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故郷編
4 友達
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少し時間を置いて、ヴィクトリアは館に戻った。周囲にシドの気配がないことを確認してから、一階の共同部屋へ立ち寄る。
共同部屋は館の住人ならば誰でも利用可能な四部屋分ほどある広い部屋だ。その一角に布で幕が作られていた。
(誰かが泣いてる……)
「ほら、男の子が泣かないのよ」
優しく語りかける声が聞こえてくる。
近付くと、半分ほどしか閉まっていない幕の間から、濃い青色の髪を片側に編み込んだ十代後半ほどの女性が背を向け、寝台に向かっているのが見えた。
薬師のサーシャだ。腰の辺りにリボンの付いた薄紅色のワンピースと白いエプロンを身に付けている。サーシャは寝台の上で上半身を起こした少年の頭に包帯を巻いていた。
ふと、少年がこちらを見た。黒い瞳に、若干の赤みがかかっている。眼の白い部分が充血していて、殴られて腫れたらしき頬に涙の跡が見えた。
少年の視線に気付き、サーシャが振り返る。途端、彼女の群青の瞳が大きく見開かれた。
「ヴィ、ヴィ、ヴィクトリア様」
サーシャは慌てたように驚き、すぐ側にあった椅子を倒してしまった。派手な音が響く。
里の者たちの大部分は、ヴィクトリアと同じ空間には居たがらない。何か問題に巻き込まれると困るからだ。
用事があったわけではない。酷い怪我のようだったから気になっただけで、意識もあるし、治療も受けていて命に別状がないならそれでいい。
元々、深く関わるつもりもない。
「邪魔してごめんなさい」
「あ、あの……」
サーシャが、背を向けたヴィクトリアに何か言いかけたが、言葉が続かずに止まってしまう。
「…………ヴィクトリア」
歩み去るヴィクトリアの背中を眺めていた少年は、名前の響きの感触を確かめるように、そう独り言ちた。
数日後、ヴィクトリアが館の玄関口を通り抜けた時だった。
ずる、ずる、と何か引きずるような不規則な足音が聞こえて、ヴィクトリアは何だろうと共同部屋の入り口に目を向けた。
そのうちに、頭、腹部、脚などが包帯ぐるぐる巻きで、右腕を包帯で吊った状態の少年が現れた。頬に湿布が貼られて痛々しいが、顔の造りは繊細で整った顔立ちをしている。獣人は美形が多い。
杖でも使った方が良いのでは思うほどふらふらで上手く歩けていないが、移動できるほどには回復したのだろう。
少年はヴィクトリアと目が合うと、口を開いた。
「あんたがヴィクトリアか? シドの娘の?」
「そうだけど」
何か用事だろうかと次の言葉を待っていたが、少年は口を閉ざしたままどこか思い詰めた様子でヴィクトリアを見ている。
「相談ごとなら他を当たったほうがいいわよ」
「いや、待て、そうじゃなくて」
踵を返しかけたヴィクトリアだったが、振り返って再び少年と対する。しかし彼は尚も思い詰めた顔のまま、無言を貫き続ける。
二人してただ突っ立っているだけになってしまったので、ヴィクトリアは何も言葉を発しないまま、部屋に戻るために中央の階段へと向かった。
また数日後。
自分の部屋のある三階の踊り場に到達した時だった。廊下の向こうから、あの少年の匂いがした。
まさかね、と思いながら廊下を歩いていると、自分の部屋の扉の前で、件の少年が佇んでいるのが見えた。
ヴィクトリアの部屋がどこかなんて、匂いを辿れば分かってしまう。
これは明らかに、待ち伏せだ。
「何の用事?」
ヴィクトリアは眉根を寄せ、警戒心も顕に問いかけた。ここまでされて警戒しないわけにはいかない。
少年の顔の腫れはもう引いているが、右腕は変わらず包帯で吊るされている。背はヴィクトリアとほとんど変わらないし、年齢も同じくらいだろう。まだ幼さが垣間見えて、少年というより少女のように見えた。
中性的な容姿の少年は、ヴィクトリアを見つめると頬を染め、照れたような素振りでこう言った。
「ええと、あんたと仲良くなりたいんだ」
ほとんど初対面で何を言っているんだろう。他人との距離の取り方がおかしい。
「残念だけど、私にはあまり関わらないほうがいいわ」
「なんで?」
なぜ? それは当然の疑問だろう。新参者の彼にはわからないかもしれない。かと言って、自分とシドとの間にあることを、一から説明する気にはなれなかった。ただ一つ言えるとするなら――
「私に近付くと不幸になるわよ」
少年は長い睫毛で瞬きを繰り返し、首を傾げた。
「そんなことあるわけないだろ」
ヴィクトリアはだんまりを決め込む。
廊下の窓から差し込む光は、橙色を帯びていた。外で本を読んでいたのだが、つい長引いていつもより遅くなってしまった。
回れ右をしてこの場から去ろうかと思ったが、この少年はいつまでここにいるつもりだろう。夜間は出歩きたくない。早く部屋に戻りたい。
ヴィクトリアは、強行突破することにした。
彼の実力が如何ほどかは分からないが、右腕は折れてるし手負いだし、もし攻撃されても勝てるのではと思った。
ヴィクトリアも獣人の端くれであるし、戦闘訓練なら受けたことがある。同じ年くらいの怪我をしてる相手ならなんとかなる、はずだ。
最悪叫べば、この館の誰かしらは来てくれるのではないだろうか。疎まれているとはいえ、ヴィクトリアに何かあったら一大事なのだから。
ただその場合、シドが来てしまう可能性もあって怖いのだが。
ヴィクトリアは大股で近付き、少年を無視したまま複数付けられた扉の鍵を開けていく。扉を開けて中に入ろうとした所で、
「ちょっと待てよ」
少年がヴィクトリアの手を掴もうとする。ヴィクトリアはその手をパシリと弾いた。
「触らないで」
「ああ…… ごめん」
素直に謝られた。ヴィクトリアを害しようとするつもりはないらしい。
少年が怯んだ隙に、ヴィクトリアはさっと扉の中に滑り込み、すぐさま鍵をかけた。ほっと一息つく。
「おーい」
どんどんどん、と金属製の扉が叩かれる。ヴィクトリアは反応を返さない。
「冷たいやつだな」
しばらくすると、むっとしたような声が聞こえて、彼の足音が遠ざかっていった。
ヴィクトリアは胸を撫で降ろす。
(これで興味を失ってくれればいいけど……)
ヴィクトリアは抱えていた本を本棚に戻すと、寝台に腰掛け、クッションを手繰り寄せた。
しん、とした室内を見回す。壁際に、本棚や鏡台やクローゼットが置かれていて、中央に小さなテーブルと椅子がある。
部屋の奥には続き部屋があり、風呂場と厠がある。
部屋の入り口の扉は他の部屋のように木材ではなく、金属製の扉だった。扉は内側のみ追加で付けられる鍵がかなりの数取り付けられており。窓には鉄格子。
部屋はシドが用事したもので、ヴィクトリアに拒否権はなく、文句も言わずにここでの生活を始めた。同じような設備の家に住んでいた母と違うのは、出入りは自由なこと。
(むしろ願ったりだわ)
ヴィクトリアは枕の下に手を伸ばした。指先がコツリと硬いものに触れて、それを取り出す。
出てきたのは小型の短銃。
「狩り」で失敬したものだ。弾が入っているのは確認したが、単発式なので一度撃ったら終わりだ。
もしかしたらあまり意味はないのかもしれない。
けれど、銃も、鉄格子も、金属製の扉と付随する複数の鍵も、全ては自分を守るためには必要なものなのだ。
またまた数日後。
ヴィクトリアは久しぶりに外に来ていた。数日、人を避けるように部屋に籠もっていたが、外に出ないのは気が滅入る。
それに本日はとても天気がよかった。広げているのは珍しい内容の本だ。商人曰く、年代物で価値があるらしい。古代に失われた魔法に関する書物だそうで、魔法の使い方が書かれていたが、文体が現代のものではなくて読みにくい。
まず、手から火を出す場合、炎をイメージしながら全身の魔力を指先から放出する、と要約するとそのようなことが書いてあった。魔力ってなんぞやと思いつつ、指先に意識を集中させてみたが、全く無意味だった。正直、眉唾ものではあったが、魔法でここから逃げ出せないかな、という逃避願望もあって、暇つぶしに読んでいた。
ヴィクトリアは読んでいるうちにだんだんと眠くなってきて目を閉じた。
うららかな陽射しの下、爽やかな風が吹き、そして近付いてくる少年の足音。
ヴィクトリアは少年を見もしない。本の続きを読もうとする。
「お前さ、友達いないだろ」
馴れ馴れしくもお前呼ばわりされている。
友達がいないのはその通りだ。以前はいたが、皆ヴィクトリアから離れていってしまった。
嘲りにでも来たのだろうかと思ったが、見上げた少年の表情は、ヴィクトリアを馬鹿にしたようなものではなかった。
「俺も今まで友達いたことないんだ。だからさ、俺の初めての友達になってくれないか?」
屈託なく笑う。
笑顔が、眩しかった。
だから思わず聞いてしまった。
「あなたの名前は?」
嬉しそうに細められた少年の瞳は、優しさに満ちていた。
「リュージュ」
共同部屋は館の住人ならば誰でも利用可能な四部屋分ほどある広い部屋だ。その一角に布で幕が作られていた。
(誰かが泣いてる……)
「ほら、男の子が泣かないのよ」
優しく語りかける声が聞こえてくる。
近付くと、半分ほどしか閉まっていない幕の間から、濃い青色の髪を片側に編み込んだ十代後半ほどの女性が背を向け、寝台に向かっているのが見えた。
薬師のサーシャだ。腰の辺りにリボンの付いた薄紅色のワンピースと白いエプロンを身に付けている。サーシャは寝台の上で上半身を起こした少年の頭に包帯を巻いていた。
ふと、少年がこちらを見た。黒い瞳に、若干の赤みがかかっている。眼の白い部分が充血していて、殴られて腫れたらしき頬に涙の跡が見えた。
少年の視線に気付き、サーシャが振り返る。途端、彼女の群青の瞳が大きく見開かれた。
「ヴィ、ヴィ、ヴィクトリア様」
サーシャは慌てたように驚き、すぐ側にあった椅子を倒してしまった。派手な音が響く。
里の者たちの大部分は、ヴィクトリアと同じ空間には居たがらない。何か問題に巻き込まれると困るからだ。
用事があったわけではない。酷い怪我のようだったから気になっただけで、意識もあるし、治療も受けていて命に別状がないならそれでいい。
元々、深く関わるつもりもない。
「邪魔してごめんなさい」
「あ、あの……」
サーシャが、背を向けたヴィクトリアに何か言いかけたが、言葉が続かずに止まってしまう。
「…………ヴィクトリア」
歩み去るヴィクトリアの背中を眺めていた少年は、名前の響きの感触を確かめるように、そう独り言ちた。
数日後、ヴィクトリアが館の玄関口を通り抜けた時だった。
ずる、ずる、と何か引きずるような不規則な足音が聞こえて、ヴィクトリアは何だろうと共同部屋の入り口に目を向けた。
そのうちに、頭、腹部、脚などが包帯ぐるぐる巻きで、右腕を包帯で吊った状態の少年が現れた。頬に湿布が貼られて痛々しいが、顔の造りは繊細で整った顔立ちをしている。獣人は美形が多い。
杖でも使った方が良いのでは思うほどふらふらで上手く歩けていないが、移動できるほどには回復したのだろう。
少年はヴィクトリアと目が合うと、口を開いた。
「あんたがヴィクトリアか? シドの娘の?」
「そうだけど」
何か用事だろうかと次の言葉を待っていたが、少年は口を閉ざしたままどこか思い詰めた様子でヴィクトリアを見ている。
「相談ごとなら他を当たったほうがいいわよ」
「いや、待て、そうじゃなくて」
踵を返しかけたヴィクトリアだったが、振り返って再び少年と対する。しかし彼は尚も思い詰めた顔のまま、無言を貫き続ける。
二人してただ突っ立っているだけになってしまったので、ヴィクトリアは何も言葉を発しないまま、部屋に戻るために中央の階段へと向かった。
また数日後。
自分の部屋のある三階の踊り場に到達した時だった。廊下の向こうから、あの少年の匂いがした。
まさかね、と思いながら廊下を歩いていると、自分の部屋の扉の前で、件の少年が佇んでいるのが見えた。
ヴィクトリアの部屋がどこかなんて、匂いを辿れば分かってしまう。
これは明らかに、待ち伏せだ。
「何の用事?」
ヴィクトリアは眉根を寄せ、警戒心も顕に問いかけた。ここまでされて警戒しないわけにはいかない。
少年の顔の腫れはもう引いているが、右腕は変わらず包帯で吊るされている。背はヴィクトリアとほとんど変わらないし、年齢も同じくらいだろう。まだ幼さが垣間見えて、少年というより少女のように見えた。
中性的な容姿の少年は、ヴィクトリアを見つめると頬を染め、照れたような素振りでこう言った。
「ええと、あんたと仲良くなりたいんだ」
ほとんど初対面で何を言っているんだろう。他人との距離の取り方がおかしい。
「残念だけど、私にはあまり関わらないほうがいいわ」
「なんで?」
なぜ? それは当然の疑問だろう。新参者の彼にはわからないかもしれない。かと言って、自分とシドとの間にあることを、一から説明する気にはなれなかった。ただ一つ言えるとするなら――
「私に近付くと不幸になるわよ」
少年は長い睫毛で瞬きを繰り返し、首を傾げた。
「そんなことあるわけないだろ」
ヴィクトリアはだんまりを決め込む。
廊下の窓から差し込む光は、橙色を帯びていた。外で本を読んでいたのだが、つい長引いていつもより遅くなってしまった。
回れ右をしてこの場から去ろうかと思ったが、この少年はいつまでここにいるつもりだろう。夜間は出歩きたくない。早く部屋に戻りたい。
ヴィクトリアは、強行突破することにした。
彼の実力が如何ほどかは分からないが、右腕は折れてるし手負いだし、もし攻撃されても勝てるのではと思った。
ヴィクトリアも獣人の端くれであるし、戦闘訓練なら受けたことがある。同じ年くらいの怪我をしてる相手ならなんとかなる、はずだ。
最悪叫べば、この館の誰かしらは来てくれるのではないだろうか。疎まれているとはいえ、ヴィクトリアに何かあったら一大事なのだから。
ただその場合、シドが来てしまう可能性もあって怖いのだが。
ヴィクトリアは大股で近付き、少年を無視したまま複数付けられた扉の鍵を開けていく。扉を開けて中に入ろうとした所で、
「ちょっと待てよ」
少年がヴィクトリアの手を掴もうとする。ヴィクトリアはその手をパシリと弾いた。
「触らないで」
「ああ…… ごめん」
素直に謝られた。ヴィクトリアを害しようとするつもりはないらしい。
少年が怯んだ隙に、ヴィクトリアはさっと扉の中に滑り込み、すぐさま鍵をかけた。ほっと一息つく。
「おーい」
どんどんどん、と金属製の扉が叩かれる。ヴィクトリアは反応を返さない。
「冷たいやつだな」
しばらくすると、むっとしたような声が聞こえて、彼の足音が遠ざかっていった。
ヴィクトリアは胸を撫で降ろす。
(これで興味を失ってくれればいいけど……)
ヴィクトリアは抱えていた本を本棚に戻すと、寝台に腰掛け、クッションを手繰り寄せた。
しん、とした室内を見回す。壁際に、本棚や鏡台やクローゼットが置かれていて、中央に小さなテーブルと椅子がある。
部屋の奥には続き部屋があり、風呂場と厠がある。
部屋の入り口の扉は他の部屋のように木材ではなく、金属製の扉だった。扉は内側のみ追加で付けられる鍵がかなりの数取り付けられており。窓には鉄格子。
部屋はシドが用事したもので、ヴィクトリアに拒否権はなく、文句も言わずにここでの生活を始めた。同じような設備の家に住んでいた母と違うのは、出入りは自由なこと。
(むしろ願ったりだわ)
ヴィクトリアは枕の下に手を伸ばした。指先がコツリと硬いものに触れて、それを取り出す。
出てきたのは小型の短銃。
「狩り」で失敬したものだ。弾が入っているのは確認したが、単発式なので一度撃ったら終わりだ。
もしかしたらあまり意味はないのかもしれない。
けれど、銃も、鉄格子も、金属製の扉と付随する複数の鍵も、全ては自分を守るためには必要なものなのだ。
またまた数日後。
ヴィクトリアは久しぶりに外に来ていた。数日、人を避けるように部屋に籠もっていたが、外に出ないのは気が滅入る。
それに本日はとても天気がよかった。広げているのは珍しい内容の本だ。商人曰く、年代物で価値があるらしい。古代に失われた魔法に関する書物だそうで、魔法の使い方が書かれていたが、文体が現代のものではなくて読みにくい。
まず、手から火を出す場合、炎をイメージしながら全身の魔力を指先から放出する、と要約するとそのようなことが書いてあった。魔力ってなんぞやと思いつつ、指先に意識を集中させてみたが、全く無意味だった。正直、眉唾ものではあったが、魔法でここから逃げ出せないかな、という逃避願望もあって、暇つぶしに読んでいた。
ヴィクトリアは読んでいるうちにだんだんと眠くなってきて目を閉じた。
うららかな陽射しの下、爽やかな風が吹き、そして近付いてくる少年の足音。
ヴィクトリアは少年を見もしない。本の続きを読もうとする。
「お前さ、友達いないだろ」
馴れ馴れしくもお前呼ばわりされている。
友達がいないのはその通りだ。以前はいたが、皆ヴィクトリアから離れていってしまった。
嘲りにでも来たのだろうかと思ったが、見上げた少年の表情は、ヴィクトリアを馬鹿にしたようなものではなかった。
「俺も今まで友達いたことないんだ。だからさ、俺の初めての友達になってくれないか?」
屈託なく笑う。
笑顔が、眩しかった。
だから思わず聞いてしまった。
「あなたの名前は?」
嬉しそうに細められた少年の瞳は、優しさに満ちていた。
「リュージュ」
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