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故郷編
1 地獄の始まり
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注)食人注意
***
ヴィクトリアの幼い頃の記憶は、母に関するもので占められていた。
母は獣人で、とても綺麗な人だった。二人目の子が難産のうえ死産してしまい、そのせいで病弱になったと聞いていたけど、無関心な父――シドと違い、優しくていつもヴィクトリアを気にかけてくれた。
『早く、逃げなさい』
それが母の口癖だった。母は鉄格子の窓と鍵が幾つも付いた部屋に閉じ込められて、シドが付き添う以外は外に出してもらえなかった。自分自身が自由になりたい願望もあったのかもしれないが、ことあるごとにヴィクトリアにそう語っていた。
ヴィクトリアはシドが母を絶対に逃さないだろうことをなんとなく感じていた。母を置いて、自分一人だけこの里から離れるなんて考えられなかった。
母はシドを愛していなかったと思う。
母は、シドのものになる前、別の番がいたのだ。
獣人は番を得ると、その相手しか異性として見なくなるし、愛さなくなる。獣人は匂いに敏感で、他の異性と交わった相手と身体を重ねることを極端に嫌う。獣人は番を決めたら死ぬまで添い遂げ、他の異性とは交わらない。
シドのように鼻を焼かずとも平気で何人も女を抱ける個体は異常なのだ。
鼻の粘膜を焼き、匂いが全く分からなくなれば番以外と交わることもできるらしいが、獣人にとって嗅覚は重要な感覚だ。それを失うのは、人間にとって目を潰すのと同じことだ。
シドは母の番を殺し、母の粘膜を焼き、自分の女にしてしまった。そして檻の中に閉じ込めた。
それはどれほどの苦痛だったのか。
シドは母一筋というわけでもなかった。
狩場で見目麗しい人間の女がいれば攫ってきてハーレムの一員にしてしまうし、気に入った獣人の娘は問答無用で番にしたが、番にされた方はたまったものではない。
年中別の、しかも複数の女の匂いがプンプンする男が自分の最愛の人なのだ。獣人の女たちは鼻を焼くしかなくなってくるし、悲しみのあまり自死する者も稀にいた。
まさに傍若無人。
極悪、規格外、破天荒。形容の仕方ならいくつもあるが、要するにシドに常識は通じない。
あの男のせいで何人の女が泣いたのだろう。獣人族は強さが全てで、獣人の部族としては最大規模であるこの里の族長に上り詰めたシドの意に逆らえる者は、いないに等しかった。
母が死んだのは、ヴィクトリアが十歳の時だった。
******
静かだった。
シドは嘆くでもなく、吠えるでもなく、亡骸を抱え、生気を失った母の白い顔をじっと見つめていた。血のような赤い瞳は潤んでいて、綺麗な顔が歪み、涙を流していた。
(この人が泣いてるのなんて初めて見た)
ヴィクトリアも母を失った悲しみに泣きながら、シドにも死を悼む心があるのだなと思った。
母は人生のほとんどをシドに奪われた。けれどそれだけでは終わらなかった。
シドは母の腕を持ち上げて袖を裂き、二の腕あたりに唇を寄せると――――そのまま食べ始めた。
あまりのことにしばらく固まっていたヴィクトリアは、悲鳴を上げて逃げ出した。
母の部屋を飛び出し、家々の間を通り過ぎ、やがて緑が茂る森の中を号泣しながら駆け抜けた。
こんなところにずっといてはいけなかったんだ。
母の言うとおり、もっと早く逃げていればよかったんだ。
(あの人は父親なんかじゃない。悪魔だ)
息が上がり身体が悲鳴を上げるまでヴィクトリアは走り続けた。小高い丘でゆっくりと速度を落とし、よろよろと歩いて木の幹に手をついた。激しく呼吸を繰り返しながら、里がある方向に視線を向けた。
集落が見えるはずだが、緑の景色が邪魔をして確認できなかった。かなり遠くまで走ってきてしまったみたいだ。
無茶苦茶に限界まで走って身体を動かしたせいか、少し頭が冴えてきた。ヴィクトリアはその場に座り込むと、腰に提げた短剣を取り出して握り締めた。柄に金剛石がはめ込まれた短剣は、母から貰ったものだ。
「お母さま……」
(あんな死に方しなくてもよかった。最後は食べられてしまうなんて……)
死んでしまった後だから、自分の身体がそんな結末になったと本人が知らないことだけが救いか。
ヴィクトリアは膝をかかえ、嗚咽をもらした。
しばらく座り込んでいたヴィクトリアは、立ち上がると短剣を腰に戻し、里とは逆方向に歩き始めた。
母が死んでしまった以上、もうあの場所にいる意味はない。行く当てはないが、自分一人でもなんとかやっていけるだろうと思った。
(とにかく人間に見つからないようにしよう。
どこかに隠れて、野生動物でも狩れば食料には困らないし……)
そんな事を考えていた時だった。突然、全身がどくりと脈打ち、ヴィクトリアはその場に縛られたかのように立ち止まった。
「どこへ行くつもりだ?」
さっきまで誰もいなかったのに、怖ろしいほどの殺気を背後に感じた。ヴィクトリアの呼吸が浅くなる。
ゆっくりと振り返った。
「お父……さま?」
声が震えてしまう。
いるはずがない。何かの間違いであってほしいと思ったけれど、振り向いた先には、口の周りを鮮血で赤く染め上げ、手も腕も衣服も夥しいほどの赤で染まった男が立っていた。
その姿を視認するなり、ヴィクトリアはひっと喉の奥で声がつまり、動けなくなった。
シドは凍えるような冷たい声で問いかける。
「どこへ行く?」
怖ろしい。まるで裏切り者を見るような目付きだった。視線だけで人を殺せそうなほどだ。
(どうして?)
ヴィクトリアは恐怖と共に混乱もしていた。
シドは基本、来る者は拒まず、去る者は追わず、だ。
たとえ自分の子供がいなくなったところで、追いかけてくるような人じゃない。
シドはヴィクトリアの存在をそこら辺の小石と同程度にしか思っていなかったはずだ。
「お前の匂いが里から消えて、この場所まで移っていた。まさか里から出るつもりじゃないよな?」
(追ってきたの……?)
いないことに気付いて、匂いを探り当ててここまで来たというのだろうか。
里からこの場所までかなり距離がある。この人の嗅覚は一体どうなっているのだろう。
返事をしろという威圧を感じても、ヴィクトリアはすぐには言葉が出てこなかった。
返答次第では殺される。そう思わせるような鋭い視線と殺気。何か一つでも間違えたら殺される。自分も母のように喰われてしまうのか。
「い、いいえ…… どこ、にも……行きま……せん……」
ヴィクトリアは震える声を絞り出した。
シドはその答えに満足したのか、だだ漏れだった殺気が薄れていく。
「お前は俺のそばにいろ。わかったな」
ヴィクトリアは、頷くより他なかった。
シドが歩み寄ってくる。生きた心地がしなかった。シドはヴィクトリアを抱き上げると、彼女の首筋に顔を近づけた。
(噛まれる……!)
ヴィクトリアは身体を強張らせて目を閉じたが、想像した痛みはやってこなかった。
代わりに、シドは彼女の首筋に鼻をこすりつけて、匂いを嗅いでいる。
「お前の匂いはオリヴィアによく似ているな…… 顔も、目も、唇も、髪の色も…… 何もかもが、そっくりだな」
うっとりとした口調でそう呟いている。
ヴィクトリアは青くなった。
「ヴィクトリア……」
赤い手で撫でられるたびに、母の血がべったりと顔に付着していく。
今まで向けられたことのない視線だった。
まるで、愛しい者を見るような目付きだ。
異様な状況に頭が追い付いていかない。
シドは秀麗な顔に笑みを浮かべながら、ヴィクトリアの頬に唇を寄せた。
舌を出して、母の赤い血ごと舐める。
ヴィクトリアは何がどうなっているのかよくわからずにぼろぼろと涙を零した。その涙すらシドが舐め取っていく。
耐えられなくなったヴィクトリアは、やがて意識を失った。
***
ヴィクトリアの幼い頃の記憶は、母に関するもので占められていた。
母は獣人で、とても綺麗な人だった。二人目の子が難産のうえ死産してしまい、そのせいで病弱になったと聞いていたけど、無関心な父――シドと違い、優しくていつもヴィクトリアを気にかけてくれた。
『早く、逃げなさい』
それが母の口癖だった。母は鉄格子の窓と鍵が幾つも付いた部屋に閉じ込められて、シドが付き添う以外は外に出してもらえなかった。自分自身が自由になりたい願望もあったのかもしれないが、ことあるごとにヴィクトリアにそう語っていた。
ヴィクトリアはシドが母を絶対に逃さないだろうことをなんとなく感じていた。母を置いて、自分一人だけこの里から離れるなんて考えられなかった。
母はシドを愛していなかったと思う。
母は、シドのものになる前、別の番がいたのだ。
獣人は番を得ると、その相手しか異性として見なくなるし、愛さなくなる。獣人は匂いに敏感で、他の異性と交わった相手と身体を重ねることを極端に嫌う。獣人は番を決めたら死ぬまで添い遂げ、他の異性とは交わらない。
シドのように鼻を焼かずとも平気で何人も女を抱ける個体は異常なのだ。
鼻の粘膜を焼き、匂いが全く分からなくなれば番以外と交わることもできるらしいが、獣人にとって嗅覚は重要な感覚だ。それを失うのは、人間にとって目を潰すのと同じことだ。
シドは母の番を殺し、母の粘膜を焼き、自分の女にしてしまった。そして檻の中に閉じ込めた。
それはどれほどの苦痛だったのか。
シドは母一筋というわけでもなかった。
狩場で見目麗しい人間の女がいれば攫ってきてハーレムの一員にしてしまうし、気に入った獣人の娘は問答無用で番にしたが、番にされた方はたまったものではない。
年中別の、しかも複数の女の匂いがプンプンする男が自分の最愛の人なのだ。獣人の女たちは鼻を焼くしかなくなってくるし、悲しみのあまり自死する者も稀にいた。
まさに傍若無人。
極悪、規格外、破天荒。形容の仕方ならいくつもあるが、要するにシドに常識は通じない。
あの男のせいで何人の女が泣いたのだろう。獣人族は強さが全てで、獣人の部族としては最大規模であるこの里の族長に上り詰めたシドの意に逆らえる者は、いないに等しかった。
母が死んだのは、ヴィクトリアが十歳の時だった。
******
静かだった。
シドは嘆くでもなく、吠えるでもなく、亡骸を抱え、生気を失った母の白い顔をじっと見つめていた。血のような赤い瞳は潤んでいて、綺麗な顔が歪み、涙を流していた。
(この人が泣いてるのなんて初めて見た)
ヴィクトリアも母を失った悲しみに泣きながら、シドにも死を悼む心があるのだなと思った。
母は人生のほとんどをシドに奪われた。けれどそれだけでは終わらなかった。
シドは母の腕を持ち上げて袖を裂き、二の腕あたりに唇を寄せると――――そのまま食べ始めた。
あまりのことにしばらく固まっていたヴィクトリアは、悲鳴を上げて逃げ出した。
母の部屋を飛び出し、家々の間を通り過ぎ、やがて緑が茂る森の中を号泣しながら駆け抜けた。
こんなところにずっといてはいけなかったんだ。
母の言うとおり、もっと早く逃げていればよかったんだ。
(あの人は父親なんかじゃない。悪魔だ)
息が上がり身体が悲鳴を上げるまでヴィクトリアは走り続けた。小高い丘でゆっくりと速度を落とし、よろよろと歩いて木の幹に手をついた。激しく呼吸を繰り返しながら、里がある方向に視線を向けた。
集落が見えるはずだが、緑の景色が邪魔をして確認できなかった。かなり遠くまで走ってきてしまったみたいだ。
無茶苦茶に限界まで走って身体を動かしたせいか、少し頭が冴えてきた。ヴィクトリアはその場に座り込むと、腰に提げた短剣を取り出して握り締めた。柄に金剛石がはめ込まれた短剣は、母から貰ったものだ。
「お母さま……」
(あんな死に方しなくてもよかった。最後は食べられてしまうなんて……)
死んでしまった後だから、自分の身体がそんな結末になったと本人が知らないことだけが救いか。
ヴィクトリアは膝をかかえ、嗚咽をもらした。
しばらく座り込んでいたヴィクトリアは、立ち上がると短剣を腰に戻し、里とは逆方向に歩き始めた。
母が死んでしまった以上、もうあの場所にいる意味はない。行く当てはないが、自分一人でもなんとかやっていけるだろうと思った。
(とにかく人間に見つからないようにしよう。
どこかに隠れて、野生動物でも狩れば食料には困らないし……)
そんな事を考えていた時だった。突然、全身がどくりと脈打ち、ヴィクトリアはその場に縛られたかのように立ち止まった。
「どこへ行くつもりだ?」
さっきまで誰もいなかったのに、怖ろしいほどの殺気を背後に感じた。ヴィクトリアの呼吸が浅くなる。
ゆっくりと振り返った。
「お父……さま?」
声が震えてしまう。
いるはずがない。何かの間違いであってほしいと思ったけれど、振り向いた先には、口の周りを鮮血で赤く染め上げ、手も腕も衣服も夥しいほどの赤で染まった男が立っていた。
その姿を視認するなり、ヴィクトリアはひっと喉の奥で声がつまり、動けなくなった。
シドは凍えるような冷たい声で問いかける。
「どこへ行く?」
怖ろしい。まるで裏切り者を見るような目付きだった。視線だけで人を殺せそうなほどだ。
(どうして?)
ヴィクトリアは恐怖と共に混乱もしていた。
シドは基本、来る者は拒まず、去る者は追わず、だ。
たとえ自分の子供がいなくなったところで、追いかけてくるような人じゃない。
シドはヴィクトリアの存在をそこら辺の小石と同程度にしか思っていなかったはずだ。
「お前の匂いが里から消えて、この場所まで移っていた。まさか里から出るつもりじゃないよな?」
(追ってきたの……?)
いないことに気付いて、匂いを探り当ててここまで来たというのだろうか。
里からこの場所までかなり距離がある。この人の嗅覚は一体どうなっているのだろう。
返事をしろという威圧を感じても、ヴィクトリアはすぐには言葉が出てこなかった。
返答次第では殺される。そう思わせるような鋭い視線と殺気。何か一つでも間違えたら殺される。自分も母のように喰われてしまうのか。
「い、いいえ…… どこ、にも……行きま……せん……」
ヴィクトリアは震える声を絞り出した。
シドはその答えに満足したのか、だだ漏れだった殺気が薄れていく。
「お前は俺のそばにいろ。わかったな」
ヴィクトリアは、頷くより他なかった。
シドが歩み寄ってくる。生きた心地がしなかった。シドはヴィクトリアを抱き上げると、彼女の首筋に顔を近づけた。
(噛まれる……!)
ヴィクトリアは身体を強張らせて目を閉じたが、想像した痛みはやってこなかった。
代わりに、シドは彼女の首筋に鼻をこすりつけて、匂いを嗅いでいる。
「お前の匂いはオリヴィアによく似ているな…… 顔も、目も、唇も、髪の色も…… 何もかもが、そっくりだな」
うっとりとした口調でそう呟いている。
ヴィクトリアは青くなった。
「ヴィクトリア……」
赤い手で撫でられるたびに、母の血がべったりと顔に付着していく。
今まで向けられたことのない視線だった。
まるで、愛しい者を見るような目付きだ。
異様な状況に頭が追い付いていかない。
シドは秀麗な顔に笑みを浮かべながら、ヴィクトリアの頬に唇を寄せた。
舌を出して、母の赤い血ごと舐める。
ヴィクトリアは何がどうなっているのかよくわからずにぼろぼろと涙を零した。その涙すらシドが舐め取っていく。
耐えられなくなったヴィクトリアは、やがて意識を失った。
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