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10.剣闘大会本番(中)
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剣闘大会二日目の朝は、予想外の訪問者を迎え、手土産にもらった郊外の人気スコーン店新作に舌鼓を打つところから始まった。リタの肘は内出血がひどい程度で済んでいたが、足首は二倍の太さに膨れあがっていたので、お行儀が悪いが、ベッドの上でいただくことにした。ほろほろの生地に、練り込まれたバターの濃厚な風味と甘さ、それを引き立てるようにレモングラスが香って、新作スコーンはヒット商品となるに違いなかった。
アンネには、無理をいって席を外してもらい、居室の人払いを頼んだ。なぜならその訪問者が、リタに瓜二つのカールその人だったからだ。
数か月ぶりに見る弟は相変わらず少し神経質そうで、肌は透き通るように白い。王城にいる間に日焼けし、筋肉質になったリタよりも、女性的ですらあった。
「出てきて大丈夫なの」
手土産のスコーンを一口いただいてから、リタは本題に入った。弟の体調は心配だったし、誰かに見つかったらと思うと気が気でなかった。同行してきた執事のウォルターを咎めるような視線を送る。カールのことを大切だと思うのなら、この行脚を止めてほしかった。
「一日外出するくらいなら平気だよ。この時期を逃すともう姉さんに会えるタイミングがなかったから、父さんたちに内緒で、無理いって連れてきてもらったんだ」
弟は、傷ひとつない繊細な指で、リタの短く切られた髪を掬い、痛々しげに眉根を寄せた。
「姉さん、ごめん、髪まで切らせて、こんなこと」
カールは心底ショックを受けているようだった。曰く、両親がリタにカール役の代行を任せたとき、カールは何も聞かされておらず、当時彼が床に伏していた病がおさまった頃にはリタが王城に発った後であったこと。何度かウォルターに様子を見てくるよう頼んだが、王城の門は閉ざされ、連絡がとれなかったこと。物見遊山で遠方からやって来た恩人を昨夜から両親がもてなしており、今日午後まで気もそぞろになっているのを好機ととらえ、リタを訪ねることを思いついたそうだ。
「姉さん、僕は正直こんなことには反対なんだ。一緒に帰らないか」
患部を労わるように、そこからほど近い部分に優しく手を添えられて、リタの心は揺れた。
思い返せば、望んで始めた生活ではなかった。両親にカールのためと説き伏せられて王城までやって来たが、カール自身が望まないのであれば、ここにいる理由はない。アルフレッドが後継者となり、次期国王となるのを、一国民として見守ればよい。アンネが結ばれるところを直視して、心を痛める必要はない。
リタは唇をかみしめた。答えは出ているのに、ここに残る理由を探している自分に、気づいてしまった。
「カールと一緒に帰るのが、正しい選択なんだと思う」
「……じゃあ」
「でも、自分でもよく分からないんだけど、ここにいたいの。カールが成人するまででいい。この場所から、ここで生活する人たちと、世界を見て、自分を磨いて、試してみたいの」
勇みかけたカールが言葉をつなぐ前に、リタはわがままな本音を吐露した。そのときはじめて、リタは今の生活がカールのためのものから、自分のためのものに変わっていたことを自覚した。
リタは、アンネの淹れてくれる紅茶が好きだった。二人きりで年相応な雑談に花を咲かせるのも楽しい。衛兵のフランシスやロイのくだらない冗談に笑ったり、厳しいけれど面倒見のよいエドワードに認めてもらえるよう努力したり、政策を学び世界を知るのも代えがたい充足感がある。そしてアルフレッドについては、どうにも複雑な思いが交錯するものの、彼の隣にいたいという気持ちだけは自明だった。それがどんな形であれ、また期間限定的であったとしても。
ウォルターが何か言いかけるのを制止して、カールは自分を納得させるように、何度か小さく頷いた。そして珍しく、吹っ切れたように明るく笑った。
「そういうことなら、姉さんの気持ちを応援するよ」
「カール、ごめんなさい、あなたの意に背くのであれば」
「いや、構わないよ。どうせ乗りかかった船なのだから、最後までやろう」
カールの発案で、リタは約束を三つ交わした。一つ、怪我をするような無茶はできる限り控えること。一つ、カールの成人を期限に必ず元通りに入れ替わること。一つ、絶対に王城内の人間にバレないこと。
「姉さんの婚期を遅らせるわけにはいかないし、父さんたちが軽々しくお願いしたのが浅慮なんだけど、バレたら不敬罪に処されかねない。とにかく、自分のことを第一に考えて行動するんだよ」
姉思いで思慮深い弟の言葉に頷きながら、リタは内心で誠心誠意謝った。三つ目については、今まさに危機に瀕している。
スコーンを堪能してから、カールとウォルターは帰っていった。アンネが無事に城門まで見送ってくれたというのだから、リタはアンネに頭が上がらない。このまま何事もなく帰路につけることを願った。
アンネをベッド横の椅子に座らせて、もらったスコーンを一緒に堪能しながら、リタは今後の身の振り方について考えることとした。
◇ ◇ ◇
窓の向こうから西日が差し込み、影が伸びる頃、アルフレッドはカールの居室を訪れた。剣闘大会準備を理由に避けてきたが、カールが怪我までおってしまった今、彼――いや彼女が、何のためにここにいるのか明確にしておく必要があった。
ドアをノックすると、中から勝手知ったるメイドのアンネが出迎えた。アルフレッドは、できるだけ王城に出入りする者の顔と名前を覚えるようにしていたので、彼女のことも以前から知っていたが、会話らしい会話をしたのは先日の遠出が初めてのことだった。カールやロイと相性が良いらしく、よく一緒にいるところを見かける。彼女は、カールの秘密を知っているのだろうか。
ここへ来るまでの間に温室を通ったので、そこで誂えた花束をアンネに渡した。
「近場の花で申し訳ないけれど、カールへのお見舞いに」
「ありがとうございます。では、お部屋に飾らせていただきますね」
ふと視線を感じた方を向くと、ベッドの上で、カールが泣き出す直前のような顔でこちらを見ていた。アルフレッドと目が合うと、その顔は一瞬だけ驚きに染まり、すぐポーカーフェイスに戻って視線を逸らす。最近似たような態度をとられることが増えて、その度に何か力になりたいと感じるものの、成功した実例は思い浮かばない。先日の湖畔でも、泣いているのかと思って肩をたたいたら、驚かせて泉へ落ちてしまった。無事だったから良かったものの、あれは心底肝が冷えた。
カールという人物は、アルフレッドにとって、まるでびっくり箱のような存在だった。幼少の頃の記憶はほとんどないが、再会したとき、まずその美しさに驚いた。髪は自分と同じ金色だったが、カールは肩の位置で切りそろえて、中世的な雰囲気を残していた。大きな瞳と、通った鼻、少しだけ小さな唇のバランスが絶妙で、頬に朱色が指すと人形のようだと思った。
話してみると庶民的な性格をしているのが意外で、喜怒哀楽がはっきりしており、恥ずかしげもなく「尊敬」とか「好き」とかいった言葉を口にするのが、自由で羨ましかった。
昔は体が弱かったそうで、国政や武道に疎いと聞いたので、エドワードを紹介した。彼なら国民の目線でカールと話をしてくれると思ったし、剣技の腕は誰もが認めるところだったからだ。
エドワードによる指導はカールにとってスパルタだと感じられたようで、最初は溝があったようだが、媚びを売るわけではなく、自然体で付き合える対人能力と、やると決めたことをやり通す意志の強さは自分にないもので憧れたし、そのくせ警戒心が薄く、トラブルに巻き込まれたりケガをするなど、すぐその身を危険に晒すので目が離せなかった。弟のように思っていた。
だからこそ、湖畔での出来事は衝撃的だった。カールは従弟だったから、カールと名乗っていたのが女性であったという事実に、見えていたはずの輪郭が急にぼやけたような心許なさを覚えた。この人は誰だろうと思うのもつかの間、人間として一番大切な信頼を踏みにじられたようにも感じて、苦しかった。
いっそ興味を失えたら楽だったが、連日エドワードに課された以上に訓練に励む姿を見ては心配な気持ちになるし、短期間で仕上げたとは思えないほどの奮闘ぶりを大会で披露され、高揚と感動を分かち合いたくなるし、大怪我をしてまで何かを為そうとする姿勢がいじらしくて、たまらなかった。女性だと知ってしまったからか、彼女の行く道に転がる石があればどけてやりたいし、花が咲いていれば摘んで贈りたいという気持ちに気づいて、愕然とした。
カールと名乗る女性のベッド横にある椅子に腰かけて、アルフレッドは「こんばんは」と挨拶した。彼女は、覚悟を決めたような表情でこちらを見た。
まずは彼女の言い分をしっかり聞こう。そのうえで、彼女の処遇を検討し、この気持ちを整理しよう。長い夜になりそうだった。
◇ ◇ ◇
アンネには、無理をいって席を外してもらい、居室の人払いを頼んだ。なぜならその訪問者が、リタに瓜二つのカールその人だったからだ。
数か月ぶりに見る弟は相変わらず少し神経質そうで、肌は透き通るように白い。王城にいる間に日焼けし、筋肉質になったリタよりも、女性的ですらあった。
「出てきて大丈夫なの」
手土産のスコーンを一口いただいてから、リタは本題に入った。弟の体調は心配だったし、誰かに見つかったらと思うと気が気でなかった。同行してきた執事のウォルターを咎めるような視線を送る。カールのことを大切だと思うのなら、この行脚を止めてほしかった。
「一日外出するくらいなら平気だよ。この時期を逃すともう姉さんに会えるタイミングがなかったから、父さんたちに内緒で、無理いって連れてきてもらったんだ」
弟は、傷ひとつない繊細な指で、リタの短く切られた髪を掬い、痛々しげに眉根を寄せた。
「姉さん、ごめん、髪まで切らせて、こんなこと」
カールは心底ショックを受けているようだった。曰く、両親がリタにカール役の代行を任せたとき、カールは何も聞かされておらず、当時彼が床に伏していた病がおさまった頃にはリタが王城に発った後であったこと。何度かウォルターに様子を見てくるよう頼んだが、王城の門は閉ざされ、連絡がとれなかったこと。物見遊山で遠方からやって来た恩人を昨夜から両親がもてなしており、今日午後まで気もそぞろになっているのを好機ととらえ、リタを訪ねることを思いついたそうだ。
「姉さん、僕は正直こんなことには反対なんだ。一緒に帰らないか」
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思い返せば、望んで始めた生活ではなかった。両親にカールのためと説き伏せられて王城までやって来たが、カール自身が望まないのであれば、ここにいる理由はない。アルフレッドが後継者となり、次期国王となるのを、一国民として見守ればよい。アンネが結ばれるところを直視して、心を痛める必要はない。
リタは唇をかみしめた。答えは出ているのに、ここに残る理由を探している自分に、気づいてしまった。
「カールと一緒に帰るのが、正しい選択なんだと思う」
「……じゃあ」
「でも、自分でもよく分からないんだけど、ここにいたいの。カールが成人するまででいい。この場所から、ここで生活する人たちと、世界を見て、自分を磨いて、試してみたいの」
勇みかけたカールが言葉をつなぐ前に、リタはわがままな本音を吐露した。そのときはじめて、リタは今の生活がカールのためのものから、自分のためのものに変わっていたことを自覚した。
リタは、アンネの淹れてくれる紅茶が好きだった。二人きりで年相応な雑談に花を咲かせるのも楽しい。衛兵のフランシスやロイのくだらない冗談に笑ったり、厳しいけれど面倒見のよいエドワードに認めてもらえるよう努力したり、政策を学び世界を知るのも代えがたい充足感がある。そしてアルフレッドについては、どうにも複雑な思いが交錯するものの、彼の隣にいたいという気持ちだけは自明だった。それがどんな形であれ、また期間限定的であったとしても。
ウォルターが何か言いかけるのを制止して、カールは自分を納得させるように、何度か小さく頷いた。そして珍しく、吹っ切れたように明るく笑った。
「そういうことなら、姉さんの気持ちを応援するよ」
「カール、ごめんなさい、あなたの意に背くのであれば」
「いや、構わないよ。どうせ乗りかかった船なのだから、最後までやろう」
カールの発案で、リタは約束を三つ交わした。一つ、怪我をするような無茶はできる限り控えること。一つ、カールの成人を期限に必ず元通りに入れ替わること。一つ、絶対に王城内の人間にバレないこと。
「姉さんの婚期を遅らせるわけにはいかないし、父さんたちが軽々しくお願いしたのが浅慮なんだけど、バレたら不敬罪に処されかねない。とにかく、自分のことを第一に考えて行動するんだよ」
姉思いで思慮深い弟の言葉に頷きながら、リタは内心で誠心誠意謝った。三つ目については、今まさに危機に瀕している。
スコーンを堪能してから、カールとウォルターは帰っていった。アンネが無事に城門まで見送ってくれたというのだから、リタはアンネに頭が上がらない。このまま何事もなく帰路につけることを願った。
アンネをベッド横の椅子に座らせて、もらったスコーンを一緒に堪能しながら、リタは今後の身の振り方について考えることとした。
◇ ◇ ◇
窓の向こうから西日が差し込み、影が伸びる頃、アルフレッドはカールの居室を訪れた。剣闘大会準備を理由に避けてきたが、カールが怪我までおってしまった今、彼――いや彼女が、何のためにここにいるのか明確にしておく必要があった。
ドアをノックすると、中から勝手知ったるメイドのアンネが出迎えた。アルフレッドは、できるだけ王城に出入りする者の顔と名前を覚えるようにしていたので、彼女のことも以前から知っていたが、会話らしい会話をしたのは先日の遠出が初めてのことだった。カールやロイと相性が良いらしく、よく一緒にいるところを見かける。彼女は、カールの秘密を知っているのだろうか。
ここへ来るまでの間に温室を通ったので、そこで誂えた花束をアンネに渡した。
「近場の花で申し訳ないけれど、カールへのお見舞いに」
「ありがとうございます。では、お部屋に飾らせていただきますね」
ふと視線を感じた方を向くと、ベッドの上で、カールが泣き出す直前のような顔でこちらを見ていた。アルフレッドと目が合うと、その顔は一瞬だけ驚きに染まり、すぐポーカーフェイスに戻って視線を逸らす。最近似たような態度をとられることが増えて、その度に何か力になりたいと感じるものの、成功した実例は思い浮かばない。先日の湖畔でも、泣いているのかと思って肩をたたいたら、驚かせて泉へ落ちてしまった。無事だったから良かったものの、あれは心底肝が冷えた。
カールという人物は、アルフレッドにとって、まるでびっくり箱のような存在だった。幼少の頃の記憶はほとんどないが、再会したとき、まずその美しさに驚いた。髪は自分と同じ金色だったが、カールは肩の位置で切りそろえて、中世的な雰囲気を残していた。大きな瞳と、通った鼻、少しだけ小さな唇のバランスが絶妙で、頬に朱色が指すと人形のようだと思った。
話してみると庶民的な性格をしているのが意外で、喜怒哀楽がはっきりしており、恥ずかしげもなく「尊敬」とか「好き」とかいった言葉を口にするのが、自由で羨ましかった。
昔は体が弱かったそうで、国政や武道に疎いと聞いたので、エドワードを紹介した。彼なら国民の目線でカールと話をしてくれると思ったし、剣技の腕は誰もが認めるところだったからだ。
エドワードによる指導はカールにとってスパルタだと感じられたようで、最初は溝があったようだが、媚びを売るわけではなく、自然体で付き合える対人能力と、やると決めたことをやり通す意志の強さは自分にないもので憧れたし、そのくせ警戒心が薄く、トラブルに巻き込まれたりケガをするなど、すぐその身を危険に晒すので目が離せなかった。弟のように思っていた。
だからこそ、湖畔での出来事は衝撃的だった。カールは従弟だったから、カールと名乗っていたのが女性であったという事実に、見えていたはずの輪郭が急にぼやけたような心許なさを覚えた。この人は誰だろうと思うのもつかの間、人間として一番大切な信頼を踏みにじられたようにも感じて、苦しかった。
いっそ興味を失えたら楽だったが、連日エドワードに課された以上に訓練に励む姿を見ては心配な気持ちになるし、短期間で仕上げたとは思えないほどの奮闘ぶりを大会で披露され、高揚と感動を分かち合いたくなるし、大怪我をしてまで何かを為そうとする姿勢がいじらしくて、たまらなかった。女性だと知ってしまったからか、彼女の行く道に転がる石があればどけてやりたいし、花が咲いていれば摘んで贈りたいという気持ちに気づいて、愕然とした。
カールと名乗る女性のベッド横にある椅子に腰かけて、アルフレッドは「こんばんは」と挨拶した。彼女は、覚悟を決めたような表情でこちらを見た。
まずは彼女の言い分をしっかり聞こう。そのうえで、彼女の処遇を検討し、この気持ちを整理しよう。長い夜になりそうだった。
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