだすと、
「田舎者が調子に乗るんじゃないよ!」
と捨てぜりふを残して界隈に消えた。
「兄者達も申していたが、ほんのこつ都には異形なる者が数多おるものよのう。この中に諸国の間者も多数含まれておるんかいのう」
家久は長旅の疲れのためか、やや力ない声でいった。
「又七郎様(家久のこと)薩摩の言葉はできる限り使うなと、国許でおおせつかったはずでごわんと」
「おはんとて、国許のままではなかか?」
家久はかすかに笑みをうかべながら言った。
やがて都人達の様子が騒がしくなり、都大路の界隈に一団の武者行列が出現した。新たに都の支配者になりつつある織田上総介信長の部隊が、颯爽と出現したのである。信長はちょうど河内の三好康長や、大阪天王寺の三好一党を征伐した帰路だった。
信長の母衣衆はおよそ二十人、母衣の色は数多くあり馬廻衆約百騎。退陣であるにも関わらず各々鎧を着ている。幟は九本あり、黄永楽という銭の形が幟の紋に付けられていた。また馬衣、馬袋をした馬が三頭おり、どうやら信長の替え馬であるようだ。
家久が興味深く織田軍団の装備に目をこらしていると、やがて皮衣をまとい、馬上うつらうつらと居眠りをしている一人の男が目に映った。男は四十歳くらいであろうか。痩せていて、色白で、どこか女性的な顔立ちをしている。織田上総介信長その人であった。
信長はさる寺で家久等を引見した。
「貴公等が薩摩の国主島津義久の使いか。今この日本国のまつりごとの全ては、わしの手のうちにある。そなた等も一早く、わしの元に帰参を願うため、まかりこしたということか」
信長は最初から居丈高にいい放った。
「そうではごわはん、我等薩摩・大隅の太守義久の代理として、あくまで信長公と対等な付き合いを求め遠路はせ散じたまででごわす」
忠元が信長の傲慢な態度に内心、不快を感じながらいった。
「なんと対等な付き合いとな? 我等ゆくゆくは中国・四国を従え、遠く薩摩までも兵を向けることになろう。もしそなた等が従わずば征伐することにもなる。いかにそなた等が薩・隅の軍を全て動員したとしても、我等には到底及ばん。それでもあくまで対等と申すか?」
「恐れながら我等先日来、信長公の軍容しかと拝見いたしたる次第。なれど我等薩摩の武士に比べると、信長公配下の将兵は貧弱ごわんど。恐らく一人にて五人は相手にできるものと思われるまする」
「これ忠元やめんか」
さすがに家久が驚き、忠元の非礼をたしなめようとした。
「面白い、一人で五人か、なればそち一人で我等揮下の兵五人相手にできるか?」
信長は眉一つ動かすことなく、忠元に聞き返した。
「たやすいことにごわんど」
「忠元いいかんげんせい!」
家久が必死に止めようとしたが、忠元は聞く耳を持とうとしない。
やがて信長配下の五人の屈強なる者が、木刀で忠元と相対することとなった。だが忠元も木刀を構えた瞬間、五人の武士は瞬時に硬直した。一分の隙もなく、攻め手が見出せないのである。
「きぇぃぃぃぃ!」
五人のうち一人が、こう着状態を破るかのように忠元に攻めかかったが、それとほぼ同時に木刀が宙を舞った。
「己!」
他の武士がこれを見て続けて忠元に挑んだが、瞬時にして激しい痛みとともに、気がつくと前のめりに倒れていた。
「うぬ! かかれい!」
残った三人が一斉に忠元に襲いかかろうとする。そのとき忠元は突如として敵に背を向け、樹齢数百年はあるであろう松の大木に向かって突進した。
「ちぇすとぉぉぉぉ!」
気合とともに忠元が松の木に木刀を叩きつけると、さしも大木もばきばきと音をたてて倒れた。声をあげる間もなく、三人の武士は松の木の下敷きとなってしまった。
忠元は即座に反転すると、上座でこの様子を観望していた信長めがけて突進、鋭い刃の切っ先を押し当てた。
「この勝負、おい等の勝ちごわんと」
「やめい忠元!」
家久は都での宿泊先である、連歌師里村紹巴の弟子心前宅で夢から覚めた。里村紹巴は当代きっての文化人で、その人脈は公家衆のみにとどまらない。武家の世界ではかっては三好長慶、昨今では細川藤孝・村井貞勝・羽柴秀吉それに明智惟任日向守光秀と懇意の仲であった。
「又七郎様、いかが致しましたか」
家久がうわごとであまりに大きな声をあげたので、別室で寝ていた忠元が驚き、様子をうかがいにきた。
「のう忠元、もしこん都の兵が一斉に薩摩に攻めいってきたら、我等防ぐ手立てあろうか?」
「なんと仰せられた?」
一瞬忠元は家久が寝ぼけているのかと思ったが、やや深刻な表情をしているのを見て、居を改めた。
「恐れながら信長公が東は奥州から西は九州まで、一手に掌握せんと欲するは無理ごわんと」
「何故無理だと思う? 信長は東海から畿内まで広大な土地を支配し、装備もおい達等とは比べものにならんぞ」
「確かに信長公は、今こん日本国のいかな大名より力がありましょう。じゃっどん信長公は降伏した者を許し、昨日まで敵であった者を味方とする術を知りもうはん。なれば織田軍揮下の将兵のみで、日本国の全てを治めることできましょうか? また信長公配下の将も、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉、いずれも出自定かならぬ者ばかりでごわす。彼らは一朝事あらば、必ずや皆々己の野心のため動きましょう」
「なるほどのう、ならば信長はいずれ孤立するということか」
「またもし信長の兵攻め来たりといえど、なにしろ我等の領土は都より最も遠方にありまする。そして九州の地勢は山河の起伏多く、いかに大軍をもってしても難渋しましょう」
「うむ、もし九州まで大軍を動員するとなると、兵糧輸送の問題も軽視できぬしのう」
「なれど我等の敵は都より、むしろ九州の内にあり申す」
「豊後の大友宗麟のことか?」
明敏な家久は即座に気付いた。
「左様、あの者と我等が手を結べば、さしも都の兵も多くの犠牲払うことになりましょう。じゃっどん聞けば、あの者信長公が美濃をようやく平定した時分からよしみを通じ、唐、南蛮の珍奇な物数多く信長に献上していたとか。我等と手を結ぶどころか、恐らくいち早く信長公のもとに帰参し、薩摩侵攻の先兵となる可能性が高いものと思えまする」
余談だが大友宗麟は信長美濃平定のおり、中国南宋時代の作品である『赤壁賦図盆』を贈呈し、その盆は禅僧宗恩沢彦により創建された政秀寺(愛知県名古屋市)に今も伝わっている。
「なんと美濃を平定した時分からと? 恐ろしく目端の利く男よのう。もし大友宗麟薩摩侵攻の先兵となれば、さしも我等の兵だけでは防ぐことかなわぬのう」
「なればおい達は、先んじて大友宗麟討たねばなりませぬ」
「できるか、大友宗麟は六カ国の主だぞ?」
「確かに兵の数も我等より勝り、揮下の将にも優れた者数多くおります。なれど大友宗麟なる者、暗愚とまではいきませぬが奇行多く、南蛮の怪しげな宗教にみせられ、今まで多くの将の離反に苦しんできました。我等つけいる隙は十分にあるかと」
そこまで聞くと家久は、布団に大の字になった。
確かに忠元の言葉は的をえていた。だが他に生き残るてだてがないものか? もし自らが中央のいずれかの地に生を受けていたらどうしたか? まず攻めやすき国から攻め、着々と勢力を蓄えていくことを考えていただろう。なまじ薩摩等に生を受けてしまったことが、家久には悔やまれてしかたなかった。
五月十四日、家久等は里村紹巴とともに楽東白川から山中を越えて坂本に向かい、明智惟任日向守光秀の歓待を受けた。光秀はこの年四十七歳であるが、頭が禿上がり年よりも老けてみえる。だが挙動のすべてから思慮深さが伝わってくる人物で、また誠意にあふれた男でもあった。初対面の家久等のために御座船を用意し、琵琶湖を遊覧させた。御座船は、畳三畳ほどの家形の櫓を立てた豪勢なものだった。
翌十五日には家久一行は坂本城に招待され、城内の茶室へ通された。
「まずはお手並みを」
光秀は家久に茶をすすめた。
「いや、おいは実は茶の湯の心得がなか。でくうなら白湯を所望したか。ほんのこてすまん」
あまりに立派な茶室に面食らった様子の家久は、思わず薩摩言葉丸出しとなった。座は一瞬重い沈黙に包まれ、光秀のかたわらの紹巴までも唖然とした。家久は国許を出る時、兄達に薩摩言葉を禁じられていたことを思いだしたが、もう遅かった。
「それがしが代りに所望いたす」
座をとりつくろうかのように、忠元が茶を所望した。
忠元は茶を点て始めた。座は先程来とは違った意味で沈黙につつまれた。そこには常に戦場に身を置く鬼のような忠元とは異なる、風流人としての忠元がいた。滔々とした川のせせらぎに、かすかに虫の音が響くかのように、どこかはかなく、切なげに……。やがて忠元が作法通り茶を一服すると、
「結構なお点前で、薩摩は遠国にあり武辺のみの国と聞き及びましたが、そなた様のように涼しげなる御仁もおられるとは」
と紹巴が忠元を賞賛した。
座はしばし和やかな雰囲気につつまれ、光秀もまた作法通り茶をおしいただいた。
「見事なお手前でござる。実に日向守殿は都人ぶりが板についてござる」
家久は薩摩言葉を押し殺しながら、多少の皮肉もこめて光秀の人物をほめたたえた。
「いや、実はそれがしも元は田舎者にござる。都は嫌いでござれば」
「なんと仰せられた?」
「都は武士の性根を腐らせる土地でござる。その昔源九郎義経君や旭将軍といわれ絶頂を極めた木曽義仲公、あれいは平家の公達、皆々哀れな末路をむかえしは、そもそも都が武士の居場所ではござらぬ故と、それがしは解釈してござる。足利将軍家もまた都を居と定めたばかりに、かように衰微してござる。信長公も昨今は朝廷をないがしろにすること数多あり、一寸先は闇にてござれば」
光秀はその場に遠国に住む家久等と、気心が知れた紹巴しかいないので遠慮なく本音をいい、一つ大きくため息をついた。
旅の終わりに家久は愛宕権現に参拝した。夜が迫り、都の夕陽は薩摩とは異なった趣をたたえているかのように家久には思えた。明智惟任日向守光秀が、この愛宕山を背に、有名な『敵は本能寺にあり』の号令を下すのは、これより七年後のことである。
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