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【第一章】肥前の熊
しおりを挟む毛利・大友両家は永禄七年に一旦は正式に和解したにも関わらず、筑豊の在地勢力達は毛利の後ろ盾を背景にし、勝手に対大友戦を継続していた。永禄八年には豊前の長野家や筑前の立花家が、そして永禄九年には筑前南部で、宝満山城督の任にあたっていた高橋鑑種までもが、謀反に踏み切ったのである。長らく大友家家臣団の中において重鎮的な存在だった鑑種の謀反は、宗麟にとって深い衝撃であり、許しがたい裏切り行為だった。この乱が沈静化した後も、筑豊の豪族達の中には表裏定かならぬ者が多くいた。肥前の国の龍造寺隆信もまたその一人であった。
龍造寺氏は北九州の名家少弐家の被官だった。だが隆信若年のおり龍造寺家は謀反の疑いにより、主家である少弐家の掃蕩を受けた。天文十四年(一五四五)のことである。祖父家純、父周家を同時に失った隆信は曽祖父家兼に器量を見込まれ、僧籍から還俗して水ヶ江龍造寺家を継ぐこととなった。隆信十七歳の時だった。
その後、仇敵少弐冬尚を討ち滅ぼした隆信ではあったが、圧倒的勢力を誇る大友家には敵しようもなく、長年にわたって半隷属状態を余儀なくされる。そうした中毛利家の北九州介入は、隆信にとって戦国大名として真の独立のため千載一遇の好機とうつった。
もちろん大友宗麟も隆信の動きに黙ってはいない。永禄十二年(一五六九)一月、隆信討伐のため、約五万の大軍をもって筑後国高良山吉見岳に布陣した。ところがこの直後、毛利元就直々の陣頭指揮のもと、約四万の大軍の九州侵攻の噂が流れ事態は一変することになる。
毛利元就は三月上旬、ひとまず長府に本陣を置いた。毛利家を支える二本の柱といわれるのが、吉川家に養子に入った次男吉川元春と、小早川家に養子に入った三男小早川隆景である。
「元春、隆景大儀である。こたびの戦、恐らくただならぬ大戦となろう」
毛利元就はやや沈痛な表情で、二人の息子に語りはじめた。元就はこの年七十一歳、二年前永禄九年には、長年の宿敵であった山陰の尼子家を月山富田城に追い込んで降伏させ、一代で中国八カ国の大大名にまで成長していた。だが老いた元就はそれほどの英傑であるというよりむしろ、どこか一個の老人の暗さを感じさせた。
「もとより我等天下など望むべくもない。尼子が滅びた今、戦続けることにさほどの意味があるとは思えん。なれど隆元すでに亡く、輝元は残念ながら凡庸である」
元就が毛利家の将来を託した嫡男隆元は永禄六年四十歳で急逝した。急遽後を継ぐことになった孫の輝元はまだ十五歳であるが、元就の見たところ器量に問題があり、大毛利家の跡取りには不足とうつっていた。
「大友宗麟と申す者小ざかしき輩にて、我亡き後輝元にとって必ずや脅威となるであろう。大友宗麟さえ滅ぼせばこの西国に、もはや我等に抗うすべ持つ者おるまい。故に我等今一度戦せねばならぬ。元春、隆景、恐らくそなた達ほどの器量あらば、いかに甥とはいえ器足らぬ主君に仕えるは不満であろう。なれど、この爺の願いを聞いて輝元に終生捧げてやってはくれぬか。吉川、小早川両川ともに末の世まで毛利の家を支えることこそ、わしにとって最後の望み」
「なにを申されます父上、我等は一族、若君を終生お守りするのに不満などありましょうや」
口を開いたのは次男の元春だった。三十八歳と隆景と三つ年が離れた元春は、声が鐘のように大きく、肩幅が異常に広い。あごが角ばり、隆景が大毛利家の貴公子といった風貌をたたえているのとは対照的に、仁王を思わせた。
武勇並びなき者と称せられる一方どこか単純なところがある兄が、父の一語、一語に心動かされているのとは異なり、西国きっての智将といわれてきた隆景は、冷静に元就の言葉を受けとめていた。
隆景は父元就の望みにより、幼い輝元の養育係を引き受けていた。輝元幼少のおりには、
『この隆景、もし若君が仕えるに足らずと思えば、いつでも謀反し若君の首頂戴いたしまするぞ、それでもよろしゅうござるか!』
といい、時に体罰もいとわなかった。
乱世といわず人の世の常として、両川と毛利宗家が末の世まで一心同体であるなどありえようか? げんに目の前の父でさえ若年のおりには、家督相続をめぐる争いから、自らの弟を滅ぼしているのである。余談だが中国の毛利元就といえば、芸州高田郡吉田のわずか三千貫の小領主から、山陰山陽十数カ国の主にまでなった傑物として、日本六十四州津々浦々にまで高名なりわたり、同時代を生きた群雄の間では、その評価はずばぬけていたといっていいだろう。
それほどの父だからこそ、もはや老い故にくる妄言としか隆景には受け止められなかった。ことに嫡男に先立たれた元就の衝撃は計り知れず、以後の元就は、それ以前の元就からすれば蝉の抜け殻のようにさえ思えた。果たしてこれから始まる対大友戦に備えて大丈夫であろうか? 隆景は一抹の不安を感じずにはいられなかった。
九州では、大友宗麟が高良山に陣を敷いて二ヶ月が経過した。この間宗麟は毛利元就の動向が気になり、なかなか肥前侵攻の最終決断を下せずにいた。だが業を煮やした戸次鑑連等の説得により、ついに宗麟は全軍に出陣を告げた。大友勢の一隊は、龍造寺方の生葉郡の妙見城の星野鎮忠を攻めたが埒があかず、代わって筑後勢の田尻氏と浦上氏を攻めた。
一方仁比山勢福寺城の攻略を任されたのは、戸次鑑連に吉弘鑑理・臼杵鑑速の三人である。この三人は大友家中でも最も重きをなし、世に豊州三老といわれた。三老は神埼郡に火を放ち、仁比山勢福寺城に殺到するも、勢福寺城を守る江上武種は三老相手によく戦い、城は容易に落ちなかった。
「まだ援軍は来着せぬのか、殿は一体なにをしておられる」
城の兵糧も底をつき始め、武種は焦りをつのらせ始めていた。
「昨日、狼煙をあげましたが殿も他の戦線に忙殺されており、今しばらく時がかかるとか」
「なんと、殿は我等をお見捨てになるご所存か」
武種は唇を強く噛んだ。数日の後、城はついに陥落した。奮戦も空しく江上武種は敵に降ったのである。
「江上武種が敵に降伏した次第、大友軍は肥前の野を大軍でもって荒らしております。いかがいたしましょうや」
居城佐嘉城で、龍造家家臣鍋島信生(後の直茂)が隆信にたずねた。隆信の生母は、再婚の後信生の父鍋島清房のもとに嫁ぎ、いわば両者は主従であり義兄弟でもあった。
この時隆信は、持っていた扇子を怪力でもってねじ上げてしまった。隆信は人並み外れて巨大な体躯の持ち主で、肥前の巨熊と人は呼んだ。容貌雄偉にして眼光烱々とし、怒髪天を突くと、長年主のもとに仕えてきた信生でさえ背筋に冷たいものが走る。
「武種の妻子、いまだ我らのもとにあったはず、捕えて余の前で釜ゆでにせよ」
隆信が重い声でいうと、
「まだ年端いかぬ童もおりまするが、いかがいたしまする」
と信生が重ねて問いかえした。
「構わぬ、童なればこそ禍根は早めに断つにかぎる」
隆信はそのどこか閻魔にも似た容貌を、かすかに紅潮させていった。
ほどなく、武種の妻子及び家の使用人をも含めて十数名の釜ゆでが、大勢の家臣達が見守る中実行に移された。阿鼻叫喚と呪いのうめきが周囲にこだまし、人々の多くが目をそむけたが、隆信は巨大な眼光をいからせ身じろぎ一つしようとしなかった。
大友軍は順調に進撃を続けていた。大友軍の大挙肥前侵攻に対し神代長良・馬場鑑周・八戸宗暘他、数多の諸将は大友軍に参陣し龍造寺攻めの一手となった。特に神代は一千騎をもって案内役をした。また、筑後の五条鎮定・上妻氏も龍造寺攻めに参戦する。三月も中旬をむかえ、ついに大友軍は大軍をもって佐嘉城を攻囲する。戸次鑑連は阿禰村に、臼杵鑑速は塚原に、吉弘鑑理は水上山にそれぞれ布陣した。
四月六日、龍造寺隆信は三千の兵をもって多伏口で大友軍と対峙した。頃合を見計らって隆信は通常の倍はある巨大な軍配を大きく右から左へと振った。
「それー!」
同時に龍造寺軍が、圧倒時多勢の大友軍のただ中へ真一文字に突撃する。大友軍の総大将は吉弘鑑理だった。
「進め我が精鋭達よ! 大友軍を一人としてこの肥前の地から生かして帰すな!」
隆信は絶叫するが、なにしろ多勢に無勢である。たちまち龍造寺軍は押されはじめた。
「ひいい助けてくれ」
一人の兵士が恐れをなして戦場から離脱し逃げようとした。それを目撃した隆信は、
「あの者を斬れ、そして味方からよく見える場所に首をさらすのじゃ、敵に恐れをなす者へのみせしめじゃ!」
果たして兵士の首がさらされると、龍造寺軍は死にもの狂いになり、たちまちのうちに大友軍の第一陣、第二陣が崩された。第三陣は戸次鑑連である。
鑑連は常に十六人担ぎの頑丈な輿に乗り、かたわらに二尺七寸の刀と種子島銃を携え、百余人のえりぬきの精鋭部隊を従え戦場に臨んだ。だが立花隊もまた、決死の勢いの敵にやや押され気味となった。
「ひるむな! 敵に恐れをなす者はわしを敵中にほうり捨ててから逃げよ!」
鑑連は常々人に語っていたという。
『武士である以上、弱兵などというものはありえない。もしかような者がおれば、その者ではなく大将に問題があるのだ。わしのもとによこせば、勇猛な兵士に変えてみせよう』
果たしてこの時の戸次隊は想像以上の勇猛さを発揮した。たちまち息を吹き返したのである。元々数で劣る龍造寺軍は、大友軍の圧倒的物量を前に大いに崩れ、夕刻には佐嘉城に撤退した。
「殿いかが致します。このままでは我等の命運は風前の灯。何か策を練らねば、毛利軍の襲来まで間に合いませぬ」
さしも名将の誉れ高い信生も、この事態にやや焦りをつのらせずにはいられなかった。
「なに案ずることはない、策ならすでに打ってある」
隆信はかすかに笑みをうかべた。信生は隆信との長い付き合いから、主君の眼光の奥にやどる悪謀を見てとった。そして異変は大友軍の吉弘鑑理の陣でおきた。
「申し上げます。一大事にござりまする」
本格的な佐嘉城攻めの準備に忙殺される吉弘鑑理の陣に、突如として使者が慌しくかけこんできた。
「どうした! 敵の奇襲でもあったか」
「はっ、それが我等の陣中にて多くの兵士が腹痛や嘔吐を訴えており、ただならぬ様子でござりますれば」
「なんと、どういうことだ!」
この異常事態のしらせに吉弘鑑理を取りまく諸将は一斉に立ち上がったが、鑑理は床几に腰かけたままである。と、突然鑑理自身がうめき声とともに倒れてしまった。龍造寺方の放った忍びが井戸に毒を入れたのである。
「たわけ!」
報に接し宗麟は激怒した。
「なぜ敵が井戸に毒を入れることぐらい予測がつかん。ましてや一軍の将たる者、長対陣の最中にあって毒味もさせずに食をとるとは言語道断! 吉弘鑑理には腹を斬らせよ!」
思いあまって宗麟は鑑理に切腹を命じてしまった。
「まあ待たれよ殿、確かにこたびは吉弘殿の不覚。なれど戦の最中に吉弘殿ほど功績のある将に腹を切らせたとあっては、味方はたちまちのうちに士気を失うことになりましょう」
戸次鑑連がすぐさま主君を諌めた。
「恐れながら、それがしからもお願いでござります。今までの功績に免じどうか、こたびだけは父をお許し下され」
と命ごいにはいったのは、鑑理の実子吉弘鎮種(後の高橋紹運)だった。
諸将にかわるがわる命ごいされ、宗麟もようやく冷静さを取り戻した。大友軍はひとまず長瀬まで兵を退いた。龍造寺隆信は首の皮一枚で、かろうじて策略により命を拾ったのである。
「そなたもわしを卑怯とそしるか信生よ?」
佐嘉の城内でさえも、隆信を卑怯という者がいた。
「こたびは生きるか死ぬかの瀬戸際なれば、かような策も詮なき仕儀とこころえます。なれど我等ゆくゆく信失うことになりますれば……」
「いいや違うぞ信生」
隆信は、信生がまだ全ていい終わらないうちかぶりを振った。
「人とは所詮不義なる者、不忠なる者、不仁なる者、そして不孝なる者。故に我らこの乱世に人に先んじて人あざむかねばならんのだ」
隆信は顔を紅潮させいいはなった。だがその隆信をもってしても、はるかな後年自ら亡き後の龍造寺家を、今目の前にいる信生が乗っ取ってしまうことになるとは、夢にも考えつかなかった。
この間、小早川隆景、吉川元春の毛利の両川は三月半ばには九州上陸。門司城を陥落させ、さらに企救郡にある三岳城をも陥落させ怒涛の勢いで博多へと迫る。そして四月十五日、ついに毛利軍の前衛部隊が立花表へと姿を現した。この事態に大友宗麟は戸次鑑連・臼杵鑑理・吉弘鑑理ら三将を通じて龍造寺隆信との和議を成立させ、ただちに筑前へ向かって軍を反転させた。大友、毛利両勢力が再び北九州を舞台に激突しようとしていた。
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