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故郷編

26 逃走の果て(ヴィクトリア視点→三人称)

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 どれくらい走っただろう。夜明けはまだ遠い。いくつかの村や街に入りそうになったが、人間に見つかるわけにはいかない。迂回して人間たちが通常使う道は通らずに、岩だらけの坂道や鬱蒼とした森の中を進む。

 目指すは港まで。出港しそうな船の船底にでも潜り込んでしまおう。走りながらそう決めた。

 ヴィクトリアの額からは汗が流れ、喉はからからだった。現在位置はわかっているつもりだが、ここから港がある場所までは遠すぎる。全力疾走しても朝までに着くのは不可能だ。シドが追いかけてくる可能性を考えると、何とか今日中にこの国から出てしまいたい。

 ヴィクトリアは次に人里が見えたら馬を拝借しようと決め、少しだけ休むことにした。

 ヴィクトリアがいるのは樹木が生えているだけの林の中で、隠れられそうな場所はなかなか見当たらない。少し走った所で大樹の幹に人が一人入れそうな樹洞を見つけたので、そこに身を潜ませることにした。

 一度座り込んでしまうと身体から強く疲労を感じた。眠るつもりはなかったが、つい、うつらうつらとしてしまう。ヴィクトリアは意に反して少しだけ寝入ってしまった。

 ザッ、ザッ、ザッ……

 草を踏む微かな足音が聞こえ、はっとしてヴィクトリアは薄い眠りから目覚めた。シドが現れることを恐れ気が張っていたので、そこまで深い睡眠ではなかった。

 辺りの気配を探る。風が吹いていて周囲の匂いを感じ取りにくい。けれど足音は確実に聞こえてくる。

(誰かがこちらに来る)

 緊張と不安がヴィクトリアの全身を襲った。

 足音は一人。どこか目的地へ向かい通り過ぎる風ではなかった。足音は時々立ち止まり、辺りを歩き回っている。

(何かを探している……?)

 ヴィクトリアは肝が冷えた。身体が震え出す。

(もしシドに見つかったら、犯される)

 ヴィクトリアは震える手でガーターホルダーから短剣を抜いた。シドを刺した時の血は拭ったけれど、完全ではないためまだ赤く汚れている。

 ヴィクトリアは短剣の切っ先を自分の胸に向けた。

(シドだったら、この短剣を突き刺して死のう)

 足音が近付いて来た。ヴィクトリアの呼吸が浅くなっていく。

 風向きが変わった。その人物の匂いが届く。

(人間だ。人間の男の匂い)

 シドではなかった。けれどヴィクトリアは全く安心出来なかった。その男の全身から、こびりついた血の匂いがしたからだ。獣人の血の匂い。

(何人殺したの……)

 たった今付いたものではない。血の匂いは長年染み付いて離れなくなってしまったものだ。その男は獣人ばかり何人も殺している。

(見つかったら、きっと私も殺される)

 この樹洞から出て逃げるべきだろうかと考えたが、男との距離は近い。男からは火薬の匂いもして、銃を何丁か持っているようだった。背中を見せて撃たれたら終わりだ。

(こっちに来ないで……)

 短剣を握りしめたまま身体を縮こまらせ、祈るように時が過ぎるのを待つ。

 ザッ――――

 足音が目の前で止まった。軍隊靴の先が見える。男の持つカンテラの明かりが地面を照らしていたかと思えば、段々とその光の範囲がヴィクトリアの方へ移動してくる。

(見つかった……!)

 動揺して身じろぎながら強く短剣を握り込んだ拍子に、自身に向けていた短剣の先端がヴィクトリアの服を裂き、彼女の胸の皮膚を軽く傷付けた。

 ヴィクトリアは男を見上げた。顔に当たる光が眩しくて、男の様子はわからない。男がはっと息を呑む気配がしたと思ったら、手が伸びてきて短剣を奪われてしまった。

「返して…… お母さま、の、形見、なの」

 舌が上手く動かない。耳鳴りがして身体が思ったように動かせなかった。たった今、短剣で少し傷を作ったせいだと気付いた。

(こんな場面なのに自分で作った薬にやられるなんて、私はなんて間抜けなの……!)

 上手く焦点が定まらない視界の中、光に慣れて男の姿がぼんやりと見えてくる。 

 黒髪のその男は、獣人と並んでも見劣りしないほど顔が整っていた。しかし彼自身の身体から発せられている匂いは間違いなく人間のものだ。腰に剣を二本差し、二列ボタンの藍色の制服の上から外套を羽織っていて、背中に長銃一本と袋状の荷物入れを背負っている。その特徴的な藍色の隊服は、本の中の写真で見たことがあった。

(銃騎士。よりによってなんで獣人の天敵に見つかるのかしら。運が悪いにも程がある)

 黒髪の銃騎士はヴィクトリアを睨んでいた。

 ヴィクトリアは痺れ薬のせいで既に声が出せない状態だった。身体中の自由が効かない。

(駄目、意識をちゃんと保たないと……

 でないと私、この人に殺される――――)
 
 瞼が重い。視界が狭くなっていく。ヴィクトリアは抗うことも出来ずに、そのまま意識を失った。










******





 黒髪の銃騎士――レインはヴィクトリアの全身を観察する。奪った短剣に血は付いているが、彼女に大きな怪我はない。胸の辺りの衣服に微量な鮮血が付いていて、それが短剣の先端に付いた僅かな鮮血と符号する。

 レインはヴィクトリアの首に手をかけた。

 脈と、息があることを確認する。次いで短剣を眺め、拭われた古い血の一部が微かに薄く変色していることに気付いた。

「痺れ薬……」

 レインは懐から取り出した布で刃の部分を包むと、背中の荷物入れの中に放り込んだ。

 レインは座り込み、手を伸ばしてヴィクトリアの頬を撫でた。

「……」

 レインは無言のままヴィクトリアを抱え上げると、その場を後にした。
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