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東京編
宅飲み
しおりを挟む「来るな」
警視庁捜査一課のエース、久我島徹は冷静に言い放った。後輩の「今夜は飲む! 先輩んちで!」という意味不明な宣言に付き合ってはいられない。
「お酒、たくさんあるんでしょぉ」
一刀両断に処された尾野俊樹は、徹の迫力をものともせずしなを作って寄り掛かった。
徹が鬱陶しさをあらわに身を離す。
邪険にあしらわれるのに慣れた俊樹はすかさず間を詰めた。
「橙子も仕事終わりに来るって」
怖い顔の先輩にとどめを刺す。
徹の手が止まって、俊樹は勝利を確信する。
「どーせろくに連絡してあげてないんでしょ。久々に俺にも会いたいって言ってたよ」
徹は超ド級の朴念仁だ。仕事はできるが仕事以外のところでは人間的な生活を営んでいるかさえ怪しい。俊樹から見ると、俗世から乖離した仙人のようなものだ。
それに……そもそもの話になるが、橙子は俊樹の古い友人で、長年片想いを寄せてきた相手だ。先輩の彼女に横恋慕するという状況に様変わりすること約一か月。俊樹は未だ何がどうしてこうなったか理解に苦しんでいる。
「勝手に話つけてんじゃねぇ」
徹はため息交じりで俊樹を睨みつけた。
会社絡みの事件に巻き込まれた橙子は療養期間を経て仕事復帰をした。橙子本人から、同僚には何事もなかったかのように受け入れられ通常業務に戻ったと聞いている。とはいえ、職場を離れていた間の仕事を挽回させるため怒涛の毎日を過ごしている。
恋人の徹ですら、半月以上橙子の顔を見ていない。俊樹のセッティングというのは癪に障るが、互いに忙しいだけに直接橙子に会えるなら最良だ。
つまらない事務仕事にやる気を出したことだけは俊樹に悟られないよう注意した。
***
徹の自宅近くのスーパーに立ち寄り、男ふたりでツマミを物色する。お惣菜も流し見たが、結局は乾き物に落ち着く。
「橙子、お菓子いるかな」
「これ買っとけ」
徹が橙子お気に入りのビターチョコレートを買い物かごへ放り込むのを、俊樹は唖然として目で追った。
超一流の朴念仁が、彼女好みの銘柄を知っていたとは、しかも覚えているだなんて、俄かには信じがたい。その上「チーズもいる」と言われては、もう開いた口が塞がらない。
魂の抜けかけた俊樹は、さっさと買い物を進める徹の背について行くだけになってしまった。
徹と俊樹が一本目の缶ビールを飲み干した頃、ようやく橙子がやってきた。「ただいま~」と機嫌よく登場した橙子は宅配ピザの箱を抱えている。
「主食! 橙子グッジョブ」
歓喜した俊樹は手にしていたカルパスの小包を放り投げた。絶対おつまみしかないと思ったと、笑いながら手渡されるピザの箱は徹へ横流す。
「んでもって、久しぶりぃ~」
俊樹はこれ見よがしに橙子に抱きついた。
友人の出迎えを甘んじて受ける橙子は、ぽんぽんと俊樹の背中を軽くタップして快気祝いの気持ちを乗せた。
俊樹は少しだけ腕に力を籠める。言葉要らずの心地良い関係は、付き合いの長さそのものだ。
徹は言葉なくやり取りを交わすふたりを黙って許容する。俊樹が橙子に会うのは榊原の一件以来だ。俊樹にも思うところがあって当然だ。
が、いつまでをハグを解かない背中に苛立ち、座ったまま俊樹の腰のあたりに前蹴りを入れた。
「もー危ないなぁ。橙子まで倒れちゃうでしょーが」
俊樹が唇を尖らせる。その腕から抜け出た橙子はテーブルに空きを作りてきぱきと用意を進める。徹はピザの箱を開けるだけ手伝った。
橙子はピザをふた切れ食べて、ようやく落ち着いた。大判クッションに身を預けると、パンクした浮き輪のようにぷしゅぅと気が抜けていく。
買って正解だった。大判クッションも、ピザも。
と、そんなことを思いつつ、クッションを抱きしめる。微かに嗅ぎ分けた徹の香りにニヤついてしまう。緩む顔を隠して、さらにクッションに埋もれた。
「あ、そうそう。橙子、合コンに男集められる?」
「男?」
「うん。矢田さんときっぽい感じで」
以前、橙子は同僚の矢田の頼みで俊樹に幹事を依頼した。矢田が女性警察官と実を結んだのは知っていたが、それを聞きつけた朋輩から熱望されるとは。縁とは繋がるものらしい。
「んまぁ、なんとでもなるよ」
運送会社は男性比率が高い。声をかければいくらでも集まるに違いない。ただ、面倒は抱えたくないのが正直なところで──矢田に任せてしまおうと算段をつける。
「それよりさ。トッシー、ちょっと亜紀ちゃんとデートしてくんない?」
橙子は仕事復帰後の忙しさですっかり忘れていた。一連の事件で面倒をかけたお礼に、亜紀からリクエストされたのが「尾野さん」だった。
「俺を売るな」
「大安売り中だ。持ってけ。何なら今から配達してこい」
微妙な表情の俊樹を無視して、徹は早くつまみ出せと言わんばかりだ。
「今から橙子に配達されたら、先輩ここでボッチだけどねっ」
俊樹の抵抗を徹は鼻で嗤い飛ばす。
仕事中のふたりが想像できて、橙子は可笑しくてたまらない。
「なんでかトッシーってモテんだよね。意味わからんけど」
「めっちゃわかるわ! 万事無頓着で冷淡なおっさんと付き合う意味の方がわからん」
「ん? 温かいよ。頼れるし、超優しんだから。これ以上になく理想的でしょうが。最高すぎてめっちゃ幸せ」
恥もなく惚気られ、隣で聞いていた徹も言葉に詰まった。知らないところでならまだしも、目の前でやられては盛大に眉を顰めるしかできない。止めに「ね?」と上目遣いに同意を求められ、返す言葉なく目を逸らした。
「ふあああっ。やめろ、橙子! きっしょいわ!」
身悶えた俊樹が橙子の腕から勢いよくクッションを奪い取る。ないわ~と強奪品を抱いて倒れ込んだと思えば、「おっ」と顔を上げた。
「これすげぇいい。先輩、ちょーだい」
ぱふぱふと感触を確かめつつ、肩肘をついて横になる。見下ろす徹は「やらん」と一言放ち、橙子が開けようとしているロゼワインのボトルを流れるように手に取った。ピザの付属品だったペーパーナプキンでボトルの汗を覆い栓を開ける。徹が無言で手渡すと、橙子は「ありがとうございます」と微笑んだ。飲みすぎるなとかなんとか、淡々と言葉を交わしつつも、空気を和らげる。
呼吸するがのごとく、全てが自然で──俊樹は全身総毛立つ。
先輩がウッソだろ⁉
他人も、それも女性を気遣う徹もさることながら、ちゃんとカップルとして成立しているふたりに慄く。鳥肌が悪寒を呼び、俊樹は震える。
あっという間にふたりの空間が出来上がって、、、あてられる。
「あーもうっ! 橙子、さっさと亜紀ちゃんの連絡先教えろ」
「えっ。マジいいの?」
橙子が訝しむ。ついさっきまで「熨斗を付けて献上いたします」の勢いだったくせに。
「お薦めなんでしょ」
訝しむ橙子を、俊樹が訝しむ。
「亜紀ちゃんにトッシーは薦めてもいいけど、トッシーに亜紀ちゃんは違う気がしないでもない」
「なんそれ?」
橙子曰く、亜紀ちゃんの竹を割ったような性格は気持ちがいいけれど、手のかかる子でもある。
懸念を示すわりに、橙子の顔は柔らかい。橙子の心配はお姉さん目線なだけだ。だから、俊樹も信頼してしまう。
「ふたりとも『やんちゃで甘えん坊』じゃ駄目でしょ」
「俺はやんちゃじゃねーよ」
俊樹の反発には、またしても徹が鼻で小馬鹿にした。徹は橙子の分析に納得している。
「誰か見繕ってあげてくれてもいいよ」
「丸投げすんな」
「だってご所望なのはトッシーだし?」
「尾野が身を捧げれば丸く納まる」
適当にまとめようとする徹は、全く興味がないことがわかる。俊樹が目を細めて睨んでみても効果はない。
「トッシー見てイケメンって言うのマジ謎」
「亜紀ちゃん見る目あるね」
「俺も聞いた。確かに謎だな」
「スルーすんな!」
俊樹が突っ込んでも無視される。このふたりこそ似た者同士だ。
「実際、誰かいたりする? 若い子とか」
「独り身で溢れてる。部内で一番若いとこだったら国枝かな」
「あー、あの可愛い子」
国枝とは橙子も面識がある。シンポジウムで、これまた見知った日野と一緒に警備にあたっていたところ出くわした。脳内回想中の橙子には悪いが、若手というだけで大の男に可愛いという感想はいただけない。可愛さの欠片もない恋人を前によく言えたものだと俊樹は感心する。しかし、当の徹は気にした様子は微塵もない。
「あの時、森下さんも国枝に会ってるぞ。覚えているかは知らんが」
「あ、そうなんだ。国枝くん、フリーなの?」
「知らん」
「アイツに彼女いるとか許されるわけねぇじゃん」
「刑事部ってそんなにストイックなの?」
橙子が一瞬だけ心配そうな視線を徹に向けた。
橙子の思考がズレるのはいつものことだ。徹はさりげなく橙子の背中でぽんと手を弾ませた。これで「そうじゃない」と伝わる。
刑事部はいかつい曲者集団であり、国枝はがむしゃらに仕事を覚えるべきポジションにある。プライベートを充実させる余裕などないに等しい。しかも、集団のほとんどが恋人もいない独り身なのだ。簡単に恋愛などさせてもらえる環境にない。
「亜紀ちゃんに紹介したところでどうなのさ」
「尾野でも国枝でも同じ。本人たち次第だ」
「それ言ったら終わりじゃん」
徹の言葉に橙子は納得するほかなかった。
俊樹は文句を言いつつも、話をまとめ、手を貸してくれる気でいる。
俊樹の意思を掴もうと、橙子が見やると「どうかした?」とでもいいたげに仕草で返された。
「うん。やっぱトッシーいいヤツ。好きだなぁと思って」
ぴくりと反応して橙子を凝視する徹をよそに、橙子はにこにこ顔だ。
「ぶっは! 橙子、やっぱお前すげぇ天然! ちょっ先輩、マジウケんだけど」
急に大笑いをする俊樹を、橙子はきょとんと観察する。クッションをばしばし叩くほど喜ばせるようなことを口にした覚えはない。
説明を求めて徹に視線を移すと、諦めたような顔で盛大に溜息をつかれてしまった。
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