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アンドロイド
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◇
その日も、車内は混んでいた。慰め程度に漂うクーラーの冷気が哀れにも人々の熱気に呑まれていく。私は停止しかけた思考をなんとか繋ぎ止めつつ、吊革を掴む。早く、来月になってほしい。ONP錠を飲み、RXくんの夢を見たい。慰めてもらいたい。今の私を繋ぎ止めているのは、彼だった。あの冷たい肌と瞳を思い出すだけで、胸が躍る。ニヤつく頬を隠すように、大きく欠伸をし、誤魔化した。
ふと、涙の膜が張った瞳が見覚えのある人物を捉える。
……昨日の彼だ。
私は瞬間、息を呑む。彼は斜め前の座席に腰をかけていた。
驚いたのは、彼がこちらを見てるということだ。私は小さな悲鳴を上げそうになり、飲み込む。嚥下音が妙にうるさく聞こえる。彼は軽く会釈をし、フイと目を逸らした。私は一気に顔が熱くなる。昨日、転んだところを助けてもらった相手に、ニヤけたのを隠すため欠伸をする所を見られた。私は穴があったら入りたい、という言葉通りの感情を抱いていた。
顔を伏せ、駅に到着するのをひたすら待った。
電車が緩やかに動きを止め、ホームへたどり着いた。急足でその場から逃げるように、ホームのコンクリートを踏みしめた。挫いた足首に張った湿布が、ジリジリと肌を侵食するように熱を帯びる。ビジネスバッグを持ち直し、パンプスの踵を鳴らした。
「あの」
後ろから声をかけられた。振り向かなくてもわかる。この冷たい声は、彼だ。
私は恐る恐る振り返る。
「昨日は、大丈夫でしたか」
言葉とは裏腹に冷たい目が、身体中に刺さる。彼はあの、と言ったきり何度か口を開いたり閉じたりして、言葉を探っていた。
「大丈夫です。昨日はごめんなさいね。迷惑かけちゃって」
「いえ、そんな」
通り過ぎる通行人がまるで付属品のように見えるほど、彼は美しい顔立ちをしていた。身に纏っている雰囲気もそこら辺の男性陣とは桁違いだ。モテるのだろうな。私はそんなどうでもいいことを頭の片隅で考えていた。
彼は一つ間を置いて、話し始めた。
「僕、その……ここから少し行ったところにある大学に通ってて……そこで、微生物の研究をしています」
はぁ。私は素っ頓狂な返事をした。微生物? 難しそうなものを研究しているのだなぁ。見るからに、頭の良さそうな顔してるし。私は頭が悪い方だったので、感心した。というか、大学生か。若いな。羨ましい。
私は沸々と脳裏に湧き上がる単語を浮かべては消した。彼が続ける。
「あの。ここら辺に職場があるんですか?」
相変わらず、抑揚のない声が鼓膜を撫でた。あ、はい。私は軽く返事をした。なんでそんなことを聞くのだろう。通り過ぎる人たちを横目に、私は出社時間が気になって仕方が無かった。
「連絡先とか教えて貰えませんか」
「んごふっ」
予想外の言葉に私は馬鹿らしいほど間抜けな声を出す。喉に唾液が詰まり、何度か咳払いをした。彼はその様子を心配げに見ている。今なんて、と聞き返す前に彼が私の肩に手を置く。
────冷たい。
その冷たさに、私はRXくんを思い出していた。顔を上げる。黒髪で眼鏡をかけた彼が不安げに私を覗き込んでいた。不安げと言っても、張り付いた表情を変えることなく、眉を少しだけ顰めているだけだったが。
しかし、その表情が余計にRXくんを彷彿とさせた。私は一歩、彼から身を引く。
「すみません。ずっと、貴方のことが気になっていて」
「……は?」
「僕、涼宮サイキって言います」
あの、これ。足を止めてしまってすみません。そう言い、何かを手渡してきた。彼は逃げるようにその場を去る。
途中、彼が振り返った。
「明日も、声をかけます。その次の日も。貴方が振り向いてくれるまで」
なんまぁ、ロマンティックな台詞だろうか。しかし、そんなセリフとは裏腹に、彼は感情の読み取りずらい声を上げた。
去っていく彼の背中が小さくなるまで見届けた私は、渡されたメモ用紙を見つめる。ルーズリーフが雑に切り取られ、連絡先が書かれていた。一文字、一文字の綺麗さに思わず声が漏れる。
私は人の目など気にせず、その場に立ち尽くした。
その日も、車内は混んでいた。慰め程度に漂うクーラーの冷気が哀れにも人々の熱気に呑まれていく。私は停止しかけた思考をなんとか繋ぎ止めつつ、吊革を掴む。早く、来月になってほしい。ONP錠を飲み、RXくんの夢を見たい。慰めてもらいたい。今の私を繋ぎ止めているのは、彼だった。あの冷たい肌と瞳を思い出すだけで、胸が躍る。ニヤつく頬を隠すように、大きく欠伸をし、誤魔化した。
ふと、涙の膜が張った瞳が見覚えのある人物を捉える。
……昨日の彼だ。
私は瞬間、息を呑む。彼は斜め前の座席に腰をかけていた。
驚いたのは、彼がこちらを見てるということだ。私は小さな悲鳴を上げそうになり、飲み込む。嚥下音が妙にうるさく聞こえる。彼は軽く会釈をし、フイと目を逸らした。私は一気に顔が熱くなる。昨日、転んだところを助けてもらった相手に、ニヤけたのを隠すため欠伸をする所を見られた。私は穴があったら入りたい、という言葉通りの感情を抱いていた。
顔を伏せ、駅に到着するのをひたすら待った。
電車が緩やかに動きを止め、ホームへたどり着いた。急足でその場から逃げるように、ホームのコンクリートを踏みしめた。挫いた足首に張った湿布が、ジリジリと肌を侵食するように熱を帯びる。ビジネスバッグを持ち直し、パンプスの踵を鳴らした。
「あの」
後ろから声をかけられた。振り向かなくてもわかる。この冷たい声は、彼だ。
私は恐る恐る振り返る。
「昨日は、大丈夫でしたか」
言葉とは裏腹に冷たい目が、身体中に刺さる。彼はあの、と言ったきり何度か口を開いたり閉じたりして、言葉を探っていた。
「大丈夫です。昨日はごめんなさいね。迷惑かけちゃって」
「いえ、そんな」
通り過ぎる通行人がまるで付属品のように見えるほど、彼は美しい顔立ちをしていた。身に纏っている雰囲気もそこら辺の男性陣とは桁違いだ。モテるのだろうな。私はそんなどうでもいいことを頭の片隅で考えていた。
彼は一つ間を置いて、話し始めた。
「僕、その……ここから少し行ったところにある大学に通ってて……そこで、微生物の研究をしています」
はぁ。私は素っ頓狂な返事をした。微生物? 難しそうなものを研究しているのだなぁ。見るからに、頭の良さそうな顔してるし。私は頭が悪い方だったので、感心した。というか、大学生か。若いな。羨ましい。
私は沸々と脳裏に湧き上がる単語を浮かべては消した。彼が続ける。
「あの。ここら辺に職場があるんですか?」
相変わらず、抑揚のない声が鼓膜を撫でた。あ、はい。私は軽く返事をした。なんでそんなことを聞くのだろう。通り過ぎる人たちを横目に、私は出社時間が気になって仕方が無かった。
「連絡先とか教えて貰えませんか」
「んごふっ」
予想外の言葉に私は馬鹿らしいほど間抜けな声を出す。喉に唾液が詰まり、何度か咳払いをした。彼はその様子を心配げに見ている。今なんて、と聞き返す前に彼が私の肩に手を置く。
────冷たい。
その冷たさに、私はRXくんを思い出していた。顔を上げる。黒髪で眼鏡をかけた彼が不安げに私を覗き込んでいた。不安げと言っても、張り付いた表情を変えることなく、眉を少しだけ顰めているだけだったが。
しかし、その表情が余計にRXくんを彷彿とさせた。私は一歩、彼から身を引く。
「すみません。ずっと、貴方のことが気になっていて」
「……は?」
「僕、涼宮サイキって言います」
あの、これ。足を止めてしまってすみません。そう言い、何かを手渡してきた。彼は逃げるようにその場を去る。
途中、彼が振り返った。
「明日も、声をかけます。その次の日も。貴方が振り向いてくれるまで」
なんまぁ、ロマンティックな台詞だろうか。しかし、そんなセリフとは裏腹に、彼は感情の読み取りずらい声を上げた。
去っていく彼の背中が小さくなるまで見届けた私は、渡されたメモ用紙を見つめる。ルーズリーフが雑に切り取られ、連絡先が書かれていた。一文字、一文字の綺麗さに思わず声が漏れる。
私は人の目など気にせず、その場に立ち尽くした。
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