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― 2章 黄金の秘密 ―
第14話 初めての対話
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しだいに日の伸びた春の宵。
いつもどおり一人きりの夕食を済ませてアリアが二階にあがると、昨日と同じようにセレスティーネが佇んでいた。
「……こんにちは、お姉さま」
アリアはほほえみを向けながらも、すばやく距離を取った。
昨日リクハルトに殴られた腹部はこぶしの形にアザとなってしまい、大笑いするたびに痛んでいる。
セレスティーネはハッと息を呑むと、傷ついたように瞳を揺らした。
「ひどい……! まるで、わたくしがいじめたようにふるまうのね……!」
「え?」
「やっぱりあなたと仲良くするなんて無理だわ。どうせそうやって怯えた素振りを見せて、みんなにわたくしの悪評をまいて同情を乞うのでしょう?」
「なっ、なんのお話ですか?」
やはり今日も言っていることがさっぱりわからない。
自分は何もしていないような口ぶりだが、昨日何をやらかしたか忘れたのだろうか?
『やっぱり仲良くできない』も何も、一度だって仲良くしようとしたことがあったと言うのか?
怪訝な顔をした妹に、セレスティーネは何を話しても意味がないとばかりに首を振って、悲しげにうつむいた。
「どんな悪女でも、真心を込めてお願いすれば聞いてくれるかもだなんて、わたくしが純粋すぎたのね。でも、仕方なかったの。あなたのように身勝手な人間がいるなんて、頭でわかっていても信じられなかったんだもの……」
「……」
解説を求めて傍らのリクハルトに目線を送ったが、セレスティーネの忠実な侍従は整った顔を気まずげに固めて、アリアとはかたくなに目を合わそうとしなかった。
(いや、自分のご主人がなんかやばいのは自覚あるんかい……)
もしかすると、姉は当初の想定をはるかに超えて話の通じない人かもしれない。
そんなことはないと思いたいが、今後の自分の行動指針を考えるにあたって、どの程度会話ができるかはハッキリさせておかねばならず、アリアは「えーっと……」と切り出した。
「昨日、ご自分の侍従にわたしを殴らせて納屋に閉じ込めたことは、お姉さまの中でどういう解釈になっているんですか? あれが真心を込めてお願いしたって……本気で? いじめたとふつうに言って差し支えないかと思うんですが……」
「なっ、殴らせて閉じ込めただなんて……! やっぱり……やっぱり思ったとおりだわ!」
氷色の瞳は怯えるように見開かれ、胸元で手を組んで後ずさった。
すかさずリクハルトが庇い立ち、険しい目をアリアに向ける。
侍従の後ろで震えるその様子だけ見れば、思わず守りたくなってしまうような、無垢でいたいけな美少女である。
「わ、わたくしがどれだけ怖かったと思うの? 将来、わたくしの婚約者を奪った上に、見に覚えのない罪を着せてくる相手と交渉するなんて……! でも、それでもみんなのためにがんばったのよ。あなたにみんなの運命をめちゃくちゃにされるわけにはいかないから……! 殴って閉じ込められたなんて責めるけれど、あなたが話を聞いてくれなかったからじゃない! わたくしだってあんなこと、したくなかったわ!」
涙をいっぱいに貯めて、切々と語る表情を向けられてしまうと、なぜかこちらが悪いことをしているような錯覚までしてくる。
リクハルトはセレスティーネの肩を抱き、「ご心痛をお察ししろ」とアリアに言ってのけた。
「お前が向けられている注目は、元はセレスさまのものだ。我が物顔で歩き回っているお屋敷も、当然のようにこき使っているメイドも、全部セレスさまのためのもの。とつぜん血の繋がりもない厚かましい女にすべて奪われ、それでも耐えなければならないお立場になってみろ」
「……」
勝手な言いように、アリアは片眉を釣り上げた。
まずメイドはこき使っていない。
注目されているのはまあそうだろうが、なにせ大貴族に引き取られたばかりの孤児。誰だって気になるだろうし、人の目が少ないほうがまずいはずだ。
たしかに邸内をウロウロ歩き回ってはいるが、我が物顔かどうかなんて個人の見解である。
引き取られたのはアリアの意思でもないのに、養子は部屋に閉じこもって、下賤の血らしく卑屈でいろと言いたいのか?
(というかこの言いようだと『だからちょっと頭のおかしいことを言っても大目に見ろ』って言ってるも同然なんだけど、この人自覚あるのかしら?)
セレスティーネは目元を袖口でそっと拭い、「ありがとう、リク。あなたはいつもわたくしの味方ね」とほほえんだ。
アリアが姉の笑みを見たのは、これが初めてであった。
長いまつげが涙に濡れ、頬を水晶が零れ落ちて、まるで聖女と見紛うような清純さ。
だが、背筋をうすら寒いものが走った気がして、かすかに身震いした。
ちなみにリクハルトもはにかんだように口元を緩めたが、それはどうでもよかった。
アリアは世渡りが上手い。
何を言えば相手がよろこび、何をすれば癒やされるのか、これまでそこそこの精度で当ててきた。
下町での母親フォロー生活で培った経験ではあるが、そもそもそれができるのは、誰もがなにか一つはアリアと共通して持つ認識があるからだ。
何も人生観やら理想やらといった大きなものでなくとも、単なる現実に対する理解でも良い。
なにか一つでも自分と同じものを持っていれば、それを基点としてアリアは近づくことができた。
だがその一つを掴むには、言葉を交わすしかない。
生まれ持つ要素が違うほど、自分との距離が遠いほど、何度も交差させるしかない。
セレスティーネと相対していまだ、アリアは彼女に近づくための縁を、何一つ見つけられていなかった。
「……わたしがお姉さまの婚約者を奪って断罪するというのも、『シナリオ』というものなのですか?」
妹の問いかけに、セレスティーネが顔を上げた。
初めて目があった。
澄んだ氷のような、いつも遠くを見ているうつろな瞳。
だが今だけは冷たい侮蔑と憎しみをこめて、アリアを映し込んでいた。
「そう。ここは、選択肢は数あれど大まかなイベントは決まっている世界。あなたは主人公で、いろんな美男子と恋愛し、それが国の未来を左右するのよ」
「イ、イケメン……!? 恋愛!?」
予想だにしないふざけた単語が飛び出てきて、思わず大声でオウム返ししてしまった。
(と、とんでもないことを言い出したわお姉さま……。どこでどんな物語を読めば、そんな発想が出てくるの? ……いや! これは貴重な機会。ビビっている場合じゃないわ、なるべく多くのことを聞き出さないと)
内心は動揺しまくっていたが、咳払いをして自分を落ち着かせる。
「そ、そうでしたか。わたしが手を出す男の中にお姉さまの婚約者がいると。……ちなみに誰です?」
「テセウスさまよ」
念のため名前を聞いてみたが、知らない人である。実在するのかも不明だ。
「まだ婚約はしていないけど、そのうちすることになるの。……結局、あなたに略奪されてしまうのだけれど」
物憂げにため息をつく様子を見て、リクハルトをチラッと伺ってみたが、特に何の動揺も浮かんでいない。
(明らかにお姉さまに惚れてるこいつがこの反応ってことは、初耳じゃないのね……)
「わたくしから婚約者を奪い、それにも飽き足らずいろんなイケメンを侍らせて、気に入らない女には罪を着せて社会的に抹殺する。それがあなた、アリア・プランケットの本性。だからわたくしが、あなたの悪事を食い止めるの」
「ほげ……」
果敢に睨まれても、アリアはなんとも言えない声を出すことしかできなかった。
(気に入らない人に濡れ衣を着せて抹殺するって……わたし、そこらへんの孤児なんだけど? い、いったいどうやって?)
姉の頭もこの国自体も不安である。
テセウスさまとやらがアリアを好きになるのか。
ユスティフが孤児の色恋沙汰ごときでどうにかなるのか。
それらはしょせん人様のことなので、アリアには預かり知らぬところである。
だが自分のことならば、少なくともやらないだろうことは確約しておきたかった。
「お姉さま、前にも言ったでしょう? わたしはお姉さまのものを取ったりしません。まして、犯してもいない罪を着せて断罪するなんて、絶対にしません」
怯えさせないように優しい声で、しかし断固として言い切ると、氷色の瞳と薔薇色の瞳がつかのま交わった。
だがすぐにセレスティーネの視線は外されて、ツンと顔を背けてしまった。
彼女はいつも悲しげで、どこか遠くを見てばかりいる。
「嘘つき。わたくしは知っているの。純粋そうな笑顔の裏で、自分が人から愛されることしか考えていないのよ。あなたなんていない方がいいんだわ。わたくしの……いえ。みんなの敵なのだから」
セレスティーネはアリアの返事を待たずに鋭く踵を返し、リクハルトをつれて自室へ去ってしまった。
アリアはその場で立ち尽くしていたが、しばし考えてから足音を立てぬようにセレスティーネの自室にそっと近づいた。
無論、盗み聞きのためである。
(あ゛ー……疲れた。三日分くらいの生命力を取られたわ。もう真正面から話そうとするのはやめよう)
厚いドアの向こうでの抑えた会話であっても、アリアの耳は聞こうと思えば聞けてしまう。
「……本当によろしいのですか、セレスさま」
「なんのこと?」
セレスの声色は、さっきと打って変わって甘く優しくなっている。
アリアや両親に対する塩対応とは大違いである。
「あの女をお嫌いなのはよくわかります。あんな厚かましい女……! 目障りなのは当たり前のことです。ですが……このままでは、セレスさまの評判に影響が出るのではないかと」
「リクったら、心配性なんだから。……ふふ。妹の策略のせいで家族から虐げられていた女の子なんて、どう見てもそっちがヒロインじゃない。好きなだけ調子に乗ってもらいましょう。そうしたら今に本性が出てくるわ」
(いや、策略をした覚えはない……!)
セレスティーネが両親とも家事使用人とも距離があるのは、おそらくアリアが来る前からのはずだ。
「本当の悪女はヒロインで、本当のヒロインは悪役令嬢なんだって言ったでしょ? 最後に報いを受けるのはあの女のほうよ。わたくしはこれから起こることを知っているの。だって前世で読んだもの」
「そう、ですね……」
端切れの悪い返答に、「もう。今日はどうしたの?」とセレスティーネが甘く問いかけて、衣擦れの音がした。
リクハルトがハッと息を呑んだのがわかった。
(え!? ひょっとして、なんかいい雰囲気になってるの!?)
だとしたらこれ以上は盗み聞きするべきではない。……ちょっと気になるが。
アリアは今しがた耳にした情報を反芻しながら、来た時と同じようにそっとその場を離れた。
――ここは、選択肢は数あれど大まかなイベントは決まっている世界。
――わたくしはこれから起こることを知っているの。だって前世で読んだもの。
「……つまり、お姉さまにとってここは前世で読んだ物語の世界ってこと……?」
前世が本当にあるのかはもちろん知らないし、この世界が物語の中だとは到底思わない。
だが、セレスティーネがなぜあんなに確信を持ってアリアを拒絶するのか、理由の一端が垣間見えた。そして、こちらにはできることが特にないことも。
「お手上げー」
アリアはベッドにひっくり返り、ジャクリーヌ先生がくれたくまのぬいぐるみを抱きしめた。
いつもどおり一人きりの夕食を済ませてアリアが二階にあがると、昨日と同じようにセレスティーネが佇んでいた。
「……こんにちは、お姉さま」
アリアはほほえみを向けながらも、すばやく距離を取った。
昨日リクハルトに殴られた腹部はこぶしの形にアザとなってしまい、大笑いするたびに痛んでいる。
セレスティーネはハッと息を呑むと、傷ついたように瞳を揺らした。
「ひどい……! まるで、わたくしがいじめたようにふるまうのね……!」
「え?」
「やっぱりあなたと仲良くするなんて無理だわ。どうせそうやって怯えた素振りを見せて、みんなにわたくしの悪評をまいて同情を乞うのでしょう?」
「なっ、なんのお話ですか?」
やはり今日も言っていることがさっぱりわからない。
自分は何もしていないような口ぶりだが、昨日何をやらかしたか忘れたのだろうか?
『やっぱり仲良くできない』も何も、一度だって仲良くしようとしたことがあったと言うのか?
怪訝な顔をした妹に、セレスティーネは何を話しても意味がないとばかりに首を振って、悲しげにうつむいた。
「どんな悪女でも、真心を込めてお願いすれば聞いてくれるかもだなんて、わたくしが純粋すぎたのね。でも、仕方なかったの。あなたのように身勝手な人間がいるなんて、頭でわかっていても信じられなかったんだもの……」
「……」
解説を求めて傍らのリクハルトに目線を送ったが、セレスティーネの忠実な侍従は整った顔を気まずげに固めて、アリアとはかたくなに目を合わそうとしなかった。
(いや、自分のご主人がなんかやばいのは自覚あるんかい……)
もしかすると、姉は当初の想定をはるかに超えて話の通じない人かもしれない。
そんなことはないと思いたいが、今後の自分の行動指針を考えるにあたって、どの程度会話ができるかはハッキリさせておかねばならず、アリアは「えーっと……」と切り出した。
「昨日、ご自分の侍従にわたしを殴らせて納屋に閉じ込めたことは、お姉さまの中でどういう解釈になっているんですか? あれが真心を込めてお願いしたって……本気で? いじめたとふつうに言って差し支えないかと思うんですが……」
「なっ、殴らせて閉じ込めただなんて……! やっぱり……やっぱり思ったとおりだわ!」
氷色の瞳は怯えるように見開かれ、胸元で手を組んで後ずさった。
すかさずリクハルトが庇い立ち、険しい目をアリアに向ける。
侍従の後ろで震えるその様子だけ見れば、思わず守りたくなってしまうような、無垢でいたいけな美少女である。
「わ、わたくしがどれだけ怖かったと思うの? 将来、わたくしの婚約者を奪った上に、見に覚えのない罪を着せてくる相手と交渉するなんて……! でも、それでもみんなのためにがんばったのよ。あなたにみんなの運命をめちゃくちゃにされるわけにはいかないから……! 殴って閉じ込められたなんて責めるけれど、あなたが話を聞いてくれなかったからじゃない! わたくしだってあんなこと、したくなかったわ!」
涙をいっぱいに貯めて、切々と語る表情を向けられてしまうと、なぜかこちらが悪いことをしているような錯覚までしてくる。
リクハルトはセレスティーネの肩を抱き、「ご心痛をお察ししろ」とアリアに言ってのけた。
「お前が向けられている注目は、元はセレスさまのものだ。我が物顔で歩き回っているお屋敷も、当然のようにこき使っているメイドも、全部セレスさまのためのもの。とつぜん血の繋がりもない厚かましい女にすべて奪われ、それでも耐えなければならないお立場になってみろ」
「……」
勝手な言いように、アリアは片眉を釣り上げた。
まずメイドはこき使っていない。
注目されているのはまあそうだろうが、なにせ大貴族に引き取られたばかりの孤児。誰だって気になるだろうし、人の目が少ないほうがまずいはずだ。
たしかに邸内をウロウロ歩き回ってはいるが、我が物顔かどうかなんて個人の見解である。
引き取られたのはアリアの意思でもないのに、養子は部屋に閉じこもって、下賤の血らしく卑屈でいろと言いたいのか?
(というかこの言いようだと『だからちょっと頭のおかしいことを言っても大目に見ろ』って言ってるも同然なんだけど、この人自覚あるのかしら?)
セレスティーネは目元を袖口でそっと拭い、「ありがとう、リク。あなたはいつもわたくしの味方ね」とほほえんだ。
アリアが姉の笑みを見たのは、これが初めてであった。
長いまつげが涙に濡れ、頬を水晶が零れ落ちて、まるで聖女と見紛うような清純さ。
だが、背筋をうすら寒いものが走った気がして、かすかに身震いした。
ちなみにリクハルトもはにかんだように口元を緩めたが、それはどうでもよかった。
アリアは世渡りが上手い。
何を言えば相手がよろこび、何をすれば癒やされるのか、これまでそこそこの精度で当ててきた。
下町での母親フォロー生活で培った経験ではあるが、そもそもそれができるのは、誰もがなにか一つはアリアと共通して持つ認識があるからだ。
何も人生観やら理想やらといった大きなものでなくとも、単なる現実に対する理解でも良い。
なにか一つでも自分と同じものを持っていれば、それを基点としてアリアは近づくことができた。
だがその一つを掴むには、言葉を交わすしかない。
生まれ持つ要素が違うほど、自分との距離が遠いほど、何度も交差させるしかない。
セレスティーネと相対していまだ、アリアは彼女に近づくための縁を、何一つ見つけられていなかった。
「……わたしがお姉さまの婚約者を奪って断罪するというのも、『シナリオ』というものなのですか?」
妹の問いかけに、セレスティーネが顔を上げた。
初めて目があった。
澄んだ氷のような、いつも遠くを見ているうつろな瞳。
だが今だけは冷たい侮蔑と憎しみをこめて、アリアを映し込んでいた。
「そう。ここは、選択肢は数あれど大まかなイベントは決まっている世界。あなたは主人公で、いろんな美男子と恋愛し、それが国の未来を左右するのよ」
「イ、イケメン……!? 恋愛!?」
予想だにしないふざけた単語が飛び出てきて、思わず大声でオウム返ししてしまった。
(と、とんでもないことを言い出したわお姉さま……。どこでどんな物語を読めば、そんな発想が出てくるの? ……いや! これは貴重な機会。ビビっている場合じゃないわ、なるべく多くのことを聞き出さないと)
内心は動揺しまくっていたが、咳払いをして自分を落ち着かせる。
「そ、そうでしたか。わたしが手を出す男の中にお姉さまの婚約者がいると。……ちなみに誰です?」
「テセウスさまよ」
念のため名前を聞いてみたが、知らない人である。実在するのかも不明だ。
「まだ婚約はしていないけど、そのうちすることになるの。……結局、あなたに略奪されてしまうのだけれど」
物憂げにため息をつく様子を見て、リクハルトをチラッと伺ってみたが、特に何の動揺も浮かんでいない。
(明らかにお姉さまに惚れてるこいつがこの反応ってことは、初耳じゃないのね……)
「わたくしから婚約者を奪い、それにも飽き足らずいろんなイケメンを侍らせて、気に入らない女には罪を着せて社会的に抹殺する。それがあなた、アリア・プランケットの本性。だからわたくしが、あなたの悪事を食い止めるの」
「ほげ……」
果敢に睨まれても、アリアはなんとも言えない声を出すことしかできなかった。
(気に入らない人に濡れ衣を着せて抹殺するって……わたし、そこらへんの孤児なんだけど? い、いったいどうやって?)
姉の頭もこの国自体も不安である。
テセウスさまとやらがアリアを好きになるのか。
ユスティフが孤児の色恋沙汰ごときでどうにかなるのか。
それらはしょせん人様のことなので、アリアには預かり知らぬところである。
だが自分のことならば、少なくともやらないだろうことは確約しておきたかった。
「お姉さま、前にも言ったでしょう? わたしはお姉さまのものを取ったりしません。まして、犯してもいない罪を着せて断罪するなんて、絶対にしません」
怯えさせないように優しい声で、しかし断固として言い切ると、氷色の瞳と薔薇色の瞳がつかのま交わった。
だがすぐにセレスティーネの視線は外されて、ツンと顔を背けてしまった。
彼女はいつも悲しげで、どこか遠くを見てばかりいる。
「嘘つき。わたくしは知っているの。純粋そうな笑顔の裏で、自分が人から愛されることしか考えていないのよ。あなたなんていない方がいいんだわ。わたくしの……いえ。みんなの敵なのだから」
セレスティーネはアリアの返事を待たずに鋭く踵を返し、リクハルトをつれて自室へ去ってしまった。
アリアはその場で立ち尽くしていたが、しばし考えてから足音を立てぬようにセレスティーネの自室にそっと近づいた。
無論、盗み聞きのためである。
(あ゛ー……疲れた。三日分くらいの生命力を取られたわ。もう真正面から話そうとするのはやめよう)
厚いドアの向こうでの抑えた会話であっても、アリアの耳は聞こうと思えば聞けてしまう。
「……本当によろしいのですか、セレスさま」
「なんのこと?」
セレスの声色は、さっきと打って変わって甘く優しくなっている。
アリアや両親に対する塩対応とは大違いである。
「あの女をお嫌いなのはよくわかります。あんな厚かましい女……! 目障りなのは当たり前のことです。ですが……このままでは、セレスさまの評判に影響が出るのではないかと」
「リクったら、心配性なんだから。……ふふ。妹の策略のせいで家族から虐げられていた女の子なんて、どう見てもそっちがヒロインじゃない。好きなだけ調子に乗ってもらいましょう。そうしたら今に本性が出てくるわ」
(いや、策略をした覚えはない……!)
セレスティーネが両親とも家事使用人とも距離があるのは、おそらくアリアが来る前からのはずだ。
「本当の悪女はヒロインで、本当のヒロインは悪役令嬢なんだって言ったでしょ? 最後に報いを受けるのはあの女のほうよ。わたくしはこれから起こることを知っているの。だって前世で読んだもの」
「そう、ですね……」
端切れの悪い返答に、「もう。今日はどうしたの?」とセレスティーネが甘く問いかけて、衣擦れの音がした。
リクハルトがハッと息を呑んだのがわかった。
(え!? ひょっとして、なんかいい雰囲気になってるの!?)
だとしたらこれ以上は盗み聞きするべきではない。……ちょっと気になるが。
アリアは今しがた耳にした情報を反芻しながら、来た時と同じようにそっとその場を離れた。
――ここは、選択肢は数あれど大まかなイベントは決まっている世界。
――わたくしはこれから起こることを知っているの。だって前世で読んだもの。
「……つまり、お姉さまにとってここは前世で読んだ物語の世界ってこと……?」
前世が本当にあるのかはもちろん知らないし、この世界が物語の中だとは到底思わない。
だが、セレスティーネがなぜあんなに確信を持ってアリアを拒絶するのか、理由の一端が垣間見えた。そして、こちらにはできることが特にないことも。
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