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『番の呪い』前編

64 昔の話 ~吸血編~

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注)狂気注意

***

 ヴィクトリアは崖下の地面に叩きつけられたが、咄嗟に受け身の姿勢は取った。蹴られた背中が再び傷んたが、それよりも右手が身体のどこよりも激しく痛んだ。

 一度崖の中腹の棚になっている所に落ちて跳ね返った時、突き出していた木の枝を掴んで止まろうとして失敗し、枯れて鋭くなった木の枝を手の平に貫通させてしまった。

 落下の力で木の枝は手から抜けているが、血が溢れて止まらない。

 手が心臓になってしまったかのように脈打ってとても痛かった。ヴィクトリアは地面に落ちた体勢のまま、苦痛に顔を歪めて呻いていた。

『ヴィー!』

 声のした方に首を巡らせれば、涙で滲む視界の中、アルベールが崖の上から血相を変えた顔で覗き込んでいるのが見えた。

『普通崖に落ちる前に止まるだろ! どんくさすぎるぞ! それでも獣人か!』

 元はと言えばアルベールが蹴り飛ばしたせいなのに、言い返したくても呻き声しか出せないくらいに手が痛い。

 アルベールが滑るように器用に崖を降りてくる。崖は結構な角度があるのにそれを物ともしない。
 
 アルベールが跪いて抱き起こしてくれた。

『どこが痛い?』

 アルベールがヴィクトリアの全身状態を確認していく。

『……手と、背中』

 ヴィクトリアは掠れた声でそれだけを絞り出した。

 アルベールが背中側からヴィクトリアの上着を捲り上げる。背中を指先で押されると痛くて声が漏れた。

『背中は内出血してるけどそのうち治る。問題は手だな』

 周囲にはヴィクトリアの血の匂いが充満していた。

 アルベールは上着を元に戻すとヴィクトリアの右手を掴んだ。

 止血しなければいけないはずなのに、アルベールは手をじっと覗き込んだまま微動だにしない。

『アル……?』

 食い入るようにヴィクトリアの手の平を見つめたまま動かなくなってしまったアルベールを奇妙に思って呼びかけたが、その声が届いていないかのように反応がない。

 アルベールの様子がおかしい。

 アルベールの呼吸は浅く早くなっていて、手の平を見る目付きが異様だ。

 突然、アルベールが舌を出してヴィクトリアの手から流れ出す血を舐めた。湿った生温かい感触を不快に感じて震えてしまう。

 アルベールは溢れる血を何度か舐めた後、今度は唇を直接手の平に付けて傷口から血を吸い始めた。

『ア、アル…… どうしたの? やめてよ……』

 ヴィクトリアは戸惑うばかりだった。危険を感じて離れようとするが、ものすごい力で抑えられて手を振り解けない。

 傷口に舌を差し込まれて鋭い痛みが走った。

『アル!』

 絶叫すると、アルベールは手から顔を離してようやくこちらを見た。

 その顔を見てヴィクトリアは息を呑む。

 顔の下半分は血に濡れて、ヴィクトリアを見つめる目は異様な光を放ち瞳孔が開ききっていた。

 アルベールがヴィクトリアを見て、笑う。

 その瞬間身体の底から大きな震えが走った。

 アルベールに腰の短剣を奪われたと気付いた時には、もう、首が切られていた。

 鮮血が飛び散った。ヴィクトリアは吹き出す自分の血をどこか他人事のように見ていた。

 急速に血が失われていくことで目の前が暗くなりかける。

(ああ、駄目だ、死ぬ)

 恐怖の感情が追い付いてこないまま、ヴィクトリアはただ自分の身体の状態を考えてぼんやりとそう思った。

 そのまま意識を飛ばしかけて、だが一瞬暗くなっただけですぐに戻ってきた。

 アルベールが首の付け根を圧迫している。血が吹き出す量が減っていた。顔を上げると、こちらを覗き込む不気味な金色の瞳と目が合った。

(いつものアルじゃない)

『――――――――』

 アルベールが何か言っているが、よくわからなかった。頭がその言葉を拒否したのかもしれない。

 アルベールがヴィクトリアの首に口を寄せる。

 傷口を舐められて気持ち悪いと感じた。

 やがて彼は傷口から溢れる血を吸い始めた。ゴクリとヴィクトリアの血を繰り返し嚥下する音が脳髄にまで響いてくるようで、そこから先は嫌悪感と恐怖と痛みと、それから混乱に支配された。

 ヴィクトリアは獣人だ。決して捕食される側ではない。捕食する側のはずだ。

 人間こそ殺したことはないが、小さな野生動物なら狩ったことがある。申し訳なく思いながらも、食料を得るために震える野ウサギの心臓に短剣を突き立てたこともある。

 なのにこの少年は、ヴィクトリアの存在そのものをひっくり返して破壊してくる。

『アル……やめて…………』

 恐怖に駆られて絞り出すように呟いたヴィクトリアの懇願など、彼は聞いてはくれなかった。

 もう身体の自由が効かない。ゆっくりと死が迫ってくる。

 このまま死ぬのかと絶望しながら、ヴィクトリアは意識を失った。





 目が覚めた場所は暗くなった医療棟の一室だった。

 辺りが闇に包まれているせいで不安に苛まれ、ここはあの世なのかとヴィクトリアは一瞬錯覚してしまった。

 漂う薬品の匂いと、廊下から漏れてくる僅かな光で狭い室内の白い壁を確認し、自分が寝台に寝かされていることに気付く。

 ここは医療棟で自分はまだ死んでいないようだった。どうやら助かったらしい。

 ヴィクトリアの右手の平は治療された跡があり、左腕は点滴に繋がれている。首に手をやれば傷口にガーゼが当てられているのみで、なぜか包帯が解かれてそばに置かれていた。

 アルベールの残り香がする。

 ヴィクトリアは意識を失う前の恐怖が蘇ってきた。アルベールはついさっきまでここにいたらしい。

 狼狽えていると、廊下から足音が響き渡り、アルベールの匂いが近付いてくる。

 ヴィクトリアは咄嗟に寝たふりをした。彼が怖かったのもあるし、アルベールとどんな話をすればいいのかわからなかった。

 アルベールは部屋の中に入ってくると寝台脇の机にカタリと音を立てて何かを置いた。
 何を持って来たのか気になり寝返りを装って身体の向きを変え薄目を開けると、小さなトレイの上に小瓶と注射器や尖った針などが入っているのが見えた。

(注射器?)

 とてつもなく嫌な予感しかしない。心臓の鼓動が早くなった。

 アルベールはなぜか寝台の上に乗ってきて、ヴィクトリアに馬乗りになった。

『ヴィー』

 いつもと調子の違う声だ。甘ったるい声……

 だが、嫌悪感しか感じない。

 アルベールはヴィクトリアの頭を撫でた後、耳元に口を寄せた。

『寝たふりが下手だね』

 ヴィクトリアは目を見開いて叫び声を上げようとしたが、口を手で抑えられてくぐもった声しか出なかった。

 アルベールの顔が近い。

 彼はとても楽しそうに笑っていた。目が崖の下で見た時と同じ異様な光を放っている。その瞳で刺すように見つめられてヴィクトリアは固まった。

『目が覚めてよかったよ。傷はそんなに酷くないってことらしいけど、重い貧血でヴィーはあれから三日間も意識が戻らなかったんだ。

 まあ、貧血なのは俺が血を抜いていたせいだけど』

 ヴィクトリアは身震いした。注射器はヴィクトリアの血を抜く為のものだったようだ。この後も血を抜くつもりなのだろう……

『貧血が酷くて退院まではまだかかるそうだよ。ヴィーのお母さんはあんな状態だし、俺が毎日お見舞いに来てあげるね。だって、ヴィーの一番の友達は俺だもんね? そうだよね?』

 ヴィクトリアに親友と呼べる存在はいない。それは、アルベールが全部邪魔してきたから。

『…………血を抜くのをやめればもっと早く退院できるんじゃ……』

 母に会いたい一心で恐る恐る告げてみる。彼が怒りだす可能性は覚悟していたが、アルベールはニコニコと笑っていた。しかし、その後にアルベールが笑顔のまま告げた発言は全く笑えなかった。

『ヴィーが悪いんだよ。俺よりもお母さんを選ぶから…… 俺、ヴィーの一番じゃなきゃ嫌だ。入院していれば俺が会いたい時にいつでも会えるじゃないか。ヴィーはずっと入院していればいいよ』

『そ、そんな……』

 それでは母にずっと会えないではないか。ヴィクトリアはあまりのことに泣きそうになった。

 アルベールはヴィクトリアの首に手を伸ばした。ガーゼを留めているテープを剥がしにかかる。
 一部に血を含んで赤黒く変色したガーゼが外されて、傷口が顕になる。

『これからはずっと、俺のそばに置いてあげるよ』

 アルベールが指先に力を入れて縫われていたヴィクトリアの傷口を開いていく。ピチッと小さな音がして皮膚が裂け、縫い糸が切れた。

 ヴィクトリアは突き刺すような痛みに苛まれて呻いた。血が流れてアルベールの手が赤く濡れていく。

 血を見て満足そうに目を細めたアルベールが直後に告げた言葉は、衝撃的すぎて一生忘れられなくなった。

『ヴィーは一生、俺の「最高の食事」だ』

 アルベールが傷口に唇を寄せて溢れる血液を啜っていく。血を嚥下する音が聞こえてきてヴィクトリアの身体が激しく震え出した。

(怖い…… アルが怖い…………)

 まさか同族に食料扱いされるとは思わなかった。ヴィクトリアは、自分が仕留めようとして震えていたウサギの気持ちが初めてわかった。

 三日間の眠りから目覚めたばかりなのに、また視界が暗転して意識が落ちていく。

 ヴィクトリアは貧血と恐怖から失神した。

『――――――――』

 意識が途切れる寸前、アルベールがまた何か言っていたが、上手く聞き取れずにやはりその意味はわからなかった。





 ヴィクトリアはそれから半月程で退院できた。
 一日一回は必ず会うようにとアルベールに約束させられて入院生活を終えることができた。

 アルベールにはもう金輪際会いたくないという気持ちが強かったが、その条件を飲まない限り母の元には帰れそうになかった。
 血を抜くのを控えてもらったらすぐに健康体を取り戻せた。

 母に再会できた時は号泣した。

 アルベールに言いたいことはたくさんあったが、彼よりも母に会う方が大事だと言っただけで半月も母に会えなくされてしまったので、下手なことを言うのはやめにした。何倍にもなって返ってきそうで怖かった。

 当のアルベールはヴィクトリアの血を嗜むようになって以降、血を採るためにヴィクトリアの身体を傷付けることはあっても、それ以外では打って変わって優しくなった。

 馬鹿にしてくることもなかったし、小間使いにされることもなくなった。代わりに前よりも距離が近くなってベタベタされることが増えた。

 ヴィクトリアが体調が悪くなるばかりの母のことで落ち込んでいると、慰めて励ましてくれることもあった。アルベールがそんなことをするなんて、崖から落ちるまでにはなかったことだった。

 ヴィクトリアはその優しさを、薄気味悪く感じていた。

 優しさの見返りでもあるかのように、アルベールはヴィクトリアの血を求めた。

 注射器で抜かれたこともあったし、遊んでいる最中にわざと怪我をさせられて舐められたこともあった。噛まれてその傷痕から血を吸われたこともある。

 血を求める時に見せるアルベールの表情が、ヴィクトリアは嫌いだった。

 ヴィクトリアは自身の血と引き換えに、何かを失ったように感じていた。

 上手くは言えないが、以前のアルベールとは明らかに何かが違っていた。

 アルベールはヴィクトリアのことを『食料』だとみなしていた。

 ヴィクトリアはもう、アルベールのことを友達だとは思えなくなっていた。

 彼は友達以外の何者かになってしまった。





 母が亡くなり、シドの執着が始まったことで、アルベールとの奇怪な関係は突然終わりを迎えた。

 執着が始まった頃のシドは徹底していて、ヴィクトリアの周りに全く男を寄せ付けなかった。一年間くらいアルベールの姿を見かけなかったくらいだ。

 アルベールに関してはこれで良かったのかもしれないとヴィクトリアは思っていた。アルベールに血を飲まれていたのは数カ月の間だけだったけど、あのままの関係が続いていたら、自分はきっといつの日にか、アルベールに殺されていたのではないかと思う。

 シドに執着されて嫌な思いはたくさんしたけど、唯一良かったことは、アルベールと離れられたことだった。
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