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鳥羽・伏見の戦い

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  慶応三年十月(一八六七年 )徳川十五代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上し、幕府は事実上滅びた。しかしあくまで武力倒幕にこだわる薩長の挑発により、慶喜と幕臣たちは否応なしに戦いに引きずりこまれることとなる。
 時に慶応四年(一八六八)の正月三日、旧幕府軍は鳥羽街道を行く軍勢と伏見方面を進む軍勢で二手にわかれ京への進軍の途上にあった。その数およそ一万五千。その中には幕府遊撃隊の二番隊長として伊庭八郎の姿もあった。その八郎の陣を馬で訪れる者があった。あの土方歳三だった。この時三十三で八郎とは何年ぶりであろうか?
「薩摩の田舎侍どもが江戸市中の物乞いやら無頼の徒に金をやって略奪、暴行、放火やりてえ放題させてよ、それで庄内藩の連中が我慢も限界になって、三田の薩摩藩邸に放火したってわけよ」
 と土方は、今回の事態に至るまでの経緯について語りはじめた。
「まあ大坂の慶喜公は戦は極力避けようしておられて、報に接して愕然としたらしいな。さすがに戦を望む者をこれ以上おしとどめることは不可能だと悟り、最後は半ばやけくそ君に勝手にしろといったらしい」
 そこまでいうと土方は一つため息をついた。

「それはそうと、おまえさんしばらく見ぬうちにずいぶんと猛々しくなったな」
 この時八郎は馬乗袴をはき紺の脚袢、襦袢の上には紬筒袖の上着を着て実戦用の籠手もつけた。そしてわらじばきといった姿であった。
「土方さんこそ随分と凛々しくなられた。京での活躍聞いております」
 土方はその美男ぶりに加え、以前会った時と比較しても、どこか決して動くことのない信念が表情にうかがえた。
「今回の戦味方は二万五千ほどに対し、向こうはせいぜい五千ほどでしかない。だが俺の感ではただならぬ戦いになる。とにかく八郎死ぬんじゃないぞ」
「土方さんこそ決して死なないで……」
 すると土方はかすかに笑みをうかべた。
「俺は死なねえよ。俺が死ねば悲しむ女がはいて捨てるほどいるからな」
 「土方さん、近藤さんと沖田さんは?」
 すると土方の表情が瞬時にして険しくなった。沈黙したまま馬に鞭を入れるとゆっくりとその場を後にした。
 この時近藤勇は自らを憎む者により、京の藤森神社の近くで狙撃され療養中であった。そして沖田総司は、結核のため明日をも知れぬ身の上となっていたのである。
 八郎はしばし土方の後ろ姿を見送っていた。ちょうど冬の真っただ中である。冷気が肌を刺す。それにしても……。と八郎は思った。もし平和な世であれば家族が集まって雑煮でも食べながら、わいわいがやがやとやっている頃であろうか? それを思うとなんともやりきれない気分になった。

 戦端はまず鳥羽方面で開かれた。鳥羽方面を行く幕軍が薩摩側に行く手をさえぎられ、通せ! 通さん! の押し問答の末に薩摩側が発砲。ここについに開戦となる。
 鳥羽での砲声を聞き、伏見方面でも戦闘が開始されようとしていた。主に薩摩、長州、土佐からなる新政府軍が陣を置いたのは、御香宮神社の辺りだったといわれ、まずここに新政府側は大砲四門を設置する。さらに旧幕軍が陣取る伏見奉行所を見下ろせる龍運寺にも大砲が置かれた。
 これに対し会津藩兵及び新選組は陣羽織に白足袋という旧式のいでたちで、得意の白兵戦に持ちこもうとした。しかしその意図は戦闘開始からほどなくして、もろくも打ち砕かれることとなる。
 
 新政府側では最新の先込め式のミニエー銃やスナイドル銃を装備し、軍備の上で旧幕軍を圧倒していた。さしもの会津藩兵、新選組も接近戦に及ぶ前に戦場に屍をさらすこととなる。さらに最新式のアームストロング砲が威力を発揮する。その破壊力もさることながら、着弾の際の鈍い衝撃音がそれだけで兵士を戦慄させた。
 ある兵は刀をにぎったまま倒れ天をあおいでいる。頭部からべっとりと血が流れ動くことすらできない。そして、にじみ出た血は道路上の石や土にしたたっている。吹き飛ばされた兵は折り重なり、血と土にまみれた顔はゆがみ、苦痛のため声にならないうめき声をあげていた。人だけではない。馬もまた恐怖のあまり暴れ狂った。主を捨てて逃げる馬が続出した。

 新選組率いる土方歳三はいらだった。会津藩の佐川官兵衛の許可をえて西方の迂回ルートから新選組のみで御香宮に奇襲をしかけた。
「背後に敵兵!」
 一時動揺するも守る薩摩兵もさるものである。敵が寡兵であることを見て取ると、たちまち体制を立て直す。特に新選組は最近新隊士募集を行ったばかりである。中にはまったく役にたたない者も含まれていた。それらは薩摩兵の猿叫といわれる狂気にも似た奇声を聞くと、たちまち怖気づいた。
「なんだその及び腰は! そんなことで戦がつとまるか! 永倉さんこいつらに戦のしかたを教えてやってくれ」
 永倉新八は松前藩出身で、新選組の隊士の中でも最強の噂もある古参のつわものである。抜刀すると殺気を露わにし敵兵を斬りまくった。しかしそれでも新選組の苦戦はまぬがれなかった。

 一方、八郎の遊撃隊もまた敵の大砲と銃の前に前進することすらできず、大苦戦を強いられていた。時の経過とともにいたずらに犠牲者だけが増えていく。頃合いを見計らって薩摩兵が斬りこみをかけてくる。
 幕末維新を成立させたのは俗に薩長土肥といっても、薩摩の果たした役割は頭一つ抜きんでている。その原動力となったものは優れた外交や政治力はもちろんのこと、やはり強大すぎる軍事力だった。
 戦国からこの時代にかけて、薩摩武士がいかほど常軌を逸した集団であったかを物語るエピソードは履いて捨てるほどある。もちろん八郎や遊撃隊の隊士たちも噂には聞いていた。古くは関ヶ原で数百で数万の敵の中央を突破した。昨今は海洋まで含めれば世界史上最大版図を築いた大英帝国を相手にして、これを薩摩一国の力で撃退した。その薩摩兵が迫ってくる。猿叫による威嚇は大砲の着弾の際の衝撃音同様、隊士たちを恐れさせるのに十分だった。
 

 八郎もまたしばし動揺した。しかしその時、八郎の視界が遠く御香宮に煙の中にはためく「誠」の旗をとらえた。それが八郎の闘争心に火をつけた。
「行くぞ皆! 進め!」
 硝煙のにおいの中八郎は号令を上げた。部隊の先頭で敵兵を斬りまくった。
心形刀流においては心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義とする。すなわち、技は形であり、心によって使うものである。心正しければ技正しく、心の修養足らざれば技乱れる。そして、この技が刀の上に具現されるというのが、心形刀流の理念であった。
 一方、薩摩にも示現流といわれる独特の剣術の流派があった。その理念は「意地」「業」「打ち」の三つに集約される。「蜻蛉の構え」といわれる独特の構えから、とにかく一の太刀で敵を倒すという極めて実戦型の剣術だった。
 しかしいかな示現流の使い手といえど、八郎を倒すことは至難の業だった。一見する華奢な八郎であったがその勇猛なことは配下の遊撃隊をも奮い立たせた。八郎自身もまた、今までの生涯でこれほどの興奮を覚えたことはない。その壮絶な戦いぶりは、薩摩側の名将・野津七左衛門をして「幕軍にさすがに伊庭八郎あり」といわしめたといわれる。
 再び「誠」の旗が八郎の視界に入った時のことだった。不意に八郎は胸部に激痛を覚えた。右手をふれると不気味なほど血がこびりついていた。敵の銃弾が右胸部に貫通したのである。
 瞬時、八郎の脳裏に京で過ごした、楽しかった日々がよみがえった。
「俺はもう死ぬのか? あの頃には……決して戻れない……」
 八郎は最前線で人事不肖となる。しかし命だけはとりとめた。そして、これは終わりなどではなかった。やがては蝦夷地の箱館で燃え尽きるまでの壮絶な戦いへの序章でしかなかったのである。




(今回は本編との関係もありここいらあたりで一旦終了します。本編での八郎の活躍にご期待ください)

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