ワンナイトパラダイス

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冷えた手のひら

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 額から汗が滲む。頬へ流れ、顎を伝い、首筋へ流れた。俺は冷えた指先で手の甲を抓る。これは、夢なのだろうか。ここはONP錠で見ている夢の中ではないだろうか。しかし、手の甲に残った痛みはじんわりと全身に広がる。
 彼女が続けた。

「佐々木ね、もう出所してるの。実家はすでに売り払われてるんだけど、代わりに祖母の家にいるらしい……田舎ってすごいわよね。そういう情報はいち早く耳に届くの」

 彼女が悲しげに微笑む。アイスピックを握りしめたまま、墓石を撫でた。まるで、弟を────伊織を撫でるように、愛おしげに。

「今日はね、最後の挨拶に来たの」

 撫でていた指が、ゆっくりと離れる。やがてその手は胸元の前で強く結ばれた。祈るような姿は、まるで信仰で祭られる聖女のように見えた。

「姉ちゃんはやるんだよ、勇気を頂戴って」

 その言葉は強風に煽られてどこかへ消えた。
 俺は、黙って眺めていた。彼女が大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。こちらへ視線を投げ、ひどく穏やかに微笑んだ。

「今日は話を聞いてくれてありがとう。こういう話、気安く両親にはできないから話せてよかった。なんだかすごくスッキリした。私と同じ夢を見ている人がいるって知れて、溜まっていた膿みたいなものが抜けた気がするし」

 しおりが踵を返す。あの、と背中に声をかけた。同時に彼女が振り返る。

「通報、してもいいよ。上手くいくかどうかも、分からないしね。君の好きなようにして構わないよ。じゃあね────」
「俺も、連れて行ってください」

 しおりの声と、俺の声が重なる。心臓が、バクバクと脈を打っていた。汗の滲んだ手を強く握りしめ、彼女へ近づく。目と鼻の先にあるしおりの顔には、細かなシワがあった。あの日から、随分と経った。憎しみを忘れることができないまま、俺たちは大人になってしまった。

「俺も、連れて行ってください」

 もう一度、口から漏れた言葉にしおりは困ったように笑った。



「あの家。見える?」

 見えます。助手席に座った俺は、震える手を握り合わせ膝の上に置き、唾液を嚥下する。しおりは声を顰めた。

「あれが、祖母の家よ。聞くところによると、午後六時。毎度、あいつは近所へ散歩に出かける。そのタイミングを見計らって拉致をしましょう。多少、声を上げられてもバレない」

 辺りは何もない田舎風景が広がっていた。等間隔に存在する民家以外は田畑が占めている。街灯らしい街灯はなく、夜は月明かりを頼りにしなければならない。
 時刻は午後五時五十七分。執行という名の私刑が、俺たちの後ろへ迫っている。
 ハンドルを握りしめたしおりは、とても青ざめた顔をしていた。それもそうだ。今から人を殺すのだ。ハッタリではなく、本気だ。きっと彼女はこの日の為に、いろいろ考えたに違いない。それでも尚、心の中で揺らぎがあるのだろう。

「……見て、聖也くん。あれ……」

 玄関がゆっくりと開く。徐々に輪郭を表すその姿に唾液が溢れた。
 佐々木悦司が、そこにいた。
 見た途端、全身に鳥肌が立つ。脳の奥がチリチリと痛み、目の前が歪んだ。
 伊織と別れた時に見たあの男。テレビの報道で何度も見たあの男。夢に出てきては無惨な死に様を見せるあの男。
 あの日より幾分も草臥れていたが、忘れもしないその姿に、俺は芯の底から震えていた。やつを殺せるという歓喜と────そして、あの日、伊織の手を離してしまった後悔から来る怒りで震えた。
 佐々木は家を出て、靴を鳴らすように爪先を何度か地面で弾ませたあと、ゆっくりと道路を歩んだ。猫背姿が、徐々に遠ざかる。
 しおりへ視線を遣る。彼女の目は、ただひたすらにあの男を見つめていた。

「しおりさん」

 彼女がこちらを見た。黒々とした瞳に、俺が映り込む。

「俺たちの手で、この悪夢を終わらせるんです」

 あの日から、俺たちはずっと悪夢を見続けてきた。それが、ようやく今日で終わる。どんな幕引きであったとしても────終わらせなければいけない。
 しおりが静かに頷く。エンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。佐々木へ近づくようにジリジリと迫る。
 彼女の手の甲へ触れた。とても冷えた手をしていた。夢に出てくる伊織の、あの凍えるような手を思い出す。
 俺はその手を、力強く握りしめた。
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