世にも甘い自白調書

端本 やこ

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福岡編

幸せ

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 翌朝、橙子は久我島家の玄関先で元気と別れを惜しんだ。皆に見守られる中、折角の帰省なのだからと徹にも笑顔を向けた。

「ゆっくりしてね」
「は? ひとりでどうやって帰るつもりだ」
「駅まで教えてくれたらそれで」
「俺も帰る」

 と、家族への挨拶もあっさりとしたものだ。
 行くぞと、橙子の荷物を持って早々と前を行く。

「ちょっと待った! 徹さんの荷物は?」
「持ってる」

 徹が少し掲げて見せた紙袋は、いつか橙子が革のブレスレットを買った時に商品を入れられたものだった。小物を入れるには大袈裟だと思ったが、旅行用の荷物が入る大きさでもない。

「下着は持ってきた」

 橙子はドヤ顔の意味が全く分からない。ついでに驚くべきか呆れるべきかも見失う。
 徹が鞄を持ち歩かないのは知っている。だからといって、まさか小さな紙袋ひとつで飛行機に乗るとは思いもしなかった。コンビニのレジ袋でなかっただけ良しとするべきなのかもしれない。

「一泊に荷物なんていらんだろ」
「だからってその選択はないわぁ。せめてトートバッグみたいなのとか?」
「ない」
「だったら私のボストンは? ユニセックスの小さやつ」
「だから早く引っ越せ」

 この人、もしかしなくても絶対困った人じゃん。大丈夫か? これ結婚して大丈夫か?
 実際問題に直面した橙子は急に不安になってきた。
 徹の仙人染みた私生活を憂い、経済力があっても生活力のなさをどうしたものかと考え──私が世話をするのだと覚悟が決まる。

***

 徹と連れ立って、橙子の契約するマンスリーマンションに到着した。仮暮らし用の1Kでも今は我が家である。少なくとも久我島家よりは落ち着ける。

「立地条件だけで選んだな?」
「狭いけど寮と大差ないから平気」

 徹の目にはセキュリティの甘さまで山藤の独身寮と同じに映る。ついさっき、通路で隣の部屋に住むという若い男に出くわした。挨拶も気兼ねない男は、橙子と同じく仕事の一時赴任で来ているらしい。
 詳細を語る橙子に徹は眉を顰めるしかなかった。

「ペラペラ個人情報を話すな」
「入居時に挨拶に来てくれて世間話しただけだよ」
「あのなぁ。……もういい。不毛だ」
「何よそれ」

 橙子はぶう垂れて、洗面所に立った。
 昨晩久我島家で洗濯はして貰ったが、元気の付き添いで化粧を落とす余裕はなかった。徹とは違い情事の後シャワーを借りる勇気などあるはずもなかった。
 崩れた昨日の化粧を落としながら、声だけ飛ばす。

「帰りの飛行機、何時?」
「夜だ。まだ気にするような時間じゃない」
「本当? それじゃ観光行こう!」
「観光より行くところあるから、後で付き合え」
 
 行き先は「行けばわかる」としか答えてもらえなかった。はぐらかされた気がして、ほんのちょっと気分が盛下がる。それでも、徹と一緒ならばどこでも構わない。
 洗顔で気分も一新、すっきりだ。

「それ持って来てたのか」

 橙子が徹お気に入りのフワモコ素材の部屋着を着るのは秋冬限定だ。こっち来いと差し出された手に重ねると、狭い部屋のベッドの上で抱きかかえられるポジションに落ち着く。徹の部屋のソファに比べたら収まりが悪い。それでも背中から包み込まれる安心感は変わらない。

「やっと落ち着けたな」
「言う? それ徹さんが言うぅ?」

 橙子は昨日だけで十年分は老けた気がした。それぐらい情緒の起伏が激しい一日だった。
 久我島家との顔合わせは、考えれば考えるほど、しくじりばかりだったように思う。

「心配しかないんだけど」
「あんだけ気に入られたんだから上出来だ」

 徹にしてみれば、悪魔の化身である双子を手懐けた橙子は称賛に価する。
 橙子なら大丈夫だと確信していた反面、難癖をつけられる可能性も考えられた。だから、徹はあえて直接双子には連絡を入れなかったのだ。

「早いうちに名古屋行く予定立てろよ。そっちの都合に合わせるから」

 徹がゆっくりと髪を梳いて言いきかせた。徹の手の心地良さに、橙子の反応が一拍も二拍も遅れる。

「そっか。うちにも来てもらわなきゃなんだ」

 同棲ではなく結婚となれば、それなりの事前準備が必要だ。
 徹のやり方はともあれ、次にすべき事も考えてくれていたのが素直に嬉しい。
 能動的に動いてくれるのは信頼に繋がる。私だけが、私の方が、とつまらないことに引っかかってわだかまりを抱えずに済む。この先の長い人生を共にするのだから不満は少ない方がいい。
 また、徹の心にもしこりを作りたくない。
 決して受動的にならないように、ふたりで進めていくのが最善だ。

「引っ越しと同時進行させるね」

 徹が空気を和らげる気配がした。同意の溜息を得て視線を上げると蕩ける目に遭遇した。橙子が愛して止まない目つきだ。徹に魅かれるきっかけになった目に溶かされて「ダメかもしれない」と予感する。ふたりきりで過ごせる特別な時間に観光は野暮だとすら感じさせられる。

「とぉ、るさっん。くぅっ。もぅむりぃ」
「ん。もう少しだけな」

 橙子の予感は現実となった。もう何度この遣り取りをしているか分からない。濃密な時間に、心身ともにドロドロに溶かされる。
 啼かされ続けぐったりしても、甘いキスのひとつで言いなりになってしまう。限界を超えた身体はバラバラになってしまったように感覚が鈍くなる。そのくせ、徹を受け入れている器官だけは敏感に刺激を求める。

 徹は自分の汚い欲望を橙子にぶつけることで、浄められていくような感覚に陥っていた。
 カーテンの隙間から差し込む鋭い光は、橙子の汗ばんだ血色の良い肌をより綺麗に鮮やかに見せる。あまりの愛しさに一体化したいとすら願う。行き過ぎたその感情は悪意にも酷似している。愛する人を食すカニバリズムの境地が垣間見えてしまった。
 橙子の熱い吐息と快楽に震える声で名を呼ばれると脊髄が痺れる。抱き潰してしまいたい衝動が抑えられない。アドレナリンが過剰に分泌されて腰が動き続ける。
 徹の愛情は醜く重い。そう理解しながら橙子にぶつける。暑苦しい想いをなすりつける。

「こっち見ろ」

 繋がったまま囁いた声は、自分のものとは思えないほど優しい声色だった。
 率直に言って、気持ちが悪い。
 それでも橙子は目を潤ませて、艶めかしく従う 負の部分をぶちまけても橙子は受け入れてくれる。心と体、橙子のすべてで答えてくれる。
 徹は眩暈がした。

「愛してる」

 驚くほどあっさり口をついてでた。
 絶対に言えなかった一言を、言ったら死ぬと思っていた言葉を、ごく自然に口にしていた。
 決して衝動ではない。間違いでもない。
 徹の本心だ。
 橙子に伝えたい、ただひとつだけの気持ちだった。
 
「バーカ。また泣くのか」

 橙子が情熱で潤んでいた目にはっきりと喜びの雫を乗せた。
 むせび泣く橙子が伸ばした腕を全身で迎えにいく。

 首に巻きついた橙子を、徹はしっかりと抱き留めた。
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