年下王子と口うるさい花嫁

いとう壱

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第43話 豚の最期

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夜会の会場は騒然となった。 

先ほどまで夜会の参加者しかいなかったはずのこの場に、突如として巨大な豚が現れたのだ。

しかもこの豚、ただ大きいというだけではない。その背には翼が生えている。実際に飛べるのかどうかは定かではないが、それでも既知の姿の豚でないことは確かだ。




成人男性数人分の大きさであるその豚は、大きな口を開けてクリストフの持つハンカチに手を伸ばそうとした男を威嚇していた。彼は驚きのあまりダンスで転んだクリストフ同様に尻餅をついてしまっている。

クリストフは呼吸を止め、呆然と豚を見上げた。

クリストフはこの豚を知っている。この豚は紛れもなくローゼン公爵が刺繍してくれた豚だ。 昨夜夢の中でクリストフと一緒に世界を旅したあの豚なのだ。


「こ、これは一体……」 


頭上から困惑の声が落ちてきた。

人々の様々な声が混じり合う喧騒の中でも、その声はクリストフの耳によく届き、馴染んだ。驚きのために追いやられていた意識が導かれ、クリストフをいましめから解き放つ。

クリストフは大きく息を吸い込んだ。

声のぬしの姿は見えなかったが、誰なのかはすぐに分かった。

突然の出来事からクリストフを守るように背後から抱き込んでいるのは、クリストフの婚約者であるローゼン公爵だ。常日頃、冷静さを崩さぬローゼン公爵も、さすがに自身が刺繍した豚が目の前に現れたとあって、戸惑っているようだった。

クリストフはローゼン公爵に何か言おうと口を開いたが、周囲の人々が突然の出来事にわめく声が大きくなり、出かかった言葉を失ってしまった。


「魔獣だわっ!」

「一体どこから!」


夜会の参加者達は、この豚を『魔獣』だと考えたらしい。変異して多量の魔力を帯び、凶暴化した獣のことだ。


「怖いわっ!カミーユさまぁ~!」

「ミルシュカ嬢、君のことは僕が守るっ!」


不快な声が聞こえてきてクリストフが振り返ると、この混乱を収めるべき立場であるはずの夜会の責任者、バルトル侯爵は蒼白な顔で突っ立ったままでいた。その弟であるユリウスはなんと腰を抜かしてしまっている。彼は聖騎士という重要な職務についていると聞いていたのだが、クリストフの聞き間違いだったのだろうか。

聖騎士はローゼン公爵の授業によれば、幸いの女神様に仕え、神殿とそこにいる全ての者を守るために力を振るうとの話だった気がするのだが。

震える姿に身につけている高級そうな装飾品がやけに浮いて見えた。

ユリウスとは対照的に、クリストフの護衛である近衛騎士二人はいつでも剣を抜けるよう身構えている。そしてバルトル侯爵家の私兵らしき衛兵達が数人やってきた。


「当家の私兵が対応いたします!皆様、攻撃魔法のご使用はお控えください!案内に従って速やかに避難してください!」


役に立たない父に代わり、バルトル侯爵の娘であるオティーリエが人々を避難させようと衛兵に指示を出した。


「ミルシュカ!貴女もこちらに避難を!」

「カミーユさまぁ~!」

「ミルシュカ嬢っ!」


彼女は、クリストフを嘘で陥れようとしたミルシュカや、そのミルシュカの婚約者であるマルラン伯爵令息オラース、オティーリエ自身を蔑ろにしている婚約者ドゥネーブ伯爵令息カミーユですら守ろうとしているのだから大したものだ。


そんな中、人々は豚の容姿について口々に叫び始めた。


「この魔獣の姿を見ろ!豚だ!」 

「どこから来た!こんな太った姿では裏門すら通れまい!」 

「何て変な顔なの!」 


豚への評価は散々だ。

クリストフはむっとした。「変な顔」とはあんまりだ。あのつぶらな瞳が目に入らないのだろうか。


「殿下、お怪我は」


少し落ち着いたらしいローゼン公爵が問いかける。何ともない、そう答えようとして背後からクリストフを抱くローゼン公爵の腕に気がついた。


「ちょ、ちょっと!何するんだよ!」


急に恥ずかしさが込み上げて、クリストフはローゼン公爵の腕の中で暴れた。いくら婚約者とはいえ、人前で抱き締められてはたまらない。


「何ですか!大人しくなさってください!」


ローゼン公爵はクリストフを抱く腕の力を強めた。


「放せよ!放せってば!」

「殿下!よろしいですか!今この場は人々が入り乱れております!貴方様に良からぬ企みを持つ者がどのように近づいてくるか分からない状況なのです!」

「こんなのおかしいよ!俺は男だよ!?逆だよ!逆!」

「逆とはなんですか!??私は貴方様をお守りして」

「花嫁が花婿を守るなんて変だろ!普通は俺があんたを」

「皆、落ち着くのだ!」 


ローゼン公爵の腕の中で暴れるクリストフとは対照的に、クリストフの異母兄である王太子レオンハルトは泰然自若として進みで、騒めく人々を収めた。 

波が引くように周囲の騒々しさが消えていく。 

クリストフが兄の方へと視線を向けると、レオンハルトの背後に控えるベルモント公爵と視線がぶつかった。ベルモント公爵はクリストフを無表情で見たあとに、すぐにその目をレオンハルトへと向けた。まるで、クリストフのことなどそこいらに転がっている小石でも見たかのようで、あまりに何の感情も見えず、それがかえって薄ら寒く感じるほどだった。


「説明しろ!弟よ!」 

「えっ?」 


ベルモント公爵のことを考えていたところで、急に兄から矛先を向けられてクリストフは戸惑った。ローゼン公爵もさすがに体面を気にしたのか、クリストフを腕の中から解放し、レオンハルトにその身を向けている。

レオンハルトは鋭い眼差しでクリストフを批判していた。この騒動がクリストフの起こしたものだと決めつけているようだ。

しかし、説明しろと言われてもクリストフとてこんな事態を説明できようはずもない。「ハンカチの豚です」などと言っても馬鹿にされるのは目に見えている。そんなことを誰が信じるというのだろう。

そうだ。あのハンカチはどうなってしまったのだろうか。

はっとしたクリストフが胸元を見てみると、ハンカチは消えていた。 この目の前の豚があのハンカチの豚なのは、これで確実となった訳だ。 


「この醜い生き物は一体何だ!」 


レオンハルトは非難の声を上げ、クリストフの豚を指差した。 彼の言葉を受けて周囲の貴族達も豚を見て眉をひそめる。 

これはクリストフは許せなかった。 

何が「醜い」だ。 この異母兄は何も分かっていない。 よく見ればこの豚は可愛らしい顔をしているではないか。この潰れた鼻も、丸々とした体も、全部クリストフのためにローゼン公爵が考えてくれたものだ。 


「こっ、これは」 


反論してやろうと考えたが言葉が思いつかない。 そのとき、前方から情けない声がした。


「で、殿下っ!この豚を何とかして下さいっ!」 


ハンカチの刺繍を見ようとクリストフに手を伸ばした男の声だった。気づけば豚は前足を上げて男を威嚇しており、男は今にも豚に踏み潰されそうだった。 いくらローゼン公爵の刺繍でも、人を傷つけてはいけない。

クリストフは慌てて男を立たせようと、豚の尻をけて男に走り寄った。しかしその瞬間——


「うわあぁっ!!」 


何と豚は火を吹いた。 

突然の炎に会場内には誰のものともつかぬ悲鳴がいくつも上がった。 クリストフを追ってきた護衛の近衛騎士がついに剣を抜く。


「ドラゴンだ……」 


ローゼン公爵の侍従アルベルトが呟いた。 

男は危なく焼け死ぬところだったが、間一髪のところで、ローゼン公爵の一人娘であるアレクシアに体を引き寄せられ、助けられた。


「ひ、ひぇっ」 


ところが、男はアレクシアに礼を言うこともなく一目散に逃げ出した。 アレクシアが眉を寄せてその背を見つめる。 豚は男を追おうとする。 


「この魔獣がっ!!」 


勇ましい声とともに、クリストフの背後に黄金の炎である『王家の炎』が渦巻いた。


「ま、待ってよ!そいつはっ……」 


まただ。 またクリストフの大事なハンカチが燃やされてしまう。 

黄金の炎は豚の尻を追いかけた。 


「それはっ、俺の大事な」


クリストフも豚を追いかけた。

黄金の炎は豚の尻に届き、豚はあっという間に炎に巻かれた。しかし、豚は体が焼けるのも構わず男を捕らえようとしている。

レオンハルトが手を振り上げ、ぐっと握り締めると、黄金の炎は形を変えてまるで大蛇のように豚を飲み込んだ。


「あぁっ!」


クリストフは焼け落ちる豚に触れようとして、ローゼン公爵の手で後ろに引き寄せられた。豚は最後につぶらな瞳をクリストフに向け、そして燃えてしまった。ふわりとクリストフの足下に落ちたのは、刺繍の部分が焼けて穴が空いてしまったハンカチだった。 


「俺の……」 


クリストフは膝をついた。 くしゃりと顔を歪め、ハンカチにそっと手を伸ばす。 

しかし、金の装飾がほどこされた白い靴がクリストフの手が触れる前にハンカチを踏んだ。 レオンハルトの靴だった。 


「立て」 


青い瞳が凍りつくような侮蔑の色を浮かべ、クリストフを見下ろしている。 


「貴様、夜会に魔獣なぞを放ってただで済むとは思うな。たとえ同じ王族だとて許されん」 


赤い瞳は負けまいとそれを睨みつけた。 


「俺は何もしてないよ!」


レオンハルトは手を上げて会場に散らばっている衛兵を呼んだ。 


「この者を捕らえよ!」 


近くにいた衛兵二人が呼び出しに応じたが、クリストフの捕縛と分かると戸惑いを見せた。護衛の近衛騎士達も同様に次の動きを決めかねているようだ。クリストフを守るべきはずがその動きは鈍く、レオンハルトとローゼン公爵の間で視線を行き来させている。

ローゼン公爵は衛兵二人を遮るようにクリストフを庇って前に立った。


「セドリック。その罪人から離れろ」

「王太子殿下、あれは魔獣では」

「俺は何もしてない!あれは魔獣なんかじゃないよ!」


クリストフはローゼン公爵の言葉を遮って無実を叫んだ。騒動の前にはローゼン公爵の手を借りずにクリストフを非難する輩と立ち合った。その勢いがまだ消えてはいない。


「嘘をつくな。見苦しいぞ。連れて行け!牢にぶち込んでおくのだ!平民の牢にな!」 

「嘘なんかついてない!あんた……おうた……お、お、お兄様!」

「……何だと?」


思いつくかぎり、丁寧に異母兄を呼ぶ。


「お兄様は偉いんだろ!?人の上に立つ人は、人の意見に耳を傾けるべきだって勉強したよ!たまには俺の……じゃなくて、弟の話ぐらい聞け……き、聞いてくれたって、聞いてくださ」


クリストフはほとんどやけっぱちになりながら、日頃の言葉遣いと王宮に来てから学んだ言葉遣いの間で思考を右往左往させた。そんなクリストフの横で、ローゼン公爵はレオンハルトに向かって膝をついた。


「王太子殿下」 


夜を映した瞳が冷たい青に対峙する。


「あの獣は第三王子殿下の所業ではございません」


ローゼン公爵の言葉に、レオンハルトの左眉が持ち上がる。ローゼン公爵のいつもの表情を真似したかのようだった。


「お前はいつから幼子を甘やかす男に成り下がったのだ。このような騒動に王太子たる私が目をつぶることができるとでも思うのか」

「『王家の守護神』たる我が家門に誓って偽りではございません」

「ではどう説明する。あの魔獣はこの男の側から急に出現したのだぞ。この赤目の下郎は」


レオンハルトはクリストフを蔑むような呼称を口にして、一旦言葉を切り、クリストフに再度冷ややかな視線を向けた。


「市井育ちで我々貴族に対して大変な偏見があるのではないか?お前の教えも活かせぬと見える。日頃の貴族に対する鬱憤を晴らすために、先ほどの魔獣を導き入れたのではないか?」 

「違います。第三王子殿下は今では貴族の義務をしっかりと理解していらっしゃいます」 

「では、あの魔獣はなんだというのだ」

「あ、あれは……」


さすがのローゼン公爵も僅かに言い淀んだ。だが、決心したように瞳を伏せる。


「あれは、私の……刺繍です……」 





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