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『番の呪い』前編
75 されど消えぬ思い火
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ヴィクトリアはアルベールに切られた首を処置してもらっていた。綺麗な傷だそうで、それほど時間もかからずに治るだろうと言われた。
「リュージュは入院することになった」
他の者と離された後、処置を受けた小部屋に一人残されて、そのままずっと考え事をしていたヴィクトリアは、やって来たウォグバードにそう告げられた。
ウォグバードはリュージュの様子を見に寄ってから、ヴィクトリアの所に来たようだ。
酷い怪我を負わされた上に限界まで身体を酷使したのだから、そうなるのは当然だろうと思った。
「アルベールはあの様子だとまたあなたを襲うかもしれないから、理由を話して地下の囚人用の病室に入れてもらった。鍵は牢屋と変わらない仕様だからしばらくは出てこない。
だが、そこにいられるのは怪我が治るまでの間だけだ。その後については、あなたに危害を加えないような方法をまた別に考えよう」
「ありがとう」
ほっとしたヴィクトリアはウォグバードの働きに感謝した。しばらくの間限定ではあるが、確実にアルベールに襲われることがないとわかっているだけで心の安寧度が全然違う。
アルベールが退院した後、自分の安全を確保するための方法をまた別に考えなければいけないから頭は痛いが。
できればアルベールにはもう二度と会いたくない。だがそれは里にいる以上は避けられないのかもしれない。
今はアルベールと離れられているが、離れて実物がそばにいない方が本人への恐ろしさがより増していくように感じられた。アルベールから向けられた微笑みを思い出すだけで背筋が寒くなってくる。
オニキスが言っていたように、里を出た方が良いのかもしれないという考えが頭をもたげてくる……
「それからアルベールの両親があなたに謝りたいと言っているが、どうする?」
ヴィクトリアは恐縮しながら強く首を振った。アルベールの両親は今日は医療棟で夜勤だと言っていたから、息子の行いが耳に入ったのだろう。
息子はあんなのだが、彼の両親は過去にアルベールによるヴィクトリアへの意地悪を諌めてくれたこともあり、まともな両親だ。
「謝罪はいらないわ」
アルベールのことはもう本当に考えたくない。家族と会って彼のことを否応なく意識してしまう時間すら持ちたくなかった。
(早く忘れたい)
「ただ…… できれば、アルに私を番にすることは諦めるよう、ご両親からも説得してほしいとだけ伝えてもらえるかしら?」
「わかった。そう伝える」
頷くウォグバードを見ながら、ヴィクトリアはこれから先もう二度とアルベールには会わなくても済みますようにと願った。
ウォグバードはヴィクトリアに身体を向けたまま静止している。ウォグバードは何か言いたそうだった。
「ウォグバード、ごめんなさい」
「なぜあなたが謝る?」
「その目はシドにやられたのでしょう? 私のせいだわ」
「あなたのせいではない」
「治るのよね?」
ヴィクトリアはウォグバードの目の詳しい状態を知らない。
ウォグバードはしばし沈黙した後、口を開く。
「左眼は眼球が無いんだ」
「そんな…… じゃあ、もう目は見えないの?」
「右眼は若い頃に受けた傷が元で完全に失明している。視力の回復は望めない」
衝撃を受けたヴィクトリアは悲痛な面持ちになっていた。
「繰り返すがあなたのせいではないのだから自分を責めないでほしい。これはあの方の命に背いた俺の問題なんだ。
それに視力を失った途端に鼻が良く利くようになって、周囲のことなら目が見えなくてもだいたいわかる。ああ、だが……」
そこでウォグバードは一段声を小さくし、自分自身に向けて呟くような悄然とした声を出した。
「写真はもう、見えないな……」
(写真……)
ヴィクトリアはウォグバードの家で見た彼の番の写真を思い出す。
いくら嗅覚が鋭くなったとはいえ、わかるのは匂いを発しているものだけだ。
年季の入った写真立ての木枠やインクの匂いからそこに写真立てがあること自体はわかるのだろうが、果たしてそれで写真に映っている詳細な姿まで脳内に再現することができるのだろうか?
前もって色別のインクの匂いを嗅ぎ分けるような訓練でもしていれば、匂いのパターンで写真を脳内に描き出すことも可能かもしれないが、ウォグバードは突然視力を失ったのだからそんな訓練はしていないだろう。
ウォグバードの番が亡くなったのはヴィクトリアが生まれるよりも前のことだと聞いている。
番の匂い自体は完全に消え去り、もうこの世のどこにも残されてはいないだろう。
番の姿を正確に思い描ける手がかりは、写真だけだったはずだ。
シドはウォグバードの大切なものを奪った。
ヴィクトリアは顔を覆った。
「なぜあなたが泣く?」
「ごめんなさい…… さっき、あなたの家の書斎で、あなたの番の写真を見しまって、それで……」
ウォグバードの手が伸びてきて頭を撫でてくれる。
「俺のために泣いてくれるのか。ありがとう。あなたは優しいな。俺は…… これで良かったのかもしれないと思っている部分もあるんだ。もういい加減離れろということなのかもしれない。なぜなら、俺と彼女は……」
ウォグバードはそこで不自然に言葉を切ったまま、その先のことについては語らなかった。
「リュージュは入院することになった」
他の者と離された後、処置を受けた小部屋に一人残されて、そのままずっと考え事をしていたヴィクトリアは、やって来たウォグバードにそう告げられた。
ウォグバードはリュージュの様子を見に寄ってから、ヴィクトリアの所に来たようだ。
酷い怪我を負わされた上に限界まで身体を酷使したのだから、そうなるのは当然だろうと思った。
「アルベールはあの様子だとまたあなたを襲うかもしれないから、理由を話して地下の囚人用の病室に入れてもらった。鍵は牢屋と変わらない仕様だからしばらくは出てこない。
だが、そこにいられるのは怪我が治るまでの間だけだ。その後については、あなたに危害を加えないような方法をまた別に考えよう」
「ありがとう」
ほっとしたヴィクトリアはウォグバードの働きに感謝した。しばらくの間限定ではあるが、確実にアルベールに襲われることがないとわかっているだけで心の安寧度が全然違う。
アルベールが退院した後、自分の安全を確保するための方法をまた別に考えなければいけないから頭は痛いが。
できればアルベールにはもう二度と会いたくない。だがそれは里にいる以上は避けられないのかもしれない。
今はアルベールと離れられているが、離れて実物がそばにいない方が本人への恐ろしさがより増していくように感じられた。アルベールから向けられた微笑みを思い出すだけで背筋が寒くなってくる。
オニキスが言っていたように、里を出た方が良いのかもしれないという考えが頭をもたげてくる……
「それからアルベールの両親があなたに謝りたいと言っているが、どうする?」
ヴィクトリアは恐縮しながら強く首を振った。アルベールの両親は今日は医療棟で夜勤だと言っていたから、息子の行いが耳に入ったのだろう。
息子はあんなのだが、彼の両親は過去にアルベールによるヴィクトリアへの意地悪を諌めてくれたこともあり、まともな両親だ。
「謝罪はいらないわ」
アルベールのことはもう本当に考えたくない。家族と会って彼のことを否応なく意識してしまう時間すら持ちたくなかった。
(早く忘れたい)
「ただ…… できれば、アルに私を番にすることは諦めるよう、ご両親からも説得してほしいとだけ伝えてもらえるかしら?」
「わかった。そう伝える」
頷くウォグバードを見ながら、ヴィクトリアはこれから先もう二度とアルベールには会わなくても済みますようにと願った。
ウォグバードはヴィクトリアに身体を向けたまま静止している。ウォグバードは何か言いたそうだった。
「ウォグバード、ごめんなさい」
「なぜあなたが謝る?」
「その目はシドにやられたのでしょう? 私のせいだわ」
「あなたのせいではない」
「治るのよね?」
ヴィクトリアはウォグバードの目の詳しい状態を知らない。
ウォグバードはしばし沈黙した後、口を開く。
「左眼は眼球が無いんだ」
「そんな…… じゃあ、もう目は見えないの?」
「右眼は若い頃に受けた傷が元で完全に失明している。視力の回復は望めない」
衝撃を受けたヴィクトリアは悲痛な面持ちになっていた。
「繰り返すがあなたのせいではないのだから自分を責めないでほしい。これはあの方の命に背いた俺の問題なんだ。
それに視力を失った途端に鼻が良く利くようになって、周囲のことなら目が見えなくてもだいたいわかる。ああ、だが……」
そこでウォグバードは一段声を小さくし、自分自身に向けて呟くような悄然とした声を出した。
「写真はもう、見えないな……」
(写真……)
ヴィクトリアはウォグバードの家で見た彼の番の写真を思い出す。
いくら嗅覚が鋭くなったとはいえ、わかるのは匂いを発しているものだけだ。
年季の入った写真立ての木枠やインクの匂いからそこに写真立てがあること自体はわかるのだろうが、果たしてそれで写真に映っている詳細な姿まで脳内に再現することができるのだろうか?
前もって色別のインクの匂いを嗅ぎ分けるような訓練でもしていれば、匂いのパターンで写真を脳内に描き出すことも可能かもしれないが、ウォグバードは突然視力を失ったのだからそんな訓練はしていないだろう。
ウォグバードの番が亡くなったのはヴィクトリアが生まれるよりも前のことだと聞いている。
番の匂い自体は完全に消え去り、もうこの世のどこにも残されてはいないだろう。
番の姿を正確に思い描ける手がかりは、写真だけだったはずだ。
シドはウォグバードの大切なものを奪った。
ヴィクトリアは顔を覆った。
「なぜあなたが泣く?」
「ごめんなさい…… さっき、あなたの家の書斎で、あなたの番の写真を見しまって、それで……」
ウォグバードの手が伸びてきて頭を撫でてくれる。
「俺のために泣いてくれるのか。ありがとう。あなたは優しいな。俺は…… これで良かったのかもしれないと思っている部分もあるんだ。もういい加減離れろということなのかもしれない。なぜなら、俺と彼女は……」
ウォグバードはそこで不自然に言葉を切ったまま、その先のことについては語らなかった。
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