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故郷編

6 酷い目

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 その日、リュージュはヴィクトリアの元に現れなかった。彼も忙しいのだから毎日会えるわけではない。それは分かっていたが、ヴィクトリアは落胆している自分に気が付いた。

 草の上に座ってぼーっとしていると、来訪者の足音が聞こえた。

「お嬢様」

 見れば、シドの番の一人である見目麗しい女と、その従者が立っていた。風がある時は匂いを感じ取りにくい。

「夕刻より宴会がございます。遅れずにお越し下さい」

 金髪の女は、蔑むような冷たい視線をヴィクトリアに向け、硬質な声でそう告げた。

「……わかったわ」

 ヴィクトリアが返事をすると、二人は何も言わずに去っていった。

 ヴィクトリアは盛大にため息をついた。

 もしかしたら、もう宴会に呼ばれる事はないのではないかと少し期待していた。リュージュのことを何も言ってこないし、ヴィクトリアに興味が無くなったのではないかと。

 しかし、宴会にお呼びがかかったということは、シドが呼んでいるということだ。

 酔ったシドの相手をしないといけないし、膝に乗せられて匂いを嗅がれるいつもの行為に耐えないといけない。

 とてつもなく行きたくなかった。だけど行かないわけにはいかない。

 ヴィクトリアは、以前宴会をすっぽかそうとして、酷い目に遭ったことを思い出していた。










 ヴィクトリアはそのとき十歳で、どうしても宴会に出るのが嫌で、自分の部屋に閉じ籠った。

 代わる代わる誰かが迎えにやって来て、ヴィクトリアを部屋から出そうと宥めたり脅したりしていたが、彼女は一切応答しなかった。このまま乗り切れるのでは、と思った頃――――シドがやって来た。

 出てこい、と低く唸るような恐ろしい声がして、ヴィクトリアはそれだけで動けなくなってしまった。毛布を被った状態のままガタガタと震えた。

 シドは厚い金属製の扉を、拳一発で破壊した。

 歪んだ扉が倒れて蝶番が弾け飛び、その向こうから怒りの形相のシドが現れるのを、その瞬間だけ悲鳴も上げずにやけに冷静に見ていた。あとから思えば、恐怖で頭の感情回路が飛んだのだろう。
 無駄かもしれないが、鍵の数を増やそうとその時思った。

 その後、シドはずっと機嫌が悪かった。視線も眼光鋭く殺されるのではないかと思えるもので、宴会場に連れ込まれたヴィクトリアは、顔面蒼白のまま震えが止まらなかった。
 扱いもいつもより乱雑で、抱き締める力は骨が軋みそうなほどで全身が痛かった。

 普段よりも時間の流れが遅く感じる中、宴会がお開きになった時はようやく開放されると安堵した。

 しかし、本当の地獄はそこからだった。

 シドは「部屋の扉が直るまで俺の部屋で寝ろ」と言った。

 その後のことはあまり思い出したくない。










 シドの寝台は色んな女の匂いがした。のしかかる身体からは、酒の他にシド本来の匂いと、やっぱり母以外の女の匂いがこびり付いていて、それが嫌で嫌でたまらなかった。

 ヴィクトリアは腕を突っ張ってシドの身体を突き放そうとしたが、全く敵わず、むしろシドの首元へ顔を密着させられた。複数の女の混ざった匂いを無理矢理嗅がされる。

 ヴィクトリアは感情を素直に口に出した。嫌だと、耐えられないと。ヴィクトリアは泣いた。泣きじゃくった。

 シドが涙を舐めていく。

 宴会で酒を浴びるように飲んでいたシドは酔っていた。

 嫌いだと言うと、シドは愛してると言った。

 嫌だと叫ぶと、愛してると返された。

 何度訴えても、シドはその度に愛してると繰り返した。

「愛してるんだ、ヴィクトリア」

 ヴィクトリアは叫ぶのを止め、ただ泣いた。

 そのうちにシドの寝息が聞こえてきた。

 一晩中抱き枕にされたがもちろん寝られるわけがない。

 寝ている隙に抜け出そうともがいてもがいて、それでも絡み付いてくるシドの腕から逃れることができなかった。

 共寝をしたのはその一回だけだ。
 次の日シドは「狩り」でいなくなってしまったし、三日目には扉が直っていた。

 けれどその後しばらく経っても、服の間から忍び込んできた手の感触と、首に這わされて付けられた唇の痕が消えなかった。










 もうあんな思いは二度と御免だ。

 行かなきゃいけないのはわかっているのに、身体が動かない。

 リュージュと一緒にいてその温かさに触れると、自分とシドとの関係を改めて考えてしまう。親子としてはおそらく普通じゃない。

 ヴィクトリアは膝を抱えたまま、陽が西側に落ちて薄暗くなり始めてもその場に留まっていた。

 誰かが来た。

 リュージュだったらいいのになと思ったが、匂いと草を踏む複数の足音からして違う。

 シドの番たちだ。普段はあまり一緒に居たがらない彼女たちが、数人でまとまってやって来た。

「お嬢様、もう始まります。こんなところでぐずぐずと何をしているのですか?」

 昼にも会った真ん中の金髪美女が冷たい声音で問いかけてくる。

 ヴィクトリアは何も言わなかった。行きたくないと身体で語っていた。

「贅沢な」

 金髪の女は苦虫を噛み潰したような憎々しい声を出した。

「行かないなんてそんなことが許されるわけないでしょう? あの方はあなた様を待っているのですよ? 我々ではなくね」

「自分がどれだけ恵まれたお立場なのかよくよく考えられたほうがよろしいのでは?」

「本当に嫌な子」

「早くあの方を受け入れてしまいなさい。身も心も」

 鳥肌が立つ。

「本気でそんな事思ってるの?」

 いつもは言葉にしないだけで、彼女たちは常にヴィクトリアに悪感情を持っている。向けられる悪意を吟味していたら身が保たない。

 だから受け流すつもりだったのに、最後の言葉は聞き捨てならない。

「ええ。そしてさっさと飽きられてしまえばいいのに」

 彼女たちの目に映るのは憎しみだ。歪んだ情念に当てられる。

「父と娘よ。ありえない」

「ここではあの方が正義です。黒も白になります」

(無茶苦茶だわ。会話にならない)

「私達、今から楽しみねって、ずっと言い合っているのよ?」

「見学くらいさせてもらえるとよいのだけど」

「破瓜の瞬間、あなたはどんな顔で鳴くのかしらね?」

 瞬間、怒りが胸を支配しそうになる。

 悪意悪意悪意――――――

 いつも耐えられない。

 まともに取り合っていたらこちらまでおかしくなってしまう。

 ただ、ヴィクトリアは自らの思いを口にする。

「気持ち悪い」

 自分でもひどく無機質な声だったと思う。反論に感情を乗せることすら心が拒否した。侮辱された内容に加え、それを言われた事自体全てを、受け入れたくない。

 彼女たち全員が、ヴィクトリアを睨んでいた。

 彼女たちのヴィクトリアへの憎々しさの根源に、シドへの想いがあるのは分かっている。
 こんな女たちを作り出したのはシドだ。

 一人の男しか愛せないのに、見向きもされなくなったらどうなるか。

 その先は歪むしかない。

「行きますわよ。お嬢様」

 シドの女たちに囲まれて、ヴィクトリアは引っ立てられるようにして連れて行かれた。
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