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憑依の果てに
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一時間後、三峰神社のバス停から二人は乗車した。
途中で止まるのは、温泉施設と秩父湖。
次の大輪で、翔と陽子はバスを降りた。
三峰神社の表参道。
ロープウェイ入口駅に続く鳥居。
幾つかの土産物屋が軒を並べていた。
まだ営業している店もあった。
知人宅の横を通る。
陽子を引いて歩き出す翔。
仕方なく後に続いて歩く陽子。
友達のお母さんと目が合い思わず会釈した。
そんな陽子を翔は睨みつけた。
谷に架かる赤い橋の上で、川を覗いている翔。
「荒川か……。やっぱり深いな」
ゴツゴツした岩の横に青緑した荒川。
「ここから落ちたら面白いな」
そう言いながら陽子の手を引いた。
「落ちてくれないか?」
甘えるように言う翔。
子供の頃、この橋の上で何度泣いたことか。
陽子は恐怖で震えていた。
不意に、翔が陽子の腕を掴み欄干に体を引き寄せた。
ゾォーとした。
体中を悪寒が走る。
そして忌まわしい記憶に辿り着く。
まだロープウェイ入口駅が現役だった時、この橋の上は大勢の観光客で賑わっていた。
それは夏のことだった。
三峰神社キャンプ場へ向かう人達の後ろを歩いていた時、悲劇は起きた。
前を行く人の背負ったリュックが、小さかった陽子の頭に当たり橋の欄干まで弾き飛ばされたのだった。
もう少しで荒川に転落する所だったのだ。
そんな恐ろしい記憶があったからこそ、陽子は此処が苦手だったのだ。
でも記憶はそれだけに留まらなかった。
陽子がこの橋が苦手な本当の理由は、物心が着いた頃まで遡った。
所謂橋飛び……。
自殺だった。
ロープウェイ入口駅から降りて来た男女が喧嘩をしていた。
往く時は、店の隅にいた陽子の頭を撫でてくれた女性だった。
だから陽子は又撫でて貰おうと思っていた。
そんな陽子の前で、突然荒川に飛び込んだ女性。
陽子はそれを目撃してしまったのだった。
ぼんやりとした記憶が、今鮮明に蘇る。
陽子は橋の上でワナワナと震えだした。
それでも陽子は此処で負ける訳にはいかなかった。
翼のために気持ちを奮い立たせる。
何故三峰神社に二人で行くことを躊躇ったのか?
原因はこれだった。
三峰神社参拝の後喧嘩した男女。
そしてそれにより引き起こされた悲劇。
陽子は知らずに噂と重ね合わせいたのだった。
翔の心の中で、幾つもの人格が存在していた。
多重人格。いや元々翔は二重人格だったのだろう。
母親を愛する余り憎んでいたのだ。
そんな闇の部分に翼は憑依してしまったのだった。
翔は本当は優しい子供だった。
翼の痛みを自分の痛みとするような。
そんな中……
あのオルゴール事件が起こる。
自分の初恋の相手が、こともあろうに翼を好きになったのだ。
派手好きな母が、翔のために企画したバースデーパーティー。
誕生日の一緒の翼も形だけ出席していた。
そうしないと、翼を蔑ろにしていることがバレるから。
たったそれだけの理由だった。
その時……
クラスメートが翼に渡したオルゴール。
みんなが帰った後、直ぐに母に取り上げた。
翔の物にするために。
本当は欲しくもなかった。
壊れてしまえばいい。
そう思った。
でも……
その時翔の中に別な人格が現れる。
翼を憎む、あの柿の実事件を引き起こす人格が。
柿を盗った時……
快感を覚えた。
スリルを感じて興奮した。
でも怖くなった。
母に悲しい思いをさせてしまうと思って……
だから翼が叩かれているのを見て、助かったと思ったのだ。
その時、自分の罪で翼が裁かれるのを平気でみている自分に気付いた。
そして……
翼に対する優しさは消えていた。
母親の異常な行動で、翼との隔たりを感じた翔。
それ故に翼を心配した。
でもいくら頑張ったとしても、翼の成績にはかなわなかった。
有名私塾に通っている自分が、何もしていない翼に負けたのだ。
次第に翔は翼を憎むようになっていった。
そんな中に現れた別人格。
解離性同一性障害。
所謂多重人格の始まりだった。
翔は本来の自分では憎めない翼を、別な人格でこけおろしたのだった。
麻耶が感じた翔の優しさ。
それが本来の人格だった。
母親が翼を憎んだように、自分も憎まなければいけない。
母親思いの翔が出した答えだった。
だから……
別な人格に、その役を押し付けたのだった。
母親を愛するあまりに……
解離性同一性障害は普通、危害を加えられている人間が発症する。
でも翔はいたたまれなくなって、自傷したのだった。
翔は、本来はそれほどまでに優しい人物だったのだ。
その頃節子は、三峰口駅に向かう電車に乗っていた。
節子は焦っていた。
何が何だか解らずに取り乱していた。
トイレに置いてあった陽子の走り書きのメモを見たからだった。
《自分はもしかしたら殺されるかも知れない》
《きっと翼も何処かで殺されている》
《犯人は、さっきまで一緒にいた翔さん》
《何故なら、ご両親を殺したのは私と翼だから》
節子はワナワナと震える手にそのメモを握り締めながら、今か今かと車窓に目をやっていた。
駅前では、泣きながら三峰神社行きのバスを待っていた。
それほど辛い現実だった。
中川の駅員が、陽子が三峰行きの電車に乗ったと教えてくれたから、節子は二人を追いかけれたのだった。
大輪バス停で知人が乗り込んできて、節子を見つけ隣に座った。
「 神社まで? そう言えば陽子ちゃん、旦那さんと一緒にロープウェイ入口方面に向かって」
そこまで聞いて節子に立ち上がった。
「すいませーん! 降ろして下さい」
節子は知人にお礼を言いながらバスを降りて大輪方面に走り出した
三峰口駅出発の乗り合いバスは、全線何処でも止まってくれる。
秩父湖。
御嶽山。
温泉施設など、様々な観光に対処するためだった。
「此処で縁切りだ。陽子さんとも翼とも」
振り返った翔が言った。
「やっぱり翼がいるのね」
身構えながら陽子が言う。
「ああいるよ。ずっと前から気付いてた。摩耶に会いたいのに、隣にいたのはあんただ! 恨んだよ!」
「だからあんなに疲れていたのね? あなたを負かして会いに来たがら」
「それに気付くと線路を見てる」
陽子はピンときた。
(きっと秘密基地だ)
翔の中にいても翼は翼だった。その時陽子は、翼の強い愛に支えられた日々を思い出した。
「俺が何故此処を選んだと思う?」
陽子は首を振った。
「あんたら全員を抹殺する為だ。憑依だが何だか知らないが、俺の体を玩具にしやがって!」
翔はサバイバルナイフを構えた。
陽子は思わずお腹の子供を庇っていた。
自分の子供だと翼は言う。
でも今、翼は居ない。
(そうだ! この子を守れるのは私だけだ!)
陽子はお腹を隠すように身構えた。
「お前が憎い! 翼を変えたお前が憎い! 努力もしないで出来る奴を焚きつけやがって!」
翔が喚いている。
「翼が何もしないで受かったと思っているの!?」
陽子の脳裏に狂ったように勉強する翼が浮かんだ。
「あなたのお母さんに母親を殺されて! お父さんに私がこんな目に遭わされて! 翼がどんなに苦しんだか! あなたに分かる!?」
陽子は泣きながら本当は優しい筈の翔に問いかけた。
翔は一瞬怯んだ。
「お袋が翼のお袋を? 一体どういうことだ?」
「田中恵さんに聞いたの。薫さんとお義父さんは高校生の時から付き合っていたって」
「ほらやっぱり翼のお袋が浮気相手じゃないか!」
翔はいきり立った。
「違うのよ! 翼のお母さんが薫さんだったの。香さんも浮気相手じゃないわ。双子だと知らないお父さんが同時に二人を愛してしまったから悲劇が始まったの」
「例の睡眠薬強姦か?」
陽子はうなづいた。
「あなたのお母さんを睡眠薬で眠らせてレイプした。誰の仕業か判らないように工夫して」
陽子はため息を吐いた。
「翼が言ってた。私が眠らされていた時、お義母さんは『私の時にも同じ事をしたのね』と言ったと」
翔はうなづきながら聞いていた。
その発見は覚えていた。
確かにあの現場で……
薫はそう言った。
「それが薫さんが香さんだという証拠よ。お祖父さんも、義母さんを香と呼んでいた」
翔はしばらくは、おとなしく聞いていた。
翔は本当に知らなかった。
父親の浮気相手の子供。
それだけで翼を憎んだ。
それだけで充分憎む価値はあった。
母に苦しみを与える翼。
自分の屈辱を味わせた翼。
何も勉強しなくても、翼は出来ると翔は信じていたのだった。
全てを翼のせいにしたかった。
愛する母の叱咤激励。
激しい溺愛さえも。
「それでもやっぱりお前が憎い。お前が翼の前に現れなかったらお袋は苦しまなかった」
翔は再びサバイバルナイフを構えた。
「私のせいじゃない!」
陽子は涙を拭いもせず、翔を見つめ続けた。
「そうだいいこと教えてやる。翼を殺したのは俺だ。アイツはヒーヒー言いながら死んで行ったよ。嬉しいか! アイツと同じナイフで死ねるんだぜ」
その途端。
翔は思い出していた。
翼を刺したあの瞬間を。
確かにこのナイフだった。
翔は今。
はっきりとした記憶の中で、翼を殺したことを確認していた。
(コイツを殺せば、アイツはもう度と出て来る事はない)
そして翔は再びそのナイフで翼を抹殺することを決めていた。
そう……
陽子が死ねば、翼は魂のよりどころをなくすのだ。
(コイツさえ居なくなれば……)
翔が不気味な笑顔で迫って来る。
「狂ってる。翼助けて!」
陽子は思わず天を仰いだ。
青々とした木々の向こうに、真っ赤な太陽が輝いていた。
「ねえ翼! どうして私の名前が陽子なのか知ってる?」
「お前何言ってるんだ!?」
陽子の突拍子もない言葉で翔が動揺する。
「翼! あなたは私が太陽だと言ってくれた。でも違う。翼! あなたが私の太陽だったの!」
陽子は我が子を守るためにもう一度身構えた。
『陽子ー!』
節子の声が聞こえてくる。
その時。
「陽子ー! 逃げろー!」
翔が自分にナイフを向けて叫んでいる。
「翼! 翼なの!」
陽子が声をかけた瞬間、翔は自分を刺していた。
「翼!」
陽子は翔の元に走った。
「翼!」
陽子は落ちていたナイフを遠くに投げて背中から翔の体を抱き締めた。
「あっ!」
陽子は息を詰まらせた。
心臓が止まっていた。
「びっくりしないで。だから喋れるんだから。陽子が僕が太陽だと言ってくれたから、だから又自分を取り戻せたんだ」
「そうよ翼、あなたは私の太陽よ」
陽子は翔の体にお腹をつけた。
「あっ! 赤ちゃんが動いた! 翼! 聞こえる? 行かないでって言ってるの! 聞こえる?」
翼はうなづた。
「陽子。僕はやっと気付いた。長い間探していた答えが解ったんだ」
翼は陽子のお腹に耳をあてて、胎動を感じてようと目を閉じた。
「僕は、自分の産まれて来た意味をずっと探し続けていた。その意味が……。それは陽子と出逢うためだった。そして自分の子供を守るためだった」
翼は苦しいそうに、それでも精一杯強く言った。
「そうよ。私はそんな翼を愛するためだけに産まれて来たの。翼は私のことを太陽だと言ったけど、私には翼自体が太陽だった」
「陽子が太陽の子だと言ったから、僕は……」
翼は自分の意識だけで翔の目を開かせた。
陽子の体と太陽が重なる。
「眩しいなー。お祖父ちゃんの家で見た陽子そのものだ。やっぱり太陽の子供だな……。陽子が何時か話してくれた吉三郎も、子供を残して……。どんなに無念だったか! 今更知るなんて……」
ゆっくりと目を閉じる翼。
「陽子、僕の子供を頼む。陽子のような優しい子供に育ててやってほしい。陽子……、僕の太陽」
翼はそれだけ言って、動けなくなった。
「イヤーー!!」
ロープウェイ入口駅に陽子の悲鳴が渦巻いていた。
「翼教えて! 翼の体は何処にあるの? 何処に行けば逢えるの?」
何も聞こえないのか、翼は黙ったままだった。
『陽子ー!』
節子の声がだんだんと大きくなってくる。
陽子はやっと我に戻って、翼がこと切れている事を確認した。
陽子の目から涙がふき出した。
節子が息を切らせて坂道を駆け上ってくる。
節子は焦っていた。
履き物は突っ掛けだった。
それが歩行の邪魔をする。
廃止された、三峰神社表参道のロープウェイ入口駅に向かう道。
其処はレンガを敷き詰めたためゴツゴツしていたのだ。
節子は歩き辛い場所を必死になって登って来たのだった。
陽子は次第に冷たくなっていく翔の体を抱き締めながら、それでもまだ翼の声を聞こうとしていた。
「陽子ー!」
やっと節子がたどり着く。
「あんたが殺ったの?」
節子は、陽子に抱かれて冷たくなっている翔を見て聞いた。
陽子は節子の言葉を聞いてドキッとした。
陽子の両腕の中で、翼はこと切れていた。
陽子は首を振った。
「殺ったのは翼」
陽子の言葉に節子は首を傾げた。
周りを見ても、翼の姿は何処にもなかった。
「翼は翔さんの体の中に住んでいたの」
「何言ってるの。私にも分かるように説明して」
節子は翔を抱いて泣いている陽子の背中から、陽子を抱き締めた。
ようやく落ち着きを取り戻した陽子は重い口を開き、真実を語り始めた。
孝と薫として生きた香を殺したのは、翼だった。
合格祝いの宴会の日。
前日から翔がデートだと知った翼は、日高家に早朝忍び込んだ。
孝がコーヒーを入れる時、水に拘っているのは知っていた。
いつも山奥から汲んでくる水。
その中に医師から貰った睡眠薬を崩した作った水溶液を大量に入れておいた。
沈殿物で疑われなくするためだった。
中川に出発する一時に再び忍び込んだ翼。
居間のカーペットの上に二人を置いて、その上に大きなビニール袋を乗せた。
返り血を浴びない為の配慮だった。
ビニールの手袋でサバイバルナイフの柄を持ったのは、翔の指紋を消さないためと自分の指紋を付けない工夫だった。
ビニール袋の端を少し上げナイフを振り下ろす。
二人共即死の筈だった。
その上から用意してきたアルミシートを乗せた。
軽くて暖かい、キャンプ用のシートは足の付かないように東京の量販店で購入した物だった。
アルミシートは体の熱を逃がさないだろう。
その上軽く後処分も楽だった。
中川の帰りにアルミシートとビニール袋を回収した。
これが翼の考えた完全犯罪の答えだった。
実は陽子は何も知らされて居なかった。
ただ車で待機していただけだったのだ。
それは……
陽子のことを思い図った翼からの愛だった。
でも翼は戸惑った。
節子と貞夫がお膳立てしてくれた東大の合格祝い。
それをアリバイにしようとしたことを。
勝との思い出の品を汚してしまったことを。
勝が買ってくれたアルミシート。
でも翼はこれ以上の素材を知らない。
翼はもがき苦しみ抜いた。
それでも憎しみがそれを上回った。
翼は結局、使ってしまったのだった。
勝だけではない、陽子と秘密基地で暖まった思い出をたっぷり包んでくれたアルミシートを。
翼は陽子を犯罪者にしたくないと願った。
だけど陽子は一緒に罪を償いたかった。
それなのに……。
翼は居ない。
翔から陽子を守り抜いて死んでいった。
だからこそ、殺人者の汚名を敢えて着ようとしたのだった。
「そう言うのは殺人とは言えないわ」
節子は泣きじゃくる陽子をなだめていた。
「此処に居るのが翔さんなら、私が会ったのはやはりそうだっのかも知れない」
節子は実家を訪ねて来た翼だと思っていた人物に不信を抱いていた。
翼は何時も自分のことを僕と言っていた。
でもあの日、その人は俺だと言った。
節子が気付くと、本音が出たと言ってはいた。
でも節子は何か違うモノを感じていたのだった。
警察官が到着したのは暫くしてからだった。
「全く今日は忙しい日だ。上町の日高って家で遺体が見つかって」
来る早々愚痴をこぼす警察官。
「えっ!? 今なんて?」
節子が聞き直す。
「だから日高って家で遺体が」
「えっ!? 翼!? 翼の遺体が……」
陽子はフラフラと立ち上がり、坂道を走り始めた。
「誰か! そいつを捕まえろ!!」
警察官の声が響く。
下から上がって来た警察官が陽子の身柄を確保した。
「行かせて! 翼が私を待ってる!」
陽子は激しい抵抗を繰り返していた。
見かねた警察官が、陽子の身柄を拘束した。
パトカーで日高家に到着した陽子は震えて泣いている摩耶を抱き締めた。
二人でこの現実を直視しなければいけないと思った陽子は、摩耶を連れて現場に立っていた。
今まで生きていたかのような翼の遺体。
「白骨化した手に手を添えていたそうです」
刑事が節子に言った。
「生きたまま埋められたのですか!?」
節子が聞く。
「いやはや解らん。娘さんの話だと、行方不明になったのは二カ月程前からだと」
「そう聞いてます」
節子は陽子の様子を伺いなから話していた。
「翔さんの結婚式の時、殺されていると実感したの」
やっと陽子が話した。
「そりゃおかしいわ。この遺体どう見ても死後そんなには経ってないわ」
刑事は首を傾げた。
誰の目にも今まで生きていたように写る翼の遺体。
翔の体を借りて陽子を愛し守り抜く。
それでも自分の体は愛しい母を追い求める。悲しい翼がいた。
陽子は何気なくポケットに手を入れた。
その瞬間レコーダーのスイッチが入った。
『陽子ー! 逃げろー!』
翼の声が響きわたった。
陽子は地面に突っ伏し、激しく泣きじゃくった 。
「そうよ。翼は今まで生きていた! 私を守る為に生きていた!」
陽子は渾身の気持ちを込めて激しく地面を叩いた。
節子は陽子を見守るしかない自分を責めながら、抱き抱えていた。
この異様な光景は愛の深さ故だとマスコミは報道した。
警察は陽子が、姑による睡眠薬強姦事件の被害者だという事実を隠した。
これ以上マスコミの晒し者にさせたくなかった。
この事件の一番の被害者は陽子なのだから。
「お母さん。私この子を優しい子供に育てたい。翼に負けない位優しい子供に」
陽子は翼の大きな愛によって生かされたように、自分も負けない位大きな愛を産まれてき来る我が子に捧げようと思った。
翼が運命だと言った自分との出会い。
この子にもそんな日が訪れる事を思いつつ、三峰ロープウェイ駅に向かっていた。
摩耶は遺体確認のために先に行っていた。
閉鎖された三峰神社行きロープウェイ駅は撤去され、今は枠組みだけ残している。
摩耶は半狂乱の状態で翔と対面していた。
無理はなかった。昼の翼の遺体発見等で精神は混濁していた。
翼に支配され、自分を刺した翔。
それでも穏やかな表情だった。
「翔は本当は優しい人でした。だから翼さんの人格を受け入れてしまったのではないでしょうか」
翔の体の中に翼の魂が宿っていた。と言う信じがたい事実を警察から告げられ、摩耶はやっとそれだけ言った。
翔が陽子を殺そうとして自分の中に住み着いていた翼に殺された事実を必死に否定しようとしていたのだ。
それでも摩耶は翔の優しさを信じて生きるしかなかったのだ。
宿ったばかりの翔の忘れ形見と一緒に……
翼の死因は、サバイバルナイフによるものではなかった。
それは……
驚くべき結果だった。
凍死だったのだ。
出血多量ではあったが、翼は生きたまま冷凍庫に入れられたのだった。
だから、まるで生きているような姿だったのだ。
翼はカフェの奥の奥の冷凍庫で殺されたのだった。
翔は押し入れ収納袋の中にまだ生きている翼を入れて冷凍庫の中に押し込めたのだ。
チャックを閉じられ、僅かに残った空気で呼吸をしながら凍死していった翼。
それでも翼は凍り付いた体のままで必死に母に手を伸ばす。
翼は翔が新婚旅行から戻って来てから埋められたようだ。
翔は翼の心を遺体に戻そうとして……
翼を追い出そうとして此処に埋めたのだった。
まさか、其処に、翼の本当の母が遺棄されてるとも知らずに。
陽子は翼の押し込められていた冷凍庫を見せてもらうことにした。
(翼の心を癒やすためには見ないと何も始まらない)
そう決意したのだ。
寒すぎる冷蔵庫。
更にその奥にある冷凍庫。
陽子は暫くその場に立ち尽くしていた。
(何だろう!? 見たことがある!)
それが何処なのか陽子はすぐに思いあたった。
「ああだからなのね。だからあんなに……」
それは……
コミネモミジのお寺の涅槃像。
あの下にあった四角い無縁仏だと思われたお墓……
「あのお墓と同じ……」
陽子はあの日。
翼の心が泣いていたことを思い出した。
「翼ー!!」
陽子は其処から動けなくなった。
見かねた節子と純子が駆けつけてくるまで、陽子は冷たい床に突っ伏したままで泣いていた。
(翼は知っていたのだろうか? 自分の死に場所を……だからあんなに熱心に祈っていたのだろうか?)
陽子は勝と行ったバレンタインデーのコミネモミジの奇跡を思い出していた。
「翼ー!!」
陽子は泣いた。
思いっ切り泣いた。
お釈迦様の死に姿の涅槃像に、自分の死に場所を重ね合わせた翼の心境を思って。
生き急いだ翔。
愛する人を守るため戦った翼。
突っ走ってしまった二人の肉体と精神。
自分を見失い。忘我の末にたどり着いた境地。
翼を殺害してしまったという現実。
忘れるために。罪の意識から逃れるために、翼の魂を受け入れてしまった翔。
「分かります。でも翼さんだけではないと思います」
摩耶は震えながら翔を見つめた。
「優しかったり、激しかったり、翔は寂しかったんだと思います。だから受け入れてしまうのかな」
摩耶は血潮の上で夜叉となった翔に抱かれたことを悪夢のように思い出していた。
「お義父様もお義母様もきっと翔の体に。そうでいとあの激しさは」
摩耶は泣いていた。
翔もまた被害者だったのではないか?
偶然の悪戯がもたらした運命の。
摩耶はただ翔を信じ愛してきた。決して財産目当てなどではなかった。
子供が産まれたらまた学生に戻ると言う摩耶。
翔の分まで生きるために。
そして翼の分まで勉強するために。
それが二人の供養になると摩耶は感じていた。
摩耶もまた陽子に負けない位翔を愛していた。
摩耶は翔と暮らし始めた事件のあった家で暮らすことが一番の供養になることを感じていた。
陽子は摩耶の決断に意を唱え反対した。
いくら翔と翼の供養のためだと言っても、日高家は殺人事件の現場なのだ。
薫が埋められ、孝を狂わせた庭。
優しいかった孝に狂気を植え付けた庭。
庭の片隅で愛する薫を思い、愛して行かなければならない香を思う。
その過酷な運命を何度も呪い、睡眠薬強姦魔へと導いた庭。
そして何より愛する夫が弟を殺し埋めた庭。
自ら選んだ南天が暴いてしまった真実。
それと向き合わなければならない現実。
摩耶に耐えることが出来るのだろうか?
ここで悪夢と戦いながら本当に暮らしていけるのか?
陽子は摩耶が心配だった。そして初めて摩耶を愛しいと思った。
産まれて来る子供のために陽子が出来ること。
自分の職場である保育園で預かること。
陽子は摩耶をサポートしたいと考えていた。
過酷な運命を自分と分かち合うことが出来たなら、少しは支えられるかもしれない。
それが自分が死に追いやった翔への供養になるのかもしれない。
翔の体から翼を呼び覚ましたのは確かに自分なのだから。
そう思った時陽子は、この家に住むことを考え初めていた。
翼の運命を変えた、過去と戦うために。
翔から優しさを奪った現実と戦うために。
そして産まれて来る、二人の子供のために。
そう思った時、答えは決まった。
やはり自分もこの家に住み、この家で生活して行こうと。
二人で互いに支え合える。
それが偽装双子として運命づけられた、翼と翔の魂を癒せる一番の方法ではないのだろうか?
翼の秘密基地に陽子と摩耶が立っていた。
それぞれの胸には産まれて来た子供が抱かれいた。
陽子と摩耶は走ってくる電車を見ながら、人の痛みが分かる子供に育てようと誓い合っていた。
地面にしっかりと立って、根が張れる子供。
何時か二人で行った、コミネモミジのような子供。
陽子はこの子供達のために、太陽のようになりたいと思った。
完
途中で止まるのは、温泉施設と秩父湖。
次の大輪で、翔と陽子はバスを降りた。
三峰神社の表参道。
ロープウェイ入口駅に続く鳥居。
幾つかの土産物屋が軒を並べていた。
まだ営業している店もあった。
知人宅の横を通る。
陽子を引いて歩き出す翔。
仕方なく後に続いて歩く陽子。
友達のお母さんと目が合い思わず会釈した。
そんな陽子を翔は睨みつけた。
谷に架かる赤い橋の上で、川を覗いている翔。
「荒川か……。やっぱり深いな」
ゴツゴツした岩の横に青緑した荒川。
「ここから落ちたら面白いな」
そう言いながら陽子の手を引いた。
「落ちてくれないか?」
甘えるように言う翔。
子供の頃、この橋の上で何度泣いたことか。
陽子は恐怖で震えていた。
不意に、翔が陽子の腕を掴み欄干に体を引き寄せた。
ゾォーとした。
体中を悪寒が走る。
そして忌まわしい記憶に辿り着く。
まだロープウェイ入口駅が現役だった時、この橋の上は大勢の観光客で賑わっていた。
それは夏のことだった。
三峰神社キャンプ場へ向かう人達の後ろを歩いていた時、悲劇は起きた。
前を行く人の背負ったリュックが、小さかった陽子の頭に当たり橋の欄干まで弾き飛ばされたのだった。
もう少しで荒川に転落する所だったのだ。
そんな恐ろしい記憶があったからこそ、陽子は此処が苦手だったのだ。
でも記憶はそれだけに留まらなかった。
陽子がこの橋が苦手な本当の理由は、物心が着いた頃まで遡った。
所謂橋飛び……。
自殺だった。
ロープウェイ入口駅から降りて来た男女が喧嘩をしていた。
往く時は、店の隅にいた陽子の頭を撫でてくれた女性だった。
だから陽子は又撫でて貰おうと思っていた。
そんな陽子の前で、突然荒川に飛び込んだ女性。
陽子はそれを目撃してしまったのだった。
ぼんやりとした記憶が、今鮮明に蘇る。
陽子は橋の上でワナワナと震えだした。
それでも陽子は此処で負ける訳にはいかなかった。
翼のために気持ちを奮い立たせる。
何故三峰神社に二人で行くことを躊躇ったのか?
原因はこれだった。
三峰神社参拝の後喧嘩した男女。
そしてそれにより引き起こされた悲劇。
陽子は知らずに噂と重ね合わせいたのだった。
翔の心の中で、幾つもの人格が存在していた。
多重人格。いや元々翔は二重人格だったのだろう。
母親を愛する余り憎んでいたのだ。
そんな闇の部分に翼は憑依してしまったのだった。
翔は本当は優しい子供だった。
翼の痛みを自分の痛みとするような。
そんな中……
あのオルゴール事件が起こる。
自分の初恋の相手が、こともあろうに翼を好きになったのだ。
派手好きな母が、翔のために企画したバースデーパーティー。
誕生日の一緒の翼も形だけ出席していた。
そうしないと、翼を蔑ろにしていることがバレるから。
たったそれだけの理由だった。
その時……
クラスメートが翼に渡したオルゴール。
みんなが帰った後、直ぐに母に取り上げた。
翔の物にするために。
本当は欲しくもなかった。
壊れてしまえばいい。
そう思った。
でも……
その時翔の中に別な人格が現れる。
翼を憎む、あの柿の実事件を引き起こす人格が。
柿を盗った時……
快感を覚えた。
スリルを感じて興奮した。
でも怖くなった。
母に悲しい思いをさせてしまうと思って……
だから翼が叩かれているのを見て、助かったと思ったのだ。
その時、自分の罪で翼が裁かれるのを平気でみている自分に気付いた。
そして……
翼に対する優しさは消えていた。
母親の異常な行動で、翼との隔たりを感じた翔。
それ故に翼を心配した。
でもいくら頑張ったとしても、翼の成績にはかなわなかった。
有名私塾に通っている自分が、何もしていない翼に負けたのだ。
次第に翔は翼を憎むようになっていった。
そんな中に現れた別人格。
解離性同一性障害。
所謂多重人格の始まりだった。
翔は本来の自分では憎めない翼を、別な人格でこけおろしたのだった。
麻耶が感じた翔の優しさ。
それが本来の人格だった。
母親が翼を憎んだように、自分も憎まなければいけない。
母親思いの翔が出した答えだった。
だから……
別な人格に、その役を押し付けたのだった。
母親を愛するあまりに……
解離性同一性障害は普通、危害を加えられている人間が発症する。
でも翔はいたたまれなくなって、自傷したのだった。
翔は、本来はそれほどまでに優しい人物だったのだ。
その頃節子は、三峰口駅に向かう電車に乗っていた。
節子は焦っていた。
何が何だか解らずに取り乱していた。
トイレに置いてあった陽子の走り書きのメモを見たからだった。
《自分はもしかしたら殺されるかも知れない》
《きっと翼も何処かで殺されている》
《犯人は、さっきまで一緒にいた翔さん》
《何故なら、ご両親を殺したのは私と翼だから》
節子はワナワナと震える手にそのメモを握り締めながら、今か今かと車窓に目をやっていた。
駅前では、泣きながら三峰神社行きのバスを待っていた。
それほど辛い現実だった。
中川の駅員が、陽子が三峰行きの電車に乗ったと教えてくれたから、節子は二人を追いかけれたのだった。
大輪バス停で知人が乗り込んできて、節子を見つけ隣に座った。
「 神社まで? そう言えば陽子ちゃん、旦那さんと一緒にロープウェイ入口方面に向かって」
そこまで聞いて節子に立ち上がった。
「すいませーん! 降ろして下さい」
節子は知人にお礼を言いながらバスを降りて大輪方面に走り出した
三峰口駅出発の乗り合いバスは、全線何処でも止まってくれる。
秩父湖。
御嶽山。
温泉施設など、様々な観光に対処するためだった。
「此処で縁切りだ。陽子さんとも翼とも」
振り返った翔が言った。
「やっぱり翼がいるのね」
身構えながら陽子が言う。
「ああいるよ。ずっと前から気付いてた。摩耶に会いたいのに、隣にいたのはあんただ! 恨んだよ!」
「だからあんなに疲れていたのね? あなたを負かして会いに来たがら」
「それに気付くと線路を見てる」
陽子はピンときた。
(きっと秘密基地だ)
翔の中にいても翼は翼だった。その時陽子は、翼の強い愛に支えられた日々を思い出した。
「俺が何故此処を選んだと思う?」
陽子は首を振った。
「あんたら全員を抹殺する為だ。憑依だが何だか知らないが、俺の体を玩具にしやがって!」
翔はサバイバルナイフを構えた。
陽子は思わずお腹の子供を庇っていた。
自分の子供だと翼は言う。
でも今、翼は居ない。
(そうだ! この子を守れるのは私だけだ!)
陽子はお腹を隠すように身構えた。
「お前が憎い! 翼を変えたお前が憎い! 努力もしないで出来る奴を焚きつけやがって!」
翔が喚いている。
「翼が何もしないで受かったと思っているの!?」
陽子の脳裏に狂ったように勉強する翼が浮かんだ。
「あなたのお母さんに母親を殺されて! お父さんに私がこんな目に遭わされて! 翼がどんなに苦しんだか! あなたに分かる!?」
陽子は泣きながら本当は優しい筈の翔に問いかけた。
翔は一瞬怯んだ。
「お袋が翼のお袋を? 一体どういうことだ?」
「田中恵さんに聞いたの。薫さんとお義父さんは高校生の時から付き合っていたって」
「ほらやっぱり翼のお袋が浮気相手じゃないか!」
翔はいきり立った。
「違うのよ! 翼のお母さんが薫さんだったの。香さんも浮気相手じゃないわ。双子だと知らないお父さんが同時に二人を愛してしまったから悲劇が始まったの」
「例の睡眠薬強姦か?」
陽子はうなづいた。
「あなたのお母さんを睡眠薬で眠らせてレイプした。誰の仕業か判らないように工夫して」
陽子はため息を吐いた。
「翼が言ってた。私が眠らされていた時、お義母さんは『私の時にも同じ事をしたのね』と言ったと」
翔はうなづきながら聞いていた。
その発見は覚えていた。
確かにあの現場で……
薫はそう言った。
「それが薫さんが香さんだという証拠よ。お祖父さんも、義母さんを香と呼んでいた」
翔はしばらくは、おとなしく聞いていた。
翔は本当に知らなかった。
父親の浮気相手の子供。
それだけで翼を憎んだ。
それだけで充分憎む価値はあった。
母に苦しみを与える翼。
自分の屈辱を味わせた翼。
何も勉強しなくても、翼は出来ると翔は信じていたのだった。
全てを翼のせいにしたかった。
愛する母の叱咤激励。
激しい溺愛さえも。
「それでもやっぱりお前が憎い。お前が翼の前に現れなかったらお袋は苦しまなかった」
翔は再びサバイバルナイフを構えた。
「私のせいじゃない!」
陽子は涙を拭いもせず、翔を見つめ続けた。
「そうだいいこと教えてやる。翼を殺したのは俺だ。アイツはヒーヒー言いながら死んで行ったよ。嬉しいか! アイツと同じナイフで死ねるんだぜ」
その途端。
翔は思い出していた。
翼を刺したあの瞬間を。
確かにこのナイフだった。
翔は今。
はっきりとした記憶の中で、翼を殺したことを確認していた。
(コイツを殺せば、アイツはもう度と出て来る事はない)
そして翔は再びそのナイフで翼を抹殺することを決めていた。
そう……
陽子が死ねば、翼は魂のよりどころをなくすのだ。
(コイツさえ居なくなれば……)
翔が不気味な笑顔で迫って来る。
「狂ってる。翼助けて!」
陽子は思わず天を仰いだ。
青々とした木々の向こうに、真っ赤な太陽が輝いていた。
「ねえ翼! どうして私の名前が陽子なのか知ってる?」
「お前何言ってるんだ!?」
陽子の突拍子もない言葉で翔が動揺する。
「翼! あなたは私が太陽だと言ってくれた。でも違う。翼! あなたが私の太陽だったの!」
陽子は我が子を守るためにもう一度身構えた。
『陽子ー!』
節子の声が聞こえてくる。
その時。
「陽子ー! 逃げろー!」
翔が自分にナイフを向けて叫んでいる。
「翼! 翼なの!」
陽子が声をかけた瞬間、翔は自分を刺していた。
「翼!」
陽子は翔の元に走った。
「翼!」
陽子は落ちていたナイフを遠くに投げて背中から翔の体を抱き締めた。
「あっ!」
陽子は息を詰まらせた。
心臓が止まっていた。
「びっくりしないで。だから喋れるんだから。陽子が僕が太陽だと言ってくれたから、だから又自分を取り戻せたんだ」
「そうよ翼、あなたは私の太陽よ」
陽子は翔の体にお腹をつけた。
「あっ! 赤ちゃんが動いた! 翼! 聞こえる? 行かないでって言ってるの! 聞こえる?」
翼はうなづた。
「陽子。僕はやっと気付いた。長い間探していた答えが解ったんだ」
翼は陽子のお腹に耳をあてて、胎動を感じてようと目を閉じた。
「僕は、自分の産まれて来た意味をずっと探し続けていた。その意味が……。それは陽子と出逢うためだった。そして自分の子供を守るためだった」
翼は苦しいそうに、それでも精一杯強く言った。
「そうよ。私はそんな翼を愛するためだけに産まれて来たの。翼は私のことを太陽だと言ったけど、私には翼自体が太陽だった」
「陽子が太陽の子だと言ったから、僕は……」
翼は自分の意識だけで翔の目を開かせた。
陽子の体と太陽が重なる。
「眩しいなー。お祖父ちゃんの家で見た陽子そのものだ。やっぱり太陽の子供だな……。陽子が何時か話してくれた吉三郎も、子供を残して……。どんなに無念だったか! 今更知るなんて……」
ゆっくりと目を閉じる翼。
「陽子、僕の子供を頼む。陽子のような優しい子供に育ててやってほしい。陽子……、僕の太陽」
翼はそれだけ言って、動けなくなった。
「イヤーー!!」
ロープウェイ入口駅に陽子の悲鳴が渦巻いていた。
「翼教えて! 翼の体は何処にあるの? 何処に行けば逢えるの?」
何も聞こえないのか、翼は黙ったままだった。
『陽子ー!』
節子の声がだんだんと大きくなってくる。
陽子はやっと我に戻って、翼がこと切れている事を確認した。
陽子の目から涙がふき出した。
節子が息を切らせて坂道を駆け上ってくる。
節子は焦っていた。
履き物は突っ掛けだった。
それが歩行の邪魔をする。
廃止された、三峰神社表参道のロープウェイ入口駅に向かう道。
其処はレンガを敷き詰めたためゴツゴツしていたのだ。
節子は歩き辛い場所を必死になって登って来たのだった。
陽子は次第に冷たくなっていく翔の体を抱き締めながら、それでもまだ翼の声を聞こうとしていた。
「陽子ー!」
やっと節子がたどり着く。
「あんたが殺ったの?」
節子は、陽子に抱かれて冷たくなっている翔を見て聞いた。
陽子は節子の言葉を聞いてドキッとした。
陽子の両腕の中で、翼はこと切れていた。
陽子は首を振った。
「殺ったのは翼」
陽子の言葉に節子は首を傾げた。
周りを見ても、翼の姿は何処にもなかった。
「翼は翔さんの体の中に住んでいたの」
「何言ってるの。私にも分かるように説明して」
節子は翔を抱いて泣いている陽子の背中から、陽子を抱き締めた。
ようやく落ち着きを取り戻した陽子は重い口を開き、真実を語り始めた。
孝と薫として生きた香を殺したのは、翼だった。
合格祝いの宴会の日。
前日から翔がデートだと知った翼は、日高家に早朝忍び込んだ。
孝がコーヒーを入れる時、水に拘っているのは知っていた。
いつも山奥から汲んでくる水。
その中に医師から貰った睡眠薬を崩した作った水溶液を大量に入れておいた。
沈殿物で疑われなくするためだった。
中川に出発する一時に再び忍び込んだ翼。
居間のカーペットの上に二人を置いて、その上に大きなビニール袋を乗せた。
返り血を浴びない為の配慮だった。
ビニールの手袋でサバイバルナイフの柄を持ったのは、翔の指紋を消さないためと自分の指紋を付けない工夫だった。
ビニール袋の端を少し上げナイフを振り下ろす。
二人共即死の筈だった。
その上から用意してきたアルミシートを乗せた。
軽くて暖かい、キャンプ用のシートは足の付かないように東京の量販店で購入した物だった。
アルミシートは体の熱を逃がさないだろう。
その上軽く後処分も楽だった。
中川の帰りにアルミシートとビニール袋を回収した。
これが翼の考えた完全犯罪の答えだった。
実は陽子は何も知らされて居なかった。
ただ車で待機していただけだったのだ。
それは……
陽子のことを思い図った翼からの愛だった。
でも翼は戸惑った。
節子と貞夫がお膳立てしてくれた東大の合格祝い。
それをアリバイにしようとしたことを。
勝との思い出の品を汚してしまったことを。
勝が買ってくれたアルミシート。
でも翼はこれ以上の素材を知らない。
翼はもがき苦しみ抜いた。
それでも憎しみがそれを上回った。
翼は結局、使ってしまったのだった。
勝だけではない、陽子と秘密基地で暖まった思い出をたっぷり包んでくれたアルミシートを。
翼は陽子を犯罪者にしたくないと願った。
だけど陽子は一緒に罪を償いたかった。
それなのに……。
翼は居ない。
翔から陽子を守り抜いて死んでいった。
だからこそ、殺人者の汚名を敢えて着ようとしたのだった。
「そう言うのは殺人とは言えないわ」
節子は泣きじゃくる陽子をなだめていた。
「此処に居るのが翔さんなら、私が会ったのはやはりそうだっのかも知れない」
節子は実家を訪ねて来た翼だと思っていた人物に不信を抱いていた。
翼は何時も自分のことを僕と言っていた。
でもあの日、その人は俺だと言った。
節子が気付くと、本音が出たと言ってはいた。
でも節子は何か違うモノを感じていたのだった。
警察官が到着したのは暫くしてからだった。
「全く今日は忙しい日だ。上町の日高って家で遺体が見つかって」
来る早々愚痴をこぼす警察官。
「えっ!? 今なんて?」
節子が聞き直す。
「だから日高って家で遺体が」
「えっ!? 翼!? 翼の遺体が……」
陽子はフラフラと立ち上がり、坂道を走り始めた。
「誰か! そいつを捕まえろ!!」
警察官の声が響く。
下から上がって来た警察官が陽子の身柄を確保した。
「行かせて! 翼が私を待ってる!」
陽子は激しい抵抗を繰り返していた。
見かねた警察官が、陽子の身柄を拘束した。
パトカーで日高家に到着した陽子は震えて泣いている摩耶を抱き締めた。
二人でこの現実を直視しなければいけないと思った陽子は、摩耶を連れて現場に立っていた。
今まで生きていたかのような翼の遺体。
「白骨化した手に手を添えていたそうです」
刑事が節子に言った。
「生きたまま埋められたのですか!?」
節子が聞く。
「いやはや解らん。娘さんの話だと、行方不明になったのは二カ月程前からだと」
「そう聞いてます」
節子は陽子の様子を伺いなから話していた。
「翔さんの結婚式の時、殺されていると実感したの」
やっと陽子が話した。
「そりゃおかしいわ。この遺体どう見ても死後そんなには経ってないわ」
刑事は首を傾げた。
誰の目にも今まで生きていたように写る翼の遺体。
翔の体を借りて陽子を愛し守り抜く。
それでも自分の体は愛しい母を追い求める。悲しい翼がいた。
陽子は何気なくポケットに手を入れた。
その瞬間レコーダーのスイッチが入った。
『陽子ー! 逃げろー!』
翼の声が響きわたった。
陽子は地面に突っ伏し、激しく泣きじゃくった 。
「そうよ。翼は今まで生きていた! 私を守る為に生きていた!」
陽子は渾身の気持ちを込めて激しく地面を叩いた。
節子は陽子を見守るしかない自分を責めながら、抱き抱えていた。
この異様な光景は愛の深さ故だとマスコミは報道した。
警察は陽子が、姑による睡眠薬強姦事件の被害者だという事実を隠した。
これ以上マスコミの晒し者にさせたくなかった。
この事件の一番の被害者は陽子なのだから。
「お母さん。私この子を優しい子供に育てたい。翼に負けない位優しい子供に」
陽子は翼の大きな愛によって生かされたように、自分も負けない位大きな愛を産まれてき来る我が子に捧げようと思った。
翼が運命だと言った自分との出会い。
この子にもそんな日が訪れる事を思いつつ、三峰ロープウェイ駅に向かっていた。
摩耶は遺体確認のために先に行っていた。
閉鎖された三峰神社行きロープウェイ駅は撤去され、今は枠組みだけ残している。
摩耶は半狂乱の状態で翔と対面していた。
無理はなかった。昼の翼の遺体発見等で精神は混濁していた。
翼に支配され、自分を刺した翔。
それでも穏やかな表情だった。
「翔は本当は優しい人でした。だから翼さんの人格を受け入れてしまったのではないでしょうか」
翔の体の中に翼の魂が宿っていた。と言う信じがたい事実を警察から告げられ、摩耶はやっとそれだけ言った。
翔が陽子を殺そうとして自分の中に住み着いていた翼に殺された事実を必死に否定しようとしていたのだ。
それでも摩耶は翔の優しさを信じて生きるしかなかったのだ。
宿ったばかりの翔の忘れ形見と一緒に……
翼の死因は、サバイバルナイフによるものではなかった。
それは……
驚くべき結果だった。
凍死だったのだ。
出血多量ではあったが、翼は生きたまま冷凍庫に入れられたのだった。
だから、まるで生きているような姿だったのだ。
翼はカフェの奥の奥の冷凍庫で殺されたのだった。
翔は押し入れ収納袋の中にまだ生きている翼を入れて冷凍庫の中に押し込めたのだ。
チャックを閉じられ、僅かに残った空気で呼吸をしながら凍死していった翼。
それでも翼は凍り付いた体のままで必死に母に手を伸ばす。
翼は翔が新婚旅行から戻って来てから埋められたようだ。
翔は翼の心を遺体に戻そうとして……
翼を追い出そうとして此処に埋めたのだった。
まさか、其処に、翼の本当の母が遺棄されてるとも知らずに。
陽子は翼の押し込められていた冷凍庫を見せてもらうことにした。
(翼の心を癒やすためには見ないと何も始まらない)
そう決意したのだ。
寒すぎる冷蔵庫。
更にその奥にある冷凍庫。
陽子は暫くその場に立ち尽くしていた。
(何だろう!? 見たことがある!)
それが何処なのか陽子はすぐに思いあたった。
「ああだからなのね。だからあんなに……」
それは……
コミネモミジのお寺の涅槃像。
あの下にあった四角い無縁仏だと思われたお墓……
「あのお墓と同じ……」
陽子はあの日。
翼の心が泣いていたことを思い出した。
「翼ー!!」
陽子は其処から動けなくなった。
見かねた節子と純子が駆けつけてくるまで、陽子は冷たい床に突っ伏したままで泣いていた。
(翼は知っていたのだろうか? 自分の死に場所を……だからあんなに熱心に祈っていたのだろうか?)
陽子は勝と行ったバレンタインデーのコミネモミジの奇跡を思い出していた。
「翼ー!!」
陽子は泣いた。
思いっ切り泣いた。
お釈迦様の死に姿の涅槃像に、自分の死に場所を重ね合わせた翼の心境を思って。
生き急いだ翔。
愛する人を守るため戦った翼。
突っ走ってしまった二人の肉体と精神。
自分を見失い。忘我の末にたどり着いた境地。
翼を殺害してしまったという現実。
忘れるために。罪の意識から逃れるために、翼の魂を受け入れてしまった翔。
「分かります。でも翼さんだけではないと思います」
摩耶は震えながら翔を見つめた。
「優しかったり、激しかったり、翔は寂しかったんだと思います。だから受け入れてしまうのかな」
摩耶は血潮の上で夜叉となった翔に抱かれたことを悪夢のように思い出していた。
「お義父様もお義母様もきっと翔の体に。そうでいとあの激しさは」
摩耶は泣いていた。
翔もまた被害者だったのではないか?
偶然の悪戯がもたらした運命の。
摩耶はただ翔を信じ愛してきた。決して財産目当てなどではなかった。
子供が産まれたらまた学生に戻ると言う摩耶。
翔の分まで生きるために。
そして翼の分まで勉強するために。
それが二人の供養になると摩耶は感じていた。
摩耶もまた陽子に負けない位翔を愛していた。
摩耶は翔と暮らし始めた事件のあった家で暮らすことが一番の供養になることを感じていた。
陽子は摩耶の決断に意を唱え反対した。
いくら翔と翼の供養のためだと言っても、日高家は殺人事件の現場なのだ。
薫が埋められ、孝を狂わせた庭。
優しいかった孝に狂気を植え付けた庭。
庭の片隅で愛する薫を思い、愛して行かなければならない香を思う。
その過酷な運命を何度も呪い、睡眠薬強姦魔へと導いた庭。
そして何より愛する夫が弟を殺し埋めた庭。
自ら選んだ南天が暴いてしまった真実。
それと向き合わなければならない現実。
摩耶に耐えることが出来るのだろうか?
ここで悪夢と戦いながら本当に暮らしていけるのか?
陽子は摩耶が心配だった。そして初めて摩耶を愛しいと思った。
産まれて来る子供のために陽子が出来ること。
自分の職場である保育園で預かること。
陽子は摩耶をサポートしたいと考えていた。
過酷な運命を自分と分かち合うことが出来たなら、少しは支えられるかもしれない。
それが自分が死に追いやった翔への供養になるのかもしれない。
翔の体から翼を呼び覚ましたのは確かに自分なのだから。
そう思った時陽子は、この家に住むことを考え初めていた。
翼の運命を変えた、過去と戦うために。
翔から優しさを奪った現実と戦うために。
そして産まれて来る、二人の子供のために。
そう思った時、答えは決まった。
やはり自分もこの家に住み、この家で生活して行こうと。
二人で互いに支え合える。
それが偽装双子として運命づけられた、翼と翔の魂を癒せる一番の方法ではないのだろうか?
翼の秘密基地に陽子と摩耶が立っていた。
それぞれの胸には産まれて来た子供が抱かれいた。
陽子と摩耶は走ってくる電車を見ながら、人の痛みが分かる子供に育てようと誓い合っていた。
地面にしっかりと立って、根が張れる子供。
何時か二人で行った、コミネモミジのような子供。
陽子はこの子供達のために、太陽のようになりたいと思った。
完
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