年下王子と口うるさい花嫁

いとう壱

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第29話 公爵様の花嫁修業 〜刺繍〜 6

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「ついに完成いたしました!」


あれから数日後の朝、目の下にとんでもないくまを作ったローゼン公爵が、魔法学の講義の前に嬉々として新しい刺繍をしたハンカチを披露してきた。

連日徹夜している様子に、さすがのクリストフも心配していたが、本人は完成した刺繍に大喜びで、目の隈以外は全く疲労の色を見せない。ただ、相変わらずその指先は痛々しく布が巻かれている。クリストフは後でポーションペンを渡そうと考えた。


「私は図柄を入れる方が向いているようですね」


と、本人が言うほどの刺繍だが、確かに今度はしっかりとした形を成している。前回のものに比べれば何とも目を瞠る出来映えだ。


「すごいじゃん!」


クリストフは素直に称賛した。ローゼン公爵の刺繍技術の進歩は目覚ましいものだ。


「さすが閣下です!」


クリストフの侍女エレナも頬を染めて刺繍に見入っている。


「へぇ~!」


ローゼン公爵の侍従アルベルトは語彙ごいの少なさを表情で補った。アルベルトの姉イルザは黙って目を閉じている。

そう、一同はそのイルザの姿勢に気付くべきだったのだ。下手な称賛の言葉を掛ける前に。


「可愛い豚さんですね」


エレナは微笑んだ。


「よく出来てるよ。豚にそっくりだよ」


クリストフも頷いた。


「でも、どうして豚なんですか?ビスケットを食べ過ぎるなってことですか?」


アルベルトは余計なことを言った。クリストフはアルベルトを睨みつけた。しかし次の瞬間、勉強部屋には冷たい声が響いた。


「ドラゴンです」


三人がローゼン公爵を見ると同時に、イルザは沈痛な面持ちで俯いた。


「えっ?今何て?」


クリストフが馬鹿げた質問を飛ばした。ローゼン公爵が眼鏡の縁を少し上げた動作で状況を察したアルベルトは、一応はローゼン公爵の従者として職を得ているだけのことはあるらしい。素早く体勢を整え、主人の意図を汲み上げる。


「な、なるほど!この羽……翼は豚……ではなくドラゴンのものだったのですね!」

「そういえば羽生えてるね。こんな生き物いたっけ?」


今度はクリストフが余計なことを言った。若い婚約者は場の雰囲気を読むことを知らないようだ。


「古代魔生物辞典で見たような気がいたします」


エレナも、相手の立場に配慮するという淑女教育の成果を遺憾なく発揮しなかった。


「どれの仲間?」

「魔獣類魔蹄目…でしょうか」

「いたかな、こんな豚」

「ドラゴンです……!」


ローゼン公爵の地を這うような声が、騒がしい若者達の談義を一喝した。クリストフとエレナは目を見開いて動きを止めた。窓の外、そよぐ風が見頃を終えた白い花の花弁を容赦なく散らしていった。


「アルベルト」


イルザが低い声で弟に呼びかける。


「いや~、しかしこの生地はいいですね!」


アルベルトは急に話題の方向性を変えた。


「ほらこれ、殿下の瞳の色ですよ!高級感のある赤!手触りも」

「どこがドラゴン!?」


エレナが凍りついた。イルザは唖然としてクリストフを見た。クリストフの素直さは、イルザやアルベルトの予想を越えていたようだ。


「だって太ってるじゃん!」

「太っているのではありません。強靭きょうじんな体を描きました。殿下が王族として力強くご成長されることを願って」

「じゃ、この鼻は!?」

「空気を吸い込み体内の魔力循環を促す、呼吸という大事な運動を行う器官をはっきりと描き」

「このくるくるしてる尻尾は?」

「末端の部位であっても繊細な動きができるほど器用な」

「首が詰まってて長くないよ?」


ローゼン公爵は黙り込んだ。その様子を気にすることもなく、クリストフはハンカチを手にとってしげしげと眺めた。


「ま、いいか」


そしてにこにことしながらハンカチを折り始めた。エレナに教わった流行りの折り方だ。それから、それを着ているシャツの胸ポケットに押し込んで、胸を張ってみせた。


「どう?」

「えぇ、結構です。大変お上手です」


自慢顔のクリストフを睨みつけながらローゼン公爵は答えた。


「そうだ」


クリストフはハンカチをポケットから出して折り直した。


「ほら、俺考えたんだ。こうすると刺繍が見えるよ」


ポケットからちらりと刺繍を覗かせて、クリストフはまたにこにことした。前回の反省を経て、エレナに相談してクリストフの考えた折り方だった。ローゼン公爵は黙ったままだ。


「ね」


クリストフは小首を傾げてローゼン公爵を上目遣いに見た。それから、またハンカチを広げて刺繍の部分を嬉しそうに見つめた。日に透かしてみたり、刺繍の裏側を見てみたり、凹凸のあるその部分に指先で触れてみたり。そして再びハンカチを折ってポケットに入れた。


「ね、どう?」


ついにローゼン公爵はそのしかめっ面を崩した。


「……も、もうよろしいでしょう、殿下。それは仕舞ってください」


ほんのりと頬を染め、眼鏡の縁を二、三度上げ下げし、彼の目線はクリストフから逸らされた。


「すごい……」


アルベルトは奇妙な感嘆の声を漏らした。エレナはほっとしたのか、再び笑顔になって早速お得意の提案を始めた。


「とってもお似合いですよ、殿下。次にお出かけになる時、お召物に合わせていきましょう」

「うん」


クリストフは嬉しそうにハンカチを撫でた。

今度は間違えない。クリストフのために刺繍してくれたこの豚を大切にするつもりだ。それに、あのローゼン公爵が刺繍したとなれば、皆驚くに違いない。馬鹿にする人間には、させておけばいいのだ。どうせ刺繍をしたこともないのに馬鹿にしてくる奴らばかりに違いないのだから。


「そうだ!夜会にご参加される時に合わせていきましょう!」


無謀な提案に、アルベルトとイルザはぎょっとしてエレナを見た。ローゼン公爵は呆気に取られて目の下の隈を一度こすった。


「夜会?俺が?」

「ええ。ご招待状が来ていますよ」

「そうなの?」

「先程届いたばかりですから。バルトル侯爵家主催の夜会です」

「でも俺、夜会は行ったことないよ」

「大丈夫ですよ、殿下。公爵閣下もご参加されます。それに、淑女会からもご参加される方が何人かいらっしゃいます」

「夜会って何するの?」

「皆様にご挨拶したり、ダンスを踊ったり……するみたいです」

「ふ~ん」


話だけは聞いたことがある貴族の夜会に、クリストフは多少興味があった。話の種に一度ぐらい見てみるのも良いかも知れない。エレナが夜会の装いに関してあれこれ楽しそうに提案するさまを眺めながら、クリストフは安易に頷いていた。






その夜のこと、いつものように試作品をいじっていたクリストフは、描いた魔法陣が見事に失敗して机の上に額を乗せて呻いていた。

そこに小さくドアを叩く音が聞こえてきて顔を上げる。ローゼン公爵がココアを持ってきてくれたのだろう。一息入れるのも良いかも知れない。

いつの間にか、この夜のココアは毎日恒例となっていた。クリストフがあれやこれやと頭を悩ませて、今夜はもう終わりだという所で、ローゼン公爵がココアを持ってきてくれる。一日を終えて、寝る前にココアを飲みながらローゼン公爵にその日あったことを話すのだ。その時間がクリストフは好きだった。

静かで落ち着いた夜の時間は、ローゼン公爵はいつもより優しくて嫌味もあまり言わない。クリストフの話を静かに聞いてくれる。

クリストフが応えると、ローゼン公爵が銀のトレーにココアを乗せて部屋へ入ってきた。いつものように、クリストフは「ありがとう」とココアを受け取る。ローゼン公爵の指先には相変わらず布が巻かれていた。

それをローゼン公爵は気にした様子もなく、クリストフの机の上の雑然とした様を見て苦笑した。クリストフが魔法・魔術研究所の灰色頭から魔法技術学の講義を受けることになったとき、研究所の彼の部屋があまりに汚くてそれを話したことがある。しかし、こうして魔道具製作に没頭していると、クリストフの周辺にもいつの間にか様々な物が積まれていってしまうのだ。灰色頭の部屋よりはよっぽどましだが、それでも人のことは言えたものではなかった。


「少しお片付けをされた方がよろしいのでは?」

「今度やるよ」


今は作っているものがある。机の上を動かしたくない。クリストフの返答にローゼン公爵がまた小さく笑みを浮かべた。それから、ローゼン公爵はハンカチを一枚取り出してクリストフに渡した。理由が分からずにクリストフがローゼン公爵を見ると、夜会にはそれを持っていけと言う。


「あんたにもらったのがあるよ」

「あれは……」


ローゼン公爵は言葉を切って、困ったように眉を寄せた。


「やはりお持ちにならない方がよろしいでしょう。貴方様が恥ずかしい思いをされてしまいますから」


今夜持ってきたハンカチは、刺繍で人気の店から取り寄せたものだという。


「これは質も良く、評判が良いものですから」


クリストフは凪いでいた気持ちが一瞬でかっと沸騰した。そして、渡されたハンカチを突き返した。


「いらないよ!」

「ですが、あの刺繍では」

「いい出来だって自分で言ってただろ!俺はあれを持っていくの!」

「殿下」

「いらない!」


せっかくあの豚を気に入っていたのに、その気持ちを台無しにされたような気がした。


「殿下」


困ったようにローゼン公爵がまた自分を呼ぶ。


「俺はあれがいいの!」

「ですが」

「いらないって言ってるだろ!」


受け取らないローゼン公爵に焦れて、クリストフはハンカチを投げつけた。ハンカチはローゼン公爵にぶつかって、それからひらりと彼の足下に落ちた。そしてその様子にクリストフは今度は一瞬で頭が冷えた。

ハンカチを拾い上げる痛々しい指先が、クリストフの心に罪悪感を生んだ。だがあの勢いがまだ残っている。「ごめんなさい」とひと言口にすればいいだけなのに、それを言うことが出来ない。そして他の謝罪の言葉も思い浮かばない。


「夫に恥をかかせては妻として失格になってしまいます」


ローゼン公爵は拾ったハンカチを軽く叩いた。クリストフは戸惑いながら手を伸ばし、今度は自ら投げつけたハンカチを奪い取るように彼の手から取り上げた。


「使っていただけるのですね?」

「使わない」


その時丁度、ローゼン公爵の指先に巻かれた布に薄っすらと滲んだ赤い色が見えた。

血だ。

思わずクリストフはローゼン公爵の手を取った。ハンカチは今度はクリストフの足下に落ちた。


「殿下?」


ローゼン公爵は怪訝な顔でクリストフを覗き込む。布に点々と滲む血に、クリストフは思わず手に力を込めてしまった。母から絶対に使うなと言われていたのに。母と同じあの力を、無意識に使ってしまっていた。

母の放った銀色の光ではなく、王家の黄金色の光が淡く放たれてローゼン公爵の手を包む。ローゼン公爵が息を飲んだのが分かった。

彼の指先に残っていた小さな痛みをクリストフは感じた。それを自分の魔力で包んでしまうと、その痛みは消えていく。そして光は夜の部屋に霧散した。

久し振りにこの力を意図せず使ってしまった。体中が不思議な熱に包まれる。本当に、クリストフは母の言うように一人ぼっちになってしまうのだろうか。目を見開いているローゼン公爵を、クリストフはおずおずと見上げた。彼は一言も発さない。


「痛かった?」


クリストフは尋ねた。もしかすると、あまりに長いこと使っていなかったから失敗したのかもしれなかった。

ローゼン公爵は黙ったまま、自分の指先の布を取った。傷は綺麗に消えているようだ。クリストフはほっとした。


「殿下」


しばらく指先を見つめていたローゼン公爵は、真剣な眼差しでクリストフを見た。


「これは貴方様のお母様と同じお力ですね?」


無言で頷くクリストフに、ローゼン公爵は眉間の皺を深くした。彼は沈黙し、考え込んでいた。そしてやがてゆっくりと口を開いた。


「このお力を、私以外の者の前ではお使いにならないで下さい」


今度はローゼン公爵がクリストフの手を取った。


「このお力は素晴らしいものだ。ですが、このお力により貴方様はより孤独になってしまう」


クリストフは瞬いた。ローゼン公爵が母とほとんど同じことを言ったからだ。


「癒やしの力は人々に光をもたらすと同時に、人々の闇をも引き出します。その闇が貴方様のお母様を苦しめていた。私は……」


ローゼン公爵はきつくクリストフの手を握り締めた。夜闇のような瞳が、苦しげに細められる。


「私は、貴方様をその苦しみからお守りしたい。出来ることなら、その闇には触れずに、いえ……」


そこでローゼン公爵は言葉を切って目を伏せた。引き結ばれた薄い唇は込められた力で色を失ってしまっている。


「もしどうしても、このお力を使って人々を救いたいと思われるのなら、もっと世の中のことを知らなければなりません。貴方様が人の闇に触れる覚悟ができたとき、その時であれば、このお力を使っても良いでしょう」


そして続けてローゼン公爵はクリストフに言った。


「私と約束して下さいますか?」


彼はそれをクリストフに乞うていた。懇願していた。受け入れて欲しいという彼の願いがクリストフを見つめる瞳に込められている。

求められるままにクリストフが頷くと、握り締められた手はそっと解放された。クリストフはそれが少し寂しく感じた。

それから、ローゼン公爵はクリストフを座らせてココアを飲むように勧めた。だが、ココアの良い香りも、クリストフの大好きな甘さも、今夜はあまり感じられなかった。目の前のローゼン公爵が、ココアを口にするクリストフをずっと心配そうな目で見ているからだ。

クリストフはそれが何だかとても嬉しかった。ハンカチのことなどすっかり頭の片隅にもなくなって、ローゼン公爵が帰り際に拾い上げるまで忘れていたぐらいだ。

ローゼン公爵に心配されて機嫌を直したクリストフは、ハンカチは受け取るが夜会には豚のハンカチを持っていくと告げ、再度「あれはドラゴンです」と言われてしまった。




寝る間際、クリストフはあの豚の刺繍のハンカチを枕元に置いた。クリストフのために刺繍されたその豚を眺めていたかったからだ。夜に思考が沈む直前、クリストフは懐かしい母の眼差しを思い出した。それから自分を心配して見つめるローゼン公爵の瞳を思い出した。そして不思議に幸せな気持ちで眠りにつき、その夜は刺繍の豚の背に乗って世界中を旅する夢を見たのだった。





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