カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第2章 猫にかつおぶし

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 まだ早い。
 そわそわして、時間ばかり気にしてしまう。
 何をしても落ち着かず、結局約束の15分前に事務所を出た。
 一階のショップに書類を届けたら、今日の業務はおしまいだ。足取り軽く、通用口から顔を出した。

「お疲れさ……」

 嘘。
 何で秀治が?
 不測の事態に、銃口を向けられたように足が竦む。

「猫ちゃんナイスタイミングー」

 清水さんが店の中からおいでと手をこまねく。いつものヘラヘラした調子が癪に障る。
 ここで立ち止まったら思うつぼだ。

「こちら、お願いします」

 スクールで使用する香油の注文用紙を、半ば押し付けるようにして清水さんに差し出した。
 いつも通り「さんきゅーね」と受け取ってもらえば終わり。

「新店長候補決まったんだってさ。ようやく俺も本社に戻れるわ~」

 清水さんが説明を促す視線を秀治に送る。

「明後日から入ってもらって、早ければ来月から独り立ちしてもらう予定。スクールとの連携は詩、、、猫間さん頼むね」

 猫間さん、か。
 秀治に名字で呼ばれるのは、あまりに他人行儀で冷たく響く。
 同じ会社に属する以上、顔を合わせる機会がゼロではないと気が付いて血の気が引く。
 落ち着けと念じて、小さく静かに深呼吸をした。仕事上なのだから当たり前だと、自分を納得させる。
 ずんと重たくなった頭を正して、口元を引き上げた。

「分かりました」

 元々表情に乏しいのが幸いした。ビジネスライクに進めるには有利な事この上ない。
 用事さえ済めばそれでいいのだ。

「連携業務については、私からお話させていただきます」

 注文書は提出したのだから、わき目は振らない。話を切り上げて踵を返した。

「待った」
「っ!」

 肘を掴まれて振り向くと、秀治と目が合った。
 言葉が出ない。
 秀治も続けない。
 私を呼び止めたのは考え無しだったんだろう。

「まだ営業中だからさ。打合せは中でどーぞ」

 アシストを寄越した清水さんは、STAFF ONLYと書かれたドアを顎で指した。面白がる口調と愉しそうな目は、やっぱり大っ嫌い。

「私、もう帰るところなんで」
「ごめん。少しだけ」

 肘を掴む手に力が籠められた。痛いぐらいの力強さに、秀治の本気が伝わってくる。
 職場での人目も気になって従うしかなかった。

***

 秀治の後に続いて、後ろ手で扉を閉めた。ひんやりしたバックヤードの空気に姿勢を正す。

「座って」

 秀治は休憩用の簡易テーブルの椅子を引いた。
 私は扉の前に立ったまま。

「打合せって?」

 テーブルの上で組んだ手を見つめる秀治の言葉を待った。
 私には聞きたいことも言いたいこともない。
 秀治が聞きたいことなら心当たりがある。

「妊娠ならしてない」

 抑揚のない自分の言葉は、まるで赤の他人から発せられたみたいだった。感じが悪いどころか感情そのものが欠落して聞こえる。

「それは、」

 秀治が弾かれたように顔を上げた。彼の心が揺れ動いたのが見て取れた。

 きっかけは、テレビを観つつの何気ない会話だった。番組の流れで、私も「生理がきてない」と口にしただけだった。
 生理不順だと言っていなかった私も悪いけど、恋人で肉体関係にあっても気にしていなかった秀治も悪い……と思うのは身勝手なのだろうか。

誰か・・から聞いてたとは思うけど」

 私の様子が気になるのであれば、清水さんからでも理都からでも聞けるはず。
 別れてから半年以上経った今、仕事を絡ませてまで会いに来た理由は他にある。
 秀治が言いたいことの心当たりを否定したくて、私は無意識に首を振っていた。

「詩乃、ごめん。本当に申し訳ないことを、俺……」

 いまさら詩乃だなんて!
 見当が現実になる辛さと腹立たしさに、感情が一気に込み上げる。

「俺、りっちゃんと」
「寝た? 付き合ってる? マジ最低最悪。あなたも理都も。ふざけないで」

 声が震える。
 怒りが全身を駆け巡って、悲しみが目元を熱くさせた。

「りっちゃんは悪くない」

 は?
 馬鹿馬鹿しいにも程がある。

「ほんの一カ月前、理都と一緒に合コンした。いつも通りだったわ、あの子。私に対しても、合コン相手にも。それでも悪くないって? それ、わざわざ私に言うこと?」
「だから、それも俺が」
「どうでもいい」
「詩乃」
「私には関係ない!」

 無意識の内に、胸元の社員証を握り締めていた。
 右手に食い込むゴールドメダルが私を奮い立たせる。
 今ここで全部吐き出さないと、きっと後悔する。

「怖気づいて逃げた男はメールの一つ返してこなかったし、彼氏を寝取った女は素知らぬ顔してトモダチ続けてる! 私は、、、私は秀治を追いかけなかったし、理都を問い質すこともしなかった。怖くてできなかった。あなたたちから言ってくるべきだとさえ思ってた。これっぽっちも聞きたくないのにっ」

 矛盾してるって、自分で気がついている。
 相反する気持ちがせめぎ合い、いつの間にか諦めになったことだって。
 寝て起きて、仕事をして帰宅する。決まり切った生活の中で、秀治のことを考えるのは無駄なことになっていた。

「ごめん」

 秀治の短く静かな謝罪が、私の推測を全部肯定した。

「今日もだけど、恒志が色々気遣ってくれて。最終的に、別れたのなら貰うって、アイツ」
「はっ。貰うって何? 猫じゃあるまいし。馬鹿にしないで。私、清水さん大嫌い」
「そっか」

 秀治の顔がほっとしたように見えた。
 私の友だちと浮気しておきながら、私が清水さんと関係を持つのは嫌なんだ。
 秀治の我儘に心底軽蔑する。
 情けなくて笑えてくる。
 笑う場面じゃないのに微笑む私は、馬鹿にしたような顔つきになっているはず。俯き加減で垂れる髪で顔を隠し、握り締めていたゴールドメダルを胸に押し当てて息を整える。

「お幸せになんて絶対言わない。ダメになればいいとまで思ってる。それと、、、友だちにさえ言えないようなことするなって、理都に伝えて」

 真顔を向けた。
 冷たいと思われていい。
 何を考えているかなんて理解されなくていい。
 真正面で私を見上げる秀治の目が、少し潤んでいるような気がした。

「さよなら」

 呟いて、スタッフルームを出た。
 泣くもんか。
 泣くだなんて悔しすぎる。
 扉に背を預けて、胸に押し当てたままだった社員証を見る。小刻みに揺れているのは手が震えているから。

 あぁ、私ってば本当に好きだったんだ。
 秀治と理都、二人とも。

 秀治にぶちまけて、幾分気が収まった。
 私と秀治が上手くいかなかったのは、生理不順だけのせいでもなく、理都のせいだけでもないって分かっている。私にも原因があって、秀治の不誠実もまた原因の一つだった。それが分からないほど子どもじゃない。

 いい加減、ちゃんとしなきゃ。
 誰かの所為じゃなくて、自分で責任をとらないと。
 私の恋愛だもの、私がしなくてどうする。

 ゴールドメダルを首から外して、ストラップを巻きつけた。
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