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いえなかった言葉
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「ちひろ、またね」
私は夕暮れの朱に染まるちひろへ手を振る。ランドセルを背負い直し、またね、と大きな声をあげる彼女が遠ざかっていく。
木々が揺れ、カラスが鳴いた。黒髪のポニーテールを揺らし、去っていくちひろの姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。
◇
「鹿島さん、これってどうしたらいいですか? ……って、大丈夫ですか?」
後輩である井本が肩を叩く。飛んでいた意識が舞い戻り、私は肩を揺らした。目の前に置かれた資料が視界に入る。
「あ、あぁ……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「寝不足ですか?」
「うぅん、昨日はちゃんと寝たの。でもね、ちょっと……」
言葉を濁し、資料を受け取る。あぁ、ここはねこうして────と先輩らしい一面を見せようと声をワントーン上げた。井本はなるほど、と頷いた後、こちらを伺った。
「何か悩みでも?」
「いやぁ……うん、たいしたことないんだけどね」
井本は綺麗な二重瞼をゆっくりと瞬かせ、じっと私を見つめた。彼女と初めて出会った時からずっと思っていたことだ。綺麗な二重であると。その瞼に引かれたクッキリとした線が羨ましく感じる。
「聞きますよ」
「え?」
「前に私の自分語りを聞いてもらったんで、今度は鹿島さんの自分語り。聞きますよ」
まぁ、無理に話さなくてもいいですけど。そう付け加え、彼女は資料に目を落とした。
事務所に掛けられた時計の秒針を刻む音が、妙に大きく聞こえる。カチカチカチカチカチカチ。銀色の針を見つめ、私はゆっくりと口を開く。
「ONP錠で、昔の夢をよく見るんだ」
井本は資料から目を離さず、なるほど、と頷く。ページを捲る音が聞こえた。
「内容は、同級生と放課後に公園で遊ぶだけ……なんだけど……」
「なんだけど?」
彼女が聞き返す。私は、果たしてこの話をして良いものか、と悩む。何故なら、その内容がとてつもなく幼稚であるからだ。彼女の所謂「自分語り」よりも遥かに凡々としていて、少し恥ずかしささえ感じる。
いつまで経っても話を続けようとしない私に、井本が視線を上げる。
「……そんなに重い話なんですか?」
「あ、いや。その逆。だからこんな話を井本さんに聞かせていいのかなぁって」
「なんですかそれ。むしろ聞きたくなりますよ」
彼女が静かに笑う。その笑みに絆され、私は口を開いた。
「私ね、その夢に登場する磯辺ちひろとすっごい仲が良かったんだ。小学校一年の時に声をかけられて、友達になって以降、小学校五年まで、ずっと一緒にいた。中学校も仲良くしようね。高校も同じところへ行こう。大学も、会社も同じところがいい、なんて話し合ったりもしてた。そんな彼女がね、引っ越したのよ。小学校五年の夏休み前に」
話をするたびに、当時の記憶が鮮明に脳裏に蘇る。艶やかな黒髪を後頭部で束ねた少女。いつも元気がよく、溌剌としていた。ドッチボールが得意で、習字が苦手だった。男子がふざけているとキツく叱ったり、先生には堂々と意見する勝気な子でもあった。
「ちひろは、みんなを悲しませたくないからって引っ越し前日まで、その事実を隠していたの。もちろん、私にも。放課後、急に先生が「ちひろさんは引っ越します」って言い出して。私、もう呆然として……放課後、大喧嘩しちゃってさ。裏切り者、とか。最低、とか。そういう言葉をかけちゃった」
放課後、いつも屯していた公園で、私は彼女の言葉を聞かずに罵声を浴びせ続けた。今でも鮮明に思い出せる。ちひろの、あの辛そうな顔。いつも活発な彼女が、私の言葉に深く傷ついていた。
「そのままね、私は彼女に何も告げずに公園を飛び出したの。いつもは、あの子が帰る背中を見届けて「またね」っていうのが日課だったのに。私は、最後の最後に彼女へ「またね」を言えないまま別れてしまった」
引っ越しが人生の終わりなんかじゃない。またいつか会える日が来る。そんなことを知れたのは、大人になってからだ。
けれどあの時の私たちにとって、世界は狭くて融通が効かなくて、そして儚いものだった。
「今思えば、ちひろだって引っ越しなんかしたくなかったと思う。でも、親の都合で仕方なかった。なのに、私ときたら、酷い言葉で彼女を傷つけてしまった。悔やんでも悔やみきれない」
あの日、きちんと全てを受け入れて彼女と別れの言葉を交わせばよかった。夕日に照らされた彼女の背中を見届け「またね」と言えばよかった。
「……わかりますよ。あの時に、ああ言っておけばよかった。こうしていたらよかったって思いますよね」
井本へ目を遣る。彼女は相変わらず視線を資料に落としたままだった。しかし、その横顔はどこか憂いている。
彼女にも姉に対するそういう感情があるのだろう。私は静かに頷き、再び時計へ視線を投げる。無慈悲に動き続ける針は、戻ることはない。全ての道を歩み続けた結果が今の自分なのである。
「あの日のことを謝罪したくて、SNSとか検索したりするんだけど……見つからないんだよね。当時の同級生とかにも連絡したんだけど、消息がなくて」
「……人を探すって中々難しいんですね」
私はゆっくりと頷いた。頬杖をつき、目の前にあるパソコンの画面を眺める。表示されている文字の羅列は、まるで私を責めているように見えた。
「だからせめて、夢で彼女に何度もいうの。「またね」って。大きく手を振って。そうしたらちひろも手を振り返してくれるんだ。それが、どうしようもなく嬉しくて────」
脳裏に夢に出てきたちひろが過ぎる。朗らかな笑みを浮かべた、彼女が。
「……なんで、あの日「またね」って言えなかったんだろう」
ひとりごちるようにそう呟く。あの日の私に届けばいいなとか、そんなノスタルジックなことを考えた。
私は夕暮れの朱に染まるちひろへ手を振る。ランドセルを背負い直し、またね、と大きな声をあげる彼女が遠ざかっていく。
木々が揺れ、カラスが鳴いた。黒髪のポニーテールを揺らし、去っていくちひろの姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。
◇
「鹿島さん、これってどうしたらいいですか? ……って、大丈夫ですか?」
後輩である井本が肩を叩く。飛んでいた意識が舞い戻り、私は肩を揺らした。目の前に置かれた資料が視界に入る。
「あ、あぁ……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「寝不足ですか?」
「うぅん、昨日はちゃんと寝たの。でもね、ちょっと……」
言葉を濁し、資料を受け取る。あぁ、ここはねこうして────と先輩らしい一面を見せようと声をワントーン上げた。井本はなるほど、と頷いた後、こちらを伺った。
「何か悩みでも?」
「いやぁ……うん、たいしたことないんだけどね」
井本は綺麗な二重瞼をゆっくりと瞬かせ、じっと私を見つめた。彼女と初めて出会った時からずっと思っていたことだ。綺麗な二重であると。その瞼に引かれたクッキリとした線が羨ましく感じる。
「聞きますよ」
「え?」
「前に私の自分語りを聞いてもらったんで、今度は鹿島さんの自分語り。聞きますよ」
まぁ、無理に話さなくてもいいですけど。そう付け加え、彼女は資料に目を落とした。
事務所に掛けられた時計の秒針を刻む音が、妙に大きく聞こえる。カチカチカチカチカチカチ。銀色の針を見つめ、私はゆっくりと口を開く。
「ONP錠で、昔の夢をよく見るんだ」
井本は資料から目を離さず、なるほど、と頷く。ページを捲る音が聞こえた。
「内容は、同級生と放課後に公園で遊ぶだけ……なんだけど……」
「なんだけど?」
彼女が聞き返す。私は、果たしてこの話をして良いものか、と悩む。何故なら、その内容がとてつもなく幼稚であるからだ。彼女の所謂「自分語り」よりも遥かに凡々としていて、少し恥ずかしささえ感じる。
いつまで経っても話を続けようとしない私に、井本が視線を上げる。
「……そんなに重い話なんですか?」
「あ、いや。その逆。だからこんな話を井本さんに聞かせていいのかなぁって」
「なんですかそれ。むしろ聞きたくなりますよ」
彼女が静かに笑う。その笑みに絆され、私は口を開いた。
「私ね、その夢に登場する磯辺ちひろとすっごい仲が良かったんだ。小学校一年の時に声をかけられて、友達になって以降、小学校五年まで、ずっと一緒にいた。中学校も仲良くしようね。高校も同じところへ行こう。大学も、会社も同じところがいい、なんて話し合ったりもしてた。そんな彼女がね、引っ越したのよ。小学校五年の夏休み前に」
話をするたびに、当時の記憶が鮮明に脳裏に蘇る。艶やかな黒髪を後頭部で束ねた少女。いつも元気がよく、溌剌としていた。ドッチボールが得意で、習字が苦手だった。男子がふざけているとキツく叱ったり、先生には堂々と意見する勝気な子でもあった。
「ちひろは、みんなを悲しませたくないからって引っ越し前日まで、その事実を隠していたの。もちろん、私にも。放課後、急に先生が「ちひろさんは引っ越します」って言い出して。私、もう呆然として……放課後、大喧嘩しちゃってさ。裏切り者、とか。最低、とか。そういう言葉をかけちゃった」
放課後、いつも屯していた公園で、私は彼女の言葉を聞かずに罵声を浴びせ続けた。今でも鮮明に思い出せる。ちひろの、あの辛そうな顔。いつも活発な彼女が、私の言葉に深く傷ついていた。
「そのままね、私は彼女に何も告げずに公園を飛び出したの。いつもは、あの子が帰る背中を見届けて「またね」っていうのが日課だったのに。私は、最後の最後に彼女へ「またね」を言えないまま別れてしまった」
引っ越しが人生の終わりなんかじゃない。またいつか会える日が来る。そんなことを知れたのは、大人になってからだ。
けれどあの時の私たちにとって、世界は狭くて融通が効かなくて、そして儚いものだった。
「今思えば、ちひろだって引っ越しなんかしたくなかったと思う。でも、親の都合で仕方なかった。なのに、私ときたら、酷い言葉で彼女を傷つけてしまった。悔やんでも悔やみきれない」
あの日、きちんと全てを受け入れて彼女と別れの言葉を交わせばよかった。夕日に照らされた彼女の背中を見届け「またね」と言えばよかった。
「……わかりますよ。あの時に、ああ言っておけばよかった。こうしていたらよかったって思いますよね」
井本へ目を遣る。彼女は相変わらず視線を資料に落としたままだった。しかし、その横顔はどこか憂いている。
彼女にも姉に対するそういう感情があるのだろう。私は静かに頷き、再び時計へ視線を投げる。無慈悲に動き続ける針は、戻ることはない。全ての道を歩み続けた結果が今の自分なのである。
「あの日のことを謝罪したくて、SNSとか検索したりするんだけど……見つからないんだよね。当時の同級生とかにも連絡したんだけど、消息がなくて」
「……人を探すって中々難しいんですね」
私はゆっくりと頷いた。頬杖をつき、目の前にあるパソコンの画面を眺める。表示されている文字の羅列は、まるで私を責めているように見えた。
「だからせめて、夢で彼女に何度もいうの。「またね」って。大きく手を振って。そうしたらちひろも手を振り返してくれるんだ。それが、どうしようもなく嬉しくて────」
脳裏に夢に出てきたちひろが過ぎる。朗らかな笑みを浮かべた、彼女が。
「……なんで、あの日「またね」って言えなかったんだろう」
ひとりごちるようにそう呟く。あの日の私に届けばいいなとか、そんなノスタルジックなことを考えた。
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