48 / 77
冷えた手のひら
7
しおりを挟む
額から汗が滲む。頬へ流れ、顎を伝い、首筋へ流れた。俺は冷えた指先で手の甲を抓る。これは、夢なのだろうか。ここはONP錠で見ている夢の中ではないだろうか。しかし、手の甲に残った痛みはじんわりと全身に広がる。
彼女が続けた。
「佐々木ね、もう出所してるの。実家はすでに売り払われてるんだけど、代わりに祖母の家にいるらしい……田舎ってすごいわよね。そういう情報はいち早く耳に届くの」
彼女が悲しげに微笑む。アイスピックを握りしめたまま、墓石を撫でた。まるで、弟を────伊織を撫でるように、愛おしげに。
「今日はね、最後の挨拶に来たの」
撫でていた指が、ゆっくりと離れる。やがてその手は胸元の前で強く結ばれた。祈るような姿は、まるで信仰で祭られる聖女のように見えた。
「姉ちゃんはやるんだよ、勇気を頂戴って」
その言葉は強風に煽られてどこかへ消えた。
俺は、黙って眺めていた。彼女が大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。こちらへ視線を投げ、ひどく穏やかに微笑んだ。
「今日は話を聞いてくれてありがとう。こういう話、気安く両親にはできないから話せてよかった。なんだかすごくスッキリした。私と同じ夢を見ている人がいるって知れて、溜まっていた膿みたいなものが抜けた気がするし」
しおりが踵を返す。あの、と背中に声をかけた。同時に彼女が振り返る。
「通報、してもいいよ。上手くいくかどうかも、分からないしね。君の好きなようにして構わないよ。じゃあね────」
「俺も、連れて行ってください」
しおりの声と、俺の声が重なる。心臓が、バクバクと脈を打っていた。汗の滲んだ手を強く握りしめ、彼女へ近づく。目と鼻の先にあるしおりの顔には、細かなシワがあった。あの日から、随分と経った。憎しみを忘れることができないまま、俺たちは大人になってしまった。
「俺も、連れて行ってください」
もう一度、口から漏れた言葉にしおりは困ったように笑った。
◇
「あの家。見える?」
見えます。助手席に座った俺は、震える手を握り合わせ膝の上に置き、唾液を嚥下する。しおりは声を顰めた。
「あれが、祖母の家よ。聞くところによると、午後六時。毎度、あいつは近所へ散歩に出かける。そのタイミングを見計らって拉致をしましょう。多少、声を上げられてもバレない」
辺りは何もない田舎風景が広がっていた。等間隔に存在する民家以外は田畑が占めている。街灯らしい街灯はなく、夜は月明かりを頼りにしなければならない。
時刻は午後五時五十七分。執行という名の私刑が、俺たちの後ろへ迫っている。
ハンドルを握りしめたしおりは、とても青ざめた顔をしていた。それもそうだ。今から人を殺すのだ。ハッタリではなく、本気だ。きっと彼女はこの日の為に、いろいろ考えたに違いない。それでも尚、心の中で揺らぎがあるのだろう。
「……見て、聖也くん。あれ……」
玄関がゆっくりと開く。徐々に輪郭を表すその姿に唾液が溢れた。
佐々木悦司が、そこにいた。
見た途端、全身に鳥肌が立つ。脳の奥がチリチリと痛み、目の前が歪んだ。
伊織と別れた時に見たあの男。テレビの報道で何度も見たあの男。夢に出てきては無惨な死に様を見せるあの男。
あの日より幾分も草臥れていたが、忘れもしないその姿に、俺は芯の底から震えていた。やつを殺せるという歓喜と────そして、あの日、伊織の手を離してしまった後悔から来る怒りで震えた。
佐々木は家を出て、靴を鳴らすように爪先を何度か地面で弾ませたあと、ゆっくりと道路を歩んだ。猫背姿が、徐々に遠ざかる。
しおりへ視線を遣る。彼女の目は、ただひたすらにあの男を見つめていた。
「しおりさん」
彼女がこちらを見た。黒々とした瞳に、俺が映り込む。
「俺たちの手で、この悪夢を終わらせるんです」
あの日から、俺たちはずっと悪夢を見続けてきた。それが、ようやく今日で終わる。どんな幕引きであったとしても────終わらせなければいけない。
しおりが静かに頷く。エンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。佐々木へ近づくようにジリジリと迫る。
彼女の手の甲へ触れた。とても冷えた手をしていた。夢に出てくる伊織の、あの凍えるような手を思い出す。
俺はその手を、力強く握りしめた。
彼女が続けた。
「佐々木ね、もう出所してるの。実家はすでに売り払われてるんだけど、代わりに祖母の家にいるらしい……田舎ってすごいわよね。そういう情報はいち早く耳に届くの」
彼女が悲しげに微笑む。アイスピックを握りしめたまま、墓石を撫でた。まるで、弟を────伊織を撫でるように、愛おしげに。
「今日はね、最後の挨拶に来たの」
撫でていた指が、ゆっくりと離れる。やがてその手は胸元の前で強く結ばれた。祈るような姿は、まるで信仰で祭られる聖女のように見えた。
「姉ちゃんはやるんだよ、勇気を頂戴って」
その言葉は強風に煽られてどこかへ消えた。
俺は、黙って眺めていた。彼女が大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。こちらへ視線を投げ、ひどく穏やかに微笑んだ。
「今日は話を聞いてくれてありがとう。こういう話、気安く両親にはできないから話せてよかった。なんだかすごくスッキリした。私と同じ夢を見ている人がいるって知れて、溜まっていた膿みたいなものが抜けた気がするし」
しおりが踵を返す。あの、と背中に声をかけた。同時に彼女が振り返る。
「通報、してもいいよ。上手くいくかどうかも、分からないしね。君の好きなようにして構わないよ。じゃあね────」
「俺も、連れて行ってください」
しおりの声と、俺の声が重なる。心臓が、バクバクと脈を打っていた。汗の滲んだ手を強く握りしめ、彼女へ近づく。目と鼻の先にあるしおりの顔には、細かなシワがあった。あの日から、随分と経った。憎しみを忘れることができないまま、俺たちは大人になってしまった。
「俺も、連れて行ってください」
もう一度、口から漏れた言葉にしおりは困ったように笑った。
◇
「あの家。見える?」
見えます。助手席に座った俺は、震える手を握り合わせ膝の上に置き、唾液を嚥下する。しおりは声を顰めた。
「あれが、祖母の家よ。聞くところによると、午後六時。毎度、あいつは近所へ散歩に出かける。そのタイミングを見計らって拉致をしましょう。多少、声を上げられてもバレない」
辺りは何もない田舎風景が広がっていた。等間隔に存在する民家以外は田畑が占めている。街灯らしい街灯はなく、夜は月明かりを頼りにしなければならない。
時刻は午後五時五十七分。執行という名の私刑が、俺たちの後ろへ迫っている。
ハンドルを握りしめたしおりは、とても青ざめた顔をしていた。それもそうだ。今から人を殺すのだ。ハッタリではなく、本気だ。きっと彼女はこの日の為に、いろいろ考えたに違いない。それでも尚、心の中で揺らぎがあるのだろう。
「……見て、聖也くん。あれ……」
玄関がゆっくりと開く。徐々に輪郭を表すその姿に唾液が溢れた。
佐々木悦司が、そこにいた。
見た途端、全身に鳥肌が立つ。脳の奥がチリチリと痛み、目の前が歪んだ。
伊織と別れた時に見たあの男。テレビの報道で何度も見たあの男。夢に出てきては無惨な死に様を見せるあの男。
あの日より幾分も草臥れていたが、忘れもしないその姿に、俺は芯の底から震えていた。やつを殺せるという歓喜と────そして、あの日、伊織の手を離してしまった後悔から来る怒りで震えた。
佐々木は家を出て、靴を鳴らすように爪先を何度か地面で弾ませたあと、ゆっくりと道路を歩んだ。猫背姿が、徐々に遠ざかる。
しおりへ視線を遣る。彼女の目は、ただひたすらにあの男を見つめていた。
「しおりさん」
彼女がこちらを見た。黒々とした瞳に、俺が映り込む。
「俺たちの手で、この悪夢を終わらせるんです」
あの日から、俺たちはずっと悪夢を見続けてきた。それが、ようやく今日で終わる。どんな幕引きであったとしても────終わらせなければいけない。
しおりが静かに頷く。エンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。佐々木へ近づくようにジリジリと迫る。
彼女の手の甲へ触れた。とても冷えた手をしていた。夢に出てくる伊織の、あの凍えるような手を思い出す。
俺はその手を、力強く握りしめた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
眠れない夜の雲をくぐって
ほしのことば
恋愛
♡完結まで毎日投稿♡
女子高生のアカネと29歳社会人のウミは、とある喫茶店のバイトと常連客。
一目惚れをしてウミに思いを寄せるアカネはある日、ウミと高校生活を共にするという不思議な夢をみる。
最初はただの幸せな夢だと思っていたアカネだが、段々とそれが現実とリンクしているのではないだろうかと疑うようになる。
アカネが高校を卒業するタイミングで2人は、やっと夢で繋がっていたことを確かめ合う。夢で繋がっていた時間は、現実では初めて話す2人の距離をすぐに縮めてくれた。
現実で繋がってから2人が紡いで行く時間と思い。お互いの幸せを願い合う2人が選ぶ、切ない『ハッピーエンド』とは。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる