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第30話 ダンスの練習
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2023年1月15日 タイトルの改訂を行いました。
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クリストフが初めて招待された夜会の日が近づいてきた。
夜会を主催するバルトル侯爵は神殿派の貴族であり、弟は聖騎士団に所属しているとのことだった。信心深い男だとの話だが、ローゼン公爵は些か懐疑的なようだ。
「あの優男がこのような大きな夜会を開くとはな」
思案顔でそう言いながら、その手はウーゴが持ってきた服の数々を何をどこに置くのか指示しており、忙しなく動かしている。
「先日、お嬢様のご婚約者様が内定されたとか。まだ正式ではないらしいのですが、事前のお披露目かもしれません」
クリストフの侍女エレナが答えた。ローゼン公爵は左眉を持ち上げてエレナを見た。エレナはあっと小さく口を開けてから、恐縮して肩を縮めた。
「差し出がましいことを申しました。ただ耳にしただけの話ですのに」
「いや、火のない所に煙は立たない。少なくとも何らかの縁が結ばれたのかもしれん」
目を細めて微笑を浮かべたローゼン公爵はエレナに優しい声を掛けた。
「君は本当に良く様々な情報に耳を傾けているようだね。それは殿下の侍女として大切なことだ。今後も続けなさい。ただ、話の裏もなるべく探るように」
エレナは大きく頷いた。
「そんなの危ないよ」
クリストフは目の前に並べられていく衣服から視線をローゼン公爵に移して眉を寄せた。
「もちろん、彼女に出来る範囲でやるのです。危険なようならシュヴァル男爵令嬢に指摘させます。ハーマン子爵令嬢、深く探るようなものは、必ず彼女に相談するように」
エレナがローゼン公爵の侍従アルベルトの姉イルザに信頼の視線を向けて、イルザが彼女に微笑む横で、ローゼン公爵は「では」とクリストフに向き直った。
「私の夜会の装いを選んでください」
クリストフは渋面を作った。お貴族様の服装などクリストフには全く分からない。だが何でも良いとは言えず、面倒で端から一番目のものを指差せば「きちんと選べ」と言われてしまった。そうして夜会のための服選びは、少なくとも二、三時間はかかった。
ついにはローゼン公爵が「何でも良い」と言い出し、仕方なくエレナがくじ引きをするためにくじを作った。王宮やローゼン公爵家に出入りしているシモーナ商会のウーゴは「どこの奥様もこれぐらいお悩みになりますよ」と言うが、ローゼン公爵は奥様ではない。クリストフは納得がいかなかった。
ローゼン公爵の夜会の服を選んだ翌日、さらに憂鬱なことがクリストフを待っていた。何と、魔法・魔術研究所の灰色頭の楽しい魔法技術学の講義を休んでまで、夜会に関して勉強をするという。以前、マナーの授業でやったことを再度復習するというのだ。
魔法のことならいざ知らず、マナーについて同じことをもう一度勉強するなどと。あまりの面倒さに頭が痛くなったクリストフだが、自国の貴族すら覚えていないのかと王太子レオンハルトに指摘を受けた、あの日の自分の愚かさを思い出し、眠くなる頭になんとかマナーを詰め込もうと頑張った。
いまだ貴族名鑑が全ては頭に入ってはいない。もちろん、夜会までに少しでも覚えていくつもりだが、
それで足りないことは分かっている。だから、せめて基本的なマナーぐらいは何とかしなければ。
しかしローゼン公爵は、やれ「ファーストダンスは婚約者以外とは踊ってはいけない」だの、「魔法は絶対に使ってはいけない」だの、挨拶する順番だの、飲み物をもらう際のマナーだの、軽食を口にする際のやり方だの、口を酸っぱくして何度も同じことを繰り返すので、クリストフは少しうんざりしたのだった。
そして、やっとそれから解放されたところで、今度は何とダンスの実技の練習をするという。さすがにクリストフが抗議の声を上げると、「では会場で可愛らしいご令嬢にダンスに誘われたらどうするのですか?」と言われてしまった。仕方なくクリストフはダンスの練習に付き合うことにした。
「では」
ローゼン公爵はまず、ご令嬢にダンスに誘われた場合の返事の仕方をクリストフに教えてくれた。それから、ダンスに入る時のお辞儀の仕方、曲が終わった後のお辞儀の仕方、同じ女性と二度踊ってはいけないこと、彼女達が転んでしまった時のフォローの仕方、などなど。他にも、婚約者がいるご令嬢と踊る時のことなど説明されて、クリストフの頭は山のようにダンスのことを詰め込まれて爆発寸前だ。
そこに急にバイオリンを持ったアルベルトが現れるものだから、クリストフは驚きで今ローゼン公爵に聞いた全てを忘れてしまった。エレナも驚きで目を見開いている。
「ど、どうしたの?」
クリストフは驚いてアルベルトに尋ねた。
「えっ?」
アルベルトはとぼけた返事をしながらバイオリンを肩に乗せた。
「アルベルト」
ローゼン公爵の呼び掛けで、アルベルトはゆっくりとした美しい曲を奏で始めた。
「ではまず、簡単なステップから」
ローゼン公爵に言われて、クリストフは彼を見上げた。そこで盛大にため息をつかれてしまう。クリストフは慌てて手を差し出した。クリストフの手より大きなローゼン公爵の手が重ねられる。その手をおずおずと取ると、焦れたローゼン公爵がクリストフの手を取って自分の腰に回してきた。
クリストフは緊張で固くなってしまった。ローゼン公爵とお互いの体が触れるほどに近づいたことなどない。手の甲への口づけのときですら、手を取っただけで体は離れていたのだ。そんなクリストフにも構わず、ローゼン公爵はクリストフを誘導していく。ぎこちない動きだが、同じことを繰り返す内にやっと足が動くようになってきた。
「えぇ、そうです」
ローゼン公爵が頷いた。動いているせいなのか、重ねられた手が熱くなっていく。ステップは次第に速くなっていった。
「お上手ですよ、殿下」
急に褒められてクリストフは驚いて頭上を見た。ローゼン公爵は目を細めて微笑んでいた。慌てたクリストフはうっかりローゼン公爵の足を踏んでしまった。
「おやおや、もう乱れてしまいましたか」
馬鹿にしたような声が気に障る。クリストフは無理矢理ステップをさらに速めた。
「ふむ」
ローゼン公爵は平然としている。いつの間にか、アルベルトの奏でる曲は軽快なテンポの曲に変わっており、クリストフはローゼン公爵に誘導されて、今度は新しいステップを踏む。
「回ってみましょう。私の真似をして下さい」
ローゼン公爵はクリストフを軽く引き、重心を軸にして器用にくるりと二人で回った。
「こんなことできないよ。あんたの方がでかいんだから」
「ご不満を言うのだけはお上手ですね」
嫌味を言われてクリストフはむきになった。ローゼン公爵を引き寄せて回ろうとし、バランスを崩して転びそうになる。そこをローゼン公爵が上手く捕まえて、また二人でくるりと回った。
「ははっ」
よくこんなことができるものだ。
競うようにステップを踏んだと思えば、急にぴったりと息を合わせて回る。魔道具製作では感じることのない他人の呼吸とリズム。ダンスもそう悪いものではないのかもしれない。むしろ、思ったよりも楽しくなってきた。
ピチカートが聴こえる。
弦を弾く音が丸く室内で跳ねて、二人のステップに寄り添った。まるで音符を踏みながら五線譜の上で踊っているようだ。アルベルトのバイオリンが奏でる音に合わせて、次第に流れるように二人は動き始めた。
「殿下」
優しげな声がクリストフの耳をくすぐった。
「大変お上手ですよ」
クリストフは少し息を切らしながら自分と一緒に踊る男を見上げた。音楽に包まれた空間には、今、ローゼン公爵とクリストフ、二人だけしかいないように感じる。細められた目はクリストフだけを見つめていた。
何故か急に、この時間がこのまま続けばいいとクリストフは思った。
心地良かったのだ。こうやって体を動かして誰かと踊ることも。目の前の男が、自分だけを見つめていることも。自分の側にいてくれる誰かがいることが。
音楽が次第にそのテンポを落としていった。そして、二人の世界は終わってしまった。
ふとクリストフは思う。
ローゼン公爵はずっとクリストフの「お側にいる」と言った。彼はそれで本当にいいのだろうか。それが彼の望みなのだろうか。クリストフが望むように、彼だって誰かに側にいて欲しいのではないだろうか。それはクリストフで本当に良かったのだろうか。彼は望む人がいないとあの神殿の一室で言ったが、本当にそうだったのだろうか。
クリストフはローゼン公爵以外と結婚はしないと誓った。だが、ローゼン公爵はどうか。心惹かれる女性が現れても、彼だってその女性を諦めなければならないではないか。純潔を守ってきた理由は知らないが、それで本当に良いのだろうか。
花嫁は幸せにならなければならない。それならば、ローゼン公爵こそ愛する女性が見つかれば、その人と結婚した方が良いのではないか。クリストフはローゼン公爵のことが急に心配になった。
ローゼン公爵はクリストフに何やら話しかけてくれている。
「初めてにしては、まぁ悪くはないでしょう」
偉そうな物言いをされて、クリストフの心配はあっという間にかき消えた。
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クリストフが初めて招待された夜会の日が近づいてきた。
夜会を主催するバルトル侯爵は神殿派の貴族であり、弟は聖騎士団に所属しているとのことだった。信心深い男だとの話だが、ローゼン公爵は些か懐疑的なようだ。
「あの優男がこのような大きな夜会を開くとはな」
思案顔でそう言いながら、その手はウーゴが持ってきた服の数々を何をどこに置くのか指示しており、忙しなく動かしている。
「先日、お嬢様のご婚約者様が内定されたとか。まだ正式ではないらしいのですが、事前のお披露目かもしれません」
クリストフの侍女エレナが答えた。ローゼン公爵は左眉を持ち上げてエレナを見た。エレナはあっと小さく口を開けてから、恐縮して肩を縮めた。
「差し出がましいことを申しました。ただ耳にしただけの話ですのに」
「いや、火のない所に煙は立たない。少なくとも何らかの縁が結ばれたのかもしれん」
目を細めて微笑を浮かべたローゼン公爵はエレナに優しい声を掛けた。
「君は本当に良く様々な情報に耳を傾けているようだね。それは殿下の侍女として大切なことだ。今後も続けなさい。ただ、話の裏もなるべく探るように」
エレナは大きく頷いた。
「そんなの危ないよ」
クリストフは目の前に並べられていく衣服から視線をローゼン公爵に移して眉を寄せた。
「もちろん、彼女に出来る範囲でやるのです。危険なようならシュヴァル男爵令嬢に指摘させます。ハーマン子爵令嬢、深く探るようなものは、必ず彼女に相談するように」
エレナがローゼン公爵の侍従アルベルトの姉イルザに信頼の視線を向けて、イルザが彼女に微笑む横で、ローゼン公爵は「では」とクリストフに向き直った。
「私の夜会の装いを選んでください」
クリストフは渋面を作った。お貴族様の服装などクリストフには全く分からない。だが何でも良いとは言えず、面倒で端から一番目のものを指差せば「きちんと選べ」と言われてしまった。そうして夜会のための服選びは、少なくとも二、三時間はかかった。
ついにはローゼン公爵が「何でも良い」と言い出し、仕方なくエレナがくじ引きをするためにくじを作った。王宮やローゼン公爵家に出入りしているシモーナ商会のウーゴは「どこの奥様もこれぐらいお悩みになりますよ」と言うが、ローゼン公爵は奥様ではない。クリストフは納得がいかなかった。
ローゼン公爵の夜会の服を選んだ翌日、さらに憂鬱なことがクリストフを待っていた。何と、魔法・魔術研究所の灰色頭の楽しい魔法技術学の講義を休んでまで、夜会に関して勉強をするという。以前、マナーの授業でやったことを再度復習するというのだ。
魔法のことならいざ知らず、マナーについて同じことをもう一度勉強するなどと。あまりの面倒さに頭が痛くなったクリストフだが、自国の貴族すら覚えていないのかと王太子レオンハルトに指摘を受けた、あの日の自分の愚かさを思い出し、眠くなる頭になんとかマナーを詰め込もうと頑張った。
いまだ貴族名鑑が全ては頭に入ってはいない。もちろん、夜会までに少しでも覚えていくつもりだが、
それで足りないことは分かっている。だから、せめて基本的なマナーぐらいは何とかしなければ。
しかしローゼン公爵は、やれ「ファーストダンスは婚約者以外とは踊ってはいけない」だの、「魔法は絶対に使ってはいけない」だの、挨拶する順番だの、飲み物をもらう際のマナーだの、軽食を口にする際のやり方だの、口を酸っぱくして何度も同じことを繰り返すので、クリストフは少しうんざりしたのだった。
そして、やっとそれから解放されたところで、今度は何とダンスの実技の練習をするという。さすがにクリストフが抗議の声を上げると、「では会場で可愛らしいご令嬢にダンスに誘われたらどうするのですか?」と言われてしまった。仕方なくクリストフはダンスの練習に付き合うことにした。
「では」
ローゼン公爵はまず、ご令嬢にダンスに誘われた場合の返事の仕方をクリストフに教えてくれた。それから、ダンスに入る時のお辞儀の仕方、曲が終わった後のお辞儀の仕方、同じ女性と二度踊ってはいけないこと、彼女達が転んでしまった時のフォローの仕方、などなど。他にも、婚約者がいるご令嬢と踊る時のことなど説明されて、クリストフの頭は山のようにダンスのことを詰め込まれて爆発寸前だ。
そこに急にバイオリンを持ったアルベルトが現れるものだから、クリストフは驚きで今ローゼン公爵に聞いた全てを忘れてしまった。エレナも驚きで目を見開いている。
「ど、どうしたの?」
クリストフは驚いてアルベルトに尋ねた。
「えっ?」
アルベルトはとぼけた返事をしながらバイオリンを肩に乗せた。
「アルベルト」
ローゼン公爵の呼び掛けで、アルベルトはゆっくりとした美しい曲を奏で始めた。
「ではまず、簡単なステップから」
ローゼン公爵に言われて、クリストフは彼を見上げた。そこで盛大にため息をつかれてしまう。クリストフは慌てて手を差し出した。クリストフの手より大きなローゼン公爵の手が重ねられる。その手をおずおずと取ると、焦れたローゼン公爵がクリストフの手を取って自分の腰に回してきた。
クリストフは緊張で固くなってしまった。ローゼン公爵とお互いの体が触れるほどに近づいたことなどない。手の甲への口づけのときですら、手を取っただけで体は離れていたのだ。そんなクリストフにも構わず、ローゼン公爵はクリストフを誘導していく。ぎこちない動きだが、同じことを繰り返す内にやっと足が動くようになってきた。
「えぇ、そうです」
ローゼン公爵が頷いた。動いているせいなのか、重ねられた手が熱くなっていく。ステップは次第に速くなっていった。
「お上手ですよ、殿下」
急に褒められてクリストフは驚いて頭上を見た。ローゼン公爵は目を細めて微笑んでいた。慌てたクリストフはうっかりローゼン公爵の足を踏んでしまった。
「おやおや、もう乱れてしまいましたか」
馬鹿にしたような声が気に障る。クリストフは無理矢理ステップをさらに速めた。
「ふむ」
ローゼン公爵は平然としている。いつの間にか、アルベルトの奏でる曲は軽快なテンポの曲に変わっており、クリストフはローゼン公爵に誘導されて、今度は新しいステップを踏む。
「回ってみましょう。私の真似をして下さい」
ローゼン公爵はクリストフを軽く引き、重心を軸にして器用にくるりと二人で回った。
「こんなことできないよ。あんたの方がでかいんだから」
「ご不満を言うのだけはお上手ですね」
嫌味を言われてクリストフはむきになった。ローゼン公爵を引き寄せて回ろうとし、バランスを崩して転びそうになる。そこをローゼン公爵が上手く捕まえて、また二人でくるりと回った。
「ははっ」
よくこんなことができるものだ。
競うようにステップを踏んだと思えば、急にぴったりと息を合わせて回る。魔道具製作では感じることのない他人の呼吸とリズム。ダンスもそう悪いものではないのかもしれない。むしろ、思ったよりも楽しくなってきた。
ピチカートが聴こえる。
弦を弾く音が丸く室内で跳ねて、二人のステップに寄り添った。まるで音符を踏みながら五線譜の上で踊っているようだ。アルベルトのバイオリンが奏でる音に合わせて、次第に流れるように二人は動き始めた。
「殿下」
優しげな声がクリストフの耳をくすぐった。
「大変お上手ですよ」
クリストフは少し息を切らしながら自分と一緒に踊る男を見上げた。音楽に包まれた空間には、今、ローゼン公爵とクリストフ、二人だけしかいないように感じる。細められた目はクリストフだけを見つめていた。
何故か急に、この時間がこのまま続けばいいとクリストフは思った。
心地良かったのだ。こうやって体を動かして誰かと踊ることも。目の前の男が、自分だけを見つめていることも。自分の側にいてくれる誰かがいることが。
音楽が次第にそのテンポを落としていった。そして、二人の世界は終わってしまった。
ふとクリストフは思う。
ローゼン公爵はずっとクリストフの「お側にいる」と言った。彼はそれで本当にいいのだろうか。それが彼の望みなのだろうか。クリストフが望むように、彼だって誰かに側にいて欲しいのではないだろうか。それはクリストフで本当に良かったのだろうか。彼は望む人がいないとあの神殿の一室で言ったが、本当にそうだったのだろうか。
クリストフはローゼン公爵以外と結婚はしないと誓った。だが、ローゼン公爵はどうか。心惹かれる女性が現れても、彼だってその女性を諦めなければならないではないか。純潔を守ってきた理由は知らないが、それで本当に良いのだろうか。
花嫁は幸せにならなければならない。それならば、ローゼン公爵こそ愛する女性が見つかれば、その人と結婚した方が良いのではないか。クリストフはローゼン公爵のことが急に心配になった。
ローゼン公爵はクリストフに何やら話しかけてくれている。
「初めてにしては、まぁ悪くはないでしょう」
偉そうな物言いをされて、クリストフの心配はあっという間にかき消えた。
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