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こちらに背を向ける川姫が微かにのけ反り、小さく息を吸い込む音が聞こえる。

「……静まれこの蛇っころ!!」

霹靂のような一喝が発せられ、大気も、大地も、降りしきる雫さえも震える。
凄まじい声量に思わず耳を塞ぎ、声の冷徹な響きに背筋が凍るようだ。

眼前まで迫ろうとしていた龍は、まるで犬に吠えられた猫のように一瞬ビクリと胴を折り、そして進路を池へと変えて潜水し始める。


仁王立ちする川姫は荒い鼻息を吐き出し、再び息を吸い込む。

「水に逃げるなこの引きこもり!! 今すぐ出て来い!!」
再びの怒号。大五郎のおっさんの咆哮よりも遥かに大きく、おっかない。

気付けば雨は止んでおり、悍ましい黒雲が割れ始め晴れ間が差してきた。
池を見据える川姫の美しく華奢な背中が、異様なほど頼もしく見える。

暫くするとごぼごぼと小さく池の中心が泡立ち、龍の頭が出始める。
ただ、先程までの勢いは全く無く、様子を伺うようにゆっくりと頭が上がってきた。

「……帰ってきてくれたのか」
威厳も覇気も無い、気弱な声色が水音に混じって聞こえる。

「そうだよ、あんたの馬鹿さっぷりを聞いてね。全く、ここらの水を統べる水神ともあろうものが、みっともない姿になって」
「我にはやはり、お主が居てくれなければならぬ。千余年生きてきたがお主の居ないこの歳月が最も永く感じた」
「……ハッ、聞いて呆れるね。たかだか女に逃げられたぐらいで、こんなにみすぼらしくなるとは」

吐き捨てるように川姫が言い放ち、語気が強くなる度にビクリと背を震わす龍の姿には、もう微塵も迫力が残っていなかった。

「なあ川姫さんよ。するってえと、水神様がこんな荒れたのは……」
「そうさね山彦の片割れ。わっちが居なくなった間にこうなったのさね。本当に済まないよ」
「……マジかよ、くっだらねえ……」
響の質問の答えを聞いた匠の呟き。全くの同感だ。

「こんな姿になってまあ……何だいその髭は。汚らしいったらありゃしない。そんなんでよく姿を見せられたもんさね」
「これは猿共の……」
「まだ言ってんのかい! わっちが出て行った時と微塵も変わらないとは全く情けないよ」
意気消沈しすっかり小さくなってしまった龍は、伺うような視線を川姫に送っている。まるで親に叱られている子供を見ているかのようだ。

「やはり我は、お主がおらんとならぬ。我の元に戻ってきてはくれまいか姫よ……」
「そのつもりで来たんだよ。わっちが居なければ己の愚かさの一つでも見定めるいい機会になるかと思ったが、その様子じゃ気付きもしてないようだしね……」
「そうかそうか。戻ってきてくれるか」
「でも条件がある。この子らの願いを聞いてやんな」
「何故に? こ奴らの言う事など聞く義理は無い。その身を我に差し出せば考えなくも……」
「馬鹿言ってんじゃない!!」
雷鳴の如き一喝が再び飛ぶ。

「この子らはわっちら妖怪にとって大事な子達だ! それを喰らおうなぞと戯言も大概におしよ! いい加減、憎しみも人の味も忘れたらどうさね!」
「うぬう……」
「碌に水守りもしてない事だって分かってるさね。このままじゃあんた、遠からず神格を失うよ!」
「……今の世、我が守る価値など無い。既に我らとその猿共は離れて久しいのだ姫よ。我々が滅びぬ為にはその猿共を減らし、立場を分からせる必要が」
「話にならないさね、あんた……もう昔には戻れないんだよ。でもね、少しぐらい変えようとする事は出来る。この子らはね、その種火になるのさ」

完全に置いてけぼりを食らっている俺達は、ただただ呆然と二者のやり取りを見ているしかない。

「……相分かった姫よ。少し考えさせてくれ。それと戻ってきてくれるのは真であろうな……?」
「神格が情けない声出すんじゃないよ全く。わっちに二言は無いよ。ただ、これ以上がっかりさせないでおくれ」
「暫し時をくれ。心を鎮める」
「ああ、そうしな。それじゃああんたら、行くよ」
「え? お、おう……」

早々と踵を返し去っていく川姫。
池の方を警戒しつつ、俺達もその背を追った。
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