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逃がした魚
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「もう、やってられない」
与えられた狭い個室。飾り気の無いベッドとテーブルを前に、ミティアは清掃用のエプロンを見下ろした。
かなり傷んでいる。一年前は真っ白だったのに、今は洗い染みが目立ち、裾もほつれてきている。二人分働いているのだから当然だ。
替えのエプロンを清掃長に申請しているものの、いつ支給されるかはわからない。
ふと気づいて片手を持ち上げた。指や甲に細かいあかぎれができている。毎日の清掃、そして面倒だけかけられたバカな男。
思い出すだけで、ふつふつと怒りが湧いた。
束ねていた髪を解いた。指で梳くと、どこかで引っかかる。
確実に、自分は悪い流れに乗ってしまった。
ミティアはぼんやりと考える。
王宮で働き続ける理由は、単に待遇が恵まれているからではない。歳を重ねた人間が多い中で、若いミティアが目立つからだ。特に、清掃係という何かと城の中を動く仕事は、様々な人間と接点が見込まれる。
王族、貴族。贅沢は言わない。高望みをして小さなチャンスを逃すつもりはない。憲兵でも騎士でも構わない。自分を大事にしてくれるなら、どこにでも嫁ぐつもりだ。
「うまくいくはずだったのに」
ミティアはがりっと奥歯を噛みしめた。
***
どれくらい前だったか。彼女は憲兵の一人と知り合った。田舎の出身で、比較的栄えたパルダンに出てきたらしい。才能は無いけど、と前置きして「王に仕えたいんだ」とはにかんで語る彼は、ミティアの理想に近い人間だった。
家柄に不満は残るが、人間性がすばらしい。憲兵団に入隊したからには将来も安泰だ。
彼女は彼の城内での立番の日に、偶然を装って清掃を行った。
たっぷり水を入れたバケツを両手に吊り下げ、高い台を運んで天井近くの窓を念入りに拭く。背中に視線を感じながら、たまに物憂げな視線を窓の外に向ける。そして、終わると「いつもお疲れ様です」と視線を合わせて笑顔と共に頭を下げる。
その繰り返し。
何度目かで、彼から狙い通りの声がかかる。
「本当に大変なお仕事ですね」
ミティアが心の底から驚いたような視線を向けると、彼は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「私のような清掃係にそんなことを言ってくださる方は珍しくて……とても驚きました。でも……すごく嬉しいです。お優しいのですね」
喜びを隠すことなく、あえて長い言葉で礼を返す。
視線を受け止め、ミティアは花のような笑顔を向ける。そして、さらに何かを言おうとして、言葉を呑み込み、足早に去る。
角を曲がりかけて、ちらりと彼を窺う。予想通り、熱い視線が向けられていた。
とんとん拍子に話が進んだ。
顔を合わせれば軽い挨拶。合間を見つけて仕事中に雑談。
彼から「今度食事でも」と誘われるまでに時間はかからなかった。
清掃係という仕事を捨て、憲兵の妻となる筋書きはできあがったのだ。
しかし――
「なぜこんなことをしたのか、説明してくれ」
デートの誘いかなと心を弾ませて憲兵の仕事部屋に訪れたミティアは血の気が引く思いだった。
鎧が泥水にまみれていた。それも彼のものだけだ。近くには共用の清掃用バケツが転がり、ハルバードで突いたような傷跡が鎧に残っていた。
聡い彼女は、場に渦巻いている怒りに気づいて「私じゃない!」と即座に悲鳴を上げた。誰かにはめられたことは察したが、状況証拠は決してミティア一人を指すものではない。
だが、彼の冷めた瞳は揺るがない。
「ミティア……いつもの髪留めはどうした?」
「髪留め?」
何の話を、と思ったのは一瞬だった。指先が氷水につけたように冷え始め、がたがたと体が震えた。
「な、なくしたの」
「どこで?」
問い詰める言葉に底冷えするような怒りを感じた。
「昨日……昨日……無くなったの……確かに部屋の引き出しに片づけたはずなの」
「そうか。ここに落ちていたぞ」
目の前に髪紐があった。今身につけている灰色ではないお気に入りの黒だ。見慣れた彼は一目で誰のものか分かっただろう。
「ほんとに私じゃないっ!」
髪紐が落ちるなど、ありえない。どこかで高笑いする犯人の声が聞こえるようだ。
金切り声をあげたミティアを、彼は鬱陶しそうに押しのけた。「そんな女だと思いたくなかった」と有無を言わせず扉を閉めた。
短い春だった。
ほどなくして、真犯人が捕まった。他の清掃係が、一人での立ち入りを禁止されている憲兵団の部屋から出てきた人間を見ていた。
それは、ミティアとペアを組んでいたどこかの貴族の隠し子だった。噂ではミティアが彼の誘いを袖にしたことに腹を立てたとか。憲兵と仲睦まじい様子を見て思い立ったのだと。
なによそれ。
仕事はしない。プライドは高くて軽薄。あげくの果てに、嫉妬に狂って勝手にミティアの部屋を漁った上、どこで聞きつけたのか、恋人の出身地のことまでうわさで流す始末。誰も口にしないが、清掃長がもみ消そうとした気配もあるという。
ミティアがペアだったこともあり、協力していたのではという根も葉もない中傷も流れた。周囲の同僚に「私はしていない」と何度言ったことか。
「どうしてこんなことに……」
犯人はすぐに清掃係を首になった。憲兵への嫌がらせは重罪だ。本当なら投獄されても良いくらいなのに、男はへらへらと「ミティア、また縁があったら今度はよろしくな」と笑って出ていったのだ。あの程度で許されたのだと思うと愚痴の一つもぶちまけたくなる。
誰が、あんたなんかと。
築いてきた人間関係はずたずたになり、恋人関係も解消だ。
「ごめん、もう……ミティアとはそういう気持ちじゃないんだ」
別れを切り出されるのは覚悟していた。何より、自分も冷めた。どんな時でも、自分に味方してくれる、そんな男がいいのだ。
***
「いたっ……」
あかぎれがひどい。それでも、汚れた水に手をつけて雑巾をしぼらなければならない。
長い廊下の端から端まで。それが一人分。ミティアのペアは補充されていない。しかし、「あいつとうまくやれなかったお前の責任だ」と、非難する清掃長の対応は辛らつだ。「お前のせいで俺が怒られた」と言わんばかりの顔は、見るだけで億劫になる。
急に仕事場を見回るようになったのはミティアへのあてつけだろう。
「サナトさんくらいの人とは言わないけど……せめて、もう一人は……」
バカな男の前にペアを組んでいた、<清掃>スキルを持つ人。色々とあって仕事場を追い出されたが、彼と組んでいたときが一番楽だった。
「はあっ……」
窓ガラスに映る顔には疲労が浮かんでいる。目の下のクマが濃く、瞳に力が無い。
清掃には自信があるが、毎日二人分をこなせば、疲れが溜まっていくのは当然だ。
周囲の同僚の中には、いまだに疑いの目を向ける者もいて、環境も最悪だ。
けれど、やめて次の仕事が見つかるかは分からない。まとまったお金も無い。清掃長の態度を考えれば、難癖をつけて無一文で放り出される可能性もある。
ミティアは再び大きなため息をついた。
「とりあえず……食事に行こ」
***
ミティアは王宮の地下に降りた。ここだけは憲兵も清掃係も関係ない。
人の流れに乗って、小皿一つとパンとスープを受け取り、いくつかの集団から距離をとって座った。
豆のスープを口に運び、ライ麦のパンをちぎって口に放り込む。時折感じる冷たい視線が胃をきゅっと縮こまらせるが、ポーカーフェイスで咀嚼する。
自分は何も悪くない。
と、隣の椅子が引かれ、誰かが座った。
「ちゃんと寝てる?」
元恋人だった。言葉を交わしたのはいつ以来だろうか。さらに精悍な顔つきになった男は、心配そうにミティアの顔を覗く。
「何か、用事ですか?」
「いや……用事っていうか、少し心配で」
「心配? 私を?」
男は唐突に語りだした。
王都の冒険者が竜伐という偉業を成し遂げたこと。家名の名乗りを王に許可され、その報告にこのパルダンにやってくるということ。
ミティアは小皿に乗ったキッシュを持ち上げ、平坦な声で言う。
「その話って何か私に関係ありますか?」
「将来の貴族候補と次期国王の付き人が来るから、いつもより清掃を丁寧にって言われてるのかなって……王宮の憲兵団は事故がないようにってぴりぴりしてるんだ。謁見願いが届いたら、すぐに対応できるように警備に忙しくてさ」
「へえ」
ミティアは生返事をする。
とってつけたような理由だ。話の内容が清掃係に関係するとは思えない。話題作りのネタだろうとすぐに聞き流す。
「ミティアは、どんな人だと思う? 竜を討伐するんだ。きっとすごい人だよな」
男の瞳に機嫌を窺う色がある。
それを感じ、寒々しい気持ちにわずかに熱が灯った。
ミティアに対して罪の意識があるのだろうか。言い訳を聞き入れなかったことを悔いているのだろうか。それとも、別れてから惜しくなったか、純粋に優しいか。
貴族になりあがろうとする冒険者のことはどうでもいいが、男が竜伐に興味を抱くなら、合わせておいた方がいいだろう。
冷静に考えれば、憲兵に冷たく当たって得られるものは一つも無い。
恋人関係は解消しても、横のつながりで新しい憲兵の紹介が期待できるかもしれない。
ミティアはキッシュにかぶりつきながら素早く頭を巡らせ、対応の方向転換を図る。他人行儀な言葉遣いを改め、身を乗り出して尋ねた。
「やっぱり、竜を倒すって憧れるの?」
男はその変化を敏感に悟ったのだろう。固かった表情が和らぎ、言葉を選ぶ様子がなくなる。
「当然さ! 街で出会うことはまずないけど、ぼくらの訓練でも、竜ならこう戦うっていうのを時間をかけて教えられる。でも、絶対に一隊や二隊じゃ戦わないようにって念を押されるんだ」
「そんなに強いんだ」
「小さい竜でも一匹で街を破壊できるくらいには強いそうだよ。それを今度来る冒険者は二人で討伐したとか」
男は「機会があれば、どうやって倒したのか聞いてみたいよ」と、遠い目をする。
「その人も、昔は結構苦労したとか……噂だけどね」
ついでのように付け加えられた言葉に反応して、ミティアの小さな興味が首をもたげた。
優秀な冒険者の苦労などたかが知れている。
自分でそんな話を広めているとしたら滑稽だと笑ってやりたかった。
「その冒険者の名前は聞いたの?」
「まだ公式に謁見願いが来てないから、内緒だよ――」
男は秘密の共有を嬉しがるように顔を綻ばせた。
耳元で小さな声が聞こえた。
「ヒイラギ=サナト……噂ではパルダン出身らしいよ」
思いがけない情報に、ミティアの背筋が泡立った。掴んでいたキッシュの端がぐしゃりと潰れ、床に落ちた。
耳鳴りに近いぐわんという音が頭の中を通りすぎ、かすれた声で言った。
「詳しく……詳しく教えて。お願い……」
彼女はすべてを忘れて、鬼気迫る顔で続きを迫った。
与えられた狭い個室。飾り気の無いベッドとテーブルを前に、ミティアは清掃用のエプロンを見下ろした。
かなり傷んでいる。一年前は真っ白だったのに、今は洗い染みが目立ち、裾もほつれてきている。二人分働いているのだから当然だ。
替えのエプロンを清掃長に申請しているものの、いつ支給されるかはわからない。
ふと気づいて片手を持ち上げた。指や甲に細かいあかぎれができている。毎日の清掃、そして面倒だけかけられたバカな男。
思い出すだけで、ふつふつと怒りが湧いた。
束ねていた髪を解いた。指で梳くと、どこかで引っかかる。
確実に、自分は悪い流れに乗ってしまった。
ミティアはぼんやりと考える。
王宮で働き続ける理由は、単に待遇が恵まれているからではない。歳を重ねた人間が多い中で、若いミティアが目立つからだ。特に、清掃係という何かと城の中を動く仕事は、様々な人間と接点が見込まれる。
王族、貴族。贅沢は言わない。高望みをして小さなチャンスを逃すつもりはない。憲兵でも騎士でも構わない。自分を大事にしてくれるなら、どこにでも嫁ぐつもりだ。
「うまくいくはずだったのに」
ミティアはがりっと奥歯を噛みしめた。
***
どれくらい前だったか。彼女は憲兵の一人と知り合った。田舎の出身で、比較的栄えたパルダンに出てきたらしい。才能は無いけど、と前置きして「王に仕えたいんだ」とはにかんで語る彼は、ミティアの理想に近い人間だった。
家柄に不満は残るが、人間性がすばらしい。憲兵団に入隊したからには将来も安泰だ。
彼女は彼の城内での立番の日に、偶然を装って清掃を行った。
たっぷり水を入れたバケツを両手に吊り下げ、高い台を運んで天井近くの窓を念入りに拭く。背中に視線を感じながら、たまに物憂げな視線を窓の外に向ける。そして、終わると「いつもお疲れ様です」と視線を合わせて笑顔と共に頭を下げる。
その繰り返し。
何度目かで、彼から狙い通りの声がかかる。
「本当に大変なお仕事ですね」
ミティアが心の底から驚いたような視線を向けると、彼は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「私のような清掃係にそんなことを言ってくださる方は珍しくて……とても驚きました。でも……すごく嬉しいです。お優しいのですね」
喜びを隠すことなく、あえて長い言葉で礼を返す。
視線を受け止め、ミティアは花のような笑顔を向ける。そして、さらに何かを言おうとして、言葉を呑み込み、足早に去る。
角を曲がりかけて、ちらりと彼を窺う。予想通り、熱い視線が向けられていた。
とんとん拍子に話が進んだ。
顔を合わせれば軽い挨拶。合間を見つけて仕事中に雑談。
彼から「今度食事でも」と誘われるまでに時間はかからなかった。
清掃係という仕事を捨て、憲兵の妻となる筋書きはできあがったのだ。
しかし――
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鎧が泥水にまみれていた。それも彼のものだけだ。近くには共用の清掃用バケツが転がり、ハルバードで突いたような傷跡が鎧に残っていた。
聡い彼女は、場に渦巻いている怒りに気づいて「私じゃない!」と即座に悲鳴を上げた。誰かにはめられたことは察したが、状況証拠は決してミティア一人を指すものではない。
だが、彼の冷めた瞳は揺るがない。
「ミティア……いつもの髪留めはどうした?」
「髪留め?」
何の話を、と思ったのは一瞬だった。指先が氷水につけたように冷え始め、がたがたと体が震えた。
「な、なくしたの」
「どこで?」
問い詰める言葉に底冷えするような怒りを感じた。
「昨日……昨日……無くなったの……確かに部屋の引き出しに片づけたはずなの」
「そうか。ここに落ちていたぞ」
目の前に髪紐があった。今身につけている灰色ではないお気に入りの黒だ。見慣れた彼は一目で誰のものか分かっただろう。
「ほんとに私じゃないっ!」
髪紐が落ちるなど、ありえない。どこかで高笑いする犯人の声が聞こえるようだ。
金切り声をあげたミティアを、彼は鬱陶しそうに押しのけた。「そんな女だと思いたくなかった」と有無を言わせず扉を閉めた。
短い春だった。
ほどなくして、真犯人が捕まった。他の清掃係が、一人での立ち入りを禁止されている憲兵団の部屋から出てきた人間を見ていた。
それは、ミティアとペアを組んでいたどこかの貴族の隠し子だった。噂ではミティアが彼の誘いを袖にしたことに腹を立てたとか。憲兵と仲睦まじい様子を見て思い立ったのだと。
なによそれ。
仕事はしない。プライドは高くて軽薄。あげくの果てに、嫉妬に狂って勝手にミティアの部屋を漁った上、どこで聞きつけたのか、恋人の出身地のことまでうわさで流す始末。誰も口にしないが、清掃長がもみ消そうとした気配もあるという。
ミティアがペアだったこともあり、協力していたのではという根も葉もない中傷も流れた。周囲の同僚に「私はしていない」と何度言ったことか。
「どうしてこんなことに……」
犯人はすぐに清掃係を首になった。憲兵への嫌がらせは重罪だ。本当なら投獄されても良いくらいなのに、男はへらへらと「ミティア、また縁があったら今度はよろしくな」と笑って出ていったのだ。あの程度で許されたのだと思うと愚痴の一つもぶちまけたくなる。
誰が、あんたなんかと。
築いてきた人間関係はずたずたになり、恋人関係も解消だ。
「ごめん、もう……ミティアとはそういう気持ちじゃないんだ」
別れを切り出されるのは覚悟していた。何より、自分も冷めた。どんな時でも、自分に味方してくれる、そんな男がいいのだ。
***
「いたっ……」
あかぎれがひどい。それでも、汚れた水に手をつけて雑巾をしぼらなければならない。
長い廊下の端から端まで。それが一人分。ミティアのペアは補充されていない。しかし、「あいつとうまくやれなかったお前の責任だ」と、非難する清掃長の対応は辛らつだ。「お前のせいで俺が怒られた」と言わんばかりの顔は、見るだけで億劫になる。
急に仕事場を見回るようになったのはミティアへのあてつけだろう。
「サナトさんくらいの人とは言わないけど……せめて、もう一人は……」
バカな男の前にペアを組んでいた、<清掃>スキルを持つ人。色々とあって仕事場を追い出されたが、彼と組んでいたときが一番楽だった。
「はあっ……」
窓ガラスに映る顔には疲労が浮かんでいる。目の下のクマが濃く、瞳に力が無い。
清掃には自信があるが、毎日二人分をこなせば、疲れが溜まっていくのは当然だ。
周囲の同僚の中には、いまだに疑いの目を向ける者もいて、環境も最悪だ。
けれど、やめて次の仕事が見つかるかは分からない。まとまったお金も無い。清掃長の態度を考えれば、難癖をつけて無一文で放り出される可能性もある。
ミティアは再び大きなため息をついた。
「とりあえず……食事に行こ」
***
ミティアは王宮の地下に降りた。ここだけは憲兵も清掃係も関係ない。
人の流れに乗って、小皿一つとパンとスープを受け取り、いくつかの集団から距離をとって座った。
豆のスープを口に運び、ライ麦のパンをちぎって口に放り込む。時折感じる冷たい視線が胃をきゅっと縮こまらせるが、ポーカーフェイスで咀嚼する。
自分は何も悪くない。
と、隣の椅子が引かれ、誰かが座った。
「ちゃんと寝てる?」
元恋人だった。言葉を交わしたのはいつ以来だろうか。さらに精悍な顔つきになった男は、心配そうにミティアの顔を覗く。
「何か、用事ですか?」
「いや……用事っていうか、少し心配で」
「心配? 私を?」
男は唐突に語りだした。
王都の冒険者が竜伐という偉業を成し遂げたこと。家名の名乗りを王に許可され、その報告にこのパルダンにやってくるということ。
ミティアは小皿に乗ったキッシュを持ち上げ、平坦な声で言う。
「その話って何か私に関係ありますか?」
「将来の貴族候補と次期国王の付き人が来るから、いつもより清掃を丁寧にって言われてるのかなって……王宮の憲兵団は事故がないようにってぴりぴりしてるんだ。謁見願いが届いたら、すぐに対応できるように警備に忙しくてさ」
「へえ」
ミティアは生返事をする。
とってつけたような理由だ。話の内容が清掃係に関係するとは思えない。話題作りのネタだろうとすぐに聞き流す。
「ミティアは、どんな人だと思う? 竜を討伐するんだ。きっとすごい人だよな」
男の瞳に機嫌を窺う色がある。
それを感じ、寒々しい気持ちにわずかに熱が灯った。
ミティアに対して罪の意識があるのだろうか。言い訳を聞き入れなかったことを悔いているのだろうか。それとも、別れてから惜しくなったか、純粋に優しいか。
貴族になりあがろうとする冒険者のことはどうでもいいが、男が竜伐に興味を抱くなら、合わせておいた方がいいだろう。
冷静に考えれば、憲兵に冷たく当たって得られるものは一つも無い。
恋人関係は解消しても、横のつながりで新しい憲兵の紹介が期待できるかもしれない。
ミティアはキッシュにかぶりつきながら素早く頭を巡らせ、対応の方向転換を図る。他人行儀な言葉遣いを改め、身を乗り出して尋ねた。
「やっぱり、竜を倒すって憧れるの?」
男はその変化を敏感に悟ったのだろう。固かった表情が和らぎ、言葉を選ぶ様子がなくなる。
「当然さ! 街で出会うことはまずないけど、ぼくらの訓練でも、竜ならこう戦うっていうのを時間をかけて教えられる。でも、絶対に一隊や二隊じゃ戦わないようにって念を押されるんだ」
「そんなに強いんだ」
「小さい竜でも一匹で街を破壊できるくらいには強いそうだよ。それを今度来る冒険者は二人で討伐したとか」
男は「機会があれば、どうやって倒したのか聞いてみたいよ」と、遠い目をする。
「その人も、昔は結構苦労したとか……噂だけどね」
ついでのように付け加えられた言葉に反応して、ミティアの小さな興味が首をもたげた。
優秀な冒険者の苦労などたかが知れている。
自分でそんな話を広めているとしたら滑稽だと笑ってやりたかった。
「その冒険者の名前は聞いたの?」
「まだ公式に謁見願いが来てないから、内緒だよ――」
男は秘密の共有を嬉しがるように顔を綻ばせた。
耳元で小さな声が聞こえた。
「ヒイラギ=サナト……噂ではパルダン出身らしいよ」
思いがけない情報に、ミティアの背筋が泡立った。掴んでいたキッシュの端がぐしゃりと潰れ、床に落ちた。
耳鳴りに近いぐわんという音が頭の中を通りすぎ、かすれた声で言った。
「詳しく……詳しく教えて。お願い……」
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