12 / 42
東京編
ケンカ(上)
しおりを挟む
徹は二日ぶりに家路につく。拘束時間の割に激務というほどではなかったものの、それなりに疲労は感じる。
自宅に灯かりがともっていることに気がついて自然に顔の筋肉が緩む。心なしか足が軽くなった気がして歩調を早めた。
おかしい。
ドアを開けても出迎えがない。
いつもならば小走りでやってきた橙子が顔を出すところだ。
風呂でも入ってんのか──って、嘘だろ。
リビングの有りように徹は言葉を失う。
ローテーブルに置かれたパソコンからは耳障りの良い音楽が流れ、バルコニーに続く窓が半分ほど開けられたままで、ゆったりとカーテンを揺らしている。
家で作業をするには最適だろう環境だ。
が、問題はその環境を作り上げた張本人にある。
あろうことか、橙子は毛布をひざ掛けにソファに沈み込んでうたた寝をしているのだ。
「おい。起きろ馬鹿っ‼」
怒りの籠った声は作業用BGMを打ち消すにじゅうぶんだった。
橙子が小さく「ぅん?」と呻いて起きた。両腕を突っ張って、気持ちよさそうに伸びをする。その動きに合わせて書類が何枚か毛布を滑って落ちた。
「おかえりなさい」
にっこりとほほ笑えむ橙子が寝起き特有のしわがれた声を出す。あらあらと、のん気に散らばった紙を拾い上げる。
「おかえりなさいじゃねぇ」
徹の冷たい返しに、橙子は驚いた。ただいまと返事をする人でないのはわかっている。素っ気なさともまた違う。
橙子は初めて徹に向けられた怒気の正体を掴めずにいる。
仕事で何かあったのかもしれない。なにもなくともお疲れモードなのは確かだ。いつもに比べて肌がカサついて見えるし、スーツにネクタイだって元気をなくしているのだから、根を詰めてきたに違いない。昨晩は徹夜仕事だった可能性も高い。
ちらりと時計をみれば、20時を少し回ったところだ。
「今日は早かったんですね。ご飯は?」
徹は返事の代わりに「はぁ」と肚の底から淀みを吐き捨てた。体は動かない……のではなく、どこからどう切り込んだものか整理をつけるのに動けなかった。
時に考えるより先に体が動く現役刑事が、目の前の相手を正すのに動きを止めるなどあるまじき振る舞いだった。
続いて、どうかしたの? と言わんばかりに小首を傾げられたのがきっかけになった。
「ひとりん時に開けっ放して寝るな!」
説諭モード全開だ。
徹の口が粗暴さを隠さないのは、心配が先立ってのことである。
「へ?」
「へ? じゃねぇ。ここ一階だぞ」
バルコニー前の駐車場に車が置いてあるだけ目隠しになっているが、開けられた窓は通りに面している。よって、本気で入ろうと思えば簡単に侵入できてしまうのだ。
「あー。寝るつもりなかったんだけどね。風が気持ちよくて、つい」
「エアコン使え」
橙子は「そこまで暑くないからもったいない」と反省のはの字も見せない。
ダメだこいつ。
危機管理能力ゼロだ。
「危ないのわからんのか。考えろ」
徹が顎で指した先に視線を移した橙子は、なおも「危ない?」と、ゆれるカーテンに合わせて目を泳がせる。
頭痛ぇな、こいつ。
徹の溜息も在庫が切れた。
「こんなとこで寝るな。戸締りはちゃんとしろ」
「ふぁーい。ごめんなさーい」
橙子は不貞腐れた声で不満を露にした。徹の注意が響いたか、まったくもって怪しい。
クソガキを相手にしているのか、俺は。
徹は自分の感想にまたしても苛つきを上乗せする。
「……それに、その恰好」
「ん? ああ、これね。ふふっ。徹さんの匂いすんだもん。貰っちゃった」
いいでしょぉと長い袖で口元を覆う橙子に、徹は舌を打ち鳴らす。
橙子が着ているのは、三日前だったか、徹が脱ぎ捨てて放置したワイシャツだ。汚れを厭わず幸せそうにされて、借りたの間違いだろうと訂正する機を逃してしまった。
そうだ。こいつ凶悪犯だった。
重大なことを忘れていた自分に、やはり疲れている、と思った。
そして、可愛いが過ぎるのも罪だ、とも。
「えっ、急にどしたの?」
袖を余した橙子の手首を掴む。力が入り過ぎていたらしい。かまわず、無防備になった橙子の唇に自分のものを押し当てた。
「お前、自分の姿わかってねぇな」
徹に威圧するつもりはなかったが、橙子はほんの少し膨れて「着替える」ともぞもぞ動き出した。橙子が毛布をまくり、脚を晒けだす。
下着にワイシャツ一枚だけとはまさかだった。
開いた胸元、指にかかる袖口、惜しげもなく晒された腿。
想定外の橙子の姿に、徹はしばし目を保養する。
「そんな怒らなくても。脱ぎ散らかしてあったんだからいいじゃん。ケチー」
唇を突き出して橙子が拗ねるが、徹にしたらそれすらズレている。
もう怒るだけ無駄なのだ。
ほとんど諦めに近い気持ちで無益さを噛み締める。
「まぁ? 勝手に着たのは私だけどさ」
徹の内心を読み間違えた橙子は「せっかく気に入ってたのに」と文句を続けつつ、徹の脇をすり抜けた。
気に入ったなら、そのままでいい。
思っても口にしなかった。
言葉で通じる相手でないのと、疲労が徹を怠惰にさせる。
着替えを持ち出した橙子をさっさと寝室に引きずり込んだ。
自宅に灯かりがともっていることに気がついて自然に顔の筋肉が緩む。心なしか足が軽くなった気がして歩調を早めた。
おかしい。
ドアを開けても出迎えがない。
いつもならば小走りでやってきた橙子が顔を出すところだ。
風呂でも入ってんのか──って、嘘だろ。
リビングの有りように徹は言葉を失う。
ローテーブルに置かれたパソコンからは耳障りの良い音楽が流れ、バルコニーに続く窓が半分ほど開けられたままで、ゆったりとカーテンを揺らしている。
家で作業をするには最適だろう環境だ。
が、問題はその環境を作り上げた張本人にある。
あろうことか、橙子は毛布をひざ掛けにソファに沈み込んでうたた寝をしているのだ。
「おい。起きろ馬鹿っ‼」
怒りの籠った声は作業用BGMを打ち消すにじゅうぶんだった。
橙子が小さく「ぅん?」と呻いて起きた。両腕を突っ張って、気持ちよさそうに伸びをする。その動きに合わせて書類が何枚か毛布を滑って落ちた。
「おかえりなさい」
にっこりとほほ笑えむ橙子が寝起き特有のしわがれた声を出す。あらあらと、のん気に散らばった紙を拾い上げる。
「おかえりなさいじゃねぇ」
徹の冷たい返しに、橙子は驚いた。ただいまと返事をする人でないのはわかっている。素っ気なさともまた違う。
橙子は初めて徹に向けられた怒気の正体を掴めずにいる。
仕事で何かあったのかもしれない。なにもなくともお疲れモードなのは確かだ。いつもに比べて肌がカサついて見えるし、スーツにネクタイだって元気をなくしているのだから、根を詰めてきたに違いない。昨晩は徹夜仕事だった可能性も高い。
ちらりと時計をみれば、20時を少し回ったところだ。
「今日は早かったんですね。ご飯は?」
徹は返事の代わりに「はぁ」と肚の底から淀みを吐き捨てた。体は動かない……のではなく、どこからどう切り込んだものか整理をつけるのに動けなかった。
時に考えるより先に体が動く現役刑事が、目の前の相手を正すのに動きを止めるなどあるまじき振る舞いだった。
続いて、どうかしたの? と言わんばかりに小首を傾げられたのがきっかけになった。
「ひとりん時に開けっ放して寝るな!」
説諭モード全開だ。
徹の口が粗暴さを隠さないのは、心配が先立ってのことである。
「へ?」
「へ? じゃねぇ。ここ一階だぞ」
バルコニー前の駐車場に車が置いてあるだけ目隠しになっているが、開けられた窓は通りに面している。よって、本気で入ろうと思えば簡単に侵入できてしまうのだ。
「あー。寝るつもりなかったんだけどね。風が気持ちよくて、つい」
「エアコン使え」
橙子は「そこまで暑くないからもったいない」と反省のはの字も見せない。
ダメだこいつ。
危機管理能力ゼロだ。
「危ないのわからんのか。考えろ」
徹が顎で指した先に視線を移した橙子は、なおも「危ない?」と、ゆれるカーテンに合わせて目を泳がせる。
頭痛ぇな、こいつ。
徹の溜息も在庫が切れた。
「こんなとこで寝るな。戸締りはちゃんとしろ」
「ふぁーい。ごめんなさーい」
橙子は不貞腐れた声で不満を露にした。徹の注意が響いたか、まったくもって怪しい。
クソガキを相手にしているのか、俺は。
徹は自分の感想にまたしても苛つきを上乗せする。
「……それに、その恰好」
「ん? ああ、これね。ふふっ。徹さんの匂いすんだもん。貰っちゃった」
いいでしょぉと長い袖で口元を覆う橙子に、徹は舌を打ち鳴らす。
橙子が着ているのは、三日前だったか、徹が脱ぎ捨てて放置したワイシャツだ。汚れを厭わず幸せそうにされて、借りたの間違いだろうと訂正する機を逃してしまった。
そうだ。こいつ凶悪犯だった。
重大なことを忘れていた自分に、やはり疲れている、と思った。
そして、可愛いが過ぎるのも罪だ、とも。
「えっ、急にどしたの?」
袖を余した橙子の手首を掴む。力が入り過ぎていたらしい。かまわず、無防備になった橙子の唇に自分のものを押し当てた。
「お前、自分の姿わかってねぇな」
徹に威圧するつもりはなかったが、橙子はほんの少し膨れて「着替える」ともぞもぞ動き出した。橙子が毛布をまくり、脚を晒けだす。
下着にワイシャツ一枚だけとはまさかだった。
開いた胸元、指にかかる袖口、惜しげもなく晒された腿。
想定外の橙子の姿に、徹はしばし目を保養する。
「そんな怒らなくても。脱ぎ散らかしてあったんだからいいじゃん。ケチー」
唇を突き出して橙子が拗ねるが、徹にしたらそれすらズレている。
もう怒るだけ無駄なのだ。
ほとんど諦めに近い気持ちで無益さを噛み締める。
「まぁ? 勝手に着たのは私だけどさ」
徹の内心を読み間違えた橙子は「せっかく気に入ってたのに」と文句を続けつつ、徹の脇をすり抜けた。
気に入ったなら、そのままでいい。
思っても口にしなかった。
言葉で通じる相手でないのと、疲労が徹を怠惰にさせる。
着替えを持ち出した橙子をさっさと寝室に引きずり込んだ。
0
お気に入りに追加
111
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる