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『番の呪い』後編

97 油断大敵(マグノリア視点→ナディア視点)

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 ナディアが札を破った瞬間、マグノリアは札からの魔力が途絶えたことにすぐ気付いた。

 夕食の皿を洗っている最中だったが手を止めて、キッチンのカウンター上に置いていたナディアの写真に目をやる。

 ナディアは長い黒髪のウィッグと眼鏡を装着している最中だった。慌てている様子は微塵もない。

 向こうで何かが起こったわけではなく、ナディアが自ら札を破ったのだろうと思った。

 マグノリアはその理由に心当たりがあった。

 先程ナディアからの改善要求を受け、今度は出来るだけイケメンにしてみようと金髪碧眼の美青年にしてみたのだが、よくよく考えたらその姿はナディアにとっていわく付きの相手の容姿に似ていた。

 髪の毛と目の色を変えてほしいと言っていたのはそのせいだ。

 マグノリアは夕食中にそのことに気付き、手が空いたらナディアと再び交信してみようと思っていたのだが、それよりも早く彼女は札を破るという行動に出てしまった。

(さてどうするか。もう一度依り代を飛ばしてみるべきか、それとも直接迎えに行くべきか)

「イヤ! ママがいい!」

 リビングではロータスの腕の中からカナリアが脱兎の如く逃げ出していた。

「カナ、一緒にお風呂に入ろう」

「ヤダ! パパヤダ! ママと入る!」

 カナリアは獣人らしいすばしっこい動きでマグノリアの足元まで移動すると、まとわり付いてくる。

「カナ、ママはまだ用事が終わらないから、お風呂はパパと入ってほしいな」

「ヤダ! パパヤダ! パパキライ! ママがいい!」

「き、嫌い……」

 愛娘に拒絶されてロータスは涙目になっていた。

 医院の休憩時間などではカナリアはロータスに懐いて二人で楽しそうに遊んでいるので、心の底からロータスが嫌いなわけではない。

 ただ、以前はそうではなかったのに、最近はお風呂はママと入るのでなければ嫌だというこだわりをカナリアが見せるようになってしまった。
 おそらくたまたまそういう時期なだけで、少し経てばまた変化するのだろうけれど。

 マグノリアの横ではヴィクトリアがロータスの様子を見つめて唖然としていた。

 ロータスの本当の姿を見てからヴィクトリアはロータスに対してよそよそしくなってしまった。

 ロータスの今の姿は黒髪黒眼の別人のものだが、本来の姿がシドとよく似た男が、三歳児に翻弄されて涙目になっていることが衝撃的であるようだった。

「ママがいい! パパキライ!」

「……マグ、カナを風呂に入れてやってくれないか? 俺はもう駄目だ…… 俺は向こうに行っているよ……」

 ロータスがカナリアにお風呂に一緒に入ることを嫌がられるのは今日始まったことではないのだが、ロータスはいつにも増して傷心しているようだった。

 妹のように思っていたヴィクトリアにも避けられ気味であったので、その事も影響しているのだろう。

「でも……」

 マグノリアは洗いかけの食器に目をやる。家事が終わっていないのもあるが、ナディアのことも気になる。

「片付けならあとは私がやっておくから、カナと一緒にお風呂に入ってきたら?」

 片付けを手伝ってくれていたヴィクトリアからもそう後押しされる。

 マグノリアはカウンターの上の写真に目をやり、『真眼』の能力でナディアの様子を伺う。ナディアは椅子に座った姿勢で肘を突いて目を閉じていた。

 自分で変装した後に列車に戻って椅子に座り、そのまま少し眠ってしまうつもりなのだろう。

(大丈夫、かしらね…… 銃騎士隊の包囲網からも抜けたみたいだし……)

 カナリアに腕を引っ張られるまま、マグノリアは、ナディアはそのままでも一人で無事に帰って来られるだろうと判断してしまった。





******





 ナディアは夢を見ていた。金髪碧眼の美しい少年がナディアに向かって照れたように微笑んでいる。

『結婚してほしい』

(これは夢。それはわかってる)

 こんな夢を見てしまうくらいには、そして夢だとわかっているのに嬉しいと感じてしまうくらいには、自分はまだ彼に未練があるようだった。

(彼は私のことなどもう愛していないというのに)

 でもせめて夢の中では、あの出来事を忘れて、叶わなかった幸せの中に包まれていたかった。

 跪いた彼が恭しくナディアの手を取り、指に指輪をはめようとして――――

 ガチャリ。

 指輪をはめる時に音なんかしない。

 聞こえて来た硬質な音に驚き、ナディアはハッと目を開けて夢から覚めた。

 左手ではなくて、嫌な感触のする自分の右手を見る。はまっていたのは指に指輪ではなくて、手首に手枷だった。

「久しいな、さん」

 その名を呼ばれてナディアは一気に覚醒した。

 呼ばれたその偽名は、首都にいた頃にナディアが使用していて、そして二度と使うまいと決めていた名前だった。

 二人がけの隣の席に座って冷たい目でこちらを見ているのは、漆黒の髪と瞳をした、ヴィクトリアを狙う危ない男だ。

(レイン・グランフェル――――)

 敵が近距離にいることに驚愕し、ナディアは立ち上がって逃げようとしたが、自分の右手とレインの左手が手枷によって繋がれてしまっていた。

 鎖を引きちぎろうと強く引っ張ってみても壊れない。手枷は人間用の華奢なものではなく、対獣人用のしっかりとした造りのものだった。

 自分たちの座席の周りを他の銃騎士隊員たちが取り囲んでいる。

(銃騎士隊からは上手く逃げられたと思っていたのに、彼らはどうして私の居場所がわかったの……?)

 銃騎士隊に捕まるなんて絶対に嫌だった。レインを巻き添えにしてでも窓を突き破って逃げようかと一瞬考えたが、ナディアの視線の動きを読んだらしきレインが動く。

 剣を抜刀し、威嚇のつもりなのかナディアと窓がある壁との間に剣を突き立てた。座席に鋭すぎる剣が深々と刺さっている。

「大人しく従えば乱暴なことはしない」

 低く威圧的な声で話すレインは情けを一切排除した冷たい目でナディアを見ていた。

 それは首都にいた頃に見かけた、親しみが込もった視線とは真逆のものだった。その瞳に滲むのは、明らかな敵意だ。

 銃騎士と、剥き出しの剣。それは、の恐怖を想起させるのに充分なものだった。

 怖れを感じたナディアの表情が青褪めていく。

 逃走意欲を失ったナディアに、レインは冷たい声音で言い放った。

「次の駅で降りる。首都まで一緒に来てもらおうか」
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