年下王子と口うるさい花嫁

いとう壱

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第53話 臣下の距離、夫婦の距離

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 暗闇の中に柔らかな白い光が浮かんだ。
  
 導かれるようにその光に近付くと、やがてその光が周囲を包んでいく。ふわりと意識が浮上して、気付くとクリストフは朝の光の中にいた。 

 いつもと変わらぬ鳥のさえずりが窓の外から聞こえてくる。
 ぼんやりとしていた天井の色が次第にはっきりと見えてきて、普段の朝よりも差し込む陽の角度が違うことに気がついた。

 寝坊してしまったのかもしれない。 


 ローゼン公爵の嫌味ったらしい顔が頭に浮かび、クリストフは飛び起きた。

 室内は午前の穏やかな静けさに包まれていて、階下で使用人達が動き回る音すら聞こえなかった。
 何気なく窓に覗く空の色を眺め、今日一日の予定を考える。

 そしてクリストフはふと気が付いた。今日は一体何日だっただろうかと。恐ろしく深く眠っていた気がするのだが。 


 そう考えている内に、徐々に身にまとわりつく不快感がクリストフを襲った。着ている夜着が汗でべったりと肌に張り付き、ベッドの寝具も水分を含んで冷たくなっている。

 わけが分からず周囲を見回して、今度は思わず叫び声を上げそうになった。ローゼン公爵が自分のベッドの端に上半身を乗せ、倒れ込んでいたからだ。 


「何これ……」 


 クリストフはしばし呆然とローゼン公爵を見つめた。 
 彼は酷く疲れているようで目の下に黒ずんだ隈を作っており、眉は苦しげに寄せられたままだ。 


「……殿下!」 


 部屋の入口から聞き慣れた声があがる。 

 水の入った大きなたらいを持ったクリストフの侍女エレナがそこに立っていた。彼女は見る見る内に目に涙を溜めて、クリストフの側へと走り寄ってきた。 


「殿下……!」 


 エレナは持っていた盥をぞんざいにそこいらに置いて、クリストフを見つめ、それから泣き出してしまった。クリストフが問いかけようとしても、とても答えられる様子ではない。 
 続けて部屋の外からはバタバタと足音が聞こえてきて、開けられたままのドアの外にローゼン公爵の侍従アルベルトと、その姉でありエレナの教育係でもあるイルザが顔を出した。


「殿下!」 


 二人もエレナと同じように声をあげ、駆け寄ってきた。クリストフはわけも分からず眉尻を下げて二人を見上げた。 


「アルベルト、サムエル医師を」 

「はい!」 


 イルザから指示を受けたアルベルトは、クリストフを見てからすぐにまた離れ、部屋の外へと駆け出した。


「お召し替えの前にお体を清めましょう」 

「う、うん」 


 そう言われて、クリストフはローゼン公爵を見た。いかにも疲労困憊らしい様子のローゼン公爵をこのままにして良いのだろうか。 
 クリストフが戸惑っていると、イルザが静かな声で促した。 


「閣下が目を覚まされましたら、私からお伝えしておきます」 


 彼女は使用人達を呼んで湯浴みの用意をするように言いつけた。 
 そしてクリストフの夜着の中から一番ゆったりとしたものを選び、それを使用人の男の一人に渡した。クリストフはその男の使用人に伴われて温かい湯に浸かり、それから清潔な衣服に着替えた。

 自室に戻ろうとしたがベッドを清掃中だと言われ、二階の空き部屋に案内された。クリストフやローゼン公爵の部屋とは吹き抜けを挟んで反対側にあるその部屋は、念のため客間として整えるようローゼン公爵が手配していた部屋だ。 

 クリストフはその部屋のベッドに寝るように言われた。病気でも何でもないのに、男の使用人は酷く心配そうな目でクリストフを見ている。


「……何があったの?」


 クリストフは尋ねた。


「覚えていらっしゃらないのですか?」


 クリストフに上掛けを掛けようとして止められて、男の使用人は困ったような顔で答えた。


「殿下は三日間もお眠りになっていたのです」

「えっ!??」


 驚いて声を上げた拍子にお腹が情けない音を立てて鳴った。男の使用人は今度は少し笑顔になって、お腹に優しいスープを持ってくると言って部屋を出て行った。 



 クリストフがベッドの上でスープを二回目のおかわりをしたときのこと、部屋の扉がノックされ、ローゼン公爵が入ってきた。

 彼は無言で険しい顔をしている。 


「大丈夫?」 


 クリストフがそう声をかけると、ローゼン公爵はやにわにクリストフの前に膝をついた。 


「どうしたの?」

「まずは御身ご無事であったこと、幸いの女神様に感謝申し上げます」


 そして彼は深くこうべを垂れた。 


此度こたびの件、誠に……申し訳ございません」 


 何だか今日のローゼン公爵はやけに仰々しい。それによそよそしい。それが嫌で、クリストフは少し顔をしかめた。 


「何であんたが謝るんだよ」 

「全て私の落ち度です」 

「何それ」 


 クリストフは段々と腹が立ってきた。

 三日間目が覚めなかったことについて、まだ何も事情を聞いていないのにこんなに大仰に謝られてもわけが分からない。 
 それに、今のクリストフはぴんぴんしている。病人などではない。ローゼン公爵の顔色の方がよほど病人らしいではないか。 

 それを心配して声をかけたのだから「私は大丈夫です」とか何とか言って、いつもの嫌味でも飛ばしてくれればいいのだ。もしくは、クリストフの無事を喜んで「元気になって良かった」とかなんとか言えばいい。

 それなのに、何故こんな風に頭を下げたりするのだろう。普段よりもやけに王族扱いをされて嫌な気分だ。


「私の料理が、殿下を苦しめてしまったようです」


 そう言ってローゼン公爵は経緯を説明し始めた。

 祝福の花嫁の加護で料理に魔力が増える効果が付与されていたらしいということ。
 クリストフが元々持っていた魔力量が多く、それがさらに増加したことで、クリストフの体に様々な支障が出たこと。 
 日頃魔法を使っていなかったことで、急な魔力の増加に魔力循環が上手く機能しなかったらしいこと。
  
 それらが、クリストフが眠っていた三日間、ローゼン公爵家お抱えの医師サムエルの調べで分かったとのことだった。 

 そして、今回の件でやむなくエレナやアルベルト、イルザにクリストフが魔法を使えることについて説明したことも謝罪された。 

 クリストフは黙って聞いていたが、今一番ローゼン公爵の口から聞きたいと思っている言葉が、彼の口からはついに出てこなかった。それについてむかむかしているところに、さらにローゼン公爵はこんなことを言い放った。 


「今後は、二度と殿下のお口に入るものは作りません」 


 もうクリストフは我慢ならなかった。 


「うるさい!」 


 怒鳴った時の周囲の様子は分からない。あえて何も見たくなくて、クリストフはベッドのシーツの皺を見ていた。 


「なんでそんなこと言うんだよ!おかしいだろ!」 


 食器を持つ手に力が入って震えてしまう。 


「あんたはこれからも俺にビスケットを作ればいいんだよ!」 

「殿下、それはできません」 


 クリストフは口を引き結んだ。今度は唇が震えた。 


「何だよそれ」 


 理性を無視して手が動く。食器が床を転がる音がした。 


「何だよ!」 


 クリストフは大きな声で不満を訴えた。


「俺が作って欲しいのに何でだよ!」 

「……殿下、落ち着いてください」

「何が落ち着けだよ!!」

「ですから、私の料理が原因で貴方様は」


 喉に何かが込み上げてくる。クリストフは続けざまに怒鳴った。


「そんなことどうだっていいんだよ!俺はあんたの料理が好きなんだから!あんたの料理が食べたいの!!」

「できません。私の料理は殿下のお体には」

「いいんだよ!」

「よくはありません。あれだけ苦しんでおられて」


 いくらクリストフが訴えてもローゼン公爵は理解しようとしない。クリストフが望むものが何か。何故クリストフがこうして怒りをぶちまけているのか。冷静な言葉や態度が、今のクリストフにどんな痛みを与えるのかということが。

 それがより苛立ちを生み、それは目の前の分からず屋にも波及していく。


「いいんだってば!!」

「貴方様は三日間も目が覚めなかったんです」

「いいって言ってるだろ!」

「お体にもたくさんの影響が出たのですよ!?」

「俺がいいんだからいいんだよ!!俺の体に悪くたっていいの!!」

「いいわけがないだろう!!」


 久しぶりに聞いた低い怒鳴り声は、病で疲れた心にひびを入れる。


「だって……」


 何て子どもじみた言い出し方なのだろう。クリストフの関係の薄いご立派な王族の異母兄達は、きっとこんな言葉は使うまい。


「嬉しかったんだよ……あんたが俺に料理作ってくれるのが……」


 目に見えぬ動揺が空気を揺らした。


「だって……家族っぽいだろ……」

「っ…………!」

「なのに何で」


 ローゼン公爵は驚いているようだった。何か言おうとしたらしいが、ただ口を開けたまま、言葉らしきものは出てこない。


「何でもう作らないとか言うんだよ!!」


 少しの揺らぎで、ひび入った心は簡単に壊れてしまう。隙間から漏れ出したクリストフの真の感情は、ローゼン公爵の隙をついて部屋中を暴れ回った。


「しかも何が落ち度だよ!そんなの知るかよ!あんたに謝ってもらったって嬉しくもなんともないよ!俺が、俺が言って欲しいのは、目が覚めて嬉しいとか、心配してたとか、そういう言葉なんだよ!どうして、大丈夫?とか、話せなくて寂しかったとか言ってくれないんだよ!」


 クリストフの大声に、エレナやイルザ、アルベルトも駆けつけて、他の使用人達まで集まってきている。


「あ……、私は、その……」

「だから嫌なんだよ王族なんて!皆、俺を殿下殿下とか言っちゃってさ!守ってくれてるけど、仲良くはしてくれないんだ!俺は家族や友達が欲しいのに、皆が俺に求めるのは、俺が真面目な奴になることだろ!俺だって真面目にやれるよ!でも、真面目にやったって、皆と仲良くはなれないんだ。あんたに「よくできましたね」とか言われるだけじゃないか!!

 もう王族なんてやめてやる!俺は殿下じゃない!!王族なんかじゃないんだ!!俺は母さんの息子のクリストフだ!ただの平民なんだよ!!

 いいか!エレナは俺の友達!!アルベルトもイルザも俺の友達!!ここにいる人は皆、俺の友達だ!召使いなんかじゃない!!皆、俺にぺこぺこするな!!あんただっていつも偉そうなんだから、ずっと偉そうにしてればいいんだよ!!

 それに、それに」

「わ、私は……」


 戸惑うローゼン公爵の顔が、視界の中でぼやけて、歪んでいく。


「それに、あんたは俺の奥さんだろ!だったら、もっと奥さんらしくしろよ!!もっと、家族みたいに、もっと」


 言いたいことが溢れすぎて、もうクリストフ自身にも何がなんだか分からなかった。 


「もっと俺の頭を撫でるとか、俺を抱きしめるとか、俺のことが好きって態度をしろよ!もっと俺のことが心配だって顔をしてくれよ!死ぬほど心配してたとか、今はそういうことを言えよ!! 」 


 顔が熱くなり、クリストフは何度も瞬きをした。目の前にローゼン公爵がいるのに、寂しさが胸を締め付けた。 


「でん……」 

「俺は殿下じゃない!!もう俺のことを殿下って呼ぶな!皆、俺のことはクリスって呼べ!!こ、こっ、これは命令だ!!」 


 矛盾したことを喚くと、辺りは恐ろしいほどの静けさに包まれた。ローゼン公爵も黙っている。 

 沈黙の音がクリストフに迫り、それが孤独の恐怖を囁いた。 

 一人ぼっちになった。 

 クリストフは急にその実感に襲われた。

 幼い頃、自分の下着を洗っているある晴れた日に、その洗濯物を見てふと急に母親が本当にいないことを理解した。 

 あの日のように、自分の側に甘えることができる存在などおらず、常に気を張って生きなければならない。その現実がクリストフの心臓を殴りつけた。

 クリストフは、ただ寂しかった。 

 不意に寝具を掴んで震えていたらしい自分の手が、温かいものに包まれる。自分よりも大きな手だ。 


「……クリス様」 


 低い声が耳元でクリストフを呼んだ。それからクリストフは何かに包まれた。 


「ご無事でようございました」 


 硬い言葉が纏う柔らかな響きには真実があった。クリストフは自分を包むものに縋り、額をこすりつけた。 
 静けさの中、クリストフはずっとそれに包まれて、その身を委ねていた。





  
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