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冷えた手のひら
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◇
数時間後、伊織が行方不明だと告げられた。七時を過ぎても家に帰っていないと、甲斐田家から連絡があり母が血相を変えて俺に問うた。
瞬間、眩暈がするほどの動悸と息切れ、そして全身の血がサッと引く感覚を味わった。お、お母さん、俺、俺。舌を縺れさせながら、母へ詳細を報告する。
母の顔が驚くほど強張り、携帯端末を握りしめ震える指先で何処かへ電話をかけた。コール音が鳴る中、母がこちらへ視線を投げ、真っ青になった頬を無理に緩める。先に夕食を食べちゃいなさい。大丈夫、伊織くんは大丈夫だから。そんな心配そうな顔をしないで。大丈夫よ。
声音は震えていた。母は気丈な人だった。しかし、この時ばかりはその気丈さを振る舞えるほどの状況下では無かったらしい。
ただいま、という声がリビングに響く。父が帰ってきたのだ。疲れたぁ、と間延びする声と、もしもし甲斐田さん? という声が重なる。
父は不思議そうな顔で、必死に状況を伝える母と、呆然と立ち尽くす俺を交互に見た。
伊織の遺体が発見されたのは、それから五日後だった。近くの森林で発見された彼は暴行されており────のちに知ったのだが、性的な意味でも暴行されていたようだ────衣類は乱れ、ほぼ全裸の状態だったらしい。
犯人は佐々木悦司という三十代後半の男だった。深夜帯の工場勤めで、出勤前に公園で獲物を物色していたらしい。
伊織が攫われたあの日は休日だったらしく、決行に至ったそうだ。
何故、伊織だったのかというと、理由は単純明快。タイプだった。ただそれだけ。触れたかった、乱暴してみたかった。ただ、それだけの理由で彼は殺された。なんて身勝手で、愚かで、醜い理由だろうか。
────俺は、深い後悔をしていた。あの時、彼の手をもっと強く握っていれば。あんな変な人について行ってはいけないと静止しておけば。大声で叫んで、誰かへ助けを求めていれば。そんな後の祭りを味わいながら、彼の手のひらの感触を思い出していた。
「私が悪いんです」
葬式であった伊織の母は、まるで死人のような顔色をしていた。俯き、そうポツリと呟いた彼女はぴくりとも動かない。
「私の体が弱くなければ、あの子は騙されずに済んだ。だから、ねぇ。聖也くん。自分を責めないで」
黒目がちな瞳が俺を射る。喪服に身を包んだ彼女が慰めるようにそう言った。
どうやら、伊織の母はとても体が弱いらしい。パート先で倒れてはたびたび病院の世話になっていたそうだ。それがなんの因果か、犯人である佐々木の発した誘い文句とうまい具合に合致したらしい。
相手からすると、好都合だったのだろう。狙っていた子供が、まんまと自分の都合のいいように動いてくれて。
もし仮に彼女の体が強かったら、伊織は違和感を抱き車に乗らなかっただろうか? そんなの、誰にも分からない。もしもの話をしても、現実は変わらないのだ。もし、彼女の体が強ければ。もし、俺が手を離さなければ。もし、もし、もし。そんな話を夜通しして、伊織が帰ってくるならいくらでもする。
けど、もう過ぎてしまったことなのだ。
「私が悪いの」
でも、人はもしもの話で自分を責めてしまう生き物なのだと、その時、初めて知った。俺は自分が伊織を殺したと思っているし、彼女は自分が伊織を殺したと思っている。
殺したのは佐々木であるにも関わらず、あの時ああしていれば、と思ってしまうのだ。
不意に、視界に黒髪の少女が映った。伊織の遺影を見つめた横顔に、目が釘付けになる。彼女は涙を流すことなく、ただ、じっと遺影を見つめている。
その横顔を見て、確信した。彼女は伊織の姉だ。理解した途端、彼女がこちらを見た。
虚ろとした瞳は、なんとも言えない怒りを孕んでいた。
数時間後、伊織が行方不明だと告げられた。七時を過ぎても家に帰っていないと、甲斐田家から連絡があり母が血相を変えて俺に問うた。
瞬間、眩暈がするほどの動悸と息切れ、そして全身の血がサッと引く感覚を味わった。お、お母さん、俺、俺。舌を縺れさせながら、母へ詳細を報告する。
母の顔が驚くほど強張り、携帯端末を握りしめ震える指先で何処かへ電話をかけた。コール音が鳴る中、母がこちらへ視線を投げ、真っ青になった頬を無理に緩める。先に夕食を食べちゃいなさい。大丈夫、伊織くんは大丈夫だから。そんな心配そうな顔をしないで。大丈夫よ。
声音は震えていた。母は気丈な人だった。しかし、この時ばかりはその気丈さを振る舞えるほどの状況下では無かったらしい。
ただいま、という声がリビングに響く。父が帰ってきたのだ。疲れたぁ、と間延びする声と、もしもし甲斐田さん? という声が重なる。
父は不思議そうな顔で、必死に状況を伝える母と、呆然と立ち尽くす俺を交互に見た。
伊織の遺体が発見されたのは、それから五日後だった。近くの森林で発見された彼は暴行されており────のちに知ったのだが、性的な意味でも暴行されていたようだ────衣類は乱れ、ほぼ全裸の状態だったらしい。
犯人は佐々木悦司という三十代後半の男だった。深夜帯の工場勤めで、出勤前に公園で獲物を物色していたらしい。
伊織が攫われたあの日は休日だったらしく、決行に至ったそうだ。
何故、伊織だったのかというと、理由は単純明快。タイプだった。ただそれだけ。触れたかった、乱暴してみたかった。ただ、それだけの理由で彼は殺された。なんて身勝手で、愚かで、醜い理由だろうか。
────俺は、深い後悔をしていた。あの時、彼の手をもっと強く握っていれば。あんな変な人について行ってはいけないと静止しておけば。大声で叫んで、誰かへ助けを求めていれば。そんな後の祭りを味わいながら、彼の手のひらの感触を思い出していた。
「私が悪いんです」
葬式であった伊織の母は、まるで死人のような顔色をしていた。俯き、そうポツリと呟いた彼女はぴくりとも動かない。
「私の体が弱くなければ、あの子は騙されずに済んだ。だから、ねぇ。聖也くん。自分を責めないで」
黒目がちな瞳が俺を射る。喪服に身を包んだ彼女が慰めるようにそう言った。
どうやら、伊織の母はとても体が弱いらしい。パート先で倒れてはたびたび病院の世話になっていたそうだ。それがなんの因果か、犯人である佐々木の発した誘い文句とうまい具合に合致したらしい。
相手からすると、好都合だったのだろう。狙っていた子供が、まんまと自分の都合のいいように動いてくれて。
もし仮に彼女の体が強かったら、伊織は違和感を抱き車に乗らなかっただろうか? そんなの、誰にも分からない。もしもの話をしても、現実は変わらないのだ。もし、彼女の体が強ければ。もし、俺が手を離さなければ。もし、もし、もし。そんな話を夜通しして、伊織が帰ってくるならいくらでもする。
けど、もう過ぎてしまったことなのだ。
「私が悪いの」
でも、人はもしもの話で自分を責めてしまう生き物なのだと、その時、初めて知った。俺は自分が伊織を殺したと思っているし、彼女は自分が伊織を殺したと思っている。
殺したのは佐々木であるにも関わらず、あの時ああしていれば、と思ってしまうのだ。
不意に、視界に黒髪の少女が映った。伊織の遺影を見つめた横顔に、目が釘付けになる。彼女は涙を流すことなく、ただ、じっと遺影を見つめている。
その横顔を見て、確信した。彼女は伊織の姉だ。理解した途端、彼女がこちらを見た。
虚ろとした瞳は、なんとも言えない怒りを孕んでいた。
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