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『番の呪い』後編

84 血の繋がり

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本編の続きです

***

 香ばしい匂いがする。ヴィクトリアの意識は緩やかに覚醒していった。瞼がゆっくりと開く。ヴィクトリアは半覚醒の状態で室内を見回した。

(ここは……)

 いつもの見慣れた自分の部屋じゃない。数日過ごした九番隊砦の小屋でもない。ここはナディアの部屋だ。
 寝ていたのはナディアの匂いの香る一人用の寝台だった。掛け布団の柄はピンクの花柄で大変可愛らしい。部屋の中奥に小さなテーブルと椅子がある。

 壁際の一角に大きめの本棚があり、本がぎっしりと並んでいた。あとはクローゼットがあり、それから鏡台には化粧品が並んでいる。部屋のそこかしこからナディアの匂いがした。
 ヴィクトリアがいる部屋の隣に続き部屋があり正面には小さめの玄関があった。続き部屋はキッチンになっているようで、肉が焼ける香ばしい匂いはそこから漂ってきていた。ナディアが料理をしている最中のようだった。

 寝起きでまだ頭がぼうっとするヴィクトリアは眠る前の記憶が少し乱れていたが、これまでのことをゆっくりと思い出していた。ヴィクトリアはリュージュと別れたのだった。

 レインを探しに戻って来た街でナディアと思いがけず再会できたが、ヴィクトリアはずっと泣いていて話ができるような状況ではなかった。
 ナディアはこのままでは目立つからとヴィクトリアをなだめながら自分が住んでいる集合住宅の一室に連れて来てくれた。

 ヴィクトリアがふらついているのを見て、一睡もしていないと聞いたナディアはとにかく休みなさいとヴィクトリアを自分の寝台に寝かせてくれたのだった。

「ナディア……」

 キッチンに近付いて声をかけると、ナディアは皿に料理を盛り付ける直前だった。フライパンを持ったエプロン姿の彼女はくるりと振り返ると、ヴィクトリアを見て明るい笑顔を見せた。

「あ、おはよう姉様。すごく良く寝入ってたけど身体はもう大丈夫? ちょうど食事の支度ができたけど食べられそう? もう昼過ぎよ」

 ヴィクトリアはお腹に手を当ててみる。匂いにつられて目覚めたくらいなのでお腹は空いていた。

 ナディアに促されるままテーブルに座る。彼女はてきぱきと食事の支度をしていった。何か手伝おうかと問えば、姉様はゆっくりしていて、という答えが返ってきた。ナディアは里にいた頃から面倒見が良かった。

 ナディアの手によって肉のステーキとスープ、小魚を揚げたものが食卓に並ぶ。

「姉様は野菜は大丈夫だったっけ?」

「ええ、少しなら食べられるわ」

「じゃあ次はスープに野菜も少し入れてみるわね」

 里にいたころナディアとは距離があったので食事を共にしたことはない。そもそもヴィクトリアは宴会以外では部屋で一人で食事をするばかりだった。
 獣人が野菜を摂ることは命に関わる場合もあるので、ナディアは食の好みのわからないヴィクトリアのために植物性のものを一切排除した料理を作ってくれたようだ。薄い色のスープには魚肉を刻んだものとベーコンだけが入っている。

「冷めないうちにどうぞ」

「いただきます」

 ヴィクトリアはスープを一口飲んだ。塩味のある美味しさと温かさが身体に染み入る。ほっと息をついた。

「すごく美味しいわ」

 ナディアが微笑む。

「そう、口に合って良かったわ」

 ナディアはナイフとフォークを手に取ると慣れた手付きで肉に切り込みを入れていく。

「……」

 ナディアが手掴みではなく人間のように食事をしているのを見て、ヴィクトリアもナイフとフォークに手を伸ばした。

「……姉様、持ち手が逆よ」

 ナイフとフォークを持ってステーキに切れ目を入れようとするが、上手くできずに肉とにらめっこをしているヴィクトリアを見かぬてナディアが助け船を出す。本来は利き手にナイフを持つのに、ヴィクトリアはナイフとフォークを逆に持っていた。

「ナディア、私にナイフとフォークの使い方を教えてくれる? 他にも食事の作法や、人間社会で暮らすために必要なこともできれば全部」

「それは構わないけど…… ねえ、落ち着いてから聞こうと思ってたけど、それって姉様がこの街に戻ってきたことと関係あり?」

「うん。私、人間社会で暮らそうと思うの」

「どうして? リュージュと里で暮らさないの?」

 リュージュの名を聞いてヴィクトリアは一瞬目を泳がせる。番にはならなかったがリュージュと番になる直前までの行為をしたことはナディアも匂いでわかっているだろうし、シドが銃騎士隊に捕まったことは号外が配られているくらいだからナディアも知っているだろう。

「もう父様は里にはいないのだから姉様は誰とでも気兼ねなく恋愛できるでしょ? リュージュと番にならないの?」

 リュージュの事を考えると申し訳なさでいっぱいになる。自分は、彼を傷付けてきた。

「リュージュとは別れてきたの」

 しばしの沈黙の後にそう答えると、ナディアはやや俯いて何事かを考えているような顔付きになった。

「意外だわ。里にいた頃に思ってたけど、私から見れば姉様とリュージュは付き合ってるのかなって思うくらいにあんなに仲が良かったじゃない。父様の邪魔さえなければ二人は番になるんだろうなってずっと思ってたわ。どうしてリュージュは自分で自分の足を刺したの? 何があったの?」

 あの時リュージュが怪我をした時の血の匂いはまだヴィクトリアに強く残されたままだ。残り香からあの時の出来事がナディアにも伝わっているのだろう。

「私がリュージュとは番になれないと言ったから…… リュージュは私を自分から逃すために、自分で自分を傷付けた……」

 ヴィクトリアは言いながら泣きそうになっていた。リュージュは自分が言っていた通り、ヴィクトリアの「お願い」を叶えてくれた。自分の望みよりも、ヴィクトリアの望みを優先した。

「姉様はどうしてリュージュとは番になれないの?」

 その問い掛けにはどこか、深刻な響きが含まれていた。

 なぜリュージュを選ばないのか理由を聞かれているが、その理由がレインと番になりたいからだなんて、レインに奴隷にされそうになっていた所を助けてもらって必死で逃してくれたナディアには言いづらい。

 正直に言っていいものだろうかと逡巡し、口を開きかけながらも話すのを躊躇う様子のヴィクトリアを見て、ナディアの顔が徐々に陰っていく。

「それは、リュージュが父様の子供だから?」

 ヴィクトリアは驚く。

「ナディアもそのことを知っていたのね。アルも知っていたから、リュージュがシドの息子であることは里ではよく知られたことだったのかしら」

 ヴィクトリアは里の面々との交流が極端に少なかったので噂話やその他の情報には疎い。リュージュとシドが親子であることは皆に周知されていたのかと思って聞いてみたが、ナディアは首を振る。

「私だってずっと知らなかったわ。知ったのは私たちが里を出た日、ほら、リュージュが父様に殺されかかった時よ」

『……父さん…………』

 ヴィクトリアがリュージュとナディアと共にミランダを助けに行ったあの日、激しく蹴られて血を吐き出したリュージュが、シドに首を締められながらそう口を動かしていたのをナディアは見ていた。
 リュージュの言葉は声にはならなかったので、シドを止めることに必死だったヴィクトリアは気付いていなかった。

 リュージュはその出来事が起こる前からシドに対して失望し嫌っていた。けれど血の繋がった実の父親だ。その相手から無茶苦茶に痛めつけられてリュージュは殺されそうになったのだという事実がとても暗く胸に迫ってくる。

 リュージュがどんな思いでいたのかと思うと改めて心が痛い。

「まさかリュージュまで兄弟だったなんて思わなかったわ。父様は節操なしだったから、有りえなくもない話なんだろうけど…… 姉様もそのことをずっと知らなかったんでしょう? 打ち明けてもらえなかったことが嫌だったの? それともやっぱり、自分を苦しめ続けた男の子供と番になるなんて考えられなかった? 父様の子供だと知ってリュージュのことを嫌いになってしまったの?」

 ナディアはヴィクトリアがリュージュと番になる道を選ばなかった理由をすごく聞いてくる。

 ナディアの言葉にも、表情にも、悲しみの色が滲んでいる。なぜ彼女は悲しそうなのだろう。リュージュに同情しているようだが、里にいた頃のナディアはヴィクトリアを明らかに避けていて、ヴィクトリアと特段関わりのあるリュージュとも会話こそしていたがそこまで仲が良かったわけでもない。

 リュージュを気にかけているというよりは、別のことに理由がありそうだった。

 ナディアとリュージュの共通点は二人がシドの子供であることだ。

 ナディアはその部分にこだわっているようだった。

 ヴィクトリアは首を振る。

「リュージュのことを嫌いになんてならないわ。リュージュは今でも私にとっては大切な存在よ。シドの子供だから別れたわけじゃないわ」

 リュージュは最近髪や眼の色がだんだんとシドに近付いてきているし、ふとした表情がシドに似ている時もある。

 けれど中身が正反対かというくらいに全然違う。二人は親子だけれど、リュージュはリュージュ、シドはシドで別々の存在だと思う。

 ヴィクトリアは、リュージュと別れた理由が『シドの子供だから』ということではない事をきちんと説明しておかなければ、ナディアを傷付けるのではないかと思った。

 ヴィクトリアはナディアに本当の理由を話すことにした。

「他に好きな人がいるの」

「え? 誰?」

 ナディアは嬉々とした表情を浮かべながら身を乗り出して聞いてくる。やはりそこは女子なのか、恋愛話には興味津々といった様子だった。

 悲しそうな雰囲気から打って変わって少し楽しそうにしているナディアを見てヴィクトリアは口籠りそうになるが、躊躇いを捨ててその名を口にした。

「レイン」

 その一瞬、ナディアの楽しそうな雰囲気は消失し、時が止まったかのように彼女の表情から何の感情も汲み取れなくなってしまった。
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