アルデリク家の兄弟

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兄の話

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 どうして連れて行ってくれなかったのだろう。僕は寝る前に、いつもそんなことを考える。最後に見たのは、薄暗がりに浮かぶ背中。こちらを一瞥することなく、小ぶりなバッグを手に持ち、音を立てないように家を出る母。玄関と扉を静かに開け、深夜の闇へ消える彼女へ声をかけた。「置いていかないで」。彼女は振り返らなかった。ただ、言葉をその鼓膜に受け入れ、何も言わずに家を出た。時刻は深夜二時。父の歪なイビキが聞こえる中、彼女は静かに新たな道を歩んだ。僕を置いて。
 どうして連れて行ってくれなかったのだろう。僕は寝る前に、いつもそんなことを考える。血のつながらない弟と同じベッドの中。父から受けた暴行で不自由になった足を摩りながら、弟の腕に抱かれて眠る僕。母は今どこで何をしているのだろうか。新しい男と共に過ごしているのだろうか。それとも一人でひっそりと生きているのだろうか。今の僕の姿を見た彼女は、どんな反応を見せるだろうか。きっと何も思わないだろう。血のつながらない家族の元へ息子を置いて行ったぐらいだ。きっと、何も思わない。
 「眠れないの?」。子供特有の高い体温がジワリと滲む。弟が舌足らずな口調で呟きながら、僕の肩を撫でた。静寂に包まれた平屋には、父のイビキが響く。母が出て行った夜を思い出し、泣きたくなった。僕は首だけを傾けて弟────グランドに囁く。「大丈夫。ちょっと、嫌なことを思い出しただけ」。そう告げると、弟が僕を抱きしめた。何も言わないままの彼。体温が全身に広がり、睡魔が襲う。ごお、ごお。父のイビキが鼓膜を撫でる。別室にいるにも関わらず響くこの騒音が、母は嫌だったのだろうか。いや、それだけが原因ではない。いろんなことが重なって、重なって、重なって────。

「兄ちゃん」
「なに?」
「俺が絶対に守るから」

 何かを察した弟が、呟く。声変わりをしていない清らかな声だ。あのしゃがれたいびきを発する男の息子だとは、到底思えない。僕は肩を揺らし、笑った。「うん、ありがとう。守ってね」。体を抱きしめる腕に指を這わせる。
 どうして連れて行ってくれなかったのだろう。僕は寝る前に、いつもそんなことを考える。そして、同時にこうも思う。どうして、僕なんだろう。どうして、僕ばかりが辛い思いをしなければいけないんだろう。考えても、キリがない。ただ、不運なだけなのだろうか。
 障がいが残る足がチリチリと痛んだ。鈍い感覚は脳を刺激し、侵食するような不快感を植え付ける。
 目を瞑ってみる。ジワリと滲んだ暗闇の中、母の薄い背中が浮かんだ。



 幼い頃から、僕と母は二人きりだった。僕の実父は、物心つく前にどこかへ消えてしまった。その間、母は必死に僕を育ててくれた。齷齪働き、貧困に喘がないようにと身を粉にしていた。
 九歳を迎える数ヶ月前。母が深刻な顔をして僕の前に跪いた。手を握り、目を見据える。「ママね、好きな人ができたの」。母は照れくさそうに笑った。僕は、彼女が言っている言葉が理解できず(理解はしていたけど噛み砕けなかったのだ)首を傾げた。「ティエリ、あなたに新しいお父さんと弟ができるの」。やっとそこで全てが理解できた。第一声は、歓喜の声だ。やった、と弾んだ声を出した気がする。その場でぴょんと跳ねた気もする。胸がいっぱいになり、これからの生活を想像した。
 新しい父と、弟────父はすでに記憶にないし、弟なんていた事がない。故に、馳せる思いは募るばかりだ。どんな人なんだろう。どんな子なんだろう。
 ベッドに潜り、彼らに会える日を心待つ。これ以上にない祝福に包まれながら、僕は夢に落ちていくのだった。

 初めて彼らに出会った日を鮮明に思い出せる。少しふくよかで髭の生えたおじさん。その背後に隠れた少年。「いらっしゃい。どうぞ、中に入って」。おじさんが目元に皺を寄せて優しげに手招きした。平屋の玄関前で佇んだ僕の背中を、隣に立っていた母が押す。前のめりになりながら、僕は家の中へ入った。

「暑かっただろ? 氷たっぷりのレモネードを用意したよ」

 リビングへ招かれる。中は僕らが住んでいたアパートの一室より広々としていた。ベージュのソファに座らされた僕は、結露で濡れたグラスをおじさんから受け取る。隣におずおずと座った少年を横目に見ながら、ストローを啜った。
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