世にも甘い自白調書

端本 やこ

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東京編

ケンカ(上)

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 徹は二日ぶりに家路につく。拘束時間の割に激務というほどではなかったものの、それなりに疲労は感じる。
 自宅に灯かりがともっていることに気がついて自然に顔の筋肉が緩む。心なしか足が軽くなった気がして歩調を早めた。

 おかしい。

 ドアを開けても出迎えがない。
 いつもならば小走りでやってきた橙子が顔を出すところだ。

 風呂でも入ってんのか──って、嘘だろ。

 リビングの有りように徹は言葉を失う。
 ローテーブルに置かれたパソコンからは耳障りの良い音楽が流れ、バルコニーに続く窓が半分ほど開けられたままで、ゆったりとカーテンを揺らしている。
 家で作業をするには最適だろう環境だ。
 が、問題はその環境を作り上げた張本人にある。
 あろうことか、橙子は毛布をひざ掛けにソファに沈み込んでうたた寝をしているのだ。

「おい。起きろ馬鹿っ‼」

 怒りの籠った声は作業用BGMを打ち消すにじゅうぶんだった。
 橙子が小さく「ぅん?」と呻いて起きた。両腕を突っ張って、気持ちよさそうに伸びをする。その動きに合わせて書類が何枚か毛布を滑って落ちた。

「おかえりなさい」

 にっこりとほほ笑えむ橙子が寝起き特有のしわがれた声を出す。あらあらと、のん気に散らばった紙を拾い上げる。

「おかえりなさいじゃねぇ」

 徹の冷たい返しに、橙子は驚いた。ただいまと返事をする人でないのはわかっている。素っ気なさともまた違う。
 橙子は初めて徹に向けられた怒気の正体を掴めずにいる。
 仕事で何かあったのかもしれない。なにもなくともお疲れモードなのは確かだ。いつもに比べて肌がカサついて見えるし、スーツにネクタイだって元気をなくしているのだから、根を詰めてきたに違いない。昨晩は徹夜仕事だった可能性も高い。
 ちらりと時計をみれば、20時を少し回ったところだ。

「今日は早かったんですね。ご飯は?」

 徹は返事の代わりに「はぁ」と肚の底から淀みを吐き捨てた。体は動かない……のではなく、どこからどう切り込んだものか整理をつけるのに動けなかった。
 時に考えるより先に体が動く現役刑事が、目の前の相手を正すのに動きを止めるなどあるまじき振る舞いだった。
 続いて、どうかしたの? と言わんばかりに小首を傾げられたのがきっかけになった。

「ひとりん時に開けっ放して寝るな!」

 説諭モード全開だ。
 徹の口が粗暴さを隠さないのは、心配が先立ってのことである。

「へ?」
「へ? じゃねぇ。ここ一階だぞ」

 バルコニー前の駐車場に車が置いてあるだけ目隠しになっているが、開けられた窓は通りに面している。よって、本気で入ろうと思えば簡単に侵入できてしまうのだ。

「あー。寝るつもりなかったんだけどね。風が気持ちよくて、つい」
「エアコン使え」

 橙子は「そこまで暑くないからもったいない」と反省のはの字も見せない。
 ダメだこいつ。
 危機管理能力ゼロだ。

「危ないのわからんのか。考えろ」

 徹が顎で指した先に視線を移した橙子は、なおも「危ない?」と、ゆれるカーテンに合わせて目を泳がせる。
 頭痛ぇな、こいつ。
 徹の溜息も在庫が切れた。

「こんなとこで寝るな。戸締りはちゃんとしろ」
「ふぁーい。ごめんなさーい」

 橙子は不貞腐れた声で不満を露にした。徹の注意が響いたか、まったくもって怪しい。
 クソガキを相手にしているのか、俺は。
 徹は自分の感想にまたしても苛つきを上乗せする。

「……それに、その恰好」
「ん? ああ、これね。ふふっ。徹さんの匂いすんだもん。貰っちゃった」

 いいでしょぉと長い袖で口元を覆う橙子に、徹は舌を打ち鳴らす。
 橙子が着ているのは、三日前だったか、徹が脱ぎ捨てて放置したワイシャツだ。汚れを厭わず幸せそうにされて、借りたの間違いだろうと訂正する機を逃してしまった。
 そうだ。こいつ凶悪犯だった。
 重大なことを忘れていた自分に、やはり疲れている、と思った。
 そして、可愛いが過ぎるのも罪だ、とも。

「えっ、急にどしたの?」

 袖を余した橙子の手首を掴む。力が入り過ぎていたらしい。かまわず、無防備になった橙子の唇に自分のものを押し当てた。

「お前、自分の姿わかってねぇな」

 徹に威圧するつもりはなかったが、橙子はほんの少し膨れて「着替える」ともぞもぞ動き出した。橙子が毛布をまくり、脚を晒けだす。
 下着にワイシャツ一枚だけとはまさかだった。
 開いた胸元、指にかかる袖口、惜しげもなく晒された腿。
 想定外の橙子の姿に、徹はしばし目を保養する。

「そんな怒らなくても。脱ぎ散らかしてあったんだからいいじゃん。ケチー」

 唇を突き出して橙子が拗ねるが、徹にしたらそれすらズレ・・ている。
 もう怒るだけ無駄なのだ。
 ほとんど諦めに近い気持ちで無益さを噛み締める。

「まぁ? 勝手に着たのは私だけどさ」

 徹の内心を読み間違えた橙子は「せっかく気に入ってたのに」と文句を続けつつ、徹の脇をすり抜けた。
 気に入ったなら、そのままでいい。
 思っても口にしなかった。
 言葉で通じる相手でないのと、疲労が徹を怠惰にさせる。
 着替えを持ち出した橙子をさっさと寝室に引きずり込んだ。
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