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私は夢を見ない
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◇
高校二年の秋は、最低最悪な時期だった。父の不倫が発覚し、家庭はぐちゃぐちゃだった。父は反省するどころか、自宅から荷物を持ち去り、不倫相手の家へ転がり込んでいた。
この家は窮屈だ。そう告げた父に母は何も言わなかった。反抗期の私と、家計の足しにもならないようなパートをしている母と、私たちに興味がない父。
言い方は悪いが、こんなの「何処にでもある家庭」だと思っていた。一軒、一軒。皮を剥いて中をのぞいてしまえば、大抵はこんなもんだ。差はあれど、何処も抱えている事情は似たり寄ったりである。
私は父の不倫に何とも思わなかった。あんな男、別にどうでも良い。居てもいなくても、私にとってはなんの変わりもなかった。
けれど、そんなことより私が苛立ったのは母の態度だ。そうね、他の人に取られてもおかしくないものね。そう語り、悲しげに微笑む彼女が大嫌いだった。父の腕を強く引き、自分の元へ引き寄せようともしない。相手の女の顔面を引っ掻き、抗議することもしない。ただひっそりと、訪れた現実に身を委ねるだけだ。
悲劇のヒロインのように立ち振る舞う彼女が嫌だった。もうこの世で頼れる肉親は彼女しかいないのに、当の本人は弱気なままで、それが妙に癪に障った。
あの日はすごく風が強かった。秋から冬に移り変わる時期で、吹き荒れる風は氷のように冷たかった。夜に溶けた木々たちが窓の外で激しく蠢くのを目の端で感じながら、私は母へ暴言を吐いた。内容は……詳しく覚えていない。けれど、些細なことだったと思う。
静かなリビングに、テレビから流れる煩わしい芸人の声が漂っていた。ソファに腰を下ろした彼女は立ち尽くした私を見上げ、悲しげに眉を歪めた。その表情にも苛立ちがくすぐられ、握りしめた手のひらに汗が滲んだ。
言い返さない彼女に、私は続ける。
「そんなんだから、お父さんに捨てられるんだよ」
そう言い残し、踵を返した私は二階に上がった。母の悲痛な顔を見たくなかったからだ。急ぎ足で階段を駆け上がり、自室へ入る。ドアを勢いよく閉め、ベッドに潜り込んだ。
────どうしてこうなっちゃったんだろう。
私は込み上げる涙を抑えることなく、流し続けた。幼少期は、幸せだった。家族で時間を作ってはドライブへ行ったし、テーマパークで遊んだりした。両サイドにいる楽しげな両親を見上げ、幸せな気分に浸れた。
────どうして。
カタン。一階から物音がした。やがて玄関の扉が開き、閉まる。母が何処かへ出かけたらしい。でも、何処へ? そう思い、窓から顔を覗かせる。家の前を通る小道を、街灯に照らされた自転車に乗った母が通り過ぎていく。
私はその姿を目で追いながら、もう一度布団に包まる。窓が強風でカタカタと揺れた。隙間から入る風に身震いをする。
────こんな寒い夜に、何処へ。
私は目を瞑る。明日の朝、きちんと謝罪しようと思い、目を瞑った。
しかし、そんな朝は訪れなかった。
母は轢かれた。人通りの少ない横断歩道を渡る際に、信号無視をした車によって。最初は生きていたらしい。でも、現場に救急車が到着する頃には息をしていなかったそうだ。
父にそう告げられた。彼は長椅子に腰を下ろし、項垂れた顔を上げないまま淡々とそう述べた。そして続ける。
「自転車のカゴには、二つ入りのショートケーキが入っていたらしい」
どうやら母は、近所のコンビニへケーキを買いに行ったそうだ。その帰りに、轢かれたとのこと。
言葉を聞いて、私は膝から崩れ落ちた。機嫌を損ねた私と仲直りしたくて、彼女はケーキを買いに行ったのだと知った。
冷たい風が吹くなか道路に横たわる母の姿を想像し、私は自分のしてしまった過ちを後悔した。
高校二年の秋は、最低最悪な時期だった。父の不倫が発覚し、家庭はぐちゃぐちゃだった。父は反省するどころか、自宅から荷物を持ち去り、不倫相手の家へ転がり込んでいた。
この家は窮屈だ。そう告げた父に母は何も言わなかった。反抗期の私と、家計の足しにもならないようなパートをしている母と、私たちに興味がない父。
言い方は悪いが、こんなの「何処にでもある家庭」だと思っていた。一軒、一軒。皮を剥いて中をのぞいてしまえば、大抵はこんなもんだ。差はあれど、何処も抱えている事情は似たり寄ったりである。
私は父の不倫に何とも思わなかった。あんな男、別にどうでも良い。居てもいなくても、私にとってはなんの変わりもなかった。
けれど、そんなことより私が苛立ったのは母の態度だ。そうね、他の人に取られてもおかしくないものね。そう語り、悲しげに微笑む彼女が大嫌いだった。父の腕を強く引き、自分の元へ引き寄せようともしない。相手の女の顔面を引っ掻き、抗議することもしない。ただひっそりと、訪れた現実に身を委ねるだけだ。
悲劇のヒロインのように立ち振る舞う彼女が嫌だった。もうこの世で頼れる肉親は彼女しかいないのに、当の本人は弱気なままで、それが妙に癪に障った。
あの日はすごく風が強かった。秋から冬に移り変わる時期で、吹き荒れる風は氷のように冷たかった。夜に溶けた木々たちが窓の外で激しく蠢くのを目の端で感じながら、私は母へ暴言を吐いた。内容は……詳しく覚えていない。けれど、些細なことだったと思う。
静かなリビングに、テレビから流れる煩わしい芸人の声が漂っていた。ソファに腰を下ろした彼女は立ち尽くした私を見上げ、悲しげに眉を歪めた。その表情にも苛立ちがくすぐられ、握りしめた手のひらに汗が滲んだ。
言い返さない彼女に、私は続ける。
「そんなんだから、お父さんに捨てられるんだよ」
そう言い残し、踵を返した私は二階に上がった。母の悲痛な顔を見たくなかったからだ。急ぎ足で階段を駆け上がり、自室へ入る。ドアを勢いよく閉め、ベッドに潜り込んだ。
────どうしてこうなっちゃったんだろう。
私は込み上げる涙を抑えることなく、流し続けた。幼少期は、幸せだった。家族で時間を作ってはドライブへ行ったし、テーマパークで遊んだりした。両サイドにいる楽しげな両親を見上げ、幸せな気分に浸れた。
────どうして。
カタン。一階から物音がした。やがて玄関の扉が開き、閉まる。母が何処かへ出かけたらしい。でも、何処へ? そう思い、窓から顔を覗かせる。家の前を通る小道を、街灯に照らされた自転車に乗った母が通り過ぎていく。
私はその姿を目で追いながら、もう一度布団に包まる。窓が強風でカタカタと揺れた。隙間から入る風に身震いをする。
────こんな寒い夜に、何処へ。
私は目を瞑る。明日の朝、きちんと謝罪しようと思い、目を瞑った。
しかし、そんな朝は訪れなかった。
母は轢かれた。人通りの少ない横断歩道を渡る際に、信号無視をした車によって。最初は生きていたらしい。でも、現場に救急車が到着する頃には息をしていなかったそうだ。
父にそう告げられた。彼は長椅子に腰を下ろし、項垂れた顔を上げないまま淡々とそう述べた。そして続ける。
「自転車のカゴには、二つ入りのショートケーキが入っていたらしい」
どうやら母は、近所のコンビニへケーキを買いに行ったそうだ。その帰りに、轢かれたとのこと。
言葉を聞いて、私は膝から崩れ落ちた。機嫌を損ねた私と仲直りしたくて、彼女はケーキを買いに行ったのだと知った。
冷たい風が吹くなか道路に横たわる母の姿を想像し、私は自分のしてしまった過ちを後悔した。
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