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連載
リリス
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使い慣れた宿の奥まった一室。扉がきいっと音を立てて開いた。
暖められた空気が漏れ、丸テーブルに置いたロウソクが赤く揺らめいて踊る。
廊下に立っていたリリスが、サナトの方を見ずに部屋に入った。
ルーティアが嬉しそうに立ち上がり、意味深な視線をサナトに向けて入れ違いで出て行く。
「じゃあ、がんばって」
すれ違いざま、ルーティアがリリスに耳打ちすると、白い頬がほんのり染まった。
そして――
リリスが恥ずかしそうに顔を上げた。
「ご主人様、お言いつけのとおり着て参りました」
「そんなに固くならなくていい。よく似合ってるぞ」
モノトーンの衣装だ。膨らんだ形状の袖。すらりと締まった腰回り。そして頭にはフリル素材のホワイトブリム。
メイド服に身を包んだリリスが、か細い声で「本当ですか?」と自信なさげに上目遣いで見つめた。
「本当だ。なかなか着てもらう機会がなかったが、出会った時に思い描いていた通り、とても綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
リリスはそう言って、逃げるようにそそくさとお茶の準備を始める。
横顔や背中に視線を感じるのだろう。毎日同じことをしているはずなのに、耳まで真っ赤に染めた彼女の動きは落ち着きがない。
カップを温める手順をすっ飛ばし、はたと気づいてやり直したり、茶葉を多く入れすぎて戻したりしている。
そんな姿を、サナトは和らいだ表情で見つめる。心の底から幸せを感じているようだ。
「なあ、リリス。俺と出会ったときのことを覚えているか?」
「忘れるはずがありません。あの日を境に、私のすべてが変わったのですから」
リリスはお湯を沸かし、湯気とにらめっこしながら、微笑を浮かべる。
「ご主人様がザイトランに、私と話をさせろとおっしゃっていた光景は、今でもはっきり覚えています」
「どう思ったんだ?」
リリスが首を回してサナトを見つめた。
「この人も、また死んでしまうのかな……と」
サナトが「やれやれ」と肩をすくめる。
「死ななくて良かったよ」
「本当にそう思います。ご主人様が、私を買い取るお金を準備してくれていると考えていた時間は、つらくて何度も泣きました。店から去る間際『仲間に別れの挨拶をしておけ』と言われて真剣だと知って……余計につらかったです」
瞼を伏せたリリスが、そうっと視線を外す。
「ですから、ご主人様が約束通り来てくださった時には、心の底から死なせたくないと思いました……なのに――」
リリスが拗ねたように小さく頬を膨らます。
「ご主人様は、私の話にまったく耳を貸さずに、勝手に奥に入ってしまわれました。ザイトランに会わせずに帰ってもらおうと思っていたのに」
「仕方ないだろ? あそこまできてリリスを諦められるわけがない。どうしても……欲しかったんだ」
「そう思っていただけで嬉しいです……でも、本当に悲しかったんですよ。また、この人が死んで、いつも通りに戻るんだろうなあって、あきらめてしまって……」
サナトが片手で頬杖をついて、目尻を下げる。
「でも、違っただろ?」
リリスが照れくさそうに頷いて微笑んだ。
「はい。MP回復薬を机に置いて、私が飲んで、憲兵が驚いて、ザイトランが混乱して……何が起こっているのかわからないまま、終わったときには、私はご主人様にものになっていました。本当に、本当に、感謝しています」
「それは俺も同じだ。リリスがいてくれたから、今の俺があるんだ」
「少し言い過ぎではないでしょうか? 私は何も……」
サナトがゆっくりと首を横に振った。
「何もしてくれなくてもいいんだ。ただ、側にいてくれるだけでいい」
「ご主人様……」
リリスが息を呑む。表情がじんわり緩み、「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
そして、用意ができたポットから、カップにお茶を注ぐ。
「今日は、ご主人様に特別な日だと教えていただきましたので、街で一番高い茶葉を使いました。冷めないうちに召し上がってください」
「ありがとう」
テーブルに白いカップが二つ並ぶ。細い湯気がふわりと伸び、ポットの中では茶色い葉がゆらゆら揺らめいている。
「ところで、ご主人様、今日はなぜ特別な日なのですか? 私がメイド服を着た理由も同じですか?」
「知りたいか?」
サナトが、立って待つリリスを手招きする。
首を傾げた少女が、ぱたぱたと近寄った。サナトは微笑を浮かべてカップの一つを渡す。
「さあ、では行くか」
サナトはそう言って、部屋の中央にゲートを開けた。もう一つのカップを手に取り、リリスの手を引いて中に入った。
***
冷えた空気が満ちていた。
星に手が届きそうなほど高い塔の上で、リリスが見つめた。
「ご主人様、ここは?」
「王城の一番上だ。下に、城下町が見えるだろ」
「すごい景色……こんなに高い場所があるんですね。あっ、あそこら辺が茶葉を買いにいく店です」
サナトが頷く。カップに口を当てて紅茶を味わった。
横顔を見つめるリリスに目で促すと、心中を理解した彼女は、動作を真似た。
二人は頬を緩めた。
「ここはディーランド王国で一番高い場所だそうだ」
「こんな場所をどうしてご存知なのですか?」
「一番高い場所はどこだ、とリリアーヌに聞いたんだ。赤鋼の発生場所を特定した報酬代わりにな」
「それって……もしかして私の……」
リリスが目を丸くして、口をつぐむ。
自分の為ですか、と聞きかけたのだろう。だが、図々しいと思ったのか、表情に後悔がにじんだ。
しかし、サナトがそれを吹き飛ばすかのように言う。
「リリスのために決まってるだろ。この場所で……静かな場所で、二人でお茶を飲みたかったんだ。しばらく忙しかったしな」
「ご主人様……」
「今日は特別な日だ。その理由を教えてやる」
サナトが、優しく真剣な眼差しを向けた。
雰囲気を察したのだろう。リリスが少し体を固くして言葉を待つ。
「リリス……今日で、奴隷から解放する」
***
表情が凍り付いた。
聞いてはいけない言葉を耳にしたかのように、リリスの瞳が揺れ、両手を祈るように組んだ。
「な、なぜ……ですか? 私はもう必要――」
「リリスに、これを渡すからだ」
サナトが苦笑いしてアイテムボックスから何かを取りだした。
板状の小さく薄い宝石だ。存在を誇示するように桃色の光を放っている。
「まさか、そんな悲愴な顔をされるとは思わなかったぞ」
サナトが「ここまでして、そんな最悪の真似をするはずないだろうが」とリリスの震える体を抱きしめた。
「信じろ。俺がリリスを手放すわけがない」
強い口調で言い切り、リリスの小柄な手に板状の宝石を握らせた。
「ヒイラギ=リリス」
膝を折ったサナトがつぶやくように口にする。
その瞬間、淡い光が宝石に灯った。ぼんやりと発光する光は、瞳をうるませたリリスの顔を優しく照らす。
はっと気づいた様子の彼女は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ご……主人様、まさか……」
「それは家名の証だ」
悪戯っぽく笑うサナトは、ボックスから指輪を取りだす。
手を震わせるリリスの左手を優しく掬い取り、その白魚のような薬指にそっとはめた。
「そして、これは俺の世界でいうところの婚約指輪だ。こっちには指輪を贈る風習はないらしいがな」
そう言ったサナトは為されるがままのリリスを強く抱きしめた。
「奴隷はもういらない。お前が、誰かに奴隷だと蔑まれるのはもうたくさんなんだ。リリス……俺と結婚してくれ。この世界で初めての家族――ヒイラギ=リリスを名乗ってくれ」
「そ、んな……私が……ご主人様と……」
「そうだ。リリスじゃないとだめなんだ。もし嫌だと言うなら、迷宮で約束した『何でも言うことを聞く』という言葉を今使おう」
サナトはリリスと距離を離し、人差し指であごを上げた。
そして、返事を聞かずに、その薄い唇に己の唇を重ねた。
アメジストの瞳が見開かれ――やがて、愛おしむようにゆっくりと閉じた。
***
「返事は?」
「ここまでなさって、それは……ひどいと思います」
リリスは手をもじもじさせて、あちこちに視線を彷徨わせる。
夜風に負けないほど顔は火照り、耳は真っ赤だ。
「公用語を覚えたら、ご褒美をくださる――という話を覚えてくださっていますか?」
「もちろんだ。俺より先に使いこなせたら、という約束だったな。そういえば……形が無いものでもいいかと、リリスは聞いたな」
「はい。あの時、私の頭に浮かんだご褒美は……『ヒイラギ』の家名を下さらないかということです」
「俺の家名を?」
「ご主人様が、アズリーさんに勧誘されて『家名』を持っているとおっしゃったときに、私はどうしてもその『家名』が欲しかったのです」
「なぜだ?」
「……家族が、欲しかったのです。私は、親も兄弟も知りません。奴隷として売られ、抜け殻のように生きてきました。でも、ご主人様に買われて、一緒に旅をするようになって……心の底から私を大事にしてくださる、この方が旦那様ならいいのに……と思うようになりました」
「初めて聞く話だな」
「言えるはずありません。店で、いつかは結婚したいな、と笑う皆さんを見ながら、私も誰かと結婚するのかなと夢見ていたなんて……」
リリスの表情にあふれ出すような笑みが広がった。
「奴隷でありながら、そんな夢を見る自分が嫌いでした。絶対に無理。身分が違う。そう言い聞かせながら、心のどこかでは……もしかして、と期待していました。ですから、本当は他の女性がご主人様に近づくたびに、内心では焦っていました。新しい想い人が現れた時には、私は捨てられるだろう、と」
「今はどうだ?」
「……幸せです。幸せすぎて死にそうです」
「良かった。なら、返事を聞かせてくれ」
サナトが迎え入れるように両腕を広げた。
「本当に……いいんですか? 私……たぶん、独占欲が強いと思います」
「構わない」
「モニカさんやリリアーヌさんとお話しされていたら、拗ねるかもしれません」
「受け入れるさ」
「奴隷ですよ?」
「今日で終わった……お前は俺のものだ」
リリスが感極まったように顔をくしゃくしゃにして飛び込んだ。
サナトが強く抱きしめる。
「勝手にいなくなるなよ」
「そんなこと、絶対にしません。ご主人様こそ」
「ご主人様は今日で終わりだ。名前で呼べ」
「……サ、サナトさ、ま?」
「様はいらん」
「サ……ナト?」
「なぜ疑問なんだ?」
「だって、恥ずかしくて……」
「慣れろ」
「も、もう少し待ってください。しばらく……お名前を呼ぶたびに赤面しそうです」
「……早めに慣れてくれ」
「がんばります」
サナトは苦笑いしながらリリスの頭を何度も撫でた。力を使い果たしたように、ずるずると壁に体を預けて座り込む。
満面の笑みを浮かべるリリスの肩を抱き寄せ、再び唇を重ねる。
時間を忘れた長いキスが、いつまでも続いた。
暖められた空気が漏れ、丸テーブルに置いたロウソクが赤く揺らめいて踊る。
廊下に立っていたリリスが、サナトの方を見ずに部屋に入った。
ルーティアが嬉しそうに立ち上がり、意味深な視線をサナトに向けて入れ違いで出て行く。
「じゃあ、がんばって」
すれ違いざま、ルーティアがリリスに耳打ちすると、白い頬がほんのり染まった。
そして――
リリスが恥ずかしそうに顔を上げた。
「ご主人様、お言いつけのとおり着て参りました」
「そんなに固くならなくていい。よく似合ってるぞ」
モノトーンの衣装だ。膨らんだ形状の袖。すらりと締まった腰回り。そして頭にはフリル素材のホワイトブリム。
メイド服に身を包んだリリスが、か細い声で「本当ですか?」と自信なさげに上目遣いで見つめた。
「本当だ。なかなか着てもらう機会がなかったが、出会った時に思い描いていた通り、とても綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
リリスはそう言って、逃げるようにそそくさとお茶の準備を始める。
横顔や背中に視線を感じるのだろう。毎日同じことをしているはずなのに、耳まで真っ赤に染めた彼女の動きは落ち着きがない。
カップを温める手順をすっ飛ばし、はたと気づいてやり直したり、茶葉を多く入れすぎて戻したりしている。
そんな姿を、サナトは和らいだ表情で見つめる。心の底から幸せを感じているようだ。
「なあ、リリス。俺と出会ったときのことを覚えているか?」
「忘れるはずがありません。あの日を境に、私のすべてが変わったのですから」
リリスはお湯を沸かし、湯気とにらめっこしながら、微笑を浮かべる。
「ご主人様がザイトランに、私と話をさせろとおっしゃっていた光景は、今でもはっきり覚えています」
「どう思ったんだ?」
リリスが首を回してサナトを見つめた。
「この人も、また死んでしまうのかな……と」
サナトが「やれやれ」と肩をすくめる。
「死ななくて良かったよ」
「本当にそう思います。ご主人様が、私を買い取るお金を準備してくれていると考えていた時間は、つらくて何度も泣きました。店から去る間際『仲間に別れの挨拶をしておけ』と言われて真剣だと知って……余計につらかったです」
瞼を伏せたリリスが、そうっと視線を外す。
「ですから、ご主人様が約束通り来てくださった時には、心の底から死なせたくないと思いました……なのに――」
リリスが拗ねたように小さく頬を膨らます。
「ご主人様は、私の話にまったく耳を貸さずに、勝手に奥に入ってしまわれました。ザイトランに会わせずに帰ってもらおうと思っていたのに」
「仕方ないだろ? あそこまできてリリスを諦められるわけがない。どうしても……欲しかったんだ」
「そう思っていただけで嬉しいです……でも、本当に悲しかったんですよ。また、この人が死んで、いつも通りに戻るんだろうなあって、あきらめてしまって……」
サナトが片手で頬杖をついて、目尻を下げる。
「でも、違っただろ?」
リリスが照れくさそうに頷いて微笑んだ。
「はい。MP回復薬を机に置いて、私が飲んで、憲兵が驚いて、ザイトランが混乱して……何が起こっているのかわからないまま、終わったときには、私はご主人様にものになっていました。本当に、本当に、感謝しています」
「それは俺も同じだ。リリスがいてくれたから、今の俺があるんだ」
「少し言い過ぎではないでしょうか? 私は何も……」
サナトがゆっくりと首を横に振った。
「何もしてくれなくてもいいんだ。ただ、側にいてくれるだけでいい」
「ご主人様……」
リリスが息を呑む。表情がじんわり緩み、「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
そして、用意ができたポットから、カップにお茶を注ぐ。
「今日は、ご主人様に特別な日だと教えていただきましたので、街で一番高い茶葉を使いました。冷めないうちに召し上がってください」
「ありがとう」
テーブルに白いカップが二つ並ぶ。細い湯気がふわりと伸び、ポットの中では茶色い葉がゆらゆら揺らめいている。
「ところで、ご主人様、今日はなぜ特別な日なのですか? 私がメイド服を着た理由も同じですか?」
「知りたいか?」
サナトが、立って待つリリスを手招きする。
首を傾げた少女が、ぱたぱたと近寄った。サナトは微笑を浮かべてカップの一つを渡す。
「さあ、では行くか」
サナトはそう言って、部屋の中央にゲートを開けた。もう一つのカップを手に取り、リリスの手を引いて中に入った。
***
冷えた空気が満ちていた。
星に手が届きそうなほど高い塔の上で、リリスが見つめた。
「ご主人様、ここは?」
「王城の一番上だ。下に、城下町が見えるだろ」
「すごい景色……こんなに高い場所があるんですね。あっ、あそこら辺が茶葉を買いにいく店です」
サナトが頷く。カップに口を当てて紅茶を味わった。
横顔を見つめるリリスに目で促すと、心中を理解した彼女は、動作を真似た。
二人は頬を緩めた。
「ここはディーランド王国で一番高い場所だそうだ」
「こんな場所をどうしてご存知なのですか?」
「一番高い場所はどこだ、とリリアーヌに聞いたんだ。赤鋼の発生場所を特定した報酬代わりにな」
「それって……もしかして私の……」
リリスが目を丸くして、口をつぐむ。
自分の為ですか、と聞きかけたのだろう。だが、図々しいと思ったのか、表情に後悔がにじんだ。
しかし、サナトがそれを吹き飛ばすかのように言う。
「リリスのために決まってるだろ。この場所で……静かな場所で、二人でお茶を飲みたかったんだ。しばらく忙しかったしな」
「ご主人様……」
「今日は特別な日だ。その理由を教えてやる」
サナトが、優しく真剣な眼差しを向けた。
雰囲気を察したのだろう。リリスが少し体を固くして言葉を待つ。
「リリス……今日で、奴隷から解放する」
***
表情が凍り付いた。
聞いてはいけない言葉を耳にしたかのように、リリスの瞳が揺れ、両手を祈るように組んだ。
「な、なぜ……ですか? 私はもう必要――」
「リリスに、これを渡すからだ」
サナトが苦笑いしてアイテムボックスから何かを取りだした。
板状の小さく薄い宝石だ。存在を誇示するように桃色の光を放っている。
「まさか、そんな悲愴な顔をされるとは思わなかったぞ」
サナトが「ここまでして、そんな最悪の真似をするはずないだろうが」とリリスの震える体を抱きしめた。
「信じろ。俺がリリスを手放すわけがない」
強い口調で言い切り、リリスの小柄な手に板状の宝石を握らせた。
「ヒイラギ=リリス」
膝を折ったサナトがつぶやくように口にする。
その瞬間、淡い光が宝石に灯った。ぼんやりと発光する光は、瞳をうるませたリリスの顔を優しく照らす。
はっと気づいた様子の彼女は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ご……主人様、まさか……」
「それは家名の証だ」
悪戯っぽく笑うサナトは、ボックスから指輪を取りだす。
手を震わせるリリスの左手を優しく掬い取り、その白魚のような薬指にそっとはめた。
「そして、これは俺の世界でいうところの婚約指輪だ。こっちには指輪を贈る風習はないらしいがな」
そう言ったサナトは為されるがままのリリスを強く抱きしめた。
「奴隷はもういらない。お前が、誰かに奴隷だと蔑まれるのはもうたくさんなんだ。リリス……俺と結婚してくれ。この世界で初めての家族――ヒイラギ=リリスを名乗ってくれ」
「そ、んな……私が……ご主人様と……」
「そうだ。リリスじゃないとだめなんだ。もし嫌だと言うなら、迷宮で約束した『何でも言うことを聞く』という言葉を今使おう」
サナトはリリスと距離を離し、人差し指であごを上げた。
そして、返事を聞かずに、その薄い唇に己の唇を重ねた。
アメジストの瞳が見開かれ――やがて、愛おしむようにゆっくりと閉じた。
***
「返事は?」
「ここまでなさって、それは……ひどいと思います」
リリスは手をもじもじさせて、あちこちに視線を彷徨わせる。
夜風に負けないほど顔は火照り、耳は真っ赤だ。
「公用語を覚えたら、ご褒美をくださる――という話を覚えてくださっていますか?」
「もちろんだ。俺より先に使いこなせたら、という約束だったな。そういえば……形が無いものでもいいかと、リリスは聞いたな」
「はい。あの時、私の頭に浮かんだご褒美は……『ヒイラギ』の家名を下さらないかということです」
「俺の家名を?」
「ご主人様が、アズリーさんに勧誘されて『家名』を持っているとおっしゃったときに、私はどうしてもその『家名』が欲しかったのです」
「なぜだ?」
「……家族が、欲しかったのです。私は、親も兄弟も知りません。奴隷として売られ、抜け殻のように生きてきました。でも、ご主人様に買われて、一緒に旅をするようになって……心の底から私を大事にしてくださる、この方が旦那様ならいいのに……と思うようになりました」
「初めて聞く話だな」
「言えるはずありません。店で、いつかは結婚したいな、と笑う皆さんを見ながら、私も誰かと結婚するのかなと夢見ていたなんて……」
リリスの表情にあふれ出すような笑みが広がった。
「奴隷でありながら、そんな夢を見る自分が嫌いでした。絶対に無理。身分が違う。そう言い聞かせながら、心のどこかでは……もしかして、と期待していました。ですから、本当は他の女性がご主人様に近づくたびに、内心では焦っていました。新しい想い人が現れた時には、私は捨てられるだろう、と」
「今はどうだ?」
「……幸せです。幸せすぎて死にそうです」
「良かった。なら、返事を聞かせてくれ」
サナトが迎え入れるように両腕を広げた。
「本当に……いいんですか? 私……たぶん、独占欲が強いと思います」
「構わない」
「モニカさんやリリアーヌさんとお話しされていたら、拗ねるかもしれません」
「受け入れるさ」
「奴隷ですよ?」
「今日で終わった……お前は俺のものだ」
リリスが感極まったように顔をくしゃくしゃにして飛び込んだ。
サナトが強く抱きしめる。
「勝手にいなくなるなよ」
「そんなこと、絶対にしません。ご主人様こそ」
「ご主人様は今日で終わりだ。名前で呼べ」
「……サ、サナトさ、ま?」
「様はいらん」
「サ……ナト?」
「なぜ疑問なんだ?」
「だって、恥ずかしくて……」
「慣れろ」
「も、もう少し待ってください。しばらく……お名前を呼ぶたびに赤面しそうです」
「……早めに慣れてくれ」
「がんばります」
サナトは苦笑いしながらリリスの頭を何度も撫でた。力を使い果たしたように、ずるずると壁に体を預けて座り込む。
満面の笑みを浮かべるリリスの肩を抱き寄せ、再び唇を重ねる。
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