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序章
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序 001
サビーウラーフから見下ろす眺望は、いつ見ても壮観である。
サビーウラーフは帝国の所有する浮島であり、この大陸にこれより高いものは存在しない。
中央には離宮が三層からなる白亜のドームを膨らませ、それが夕陽を浴びて輝いている。その背には八つの尖塔を持つ高い壁が、やはり夕陽に色づきながら、後背に迫る山の緑を封じている。正面には、広大な庭園が円形の噴水を中心に幾何学的な模様を描きだし、中央を走るタイル張りの道が浮島の端まで続いている。その先は、島の端に沿ってタイルが敷かれ、眺望を満喫するための横長い空間が演出されている。
その際端の大理石の欄干に手を掛けて、帝国宰相であるメラニポス・パラース(通称=ニポ)は下方に広がる帝国領土を見渡していた。
遙か下方に雲がたなびき、隙間から大地の緑が透けて見える。そのまま前方へ視線を流すと、所々、耕作地や街といったものが、まるで迷彩模様のように茶色や灰色の色合いを浮かび上がらせている。
右方には大陸でも三指に数えられるドアールの大河が、大蛇のようにうねりながら夕日に輝く大地の果てへと濃紺の瀬を煌めかせている。それより発した支流が葉脈のように大地の迷彩模様を縁取りながら広がっており、所々、条坊よろしく格子状になっているのは、ニポたちの成した潅漑事業の賜である。
左方に目を転じれば、遠方にサウトンピックの山脈が、頂に雪を湛えた先鋒を空気遠近法に薄青くくすませているのが小さく見てとれる。標高5000メートルを誇るその山も、この浮島から見れば、ただ大地が鋭く皺立っただけの、そんな折り目の一つでしかないことを思い知らされる。
太陽は大地の果てに姿を隠しているが、それでも残照は煌々と天幕の裾を輝かせ、それは上方にいくほどピンクに色づき、頭上、見上げる辺りでようやく星を抱く薄い闇色のベールと混ざり合っている。
サビーウラーフから眺める夕景は、夜を拒絶する楽園のようにパステル色(しょく)に彩られ、景色のそこかしこで転がるダイヤモンドのように虹光を踊らせている。ことさら比喩に訴えるなら、それは麗艶な踊り子が凄艶なダンスを踊って見せるがごとく、見る者を魅了し、飽きさせないのである。
そこでニポは、ふと差し掛けた困惑に目を閉じて、いつもながらに思料する。
――これが、フルダイブ式・RPGゲームの造りだした仮想現実であるとは、俄に信じ難いものがある。
逆説的には、ゲームの仮想空間であるからこそ、このような眺望を味わうことができるとも言えなくもない。だが、圧倒的な風景を目の当たりにしたとき、精神の深層に眠る何かが刺激され、訳も分からぬまま感涙にむせんでしまうといったことがある。そんな感覚はゲームであろうがなかろうが、実体験に他ならない。
ただ惜しむらくは、触覚や嗅覚、味覚、それに痛覚といったものが遮断されていることである。視覚と聴覚以外の感覚と言えば、何かにぶつかったり、敵の攻撃を受けたりしたときに僅かなバイブレーションを感じるぐらいで、今、掌が触れている大理石の、その表面の冷ややかさや、艶やかさといったものを感じることはできないのである。
だが、3DCGを極めんとばかりに作り込まれた、圧倒的な風景がもたらす視覚的情報は、それを脳が処理する過程において様々な擬似的感覚、つまりは錯覚を生じさせるに充分なものでり、現にニポは、自分の頬に吹きつける爽涼たる風を容易に錯覚することができている。
「どうした?」
ニポの隣に立ち、等しく眺望にひたっていたリックが、そう言ってニポの肩に手を掛けた。
それでニポが我に返った途端、視界の周囲にHPバーやMPバーを始めとする様々な情報が浮かび上がった。眺望を堪能するために情報ディスプレイをOFFにしていたのだが、リックに触れられたことにより警戒モードが発動して急遽表示されたものである。
右方を向くと、リックの微笑む顔が覗き込んできた。その上側に、
〝リチャード・ブレイン 白銀の騎士 ファバール帝国・第1宰相〟
といったリックの情報が白字で表示され、さらに名前の下側には蛍光ブルーのアンダーバーが輝いていた。
アンダーバーが蛍光ブルーと言うことは、リックがプレイヤーの操るPC(プレイヤー・キャラクター)であることを表わしている。システムが操るNPC(ノンプレイヤー・キャラクター)の場合にはこれが山吹色で表示され、その他、動物は淡いオレンジに、モンスターはカーマイン(洋紅色)に……と言った具合に、それぞれアンダーバーの色が割り当てられているのである。
そしてこれらの配色は右上の小窓に表示されているマップ上にも反映されており、マップの中心にはマジェンタ色の点がニポ自身を表わし、そのすぐ上にリックを表わす蛍光ブルーの点が輝いている。
それとは別にニポたちの右側、2mばかり離れた場所にも、蛍光ブルーの点が六つ縦に並んでいる。彼等はニポたちと共に大陸統一の夢を掲げ、そして果たした、かけがいのない知己たちである。オフ会などには参加しないニポであるが、そのニポがリアル〈現実)でも親交を結ぶ希有な存在とも言える。
リックが顔を遠ざけると、その表示も追随して移動した。白いダブレットにチャコールグレイの太めのパンツ、膝下まである鞣した革のルーズなブーツを履き、それらの上に丈の長い袖無しのコートを羽織っている。そのコートは濃紺のビロード製で、襟の後ろ側が立ち上がり、襟や肩ぐりには楔を並べたようなジグザク模様が金糸で刺繍されている。さらに背中には二つの正方形を重ねてその一つを45度回転させたようなオクタグラム(八芒星)が大きく刺繍されており、これは元々、ここに居る八人の仲間がそのシンボルとして使用していたものであるが、今では帝国の紋章ともなっている。胸の左側にもオクタグラムが刺繍され、その内側には第一宰相を表わす梟の姿が金糸を盛り上がらせている。
隣に立つニポもまた、リックと同様の身なりをしているが、コートの色はバーガンディ(濃茶)であり、また、胸には小さな梟が二羽刺繍され、これは第二宰相を表わすものである。
リックは腰をかがめて両肘を欄干にかけると、改めて風景を味わうかのように左から右へとその顔を旋回させた。そして、「七年か……」としみじみ呟いた。
「よくもまあ、こんなどでかい大陸を統一したもんだ」
「そうだな……」
ニポもリックにつられるように、風景に顔を向けた。
このゲーム「ユウグラティス」はファンタジー的世界観をベースとした、MMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインRPG)であり、ゲームの掲げるクリヤー目標はただ一つ、その名の通りユウグラティスと呼ばれる大陸の統一である。
だが、自由度はかなり高く、特にゲームクリアーに拘らず、一国の王に収まってその国の運営に専念するも良し、商人となってその商才を試すも良し、仲間とギルドを作って剣と魔法を頼りに冒険したり、独りで大陸中を旅したり、あるいは、どこか田舎に別荘を得て、そこでスローライフに釣りを楽しんだり……と、それらに対応するイベントも無数に鏤められていて、実際、プレーヤーの楽しみ方についても枚挙に暇がない。
ゲームが始まった当初は、PC達による国家が乱立し、元々NPCが治めていた国家と入り乱れ、それらが群雄割拠して覇権を争ったものである。しかし、二年経っても統一に至る者は現れず、その頃より閉塞感が漂い始めると、多くの者が統一を諦め、前述のような独自の楽しみ方を見出していった。
だがニポとリックは諦めず、統一の道を模索し続けた。NPCの治める国家と戦する傍ら、統一に対して諦めムードが漂っていたPCたちと巧みに交渉し、時には詭弁も弄しながら領土を拡大していった。
そして、更に二年かけて、要約一度目の統一を果たしたのである。しかし、統一を果たした瞬間、全てのプレイヤーの視覚情報に「大陸制覇」のテロップが浮かび上がると、ゲームクリアーの阻止を目論む者たちの反乱や離反にあい、その統一国家は一週間を待たずして崩壊し、クリアーには至らなかった。システムがゲームクリアーと認める統一の条件には、その体制を半年以上維持することが含まれていたからである。
その失敗によって新たな発見があった。ニポたちのクリアーを阻む者がいる一方で、それを望む者もまた数多くいることが分かったのである。
そういうこともあって、崩壊したとは言え、ニポたちの治める領土は、延べ面積にして大陸の半分を未だ占めていた。それは敵国に浸食され飛び地となっている部分も数多くあったが、西方には広い領土も残っていて、先ずはそこから手を着けた。
そして今度は、大陸を縦2×横3の六つの区画に分けて王国を樹立し、それをここに居る知己たちが国王となって治め、ニポとリックが大局的に補佐することでその支配を盤石なものとする六カ国体制を第一の目標とした。
西の二国、次いで東の二国と、それら四王国の樹立に一年も要さなかったのは、そこには旧統一国の領土が多く散在していたからである。
残るは中央の二区画であり、そこは統一に反旗を翻したPCやNPCたちの国がひしめき合い、互いに領土を奪い合うといった乱戦の場と化していた。先ずは南の端を占領して、そこからじわじわと北に攻め上った。同時に東西の四王国からも挟み込む形で攻め続け、一年半をかけて、あと一国を残すのみとなった。
残ったのは中北部の大国、バラディン王国である。大国とは言え、五王国連合によって物量に任せて一気に攻め込めば、あっさり片はついただろう。それを主張する仲間もいたが、ニポとリックは前回の統一失敗を鑑み、それを退けた。
バラディン王国の国王エイデスはPCであり、自ら「ウォーガッド(戦神)」を名乗るほどの戦好きで、大戦こそが彼にとってこのゲームを楽しむ方法であった。そんな彼にとって、この五カ国包囲の状況は、劣勢に立つ大戦に狂喜する、またとない機会であったといえる。実際、交渉を何度か持ちかけた際、そのような台詞も言っていた。
物量に任せて攻め込めば、戦らしい戦もせぬまま、ただニポたちが蹂躙する形で幕が下りただろう。そうなればエイデス王の下がらぬ溜飲が、統一を果たした後に謀反となって示現することも推測に易かった。その憂いを注ぐため、エイデス王の欲求を満たすことにしたのである。
謀略は巡らさず、純粋に戦を繰り返した。
五王国連合からは、やはりエイデス王同様、戦好きの者を適宜選出し、軍団を結成した。五王国の王たちもローテンションを組んで軍団を率いたが、ニポだけは常に一隊の隊長として前線に立ち続けた。
当初、戦闘はPCのみによる数百人規模で行われ、これはバラディン王国側にあわせたものであったが、常にニポたち連合軍の数が上回るぐらいの配慮はしていた。それでも、さすが戦好きを自称するだけあって、バラディン軍は強く、ニポたちが敗戦に退くことも度々あった。
そうして数ヶ月が過ぎた頃には、この戦いがイベント化し始めた。戦に参加しない者たちも、まるでワールドカップでも観戦するかのように一喜一憂して盛り上がると、中にはバラディン王国に物資の援助を行う者も現れた。
それでも、バラディン側はじわじわと領土を失い、最後は籠城戦となった。その籠城戦を制し、ニポたちが王の間に達したとき、エイデスはひな壇の上の玉座に座ってニポたちを待っていた。そして、エイデスが片手に握った魔槍の石突を床について立ち上がり、ゆっくりと階梯を降りてきたとき、ニポたちは一騎打ちの予感に緊張を噛み締めた。
だが、エイデスはニポの前まで来ると、「見事だった」と、感慨深くそう言って微笑を差し向けてきた。何度となく戦を繰り返すうちに、エイデスとニポたちの間に奇妙な友情が生じていたことを、このとき改めて実感した。
そして、エイデスはその場に跪き、ニポに対し、その槍を両手で捧げて見せたのである。それが後日、統一が果たされたことの象徴的なシーンとして語られることとなった。
実際の統一は、こののち六王国の王たちが公式に協議するといった形式をつくろったうえで、一つの統一国家であるファバール帝国を樹立し、ここに大陸の統一が果たされたことを民衆に宣言した。
皇帝については旧六王国の王を勤めた者たちが、一ヶ月交代で帝位を継ぐものとした。そこには旧六王国の領民たちへの配慮があった。PCはともかくNPCにおいては、その領主が王になった場合など反乱等が減る傾向にあり、そのリスクを帝国全土において均等に軽減させるためであった。
また、統一国の王位につくと、何もせずともただその座にあるだけで膨大な経験値を得ることができ、その経験値に限っては他者への贈与が許されている。それを利用し、帝国が成立した暁には、六王国の王たちが順次皇帝につき、それで得られた経験値をそのそれぞれの配下に還元するという条件で、各国を支えたPCたちも少なからずいて、その約束を果たすためでもあった。
だが、ニポたちにはもう一つ理由があった。それは、ある噂に基因していた。
このゲーム『ユウグラティス』には幾つか都市伝説のような噂があって、その中の一つに「限定解除」というものがあった。
それは、ゲームをクリアーすると、PCの中からそれに最も貢献した者をシステムが一名選出し、その者に対して「能力限定解除」のエクストラボーナスを与えるというものである。
このゲームにおいて能力の総合値であるLEVELのマックス(限界値)は100であり、そこに達した時点で、キャラクターの成長は止まってしまう。HPや、MP,その他、アジリティー等々、それらの能力値についてもそれぞれ限界値が定められており、それを越えて成長することはない。だが、このエクストラボーナスを取得すれば、それら全ての値の限界が取り払われるというのである。
更にその噂には「経験値遡及還元」といった尾鰭までついていた。LEVEL100に達して以降プレーして得た経験値は、当然ながらそのキャラクターには反映されない。だが、それらのデータはゲームサーバー内に保管されており、「能力限定解除」の発動に連動して、マックスに達した時点まで遡ってそれ以降蓄積されていた経験値が一気に加算されるというものである。
例えば、ニポを例にしてみれば、ニポはゲーム開始三年目にしてすでにLEVEL100に達していた。これはプレイヤーの中でも早い方だが、それ以降、蓄積された経験値はかなりのものだろう。それが加算されたとしたら、「限定解除」が付与された時点で、一気にLEVEL200を越えることもあり得る話である。
また、このゲーム『ユウグラティス』はチートができないことでも知られている。ゲームの開始当初、何人もの人間がチートを行おうとしたが、チートを仕掛けた瞬間、パソコンがクラッシュするという事件が多発した。状況からして、『ユウグラティス』を運営するシステムからサイバー攻撃を受けた、というのが被害を被った者たちの意見であるが、その中には上級ハッカーもいて、その腕をしても攻撃の痕跡すら見つけることはできなかった。しかしそのことこそが、「システム攻撃説」を唱える者たちに確信を生じさせていた。
量子コンピューターである。
『ユウグラティス』を開発、運営しているのはゲーム会社ではなく、「メルバ」という世界トップクラスの医療系企業である。もともとは医療分野においてフルダイブ・バーチャ
ルシステムの運用を試みたのが始まりだと噂されているが、そのメルバは、知られているところでも最低二つの量子コンピューターを開発しており、その内の一つは世界屈指と言われている。それがこのゲームの運用に使用されているとしたら、痕跡を一切残さずパソコンを攻撃することぐらい造作も無いことだ、というのがシステム攻撃説を説く者達の主張である。
ゲームの運用に量子コンピューターを使用しているか否かについては、メルバはコメントを控えているが、しかしそれが使用されているとしたら、この圧倒的なグラフィックやフルダイブにおける違和感なき体感等々、確かに納得できるところがある。それらは他のゲームの追随を許さず、このゲームが人を惹きつけて止まない理由でもある。
とにかくも、チートができないことは確かであり、そんな世界にあって、ただ独り「限定解除」の特典を得ることができるとしたら、その相対的立場はそれこそチート、いや、最早、神の領域に足を踏み入れるようなものである。
殆どの者はこの噂を「眉唾もの」と信じておらず、ニポたちもまたそうであった。だが、いざ自分たちがその噂に手が届く立場になってみると、ただの噂と捨て置くこともできなくなってしまった。それで「最もクリアーに貢献した」という条件が何かを考え、やはりそれは、統一国家の統治者を務めることが大きな要因になるだろうという考察にいたった。
それを鑑み、共に統一を果たした六人の知己たちが均等にそのチャンスを得られるように……と、そういった配慮が、この皇帝の順次即位の裏側には隠されているのである。
ニポとリックにおいては、この特典を得る可能性について、端(はな)から放棄していた。いや、この特典に限らず、ゲームクリアーによって得られる全ての特典や報酬についても、他の六人に譲るつもりであった。
ニポたちには、心のどこかに、他の六人を巻き込んでしまったという背徳めいたものを感じている。ゲームクリアーへの道は過酷さを伴い、楽しさより、苦悩や辛酸を味わう日々の方が多かった。あっさり諦めて他のプレイヤー同様、独自の享楽を見出し、それに耽ることこそ「このゲームが秘めたる本懐ではないのか?」と、そう自問したこともある。しかし、六人の仲間たちはそれをせず、最後までニポたちにつきあってくれたのである。このゲームで味わうことができたかもしれない、多くの喜びと引き換えにして……。
それを気にする六人の知己たちではなく、むしろ生き甲斐を感じていると、皆、口を揃えて言ってくれてはいるが、それでもニポたちの心の深淵には背徳が蟠っており、せめてクリアー報酬等は全てこの六人に譲りたいと願っていたのである。
だからニポとリックは帝位には就かず、宰相という職制のもと、安寧を保つための影役に徹した。不穏な動きがあればそこに趣き、リックが政治的交渉によりそれを収め、実際に反乱が起きればニポが隊を率いて鎮圧した。
反乱鎮圧については嬉しい誤算もあった。旧バラディン国王のエイデスが自ら「帝国の槍」とその呼名を改め、各地の反乱を平定して回ってくれたことである。この武闘派集団の行軍が帝国の安寧を維持するうえで大いに役立ったことは言うまでもない。
そして、統一から六ヶ月が過ぎたその日、大陸中に鐘の音が響き渡った。
天界より光の女神たちが降臨し、ペガサスに牽かれたシャリオに乗って大陸中の空を駆け巡った。彼女たちが角笛を吹くと、光の天使やワルキューレたちが天空を舞遊して、その翼がひるがえるたび、虹色の光跡が筋をひいた。その虹はすぐに七色の光の粒子となって霧散して、大陸中に降り注いだ。
全てのPCたちの視覚の中央に「パクス・ナバウマ!」という文字がでかでかと躍り、ゲームがクリアーされたことと、さらにこの状態のままゲームが継続されること等を説明するテロップが、視界の下側に流れ続けた。
――あれから三日が経っている。
夕景に虹光が煌めいているのは、あの日に霧散した虹の粒子が今なお大気に漂っているからだろう。
「行くんだな……」
リックは微笑みを傾けたが、その声にはどこかもの悲しさが籠もっていた。
ニポは言葉につまり、ただ静かに頷きを返した。
能力限定解除の噂は本当だった。
ゲームクリヤーを果たしたとき、システムからメッセージが届いたのだ。
『汝が果たせし偉業を讃え、転生の顎門を開かん。三日後の夕陽が沈む時、天空に注ぐ滝の裂け目に身を捧げるが良い。汝が真に選ばれし者であるのなら、その身は神の末席に加えられるだろう』
これが、能力限定解除のことを言っていることは、推測に易かった。ただ皮肉なことに、このメッセージは、よりにもよってニポにしか届いていなかった。
システムの下した決定を恨めしく思いながらも、その一方で、ニポは、どこか安堵している自分に気がついていた。
ニポの心には、妻が亡くなって以降、ポッカリと開いた空洞がある。その空洞にゲームクリヤーを果たすという一念を槇代わりに焼(く)べては、ただ、ひたすら走り続けてきた。それが果たされた今、心の蒸気機関は静止してしまい、代わりに虚無感が空洞を満たし始めている。最早ゲームを続ける気力も無く、あまつ、あらゆることが面倒になり、このまま独り野に下り、退廃に身を沈めてしまいたいといった衝動が、ややもすると差し込んでくるのである。だからといって、これで「はい、さよなら」では、これまで培ってきた友誼に悖ることになり、それで、心は逡巡としてその言葉を紡ぎかねていた。
そういった状態にあって、メッセージにある『転生』という言葉は、渡りに船だった。転生すればセリカパレッセ《光の聖殿》のどこかの聖堂に飛ばされて、そこで目覚めることになるだろう。その後のことは分からないが、とりあえずはこれで、皆に「さよなら」を言う言い訳ができた……と、そう思えたのだ。
「もうじき見えるぞ。ほらっ、あれだ」
リックがそう言って前方の右下あたりを指さした。そこには、いつの間にか積乱雲が雲のカーペットを広げていた。その表面の一部がモクモクと盛り上がり、それがまるで層雲の中を巨大な魚が泳いでいるかのように筋をひきながらゆっくり左に進んでいた。やがて層雲の端に届くと、その辺りの雲が鋭い切っ先のように延び、その瞬間、雲が上下に裂けて半月型をした浮島が姿を現した。
半月型とは言ったが弦の部分に当たる弧線はやや内側に凹んでいて、一三夜の月型と言った方がむしろ正鵠を射ているだろう。外周には緑が茂り、いたるところから清水が湧き出し、その水が弦線から瀑布となって、下方、目に見えない滝壺の水面を砕いて水煙を立ち上らせている。
浮島は滝のカーテンをこちら側に見せながら、ゆっくりと左方に移動しており、水煙が白い軌跡となって徐々に広がってゆく。やがてそれは雨雲を呼んで大地に恵みの雨を降らせることとなり、この浮島が『グレイスフォール〈恵みの滝〉』と呼ばれる由縁である。
サビーウラーフは徐々に前進しており、このままゆけば、グレイスフォールの真上を通過することになるだろう。
「そうだ……」
と、ニポは思い出したようにリックの方に体を向けると、視界にコンソールパネルを展開させた。指先で宙空を忙しくタップして、武器のストレージを表示させると、そこに映し出された一覧を横にスクロールし、『聖剣エクストライカー』をクリックした。瞬時に、ニポの腰に帯剣用のベルトが装着され、その左の腰には、白くエナメル加工された鞘に収められた剣が吊されていた。それをベルトごと外して両手で持つと、リックに差し出した。
聖剣と銘打ってはいるが、見た目は質素でこれといった装飾はなく、純粋に戦うために鍛えられた、刃渡り六七cmの諸刃の剣である。柄に巻かれた白い革も、長年激戦に耐えてきたと言わんばかりに、その色を黒くくすませている。だが、この剣は別名「覇王の剣」とも呼ばれ、この剣を持つ者が国を治める……といった伝承があって、これを持つ者の統治能力を高める効果を秘めている。
帝国の安寧を維持する一助として、ニポはこの剣を皇帝たちに貸与していた。本当は贈与しようとしたのだが、それは叶わなかった。この剣には、所有者が死ぬまでその元を離れぬ、といった特性があるからである。ニポがこの剣を所有するにいたった経緯にしても、これは元々妻のマヤが所有していた物であり、妻とはゲーム内でも結婚しており、妻が亡くなったことで、その遺産としてこの剣が自動的にニポに引き継がれたものである。結局、贈与を諦め、貸与の方法で皇帝たちに渡していたが、それでも、数週間もするといつの間にかニポのストレージに戻っており、それでまた皇帝に貸与して……といったことを繰り返し、月日が過ぎた。そしてゲームクリアーを果たすと、再びニポの元へと帰ってきたのである。
「これを託しておくよ。帝国を…いや、皆のことを、よろしく頼む」
ニポの差し出した剣を受け取りながら、リックが「なんだか象徴的だな……」と呟いた。
「だってそうだろ。こんな時、こんな場所で剣(つるぎ)を受け渡すなんて。まるで、別離の儀式みたいじゃないか……」
そう言って見つめてきたリックの褐色の虹彩に、寂寥が振るえているのをニポは見てとった。
――見抜かれている……。
リックがニポの心裏を察していることを、ニポは確信した。
リックとはゲームを始めた頃からのつき合いで、もう人生の四分の一近くを共に過ごしたことになる。リックはニポよりも年下であり、出会ったときはまだ大学生だった。往年のモノクロ映画が好きで、キャラクター名もお気に入りの主人公からとったということで、キャラクター自体もその名に見合うだけの渋い男の相貌に作り込まれている。それが正に彼の精神を体現したものであり、その心の成熟度は三つ年上のニポよりも上に思われる。
出会った頃は妻のマヤも健在で、リアル(現実)ではよく、リックがニポたちの家を訪れては、三人で食事したものである。マヤはリックのことを気に入っており、リックもまたマヤによく懐いていた。時にはリックが何日も家に泊まり込むこともあって、まるで仲の良い弟ができたような幸福に、リアル(現実)は華やいでいた。
しかし、その幸福は、マヤの死という理不尽な斧によって、突然、断ち切られてしまった。それは余りに唐突で、ニポには到底受け入れ難く、そのリアル(現実)から逃れるようにゲームにのめり込むようになった。今にして思えば、自暴自棄となり、精神も相当まずい状態にあったに違いない。それでもリックはニポを見捨てず、常に傍らにあり、当初はやけくそとも言える、ニポのゲームクリアーに対する執着に、ずっと付き合ってくれたのである。そんなリックがニポの心裏を察することなど、当然と言えば、当然なのだろう。
リックが受け取った剣をストレージに収納すると、改めてニポを見つめた。
「言っとくぞ。俺はモノクロ映画が好きであって、別にフィルム・ノワールに拘ってるわけじゃない。人生にハッピーエンドで終われる物語があるのら、俺は迷わずそいつを選ぶだろうよ。そいつをあんたにも選ばせるとしたら、それは残酷なことなのか?」
リックの真摯な眼差しを受け、ニポもまた真摯に回答した。
「過去の俺なら、『そうだ』と答えただろう。だが、今の俺には分からない。ただ……、将来、『そうでもないさ』と言える日が来れば良い……とは思えるようになっている」
「そうか。なら良い」
また会うぞ……、そう呟きながらリックがニポを抱きしめた。すると、それまで二人のやりとりを静観していた仲間たちが駆け寄って二人に抱きついてきた。ある者はニポの背中を叩き、ある者はニポの髪をクシャクシャに撫でたりしながら、「元気でな」「帰って来なよ」「待ってるからな」……等々、皆、その思いを口にした。
心優しき魔少女・アンナなどは「良い、必ず生きて帰ってきてねえ」と感極まって泣き出す始末。それを魔道の騎士・フェイが「おいおい、戦に行くわけじゃないんだから」とその豊満な胸にアンナを抱いて「すぐに帰ってくるさ」と慰めながら、「そうだろ?」とニポに上目遣いの視線を投げかけた。
刹那、ニポは返答に窮した。リックに限らず、この六人の知己たちもニポの心裏に気付いているのだと、そう悟ったのである。
突然、閃光の義賊・パキスが声を弾ませた。
「そうだ、オフ会開こうぜッ! 三日後とか、どうよ?」
「いいねえ。乗った」
「私も」
「異議無し」
「ゲームクリアーの祝いも、まだだしな」
「しょうがねえなあ。有休使うか」
と、六人の知己たちが盛り上がり、最後に「どうだ?」とリックがニポに微笑みかけた。
――何故だろう……。
ジン…と胸に染みこんでくるものがある。ポッカリと空いていた心の空洞に、仄かに暖灯色の光が揺れている。心地よくもほろ苦い思いが込みあげて、思わず目頭が熱くなってしまう。
――今はバーチャルで良かった。
なぜなら、リアル(現実)で一筋流れた涙の輝きを、皆に見せずにすんだのだから。
「ああ、やろう」
ニポは力強く頷いて見せた。
「アっ! あれじゃねえ!」
パキスが大声を発した。大理石の欄干から上体を乗りだし、前方のやや下側を指差している。
グレイスフォールが眼下に迫り、弧線を描く滝の中央に黒い亀裂が走っているのをはっきり視認することができた。
「あれだよなあ?」
と、パキスが言い、「確かに。あんな亀裂は以前にはなかったと記憶している」とタイタン(巨人族)の血を受け継ぐ者・フリーボが持ち前の低い声で呟いた。
「じゃあ、行ってこい」
リックがニポの肩を叩いて背を向けると、皆が並んでいた場所まで離れた。他の者たちも、同様にニポを叩いたり、軽く蹴りを入れるなどしてから、リックを起点にその左肩につらなり、整列した。
ニポは欄干に飛び乗ると、そこに立ったまま下方を見つめた。サビーウラーフが引き連れてきた雲が手前から漂い出て、やがてグレイスフォールの滝を覆い隠した。滝の亀裂の位置をしっかりと頭に刻み込み、ニポは足を捌いて皆の方に向いて立った。右から順に皆の顔を見つめながら視線を流してゆき、最後、リックを見つめると、リックが「うん」と頷いて見せた。それに頷きを返すと、ニポは改めて皆を見た。
「行ってくる」
そう言うと、ニポは体を後方へと傾けた。ゆっくり、人形が倒れるように、立ったままの姿勢で後ろに倒れてゆき、頭が足よりも下がったところで、軽く欄干を蹴った。体が浮島から離れ、頭の方へ、滑るように落下してゆく。
欄干から皆が上体を乗りだして、手を振りながら何かを叫んでいるのが見える。その姿がどんどん遠ざかり、やがて白いベールに掠れると、ニポは雲の中へと埋没した。
右も左も天も地も、真っ白の世界――ホワイトアウト……。
ニポは無意識のうちに苦笑(にがわら)っていた。リアル(現実)では戦闘機のパイロットをしていた時期があり、その訓練課程で始めて雲に突っ込んだとき、平衡感覚を失って慌ててしまい、「ハッド(Head・Up・Display)をよく見ろ!」と教官に怒鳴られたことを思い出したのだ。
だが、それも束の間。ニポの精神は次に来るであろう恐怖を予見し、それに備えるように体が硬直した。
雲を抜けて視界が開けると、ニポは意を決して身を翻し、両手を広げてスカイ・ダイビングの体制をとった。ダイビングなら、パイロット時代に訓練もして馴れている。
――だが……。
その訓練中の事故により、ニポは一生左足を引き摺って歩く体になってしまったのだ。
左の膝に疼痛を感じた。このバーチャルゲームでは感じ得ない痛みを認識するのは、きっと、その時のことを脳が反芻し、擬似的信号を発しているからに違いない。
左足を少し左右に振ってみる。
――よし、動く。大丈夫だ。
そう自分を落ち着かせると、グレイスフォールを見つめた。
グレイスフォールはやや前方にあり、ニポは両腕を体側にピタリとつけて前方に加速した。そして再び両手足を広げてブレーキをかけると大気の抵抗に体が揺れ、何とかバランスをとって体制を立て直したときには、滝の真上に向かって降下することとなっていた。
滝は想像以上に巨大で、それに比べるとニポの体など芥子粒ほどの大きさだった。
滝の中央に開いている亀裂も同様で、サビーウラーフから見下ろしていたときは、黒く細い筋のように見えていたものが、それがどんどんと大きくなってゆき、まるで顎門が黒い口を徐々に開いてゆくような錯覚にとらわれた。顎門の中は深淵の闇であり、それに吸い込まれるように滝の水が二枚の瀑布となって牙を剥いている。
その中央に向かって落下して行くと、突然、闇に包まれた。顎門の中に入ったのである。視界が暗視モードに切り替わると、滝のカーテンが闇に向かって波打っているのが微かに見えた。しかしそれもすぐに見えなくなって、漆黒の闇が訪れた。
長い、漆黒の時が続いた。
まるで闇が時間さえも飲み込んでしまったように、どれだけの時間が経過したのか分からない。これが永遠に続く出来事なのか、あるいは他者から見れば一瞬と思える長さなのか、その分別が漆黒に塗りつぶされてゆく。
――まるで、蛹の見る夢のようだ……。
ふと、指先に冷たさを感じた。いや、指先だけではない、掌や顔にも、清廉な水飛沫が降りかかっているのをハッキリと感じた。
周囲を見渡せど、やはりそこには漆黒が立ち籠めるばかりだったが、おそらくは、闇の中に放ずる滝が下方から逆巻く風に煽られて激しく飛沫き、それがニポの体に降りかかっているのだろう……そう推測するに充分な感覚が生じている。今や、逆巻く風が頬の肉を歪ませ、髪が激しくなびいていることさえ、その感触によって自覚できている。
ゲームではあり得ないそれらの知覚を得たことに対し、何故かそれを不思議とは思わなかった。
――これは蛹の見る夢なのだ……。
ただ、そう思えていた。
やがて……急に風が凪ぐと、ニポの体は闇の中に浮揚した。
目の前に光の粒が舞っている。
左右を見れば、指先から、いや、体の全てから、白い光の粒子が、まるで燐光のように立ち上っていた。
どっと疲労が身を刺して、強い眠気に襲われた。
体中が熱く火照り、痛がゆさを感じる。
体から立ち上る白い粒子は益々勢いを増し、指先が闇に透け始め、まるで、肉体の分子が素粒子となって闇に立ち上っているかのようである。
――転生が始まったのか?
ニポは寝返りを打つように仰向けになった。そして。
――疲れたよ……。麻耶。
と、妻の真名を思い浮かべた。体の熱さがどんどん増してゆき、今や足先も光の粒子となって消え始めている。
――頑張ったんだ。頑張って生きてみたんだ……。麻耶、会いたいよっ。
意識が朦朧として闇に吸い込まれそうになる。最早それに抗う気力も無く、そんな薄れゆく意識の中で、ニポの思考はただ一点、妻の記憶を反芻していた。
出会ったのは、空軍の航空飛行学校である。麻耶とは異性である以前に人間として相性が良く、二人は磁石が引き合うように、自然とつき合うようになった。卒業すると、ニポは戦闘機の、麻耶はヘリコプターのパイロットとして、二人は航空飛行隊に任官し、そしてすぐに結婚した。
ニポは戦闘機乗りの素養が高く、周囲からも次代のエースとして嘱望されていた。
だが、順風満帆に思えた人生も、降下訓練中の事故によって体に瑕疵を負ってしまうと、戦闘機乗りの資格を失ってしまい、一気に絶望へと転落した。
総務課に転属となり、文字通り窓際の卓上でキーボードの数字をタイピングするにつれ、心が鬱に飲み込まれていった。遣る方なき憤懣に苛まれ、それでも、『この思いを人に当てつけてはならぬ』といった良心が心の土台に刷り込まれているものだから、結果、人を遠ざけるようになった。
それは家庭でも同様で、独り部屋の暗がりに椅子を置いて、ただぼーっと壁紙を見つめる日々が続いた。
そんなとき、麻耶がこのゲームのことを聞きつけると、ゲーム用の複座式ダイブ・チェアーを買い込んできた。これは後で聞いたことだが、麻耶は、このゲームが、ニポの心のリハビリになると思ったらしい。実際、そうだった。
だが最初は、ニポは全く興味を示さず、ゲーム開幕の初日に、やる気の無いニポを麻耶が無理矢理ダイブ・チェアーに座らせてログインしたのである。
その時のニポのやる気の無さが、この『メラニポス・パラース』というキャラクター名に反映されている。これは、とてもじゃないがゲームのキャラクター名など考える気になれなかったニポが、その命名をシステムのランダム選択に委ねた結果、ついた名である。
しかし、それすらも、麻耶は「面白い!」と燥いで見せた。そして、「じゃあ、私は……と」と言いながら『マヤ・パラース』と名前を打ち込み、「これでゲーム内でも夫婦だねえ」と屈託無く笑って見せたのである。
更に、である。
ゲーム開始直後、麻耶がまず行おうとしたことは、婚姻の儀式だった。
「おい。お前のゲームの楽しみ方、間違ってないか? そもそも、結婚の儀式なんて用意されてるのかよ。それ、ゲームのコンセプトから外れすぎだろ」
「大丈夫だって。結構、自由度高いらしいよ、このゲーム。きっとできるって」
「ほんとかよ……」
ゲーム内でもやる気の無いニポの腕をグイグイ引っ張って、麻耶はセリカパレッセ《光の聖殿》の聖堂の扉を潜ったのだった。
そして、そこで二人を出迎えた女聖官・バウラスカなるエレガントなNPC老女は、こう答えた。
「婚姻の儀式? ええ、できますとも」
「できるんかいっ!?」
ニポが思わす突っ込みを入れると、麻耶はケラケラと笑った。
――どんだけだよ、このゲーム!
正直、ニポも笑えた。
それは、それまでずっとニポを苛んできた愁縛から解放された瞬間でもあった。
ゲーム内では、怪我をする以前のように、左足が自由に動いた。元々、人並み以上に優れた反射神経と運動能力を持つニポの素養は、ゲーム内にも反映されており、初めて行ったモンスターハントでは、心に溜まった鬱憤をぶちまけるように、撥ねて、走って、転がって、思うがままに剣を振るった。
なにより、このゲームの最大の売りである『違和感なき体感』が、ニポに、まだ肉体が健全だった頃の心の健勝さを思い出させてくれるようだった。
リアル(現実)においても、ニポは、日々、明るさを取り戻していった。
そのうち、リックと出会うころには、ニポは屈託無く笑うことができるようになっており、休日には、リアル(現実)でも、三人してピクニックと洒落こんだものである。
そんなある日――。
港湾を抱く風光明媚な観光地の裏山が、長雨によって地滑りを起こした。
その土砂災害がニュースで報じられるよりも先に、麻耶に緊急徴集がかかった。麻耶はタンデムロータ式ヘリコプターの副操縦士であり、災害救助の任務はこれが初めてだった。
ニポは総務課に設置された特大モニターで、その様子を皆と共に見守った。
予期せぬ突風が逆巻く山間(やまあい)においてホバリングし続け、その谷底にいる負傷者を担架ごと吊り下げて浮上する……、それがいかに危険で至難の業か、ヘリを飛ばした経験のないニポであっても容易く想像できることだった。
ヘリがバランスを失いそうになるたび、ニポは正に手に汗握って祈るように画面を凝視し続けた。そして……成功。
どっと会場が沸き、皆がニポの肩を叩くなどして、麻耶の功績を湛えたが、他ならぬニポ自身は、ただただ、麻耶が無事に帰還する、その幸運に感謝するばかりだった。
その晩は料理をした。
ニュースを見てニポたちのマンションに馳せ参じたリックに手伝わせてカレーを作った。
「カレーで良いのかよお。時間掛かるんじゃねえの?」
タマネギのみじん切りを命じられ、涙と鼻水を垂れ流す羽目となったリックが、その腹いせとばかりにそう言った。
「どうせ、あいつが帰ってくるのは夜更けか、明け方だ。あるいは明日の午後になるかもな」
「なんだ、つまんねえ。麻耶姉(ねえ)、今日帰って来ねえのかよ。せっかく、サインもらおうと思ったのに」
「は? お前、何考えてんだ? 人妻にサイン? ……それ、相当病んでるぞ。二次元でもいいから、アイドルを見つけろよ」
「何言ってんだよ。麻耶姉は、俺にとってのイングリッド・バーグマンなんだ。今日だって、見ただろ。凄かったじゃないかっ。まるで、ジャンヌ・ダルクさ。せっかく麻耶姉を祝福しようと思ってたのによお、居たのはポール・ヘンリードだけかよ。がっかりだぜ」
「お前は幻想を抱きすぎだ。バーグマンも言ってただろ。『私はただの女、普通の人間なのです』ってな……。あれ? 待てよ。じゃあ、不倫も有りってことか? いやいやいや。麻耶はそんなことしねえ」
「やめてくれよ! バーグマンは聖女なんだっ」
そこでリックは、ふぁ~……といかにもやる気なさそうな吐息をついた。
「でもさあ。やっぱり、カレーは、ねえんじゃねえの? お祝いなんだからさあ」
「良いんだよ、これで」
と、ニポは熱の籠もった鍋に牛肉の脂肪をジュッと菜箸で押しつけ、煙と共に香ばしい匂いを立ち上らせた。
ニポにできる料理と言えば、カレーぐらいのものである。しかし、その腕前は麻耶も認めるところであり、いつだったか麻耶が「悔しけど、本当、美味しいんだよね」と言いながら匙を頬張って見せたのを思い出し、ニポは微笑んだ。
そのとき、電話が鳴った。それは飛行隊本部からで、麻耶のヘリが海上に墜落した事を告げられ、すぐに本部に来るよう言い渡された。
本部の待合室で長いあいだ待たされた挙げ句、「麻耶の死が確認された」と宣告された。また、ブラックボックスが回収されており、事故の様子を掻い摘まんで説明された。
救助を無事成功させた麻耶たちは、給油のため基地に帰投するところだった。その飛行ルートは一端海上に出てから北上するというものであり、海上に向かう途中、突如、ローター制御に異変が生じた。先刻の、奇跡とも言える救助活動において機体にかなりの負荷がかかっていたらしく、それに起因して部品が破損したものと推測される。やがてモーター部分が火を噴くと、機体を操ることもままならず、急降下し始めた。不幸なことに下にはベッドタウンが広がっており、そのまま墜落すれば大惨事となっていたことだろう。
メインパイロットであるアガサ中尉は、ヘリをなんとか操って海上に墜落させることを決意し、麻耶には脱出するよう命じた。しかし、麻耶はそれに従わず、中尉と共に最後までヘリを操って、機体もろとも海に突っ込んだのである。
この、二人の尊い犠牲のおかげで、最悪の事態は免れたのだった。報道は二人を英雄に祭りあげ、隊葬が華々しく執り行われた。
中尉と麻耶の巨大な写真が前方に飾られ、棺が無数の花々で埋め尽くされている。隊のお歴々をはじめとし、多くの見知らぬ弔問客が席を埋めつくし、壇上で、実際には会ったこともない高官たちが弔辞を述べ続けた。まるで、麻耶に別れを告げる最後の大切な時間を、よってたかって見ず知らずの人間たちに奪われているような気がした。そんな葬儀の有り様は、ニポにとって全く現実感がなかった。
――きっと、これは悪夢に違いない。あるいは、たちの悪いバーチャルゲームの挿入シーンで、これが終わればログアウトして、また麻耶に会えるはずだ……。
そう心で思ってみても、頭は、刻々と流れゆく目の前の現実を認識し続けていた。
麻耶の遺灰は軍の記念公園墓地に埋葬された。見渡すほどに一面黄緑色の芝生が敷きつめられ、それを樹冠を大きく膨らませたモンキーポッドの木が取り囲んでいる。墓石の代わりに名の刻まれた小さな石版が芝生に埋め込まれ、その灰色の方形が整然と並んでいる。
麻耶の名の刻まれたプレートの前に立ってみても、ニポにはやはり現実感がなかった。風が爽涼と吹き渡り、モンキーポッドの樹冠が穏やかに揺れて見せても、ニポは、まるで水槽の中から世界を眺めているように息苦しく、全ての物が無機質に思えた。
リックはその間もずっと傍らにいて、家に帰るとすぐに二人して『ユークラティス』にログインした。そしてゲームの世界で、あらためて自分たちの手によってマヤの葬儀を行った。
アレスという名の尖った岬の突端に、マヤの墓標を造った。120cm四方の大理石の敷石の上に、縦45cm×横60cmのやや後方に傾いた台形の大理石を嵌め込んだだけの質素な物であるが、それはニポとリックが自ら石切場に趣き、切り出して作ったものであり、磨き上げられた表面には、ニポたちの思いが艶光っていた。
その墓標の前に二人は長い間立ち尽くした。やがて夕陽が前方の海に溶け始め、薄暮が霜のように舞い降りて二人の影をくすませ始めたころ、要約ニポが呟いた。
「ゲームをクリアーする」
「ッ!?」
リックが悲壮な顔をニポに向けたが、ニポはマヤの墓標を見つめたまま続けた。
「マヤが始めたこのゲームを、俺が終わらせる」
その言葉を聞いて、リックもまた墓標を見つめて言った。
「つき合うぜ」
そして…………。
「マヤ」
――もし、この転生によって、君の居る場所に行けるなら、俺は命を捨てても構わない……。
ニポは、完全に意識を失った。
サビーウラーフから見下ろす眺望は、いつ見ても壮観である。
サビーウラーフは帝国の所有する浮島であり、この大陸にこれより高いものは存在しない。
中央には離宮が三層からなる白亜のドームを膨らませ、それが夕陽を浴びて輝いている。その背には八つの尖塔を持つ高い壁が、やはり夕陽に色づきながら、後背に迫る山の緑を封じている。正面には、広大な庭園が円形の噴水を中心に幾何学的な模様を描きだし、中央を走るタイル張りの道が浮島の端まで続いている。その先は、島の端に沿ってタイルが敷かれ、眺望を満喫するための横長い空間が演出されている。
その際端の大理石の欄干に手を掛けて、帝国宰相であるメラニポス・パラース(通称=ニポ)は下方に広がる帝国領土を見渡していた。
遙か下方に雲がたなびき、隙間から大地の緑が透けて見える。そのまま前方へ視線を流すと、所々、耕作地や街といったものが、まるで迷彩模様のように茶色や灰色の色合いを浮かび上がらせている。
右方には大陸でも三指に数えられるドアールの大河が、大蛇のようにうねりながら夕日に輝く大地の果てへと濃紺の瀬を煌めかせている。それより発した支流が葉脈のように大地の迷彩模様を縁取りながら広がっており、所々、条坊よろしく格子状になっているのは、ニポたちの成した潅漑事業の賜である。
左方に目を転じれば、遠方にサウトンピックの山脈が、頂に雪を湛えた先鋒を空気遠近法に薄青くくすませているのが小さく見てとれる。標高5000メートルを誇るその山も、この浮島から見れば、ただ大地が鋭く皺立っただけの、そんな折り目の一つでしかないことを思い知らされる。
太陽は大地の果てに姿を隠しているが、それでも残照は煌々と天幕の裾を輝かせ、それは上方にいくほどピンクに色づき、頭上、見上げる辺りでようやく星を抱く薄い闇色のベールと混ざり合っている。
サビーウラーフから眺める夕景は、夜を拒絶する楽園のようにパステル色(しょく)に彩られ、景色のそこかしこで転がるダイヤモンドのように虹光を踊らせている。ことさら比喩に訴えるなら、それは麗艶な踊り子が凄艶なダンスを踊って見せるがごとく、見る者を魅了し、飽きさせないのである。
そこでニポは、ふと差し掛けた困惑に目を閉じて、いつもながらに思料する。
――これが、フルダイブ式・RPGゲームの造りだした仮想現実であるとは、俄に信じ難いものがある。
逆説的には、ゲームの仮想空間であるからこそ、このような眺望を味わうことができるとも言えなくもない。だが、圧倒的な風景を目の当たりにしたとき、精神の深層に眠る何かが刺激され、訳も分からぬまま感涙にむせんでしまうといったことがある。そんな感覚はゲームであろうがなかろうが、実体験に他ならない。
ただ惜しむらくは、触覚や嗅覚、味覚、それに痛覚といったものが遮断されていることである。視覚と聴覚以外の感覚と言えば、何かにぶつかったり、敵の攻撃を受けたりしたときに僅かなバイブレーションを感じるぐらいで、今、掌が触れている大理石の、その表面の冷ややかさや、艶やかさといったものを感じることはできないのである。
だが、3DCGを極めんとばかりに作り込まれた、圧倒的な風景がもたらす視覚的情報は、それを脳が処理する過程において様々な擬似的感覚、つまりは錯覚を生じさせるに充分なものでり、現にニポは、自分の頬に吹きつける爽涼たる風を容易に錯覚することができている。
「どうした?」
ニポの隣に立ち、等しく眺望にひたっていたリックが、そう言ってニポの肩に手を掛けた。
それでニポが我に返った途端、視界の周囲にHPバーやMPバーを始めとする様々な情報が浮かび上がった。眺望を堪能するために情報ディスプレイをOFFにしていたのだが、リックに触れられたことにより警戒モードが発動して急遽表示されたものである。
右方を向くと、リックの微笑む顔が覗き込んできた。その上側に、
〝リチャード・ブレイン 白銀の騎士 ファバール帝国・第1宰相〟
といったリックの情報が白字で表示され、さらに名前の下側には蛍光ブルーのアンダーバーが輝いていた。
アンダーバーが蛍光ブルーと言うことは、リックがプレイヤーの操るPC(プレイヤー・キャラクター)であることを表わしている。システムが操るNPC(ノンプレイヤー・キャラクター)の場合にはこれが山吹色で表示され、その他、動物は淡いオレンジに、モンスターはカーマイン(洋紅色)に……と言った具合に、それぞれアンダーバーの色が割り当てられているのである。
そしてこれらの配色は右上の小窓に表示されているマップ上にも反映されており、マップの中心にはマジェンタ色の点がニポ自身を表わし、そのすぐ上にリックを表わす蛍光ブルーの点が輝いている。
それとは別にニポたちの右側、2mばかり離れた場所にも、蛍光ブルーの点が六つ縦に並んでいる。彼等はニポたちと共に大陸統一の夢を掲げ、そして果たした、かけがいのない知己たちである。オフ会などには参加しないニポであるが、そのニポがリアル〈現実)でも親交を結ぶ希有な存在とも言える。
リックが顔を遠ざけると、その表示も追随して移動した。白いダブレットにチャコールグレイの太めのパンツ、膝下まである鞣した革のルーズなブーツを履き、それらの上に丈の長い袖無しのコートを羽織っている。そのコートは濃紺のビロード製で、襟の後ろ側が立ち上がり、襟や肩ぐりには楔を並べたようなジグザク模様が金糸で刺繍されている。さらに背中には二つの正方形を重ねてその一つを45度回転させたようなオクタグラム(八芒星)が大きく刺繍されており、これは元々、ここに居る八人の仲間がそのシンボルとして使用していたものであるが、今では帝国の紋章ともなっている。胸の左側にもオクタグラムが刺繍され、その内側には第一宰相を表わす梟の姿が金糸を盛り上がらせている。
隣に立つニポもまた、リックと同様の身なりをしているが、コートの色はバーガンディ(濃茶)であり、また、胸には小さな梟が二羽刺繍され、これは第二宰相を表わすものである。
リックは腰をかがめて両肘を欄干にかけると、改めて風景を味わうかのように左から右へとその顔を旋回させた。そして、「七年か……」としみじみ呟いた。
「よくもまあ、こんなどでかい大陸を統一したもんだ」
「そうだな……」
ニポもリックにつられるように、風景に顔を向けた。
このゲーム「ユウグラティス」はファンタジー的世界観をベースとした、MMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインRPG)であり、ゲームの掲げるクリヤー目標はただ一つ、その名の通りユウグラティスと呼ばれる大陸の統一である。
だが、自由度はかなり高く、特にゲームクリアーに拘らず、一国の王に収まってその国の運営に専念するも良し、商人となってその商才を試すも良し、仲間とギルドを作って剣と魔法を頼りに冒険したり、独りで大陸中を旅したり、あるいは、どこか田舎に別荘を得て、そこでスローライフに釣りを楽しんだり……と、それらに対応するイベントも無数に鏤められていて、実際、プレーヤーの楽しみ方についても枚挙に暇がない。
ゲームが始まった当初は、PC達による国家が乱立し、元々NPCが治めていた国家と入り乱れ、それらが群雄割拠して覇権を争ったものである。しかし、二年経っても統一に至る者は現れず、その頃より閉塞感が漂い始めると、多くの者が統一を諦め、前述のような独自の楽しみ方を見出していった。
だがニポとリックは諦めず、統一の道を模索し続けた。NPCの治める国家と戦する傍ら、統一に対して諦めムードが漂っていたPCたちと巧みに交渉し、時には詭弁も弄しながら領土を拡大していった。
そして、更に二年かけて、要約一度目の統一を果たしたのである。しかし、統一を果たした瞬間、全てのプレイヤーの視覚情報に「大陸制覇」のテロップが浮かび上がると、ゲームクリアーの阻止を目論む者たちの反乱や離反にあい、その統一国家は一週間を待たずして崩壊し、クリアーには至らなかった。システムがゲームクリアーと認める統一の条件には、その体制を半年以上維持することが含まれていたからである。
その失敗によって新たな発見があった。ニポたちのクリアーを阻む者がいる一方で、それを望む者もまた数多くいることが分かったのである。
そういうこともあって、崩壊したとは言え、ニポたちの治める領土は、延べ面積にして大陸の半分を未だ占めていた。それは敵国に浸食され飛び地となっている部分も数多くあったが、西方には広い領土も残っていて、先ずはそこから手を着けた。
そして今度は、大陸を縦2×横3の六つの区画に分けて王国を樹立し、それをここに居る知己たちが国王となって治め、ニポとリックが大局的に補佐することでその支配を盤石なものとする六カ国体制を第一の目標とした。
西の二国、次いで東の二国と、それら四王国の樹立に一年も要さなかったのは、そこには旧統一国の領土が多く散在していたからである。
残るは中央の二区画であり、そこは統一に反旗を翻したPCやNPCたちの国がひしめき合い、互いに領土を奪い合うといった乱戦の場と化していた。先ずは南の端を占領して、そこからじわじわと北に攻め上った。同時に東西の四王国からも挟み込む形で攻め続け、一年半をかけて、あと一国を残すのみとなった。
残ったのは中北部の大国、バラディン王国である。大国とは言え、五王国連合によって物量に任せて一気に攻め込めば、あっさり片はついただろう。それを主張する仲間もいたが、ニポとリックは前回の統一失敗を鑑み、それを退けた。
バラディン王国の国王エイデスはPCであり、自ら「ウォーガッド(戦神)」を名乗るほどの戦好きで、大戦こそが彼にとってこのゲームを楽しむ方法であった。そんな彼にとって、この五カ国包囲の状況は、劣勢に立つ大戦に狂喜する、またとない機会であったといえる。実際、交渉を何度か持ちかけた際、そのような台詞も言っていた。
物量に任せて攻め込めば、戦らしい戦もせぬまま、ただニポたちが蹂躙する形で幕が下りただろう。そうなればエイデス王の下がらぬ溜飲が、統一を果たした後に謀反となって示現することも推測に易かった。その憂いを注ぐため、エイデス王の欲求を満たすことにしたのである。
謀略は巡らさず、純粋に戦を繰り返した。
五王国連合からは、やはりエイデス王同様、戦好きの者を適宜選出し、軍団を結成した。五王国の王たちもローテンションを組んで軍団を率いたが、ニポだけは常に一隊の隊長として前線に立ち続けた。
当初、戦闘はPCのみによる数百人規模で行われ、これはバラディン王国側にあわせたものであったが、常にニポたち連合軍の数が上回るぐらいの配慮はしていた。それでも、さすが戦好きを自称するだけあって、バラディン軍は強く、ニポたちが敗戦に退くことも度々あった。
そうして数ヶ月が過ぎた頃には、この戦いがイベント化し始めた。戦に参加しない者たちも、まるでワールドカップでも観戦するかのように一喜一憂して盛り上がると、中にはバラディン王国に物資の援助を行う者も現れた。
それでも、バラディン側はじわじわと領土を失い、最後は籠城戦となった。その籠城戦を制し、ニポたちが王の間に達したとき、エイデスはひな壇の上の玉座に座ってニポたちを待っていた。そして、エイデスが片手に握った魔槍の石突を床について立ち上がり、ゆっくりと階梯を降りてきたとき、ニポたちは一騎打ちの予感に緊張を噛み締めた。
だが、エイデスはニポの前まで来ると、「見事だった」と、感慨深くそう言って微笑を差し向けてきた。何度となく戦を繰り返すうちに、エイデスとニポたちの間に奇妙な友情が生じていたことを、このとき改めて実感した。
そして、エイデスはその場に跪き、ニポに対し、その槍を両手で捧げて見せたのである。それが後日、統一が果たされたことの象徴的なシーンとして語られることとなった。
実際の統一は、こののち六王国の王たちが公式に協議するといった形式をつくろったうえで、一つの統一国家であるファバール帝国を樹立し、ここに大陸の統一が果たされたことを民衆に宣言した。
皇帝については旧六王国の王を勤めた者たちが、一ヶ月交代で帝位を継ぐものとした。そこには旧六王国の領民たちへの配慮があった。PCはともかくNPCにおいては、その領主が王になった場合など反乱等が減る傾向にあり、そのリスクを帝国全土において均等に軽減させるためであった。
また、統一国の王位につくと、何もせずともただその座にあるだけで膨大な経験値を得ることができ、その経験値に限っては他者への贈与が許されている。それを利用し、帝国が成立した暁には、六王国の王たちが順次皇帝につき、それで得られた経験値をそのそれぞれの配下に還元するという条件で、各国を支えたPCたちも少なからずいて、その約束を果たすためでもあった。
だが、ニポたちにはもう一つ理由があった。それは、ある噂に基因していた。
このゲーム『ユウグラティス』には幾つか都市伝説のような噂があって、その中の一つに「限定解除」というものがあった。
それは、ゲームをクリアーすると、PCの中からそれに最も貢献した者をシステムが一名選出し、その者に対して「能力限定解除」のエクストラボーナスを与えるというものである。
このゲームにおいて能力の総合値であるLEVELのマックス(限界値)は100であり、そこに達した時点で、キャラクターの成長は止まってしまう。HPや、MP,その他、アジリティー等々、それらの能力値についてもそれぞれ限界値が定められており、それを越えて成長することはない。だが、このエクストラボーナスを取得すれば、それら全ての値の限界が取り払われるというのである。
更にその噂には「経験値遡及還元」といった尾鰭までついていた。LEVEL100に達して以降プレーして得た経験値は、当然ながらそのキャラクターには反映されない。だが、それらのデータはゲームサーバー内に保管されており、「能力限定解除」の発動に連動して、マックスに達した時点まで遡ってそれ以降蓄積されていた経験値が一気に加算されるというものである。
例えば、ニポを例にしてみれば、ニポはゲーム開始三年目にしてすでにLEVEL100に達していた。これはプレイヤーの中でも早い方だが、それ以降、蓄積された経験値はかなりのものだろう。それが加算されたとしたら、「限定解除」が付与された時点で、一気にLEVEL200を越えることもあり得る話である。
また、このゲーム『ユウグラティス』はチートができないことでも知られている。ゲームの開始当初、何人もの人間がチートを行おうとしたが、チートを仕掛けた瞬間、パソコンがクラッシュするという事件が多発した。状況からして、『ユウグラティス』を運営するシステムからサイバー攻撃を受けた、というのが被害を被った者たちの意見であるが、その中には上級ハッカーもいて、その腕をしても攻撃の痕跡すら見つけることはできなかった。しかしそのことこそが、「システム攻撃説」を唱える者たちに確信を生じさせていた。
量子コンピューターである。
『ユウグラティス』を開発、運営しているのはゲーム会社ではなく、「メルバ」という世界トップクラスの医療系企業である。もともとは医療分野においてフルダイブ・バーチャ
ルシステムの運用を試みたのが始まりだと噂されているが、そのメルバは、知られているところでも最低二つの量子コンピューターを開発しており、その内の一つは世界屈指と言われている。それがこのゲームの運用に使用されているとしたら、痕跡を一切残さずパソコンを攻撃することぐらい造作も無いことだ、というのがシステム攻撃説を説く者達の主張である。
ゲームの運用に量子コンピューターを使用しているか否かについては、メルバはコメントを控えているが、しかしそれが使用されているとしたら、この圧倒的なグラフィックやフルダイブにおける違和感なき体感等々、確かに納得できるところがある。それらは他のゲームの追随を許さず、このゲームが人を惹きつけて止まない理由でもある。
とにかくも、チートができないことは確かであり、そんな世界にあって、ただ独り「限定解除」の特典を得ることができるとしたら、その相対的立場はそれこそチート、いや、最早、神の領域に足を踏み入れるようなものである。
殆どの者はこの噂を「眉唾もの」と信じておらず、ニポたちもまたそうであった。だが、いざ自分たちがその噂に手が届く立場になってみると、ただの噂と捨て置くこともできなくなってしまった。それで「最もクリアーに貢献した」という条件が何かを考え、やはりそれは、統一国家の統治者を務めることが大きな要因になるだろうという考察にいたった。
それを鑑み、共に統一を果たした六人の知己たちが均等にそのチャンスを得られるように……と、そういった配慮が、この皇帝の順次即位の裏側には隠されているのである。
ニポとリックにおいては、この特典を得る可能性について、端(はな)から放棄していた。いや、この特典に限らず、ゲームクリアーによって得られる全ての特典や報酬についても、他の六人に譲るつもりであった。
ニポたちには、心のどこかに、他の六人を巻き込んでしまったという背徳めいたものを感じている。ゲームクリアーへの道は過酷さを伴い、楽しさより、苦悩や辛酸を味わう日々の方が多かった。あっさり諦めて他のプレイヤー同様、独自の享楽を見出し、それに耽ることこそ「このゲームが秘めたる本懐ではないのか?」と、そう自問したこともある。しかし、六人の仲間たちはそれをせず、最後までニポたちにつきあってくれたのである。このゲームで味わうことができたかもしれない、多くの喜びと引き換えにして……。
それを気にする六人の知己たちではなく、むしろ生き甲斐を感じていると、皆、口を揃えて言ってくれてはいるが、それでもニポたちの心の深淵には背徳が蟠っており、せめてクリアー報酬等は全てこの六人に譲りたいと願っていたのである。
だからニポとリックは帝位には就かず、宰相という職制のもと、安寧を保つための影役に徹した。不穏な動きがあればそこに趣き、リックが政治的交渉によりそれを収め、実際に反乱が起きればニポが隊を率いて鎮圧した。
反乱鎮圧については嬉しい誤算もあった。旧バラディン国王のエイデスが自ら「帝国の槍」とその呼名を改め、各地の反乱を平定して回ってくれたことである。この武闘派集団の行軍が帝国の安寧を維持するうえで大いに役立ったことは言うまでもない。
そして、統一から六ヶ月が過ぎたその日、大陸中に鐘の音が響き渡った。
天界より光の女神たちが降臨し、ペガサスに牽かれたシャリオに乗って大陸中の空を駆け巡った。彼女たちが角笛を吹くと、光の天使やワルキューレたちが天空を舞遊して、その翼がひるがえるたび、虹色の光跡が筋をひいた。その虹はすぐに七色の光の粒子となって霧散して、大陸中に降り注いだ。
全てのPCたちの視覚の中央に「パクス・ナバウマ!」という文字がでかでかと躍り、ゲームがクリアーされたことと、さらにこの状態のままゲームが継続されること等を説明するテロップが、視界の下側に流れ続けた。
――あれから三日が経っている。
夕景に虹光が煌めいているのは、あの日に霧散した虹の粒子が今なお大気に漂っているからだろう。
「行くんだな……」
リックは微笑みを傾けたが、その声にはどこかもの悲しさが籠もっていた。
ニポは言葉につまり、ただ静かに頷きを返した。
能力限定解除の噂は本当だった。
ゲームクリヤーを果たしたとき、システムからメッセージが届いたのだ。
『汝が果たせし偉業を讃え、転生の顎門を開かん。三日後の夕陽が沈む時、天空に注ぐ滝の裂け目に身を捧げるが良い。汝が真に選ばれし者であるのなら、その身は神の末席に加えられるだろう』
これが、能力限定解除のことを言っていることは、推測に易かった。ただ皮肉なことに、このメッセージは、よりにもよってニポにしか届いていなかった。
システムの下した決定を恨めしく思いながらも、その一方で、ニポは、どこか安堵している自分に気がついていた。
ニポの心には、妻が亡くなって以降、ポッカリと開いた空洞がある。その空洞にゲームクリヤーを果たすという一念を槇代わりに焼(く)べては、ただ、ひたすら走り続けてきた。それが果たされた今、心の蒸気機関は静止してしまい、代わりに虚無感が空洞を満たし始めている。最早ゲームを続ける気力も無く、あまつ、あらゆることが面倒になり、このまま独り野に下り、退廃に身を沈めてしまいたいといった衝動が、ややもすると差し込んでくるのである。だからといって、これで「はい、さよなら」では、これまで培ってきた友誼に悖ることになり、それで、心は逡巡としてその言葉を紡ぎかねていた。
そういった状態にあって、メッセージにある『転生』という言葉は、渡りに船だった。転生すればセリカパレッセ《光の聖殿》のどこかの聖堂に飛ばされて、そこで目覚めることになるだろう。その後のことは分からないが、とりあえずはこれで、皆に「さよなら」を言う言い訳ができた……と、そう思えたのだ。
「もうじき見えるぞ。ほらっ、あれだ」
リックがそう言って前方の右下あたりを指さした。そこには、いつの間にか積乱雲が雲のカーペットを広げていた。その表面の一部がモクモクと盛り上がり、それがまるで層雲の中を巨大な魚が泳いでいるかのように筋をひきながらゆっくり左に進んでいた。やがて層雲の端に届くと、その辺りの雲が鋭い切っ先のように延び、その瞬間、雲が上下に裂けて半月型をした浮島が姿を現した。
半月型とは言ったが弦の部分に当たる弧線はやや内側に凹んでいて、一三夜の月型と言った方がむしろ正鵠を射ているだろう。外周には緑が茂り、いたるところから清水が湧き出し、その水が弦線から瀑布となって、下方、目に見えない滝壺の水面を砕いて水煙を立ち上らせている。
浮島は滝のカーテンをこちら側に見せながら、ゆっくりと左方に移動しており、水煙が白い軌跡となって徐々に広がってゆく。やがてそれは雨雲を呼んで大地に恵みの雨を降らせることとなり、この浮島が『グレイスフォール〈恵みの滝〉』と呼ばれる由縁である。
サビーウラーフは徐々に前進しており、このままゆけば、グレイスフォールの真上を通過することになるだろう。
「そうだ……」
と、ニポは思い出したようにリックの方に体を向けると、視界にコンソールパネルを展開させた。指先で宙空を忙しくタップして、武器のストレージを表示させると、そこに映し出された一覧を横にスクロールし、『聖剣エクストライカー』をクリックした。瞬時に、ニポの腰に帯剣用のベルトが装着され、その左の腰には、白くエナメル加工された鞘に収められた剣が吊されていた。それをベルトごと外して両手で持つと、リックに差し出した。
聖剣と銘打ってはいるが、見た目は質素でこれといった装飾はなく、純粋に戦うために鍛えられた、刃渡り六七cmの諸刃の剣である。柄に巻かれた白い革も、長年激戦に耐えてきたと言わんばかりに、その色を黒くくすませている。だが、この剣は別名「覇王の剣」とも呼ばれ、この剣を持つ者が国を治める……といった伝承があって、これを持つ者の統治能力を高める効果を秘めている。
帝国の安寧を維持する一助として、ニポはこの剣を皇帝たちに貸与していた。本当は贈与しようとしたのだが、それは叶わなかった。この剣には、所有者が死ぬまでその元を離れぬ、といった特性があるからである。ニポがこの剣を所有するにいたった経緯にしても、これは元々妻のマヤが所有していた物であり、妻とはゲーム内でも結婚しており、妻が亡くなったことで、その遺産としてこの剣が自動的にニポに引き継がれたものである。結局、贈与を諦め、貸与の方法で皇帝たちに渡していたが、それでも、数週間もするといつの間にかニポのストレージに戻っており、それでまた皇帝に貸与して……といったことを繰り返し、月日が過ぎた。そしてゲームクリアーを果たすと、再びニポの元へと帰ってきたのである。
「これを託しておくよ。帝国を…いや、皆のことを、よろしく頼む」
ニポの差し出した剣を受け取りながら、リックが「なんだか象徴的だな……」と呟いた。
「だってそうだろ。こんな時、こんな場所で剣(つるぎ)を受け渡すなんて。まるで、別離の儀式みたいじゃないか……」
そう言って見つめてきたリックの褐色の虹彩に、寂寥が振るえているのをニポは見てとった。
――見抜かれている……。
リックがニポの心裏を察していることを、ニポは確信した。
リックとはゲームを始めた頃からのつき合いで、もう人生の四分の一近くを共に過ごしたことになる。リックはニポよりも年下であり、出会ったときはまだ大学生だった。往年のモノクロ映画が好きで、キャラクター名もお気に入りの主人公からとったということで、キャラクター自体もその名に見合うだけの渋い男の相貌に作り込まれている。それが正に彼の精神を体現したものであり、その心の成熟度は三つ年上のニポよりも上に思われる。
出会った頃は妻のマヤも健在で、リアル(現実)ではよく、リックがニポたちの家を訪れては、三人で食事したものである。マヤはリックのことを気に入っており、リックもまたマヤによく懐いていた。時にはリックが何日も家に泊まり込むこともあって、まるで仲の良い弟ができたような幸福に、リアル(現実)は華やいでいた。
しかし、その幸福は、マヤの死という理不尽な斧によって、突然、断ち切られてしまった。それは余りに唐突で、ニポには到底受け入れ難く、そのリアル(現実)から逃れるようにゲームにのめり込むようになった。今にして思えば、自暴自棄となり、精神も相当まずい状態にあったに違いない。それでもリックはニポを見捨てず、常に傍らにあり、当初はやけくそとも言える、ニポのゲームクリアーに対する執着に、ずっと付き合ってくれたのである。そんなリックがニポの心裏を察することなど、当然と言えば、当然なのだろう。
リックが受け取った剣をストレージに収納すると、改めてニポを見つめた。
「言っとくぞ。俺はモノクロ映画が好きであって、別にフィルム・ノワールに拘ってるわけじゃない。人生にハッピーエンドで終われる物語があるのら、俺は迷わずそいつを選ぶだろうよ。そいつをあんたにも選ばせるとしたら、それは残酷なことなのか?」
リックの真摯な眼差しを受け、ニポもまた真摯に回答した。
「過去の俺なら、『そうだ』と答えただろう。だが、今の俺には分からない。ただ……、将来、『そうでもないさ』と言える日が来れば良い……とは思えるようになっている」
「そうか。なら良い」
また会うぞ……、そう呟きながらリックがニポを抱きしめた。すると、それまで二人のやりとりを静観していた仲間たちが駆け寄って二人に抱きついてきた。ある者はニポの背中を叩き、ある者はニポの髪をクシャクシャに撫でたりしながら、「元気でな」「帰って来なよ」「待ってるからな」……等々、皆、その思いを口にした。
心優しき魔少女・アンナなどは「良い、必ず生きて帰ってきてねえ」と感極まって泣き出す始末。それを魔道の騎士・フェイが「おいおい、戦に行くわけじゃないんだから」とその豊満な胸にアンナを抱いて「すぐに帰ってくるさ」と慰めながら、「そうだろ?」とニポに上目遣いの視線を投げかけた。
刹那、ニポは返答に窮した。リックに限らず、この六人の知己たちもニポの心裏に気付いているのだと、そう悟ったのである。
突然、閃光の義賊・パキスが声を弾ませた。
「そうだ、オフ会開こうぜッ! 三日後とか、どうよ?」
「いいねえ。乗った」
「私も」
「異議無し」
「ゲームクリアーの祝いも、まだだしな」
「しょうがねえなあ。有休使うか」
と、六人の知己たちが盛り上がり、最後に「どうだ?」とリックがニポに微笑みかけた。
――何故だろう……。
ジン…と胸に染みこんでくるものがある。ポッカリと空いていた心の空洞に、仄かに暖灯色の光が揺れている。心地よくもほろ苦い思いが込みあげて、思わず目頭が熱くなってしまう。
――今はバーチャルで良かった。
なぜなら、リアル(現実)で一筋流れた涙の輝きを、皆に見せずにすんだのだから。
「ああ、やろう」
ニポは力強く頷いて見せた。
「アっ! あれじゃねえ!」
パキスが大声を発した。大理石の欄干から上体を乗りだし、前方のやや下側を指差している。
グレイスフォールが眼下に迫り、弧線を描く滝の中央に黒い亀裂が走っているのをはっきり視認することができた。
「あれだよなあ?」
と、パキスが言い、「確かに。あんな亀裂は以前にはなかったと記憶している」とタイタン(巨人族)の血を受け継ぐ者・フリーボが持ち前の低い声で呟いた。
「じゃあ、行ってこい」
リックがニポの肩を叩いて背を向けると、皆が並んでいた場所まで離れた。他の者たちも、同様にニポを叩いたり、軽く蹴りを入れるなどしてから、リックを起点にその左肩につらなり、整列した。
ニポは欄干に飛び乗ると、そこに立ったまま下方を見つめた。サビーウラーフが引き連れてきた雲が手前から漂い出て、やがてグレイスフォールの滝を覆い隠した。滝の亀裂の位置をしっかりと頭に刻み込み、ニポは足を捌いて皆の方に向いて立った。右から順に皆の顔を見つめながら視線を流してゆき、最後、リックを見つめると、リックが「うん」と頷いて見せた。それに頷きを返すと、ニポは改めて皆を見た。
「行ってくる」
そう言うと、ニポは体を後方へと傾けた。ゆっくり、人形が倒れるように、立ったままの姿勢で後ろに倒れてゆき、頭が足よりも下がったところで、軽く欄干を蹴った。体が浮島から離れ、頭の方へ、滑るように落下してゆく。
欄干から皆が上体を乗りだして、手を振りながら何かを叫んでいるのが見える。その姿がどんどん遠ざかり、やがて白いベールに掠れると、ニポは雲の中へと埋没した。
右も左も天も地も、真っ白の世界――ホワイトアウト……。
ニポは無意識のうちに苦笑(にがわら)っていた。リアル(現実)では戦闘機のパイロットをしていた時期があり、その訓練課程で始めて雲に突っ込んだとき、平衡感覚を失って慌ててしまい、「ハッド(Head・Up・Display)をよく見ろ!」と教官に怒鳴られたことを思い出したのだ。
だが、それも束の間。ニポの精神は次に来るであろう恐怖を予見し、それに備えるように体が硬直した。
雲を抜けて視界が開けると、ニポは意を決して身を翻し、両手を広げてスカイ・ダイビングの体制をとった。ダイビングなら、パイロット時代に訓練もして馴れている。
――だが……。
その訓練中の事故により、ニポは一生左足を引き摺って歩く体になってしまったのだ。
左の膝に疼痛を感じた。このバーチャルゲームでは感じ得ない痛みを認識するのは、きっと、その時のことを脳が反芻し、擬似的信号を発しているからに違いない。
左足を少し左右に振ってみる。
――よし、動く。大丈夫だ。
そう自分を落ち着かせると、グレイスフォールを見つめた。
グレイスフォールはやや前方にあり、ニポは両腕を体側にピタリとつけて前方に加速した。そして再び両手足を広げてブレーキをかけると大気の抵抗に体が揺れ、何とかバランスをとって体制を立て直したときには、滝の真上に向かって降下することとなっていた。
滝は想像以上に巨大で、それに比べるとニポの体など芥子粒ほどの大きさだった。
滝の中央に開いている亀裂も同様で、サビーウラーフから見下ろしていたときは、黒く細い筋のように見えていたものが、それがどんどんと大きくなってゆき、まるで顎門が黒い口を徐々に開いてゆくような錯覚にとらわれた。顎門の中は深淵の闇であり、それに吸い込まれるように滝の水が二枚の瀑布となって牙を剥いている。
その中央に向かって落下して行くと、突然、闇に包まれた。顎門の中に入ったのである。視界が暗視モードに切り替わると、滝のカーテンが闇に向かって波打っているのが微かに見えた。しかしそれもすぐに見えなくなって、漆黒の闇が訪れた。
長い、漆黒の時が続いた。
まるで闇が時間さえも飲み込んでしまったように、どれだけの時間が経過したのか分からない。これが永遠に続く出来事なのか、あるいは他者から見れば一瞬と思える長さなのか、その分別が漆黒に塗りつぶされてゆく。
――まるで、蛹の見る夢のようだ……。
ふと、指先に冷たさを感じた。いや、指先だけではない、掌や顔にも、清廉な水飛沫が降りかかっているのをハッキリと感じた。
周囲を見渡せど、やはりそこには漆黒が立ち籠めるばかりだったが、おそらくは、闇の中に放ずる滝が下方から逆巻く風に煽られて激しく飛沫き、それがニポの体に降りかかっているのだろう……そう推測するに充分な感覚が生じている。今や、逆巻く風が頬の肉を歪ませ、髪が激しくなびいていることさえ、その感触によって自覚できている。
ゲームではあり得ないそれらの知覚を得たことに対し、何故かそれを不思議とは思わなかった。
――これは蛹の見る夢なのだ……。
ただ、そう思えていた。
やがて……急に風が凪ぐと、ニポの体は闇の中に浮揚した。
目の前に光の粒が舞っている。
左右を見れば、指先から、いや、体の全てから、白い光の粒子が、まるで燐光のように立ち上っていた。
どっと疲労が身を刺して、強い眠気に襲われた。
体中が熱く火照り、痛がゆさを感じる。
体から立ち上る白い粒子は益々勢いを増し、指先が闇に透け始め、まるで、肉体の分子が素粒子となって闇に立ち上っているかのようである。
――転生が始まったのか?
ニポは寝返りを打つように仰向けになった。そして。
――疲れたよ……。麻耶。
と、妻の真名を思い浮かべた。体の熱さがどんどん増してゆき、今や足先も光の粒子となって消え始めている。
――頑張ったんだ。頑張って生きてみたんだ……。麻耶、会いたいよっ。
意識が朦朧として闇に吸い込まれそうになる。最早それに抗う気力も無く、そんな薄れゆく意識の中で、ニポの思考はただ一点、妻の記憶を反芻していた。
出会ったのは、空軍の航空飛行学校である。麻耶とは異性である以前に人間として相性が良く、二人は磁石が引き合うように、自然とつき合うようになった。卒業すると、ニポは戦闘機の、麻耶はヘリコプターのパイロットとして、二人は航空飛行隊に任官し、そしてすぐに結婚した。
ニポは戦闘機乗りの素養が高く、周囲からも次代のエースとして嘱望されていた。
だが、順風満帆に思えた人生も、降下訓練中の事故によって体に瑕疵を負ってしまうと、戦闘機乗りの資格を失ってしまい、一気に絶望へと転落した。
総務課に転属となり、文字通り窓際の卓上でキーボードの数字をタイピングするにつれ、心が鬱に飲み込まれていった。遣る方なき憤懣に苛まれ、それでも、『この思いを人に当てつけてはならぬ』といった良心が心の土台に刷り込まれているものだから、結果、人を遠ざけるようになった。
それは家庭でも同様で、独り部屋の暗がりに椅子を置いて、ただぼーっと壁紙を見つめる日々が続いた。
そんなとき、麻耶がこのゲームのことを聞きつけると、ゲーム用の複座式ダイブ・チェアーを買い込んできた。これは後で聞いたことだが、麻耶は、このゲームが、ニポの心のリハビリになると思ったらしい。実際、そうだった。
だが最初は、ニポは全く興味を示さず、ゲーム開幕の初日に、やる気の無いニポを麻耶が無理矢理ダイブ・チェアーに座らせてログインしたのである。
その時のニポのやる気の無さが、この『メラニポス・パラース』というキャラクター名に反映されている。これは、とてもじゃないがゲームのキャラクター名など考える気になれなかったニポが、その命名をシステムのランダム選択に委ねた結果、ついた名である。
しかし、それすらも、麻耶は「面白い!」と燥いで見せた。そして、「じゃあ、私は……と」と言いながら『マヤ・パラース』と名前を打ち込み、「これでゲーム内でも夫婦だねえ」と屈託無く笑って見せたのである。
更に、である。
ゲーム開始直後、麻耶がまず行おうとしたことは、婚姻の儀式だった。
「おい。お前のゲームの楽しみ方、間違ってないか? そもそも、結婚の儀式なんて用意されてるのかよ。それ、ゲームのコンセプトから外れすぎだろ」
「大丈夫だって。結構、自由度高いらしいよ、このゲーム。きっとできるって」
「ほんとかよ……」
ゲーム内でもやる気の無いニポの腕をグイグイ引っ張って、麻耶はセリカパレッセ《光の聖殿》の聖堂の扉を潜ったのだった。
そして、そこで二人を出迎えた女聖官・バウラスカなるエレガントなNPC老女は、こう答えた。
「婚姻の儀式? ええ、できますとも」
「できるんかいっ!?」
ニポが思わす突っ込みを入れると、麻耶はケラケラと笑った。
――どんだけだよ、このゲーム!
正直、ニポも笑えた。
それは、それまでずっとニポを苛んできた愁縛から解放された瞬間でもあった。
ゲーム内では、怪我をする以前のように、左足が自由に動いた。元々、人並み以上に優れた反射神経と運動能力を持つニポの素養は、ゲーム内にも反映されており、初めて行ったモンスターハントでは、心に溜まった鬱憤をぶちまけるように、撥ねて、走って、転がって、思うがままに剣を振るった。
なにより、このゲームの最大の売りである『違和感なき体感』が、ニポに、まだ肉体が健全だった頃の心の健勝さを思い出させてくれるようだった。
リアル(現実)においても、ニポは、日々、明るさを取り戻していった。
そのうち、リックと出会うころには、ニポは屈託無く笑うことができるようになっており、休日には、リアル(現実)でも、三人してピクニックと洒落こんだものである。
そんなある日――。
港湾を抱く風光明媚な観光地の裏山が、長雨によって地滑りを起こした。
その土砂災害がニュースで報じられるよりも先に、麻耶に緊急徴集がかかった。麻耶はタンデムロータ式ヘリコプターの副操縦士であり、災害救助の任務はこれが初めてだった。
ニポは総務課に設置された特大モニターで、その様子を皆と共に見守った。
予期せぬ突風が逆巻く山間(やまあい)においてホバリングし続け、その谷底にいる負傷者を担架ごと吊り下げて浮上する……、それがいかに危険で至難の業か、ヘリを飛ばした経験のないニポであっても容易く想像できることだった。
ヘリがバランスを失いそうになるたび、ニポは正に手に汗握って祈るように画面を凝視し続けた。そして……成功。
どっと会場が沸き、皆がニポの肩を叩くなどして、麻耶の功績を湛えたが、他ならぬニポ自身は、ただただ、麻耶が無事に帰還する、その幸運に感謝するばかりだった。
その晩は料理をした。
ニュースを見てニポたちのマンションに馳せ参じたリックに手伝わせてカレーを作った。
「カレーで良いのかよお。時間掛かるんじゃねえの?」
タマネギのみじん切りを命じられ、涙と鼻水を垂れ流す羽目となったリックが、その腹いせとばかりにそう言った。
「どうせ、あいつが帰ってくるのは夜更けか、明け方だ。あるいは明日の午後になるかもな」
「なんだ、つまんねえ。麻耶姉(ねえ)、今日帰って来ねえのかよ。せっかく、サインもらおうと思ったのに」
「は? お前、何考えてんだ? 人妻にサイン? ……それ、相当病んでるぞ。二次元でもいいから、アイドルを見つけろよ」
「何言ってんだよ。麻耶姉は、俺にとってのイングリッド・バーグマンなんだ。今日だって、見ただろ。凄かったじゃないかっ。まるで、ジャンヌ・ダルクさ。せっかく麻耶姉を祝福しようと思ってたのによお、居たのはポール・ヘンリードだけかよ。がっかりだぜ」
「お前は幻想を抱きすぎだ。バーグマンも言ってただろ。『私はただの女、普通の人間なのです』ってな……。あれ? 待てよ。じゃあ、不倫も有りってことか? いやいやいや。麻耶はそんなことしねえ」
「やめてくれよ! バーグマンは聖女なんだっ」
そこでリックは、ふぁ~……といかにもやる気なさそうな吐息をついた。
「でもさあ。やっぱり、カレーは、ねえんじゃねえの? お祝いなんだからさあ」
「良いんだよ、これで」
と、ニポは熱の籠もった鍋に牛肉の脂肪をジュッと菜箸で押しつけ、煙と共に香ばしい匂いを立ち上らせた。
ニポにできる料理と言えば、カレーぐらいのものである。しかし、その腕前は麻耶も認めるところであり、いつだったか麻耶が「悔しけど、本当、美味しいんだよね」と言いながら匙を頬張って見せたのを思い出し、ニポは微笑んだ。
そのとき、電話が鳴った。それは飛行隊本部からで、麻耶のヘリが海上に墜落した事を告げられ、すぐに本部に来るよう言い渡された。
本部の待合室で長いあいだ待たされた挙げ句、「麻耶の死が確認された」と宣告された。また、ブラックボックスが回収されており、事故の様子を掻い摘まんで説明された。
救助を無事成功させた麻耶たちは、給油のため基地に帰投するところだった。その飛行ルートは一端海上に出てから北上するというものであり、海上に向かう途中、突如、ローター制御に異変が生じた。先刻の、奇跡とも言える救助活動において機体にかなりの負荷がかかっていたらしく、それに起因して部品が破損したものと推測される。やがてモーター部分が火を噴くと、機体を操ることもままならず、急降下し始めた。不幸なことに下にはベッドタウンが広がっており、そのまま墜落すれば大惨事となっていたことだろう。
メインパイロットであるアガサ中尉は、ヘリをなんとか操って海上に墜落させることを決意し、麻耶には脱出するよう命じた。しかし、麻耶はそれに従わず、中尉と共に最後までヘリを操って、機体もろとも海に突っ込んだのである。
この、二人の尊い犠牲のおかげで、最悪の事態は免れたのだった。報道は二人を英雄に祭りあげ、隊葬が華々しく執り行われた。
中尉と麻耶の巨大な写真が前方に飾られ、棺が無数の花々で埋め尽くされている。隊のお歴々をはじめとし、多くの見知らぬ弔問客が席を埋めつくし、壇上で、実際には会ったこともない高官たちが弔辞を述べ続けた。まるで、麻耶に別れを告げる最後の大切な時間を、よってたかって見ず知らずの人間たちに奪われているような気がした。そんな葬儀の有り様は、ニポにとって全く現実感がなかった。
――きっと、これは悪夢に違いない。あるいは、たちの悪いバーチャルゲームの挿入シーンで、これが終わればログアウトして、また麻耶に会えるはずだ……。
そう心で思ってみても、頭は、刻々と流れゆく目の前の現実を認識し続けていた。
麻耶の遺灰は軍の記念公園墓地に埋葬された。見渡すほどに一面黄緑色の芝生が敷きつめられ、それを樹冠を大きく膨らませたモンキーポッドの木が取り囲んでいる。墓石の代わりに名の刻まれた小さな石版が芝生に埋め込まれ、その灰色の方形が整然と並んでいる。
麻耶の名の刻まれたプレートの前に立ってみても、ニポにはやはり現実感がなかった。風が爽涼と吹き渡り、モンキーポッドの樹冠が穏やかに揺れて見せても、ニポは、まるで水槽の中から世界を眺めているように息苦しく、全ての物が無機質に思えた。
リックはその間もずっと傍らにいて、家に帰るとすぐに二人して『ユークラティス』にログインした。そしてゲームの世界で、あらためて自分たちの手によってマヤの葬儀を行った。
アレスという名の尖った岬の突端に、マヤの墓標を造った。120cm四方の大理石の敷石の上に、縦45cm×横60cmのやや後方に傾いた台形の大理石を嵌め込んだだけの質素な物であるが、それはニポとリックが自ら石切場に趣き、切り出して作ったものであり、磨き上げられた表面には、ニポたちの思いが艶光っていた。
その墓標の前に二人は長い間立ち尽くした。やがて夕陽が前方の海に溶け始め、薄暮が霜のように舞い降りて二人の影をくすませ始めたころ、要約ニポが呟いた。
「ゲームをクリアーする」
「ッ!?」
リックが悲壮な顔をニポに向けたが、ニポはマヤの墓標を見つめたまま続けた。
「マヤが始めたこのゲームを、俺が終わらせる」
その言葉を聞いて、リックもまた墓標を見つめて言った。
「つき合うぜ」
そして…………。
「マヤ」
――もし、この転生によって、君の居る場所に行けるなら、俺は命を捨てても構わない……。
ニポは、完全に意識を失った。
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