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兄の話
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◇
「絶対にカーテンを開けないこと。そして、外に出るのは新聞を取りに行く時と、花壇に水をやるときだけ。それ以外の外出は許さない。いいな?」
地下倉庫から出た僕に、弟が淡々と告げた。重々しい黒いカーテンを窓一面に設置しているグランドの背中をぼんやりと眺め、いよいよ僕はこの家から逃れられないのだなと理解する。何が弟をここまで狂わせたのだろうか。僕には理解できなかった。
彼が振り向き、僕からの返事を待つ。その目は愛憎に包まれていた。
「……君が、望むなら」
微笑んでみる。けれど、うまく笑えたか自信がない。しかし弟は納得したのか、居心地が悪そうに再び手を動かした。後ろ姿が、父と重なる。僕は首を振り幻想を掻き消した。その背中に寄り添い、体温を分け合う。
弟は、何も言わなかった。
◇
弟の言う通り、僕は新聞を取りに行く時と、花壇に水をやるときだけ外出を許された。父がいた頃は、外に出ることを許可されていたが、弟はそれを拒んだ。この平屋に僕は閉じ込められた。まるで大事なぬいぐるみを誰にも取られないために、玩具箱にしまうように。
僕が外に出る短い時間は、大体が朝と夕方だった。朝に花壇に水をやり、ついでに新聞を取り、家へ帰宅する。その間だけ、僕は外と交流ができる。澄んだ空を見つめ、心地よい風を浴び、通り過ぎていく人々に挨拶をする。
近くにある小学校へ向かう児童たちが家の前を通り過ぎていくたびに、あぁ、自由で羨ましいなと思う。枷のない人生を謳歌している子供を見つめ、時折、衝動に駆られる時がある。ホースを投げ出し、新聞も無視して、この敷地内から出たら、果たしてどうなるのか。
きっと、行動に移すのは簡単だ。なんの資格もいらないし、料金だってかからない。パスポートも要らない。ただ、左足を前に出して歩道に出るだけでいい。そのまま歩みを進めてこの平屋を離れ、遠い────どこか遠い場所へ逃げたらいい。足を必死に動かして、ただこの道をまっすぐ、まっすぐ向かえば、僕は何処にでも行ける。
簡単な、ことだ。
「兄貴」
不意に声がした。振り返ると弟がいた。玄関からこちらを見つめ、呆然と立っている彼に気がつき、思わず唾液を嚥下した。一瞬で意識を舞い戻し、手に持っていたホースへ視線を投げる。ぼたぼたと地面へ落ちる水が、花壇の土を抉っていた。跳ね返った泥が僕の足元を汚している。
「なんで歩道を見つめてたんだよ」
近くに来たグランドがひとりごちるようにそう言った。咎めるわけでも、怒るわけでもない声音だ。寂しさを孕んだ言葉を受け、ぼんやりと彼を見つめる。
────あぁ、母もこんな気持ちだったのだろうか。
「置いていかないで」と縋った息子を捨てた女の気持ちが、そこで一気に理解できた。
何がなんでも、逃げたかったのだ。全てを薙ぎ払い、何もかもがどうでも良くなって、ただ、道を歩むことを決める。
その時の心境は、後悔と共に清々しさがあったのだろう。
「……兄貴?」
グランドが問う。その声は、まるで泣き出しそうな子供のものに似ていた。潤んだ目は、きっとあの日の僕と同じ瞳をしている。母の背中を見つめ、ただ声をかけて悲嘆に耽るしか道が残されていなかった、僕と同じ────。
「……ちょっと、ぼんやりしてただけ。ごめんね、すぐに戻るよ」
石のように硬くなった足を動かし、蛇口を締めに向かう。麻痺した足が、ズキリと痛んだ。
途端、後ろから体を抱きしめられた。「わぁ!」。僕は素っ頓狂な声を漏らす。
「ぐ、グランド、何して……」
「兄ちゃん、どこにも行かないで」
弟の言葉が胸に刺さる。彼はいつからか「兄ちゃん」から「兄貴」と呼ぶようになった。僕はその変化に気がついていたが、彼は無意識だったのだろう。寂しいなと思う反面、もうそんな年頃か、と思っていた。
そんな彼が、珍しく昔の呼び方を使った。その幼さにぐらりと揺らめく。
「行かないでよ」
抱きしめる力を強められ、僕は慌てて彼を振り解こうとする。「外だよ、やめてよ、グランド」と制する僕のことなどお構いなしだ。頬に擦り寄られ、猫のように甘えられる。
「お願い」
まるで幼い子供のようだ。僕はため息を漏らして頭を撫でる。「行かないよ」「君を、愛しているから」。囁くと、グランドは安心したように体を離した。そのまま手を引き、家の中へ僕を引きずり戻す。
玄関にたどり着き、後ろを振り返った。広がる外の風景を眺めながら、僕は母のように無情にはなれないな、と思った。
「絶対にカーテンを開けないこと。そして、外に出るのは新聞を取りに行く時と、花壇に水をやるときだけ。それ以外の外出は許さない。いいな?」
地下倉庫から出た僕に、弟が淡々と告げた。重々しい黒いカーテンを窓一面に設置しているグランドの背中をぼんやりと眺め、いよいよ僕はこの家から逃れられないのだなと理解する。何が弟をここまで狂わせたのだろうか。僕には理解できなかった。
彼が振り向き、僕からの返事を待つ。その目は愛憎に包まれていた。
「……君が、望むなら」
微笑んでみる。けれど、うまく笑えたか自信がない。しかし弟は納得したのか、居心地が悪そうに再び手を動かした。後ろ姿が、父と重なる。僕は首を振り幻想を掻き消した。その背中に寄り添い、体温を分け合う。
弟は、何も言わなかった。
◇
弟の言う通り、僕は新聞を取りに行く時と、花壇に水をやるときだけ外出を許された。父がいた頃は、外に出ることを許可されていたが、弟はそれを拒んだ。この平屋に僕は閉じ込められた。まるで大事なぬいぐるみを誰にも取られないために、玩具箱にしまうように。
僕が外に出る短い時間は、大体が朝と夕方だった。朝に花壇に水をやり、ついでに新聞を取り、家へ帰宅する。その間だけ、僕は外と交流ができる。澄んだ空を見つめ、心地よい風を浴び、通り過ぎていく人々に挨拶をする。
近くにある小学校へ向かう児童たちが家の前を通り過ぎていくたびに、あぁ、自由で羨ましいなと思う。枷のない人生を謳歌している子供を見つめ、時折、衝動に駆られる時がある。ホースを投げ出し、新聞も無視して、この敷地内から出たら、果たしてどうなるのか。
きっと、行動に移すのは簡単だ。なんの資格もいらないし、料金だってかからない。パスポートも要らない。ただ、左足を前に出して歩道に出るだけでいい。そのまま歩みを進めてこの平屋を離れ、遠い────どこか遠い場所へ逃げたらいい。足を必死に動かして、ただこの道をまっすぐ、まっすぐ向かえば、僕は何処にでも行ける。
簡単な、ことだ。
「兄貴」
不意に声がした。振り返ると弟がいた。玄関からこちらを見つめ、呆然と立っている彼に気がつき、思わず唾液を嚥下した。一瞬で意識を舞い戻し、手に持っていたホースへ視線を投げる。ぼたぼたと地面へ落ちる水が、花壇の土を抉っていた。跳ね返った泥が僕の足元を汚している。
「なんで歩道を見つめてたんだよ」
近くに来たグランドがひとりごちるようにそう言った。咎めるわけでも、怒るわけでもない声音だ。寂しさを孕んだ言葉を受け、ぼんやりと彼を見つめる。
────あぁ、母もこんな気持ちだったのだろうか。
「置いていかないで」と縋った息子を捨てた女の気持ちが、そこで一気に理解できた。
何がなんでも、逃げたかったのだ。全てを薙ぎ払い、何もかもがどうでも良くなって、ただ、道を歩むことを決める。
その時の心境は、後悔と共に清々しさがあったのだろう。
「……兄貴?」
グランドが問う。その声は、まるで泣き出しそうな子供のものに似ていた。潤んだ目は、きっとあの日の僕と同じ瞳をしている。母の背中を見つめ、ただ声をかけて悲嘆に耽るしか道が残されていなかった、僕と同じ────。
「……ちょっと、ぼんやりしてただけ。ごめんね、すぐに戻るよ」
石のように硬くなった足を動かし、蛇口を締めに向かう。麻痺した足が、ズキリと痛んだ。
途端、後ろから体を抱きしめられた。「わぁ!」。僕は素っ頓狂な声を漏らす。
「ぐ、グランド、何して……」
「兄ちゃん、どこにも行かないで」
弟の言葉が胸に刺さる。彼はいつからか「兄ちゃん」から「兄貴」と呼ぶようになった。僕はその変化に気がついていたが、彼は無意識だったのだろう。寂しいなと思う反面、もうそんな年頃か、と思っていた。
そんな彼が、珍しく昔の呼び方を使った。その幼さにぐらりと揺らめく。
「行かないでよ」
抱きしめる力を強められ、僕は慌てて彼を振り解こうとする。「外だよ、やめてよ、グランド」と制する僕のことなどお構いなしだ。頬に擦り寄られ、猫のように甘えられる。
「お願い」
まるで幼い子供のようだ。僕はため息を漏らして頭を撫でる。「行かないよ」「君を、愛しているから」。囁くと、グランドは安心したように体を離した。そのまま手を引き、家の中へ僕を引きずり戻す。
玄関にたどり着き、後ろを振り返った。広がる外の風景を眺めながら、僕は母のように無情にはなれないな、と思った。
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