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故郷編

17 雷

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注)襲われ注意(軽度)

***

 自室に戻ったヴィクトリアはすぐさま浴室に飛び込んだ。浴槽に湯を張りながら衣服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて身体に付いたものを洗い流そうとする。人間には分からないような匂いも、獣人は敏感に感じ取ることができる。一度付いた匂いはそう簡単には消えないが、石鹸を泡立て、シドに付けられた痕の辺りにこすり付けていく。

 香水でごまかそうと考えた時もあった。商人から買おうとしたが、商品を手に取った瞬間、シドに取り上げられてしまった。
 シドはその商人を出入り禁止にし、他の商人達に対しても、香水や匂い袋の類は一切持ち込むなと厳命した。シドは自分の匂いを常にヴィクトリアに纏わせていたいらしい。

 一般的な人間用の香水は濃くて匂いが強すぎるために使えないが、上手に薄めれば使えなくもない。一部の獣人は愛用していたが、それが取引不可になった為「あんたのせいでお気に入りの匂いが手に入らなくなったじゃない!」と、批判されてしまったこともあった。苦い思い出だ。

 できるだけ早急に洗って、洗って洗って、自然と匂いが抜けていくのを待つしかない。

 ヴィクトリアは湯船に浸かりながらため息をついた。リュージュを好きになる前は、宴会の翌日であっても会いに行っていた。後から思えば、他の男の匂いが付いている状態で好きになってもらえるわけがない。

(いつまでこんな生活が続くのかな……)

 シドに執着され続ける状態に出口はあるのだろうか。





 ヴィクトリアは内側に付けられた複数の鍵を解除し、扉を少し空けて廊下の様子を伺った。誰もいないし、誰の匂いもしない。

(今ならいける!)

 ヴィクトリアはさっと廊下に出て鍵を締めると、館の中央に唯一ある階段へと足早に向かった。ところが少し行った所で、ヴィクトリアの鼻腔がシドの匂いを捉える。

 次の瞬間、まるで謀ったかのようにシドが階段の上から飛び降りてきた。切れ長の目がヴィクトリアを見据えている。

 ヴィクトリアは匂いを感じて緊張し、上手く対応しなければと思い立ち尽くしていたが、シドの姿を視界に認めた途端、その決意が瓦解する。

 コツ、コツ、コツ……

 廊下に足音を響かせながらシドが悠々と歩いてくる。近づいてくるその足音と醸し出す威圧感に追い詰められたヴィクトリアの脳内が、ぐるぐると回っている。

(また匂いを付けられて、またそれが消えるまで待って、またシドに匂いを付けられて…… 何度同じことを繰り返せばいいの? もうリュージュに半月も会っていない)

 いつもだったらそんなことはしない。けれど、ヴィクトリアの精神は限界に近かった。

 後で後悔するとわかっていて、ヴィクトリアは抗うことを選択した。シドに背を向け、手近にあった窓枠に足をかけて飛び出す。

 三階の高さだが、ちゃんと受け身が取れれば問題ない。しかし予想した衝撃とはずいぶん感触の違うもので、ヴィクトリアは戦慄した。

 シドの腕の中に落ちていた。

 つい今しがた廊下の先にいたはずなのに、どれだけの速さで動いたのだろう…… そう思ったが、シドに常識は通用しない。シドならこれくらいのことはやってのけられる。

(そんなこと、わかりきったことじゃないの……)

 打ちひしがれるヴィクトリアを抱き止めたシドは、すぐさま地面を蹴って飛び上がった。

 館の屋上まで。

 館の屋上は平面で、レンガが一面に敷き詰められていた。

 シドはヴィクトリアを離さない。抱きしめる腕がぎりぎりと身体を締め付けてくる。
 ヴィクトリアを見下ろすシドの目は冷え切っていた。

「よくも逃げたな」

「ご、ごめんなさい」

 ヴィクトリアは痛みに顔をしかめながら、取り繕うのも忘れて謝罪する。自らの悪手を心の底から後悔した。

 シドのこちらを冷たく見つめる瞳に怒りはなかったが、そこに邪なものが浮かぶ。

 シドが嫌な笑い方をした。

「身体で償え」

 そう言うと、ヴィクトリアのブラウスのボタンを片手で器用に外していく。

 ヴィクトリアの顔から血の気が失せていった。

 周囲の目がある時は、シドはヴィクトリアの身体を他の者に見せない。せいぜいが首元を寛げる程度だ。

 だがここは屋上。誰も来ない。

 ヴィクトリアの服は元々前開きのもので、シドの手により安々と開かれた。下着が見え、きめの細やかな肌が露出する。

 シドが胸の付近に口付けた。いつもは付けない箇所に唇の痕を付けていく。

「やめて……」

 背中に手が回されたが、触れ方がいつもと違う。煽るような指使いだった。

 ヴィクトリアは自分で自分の口を抑えた。声を上げないように堪える。

 シドの冷静だった瞳が、欲情したものに変わっていく。

 シドがヴィクトリアの下着に手をかけようとした。必死で下着を抑えるが、両腕を拘束されてしまう。

「やめて!」

 ヴィクトリアが涙目で叫んだ時だった。閃光と共に轟音が響く。

 焦げ臭い匂いが漂い、見れば館の側に立つ常用樹が真っ二つに裂け、その一方が倒れて煙を上げていた。

 落雷。

 ヴィクトリアは驚いて空を見上げた。

 天気は曇天だが、雨が降る様子はない。

(なぜいきなり落雷なんて……)

 続けざまに二発目が別の常用樹に落ちて燃え始める。光と轟音に怯んでいると、シドがヴィクトリアを抱き上げた。ヴィクトリアは慌ててブラウスの前面を引き合わせる。

 シドは地面に降り立つと、館の玄関をくぐり、突然の轟音に驚いている面々に火を消しておけとだけ告げて、一階の共同部屋へ入った。大きめのソファが置いてあり、そこにヴィクトリアを降ろした。

 シドは雷のせいで気が削がれたのか、瞳の奥の欲望は薄れていた。ヴィクトリアは急いでブラウスのボタンを留めていくが、全部終わらないうちに抱きしめられる。一瞬ひやりとするが、再び脱がされるようなことはなかった。

 いつものように匂いを嗅がれる。ヴィクトリアは大人しくしていた。

「次はないからな」

 シドはそう言って去っていった。





 ヴィクトリアは自室に辿り着くまでは平然を装い歩いていたが、室内に入るなり崩折れた。

 先程のことを思い出すと悪寒が走り、ガタガタと震え出した。

(危なかった。本当に危なかった)

 あのまま屋上にいたら、ひょっとしたら犯されていたんじゃないだろうか。

 その可能性に愕然として蹲り、しばらく動けなかった。

 今度からはちゃんと考えて動こうと思った。

(それにしても、あんなちょうどよく雷が落ちるなんて、不思議なこともあるものね……)

 ヴィクトリアはよろよろと立ち上がると、折れそうな心と身体を叱咤して浴室へと向かった。
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