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第17話 花婿は反抗期
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淑女会はローゼン公爵の予想を遥かに超えて素晴らしかったようだ。
興奮醒めやらぬローゼン公爵はその後も淑女会メンバーが開催するお茶会に積極的に出向いた。クリストフはローゼン公爵の行動力に感心した。宰相補佐としての仕事をこなし、クリストフに勉強を教え、自領の統治もし、そして淑女としての活動にも精力的だ。魔道具と魔法に手一杯のクリストフにはとても想像がつかないほどローゼン公爵は多忙を楽しんでいるようだった。
しかしクリストフが気になっているのは淑女会メンバーの反応だ。男性であるローゼン公爵が参加することをどう思っているのだろう。お茶会に呼んでくれるのだから、少なくとも関係は良好なのだろうか。
そんなクリストフの疑問も知らず、ローゼン公爵は三日後に淑女会のメンバーである女性を三人ほど、この白花の館に呼びたいと言ってきた。
「素晴らしい淑女の皆様です。殿下のお力にもなっていただけそうなので是非ご招待したいのですが、よろしいでしょうか」
面倒だというのが正直な気持ちだった。館に呼ぶのは勝手にしてくれて構わない。だが貴族の交流などクリストフはしたくもない。なのにローゼン公爵はクリストフに淑女会のメンバーである貴族の女性達を紹介したいという。魔道具を作る大切な時間が削られてしまうというのに。
「面倒くさいよ」
あからさまに嫌そうな顔をすると、ローゼン公爵は目を細めて口元を引き結び、クリストフをじっと見た。招待客に顔を合わせないのは許さない、無言でクリストフにそう言っている。好きなことをやらせてもらえたと思っていたら、やはりこうやって貴族のやり方に巻き込まれてしまう。
クリストフはどうしても納得いかず、頷きも返事もせずにローゼン公爵から顔を背けた。子どものようだと言われるのは分かっていたが、その後の夕食の時もローゼン公爵とは口を利かなかった。クリストフの侍女エレナが心配しておろおろとする中、翌日もクリストフは無言を貫いて、それは淑女会の女性達が館に招かれる当日までの間、三日間にも渡って続いたのだった。
そして当日、クリストフはローゼン公爵の目を盗んで朝食を自室に持ち込んだ。今日は自分の部屋から一歩も出ない。そう決心していた。ドアの外から呼びかけるエレナの声も無視した。自身の幼さに向き合うよりもローゼン公爵への反発が、この三日間で王都の城壁にある尖塔よりも高く募ってしまっていた。
やがてエレナの声は聞こえなくなり、部屋の外は静かになった。何故か心が落ち着かず外の音に耳を澄ませると、風に乗って厨房建設の音が聞こえてくる。クリストフはしばらく、金槌が打ち付けられる音や木材を切る音などを聞きながら、完成した厨房とそこで作られる豪勢な食事を想像して気を紛らわせた。それから、併設される入浴のための設備で浴槽につかる自分の姿を思い描いた。
厨房の建設はローゼン公爵の案でその建設費もローゼン公爵が出したのだが、クリストフの心はそのことに気を向ける余裕すらなかった。望まないのに生活を共にすることになった気の合わぬ男から逃げたいという考えが、ここ数週間ぶりに強くクリストフを支配していたのだ。
穏やかな陽光が差し込む部屋の中、研究所で学んだことやローゼン公爵の講義内容の復習をしたあと、クリストフは魔道具の製作に熱中した。今日は調子が良いらしい。
あれほど悩んでいたランプの魔法陣については随分と簡略化できたし、ポーションペンの試作品も完成した。ランプは子どもでも手で持てるように改良したものと、両手が空くように腕輪の形にしたものを作ってみた。おまけに光量の調節も可能にした。くだらない貴族の付き合いなどない方が、こうやって製作は捗るのだ。ウーゴが手を揉む姿を思い浮かべ、クリストフはにやけた。そして、これをローゼン公爵に見せてやろうと思い立った。
そう考え始めるとクリストフはそわそわしてきた。早く作ったものをローゼン公爵に見て欲しくて堪らない。ローゼン公爵はこれを見て何と言うだろう。きっと驚くに違いない。この間の夕食の時のように、クリストフを褒め始めるかもしれない。「素晴らしい」とか「ご立派です」とかローゼン公爵が自分をあれこれ褒め称える姿を想像してクリストフはご満悦だった。
時刻はそろそろお茶の時間に差しかかるころだ。例の淑女会のメンバーとやらは来ているのだろうか。そっと窓から外を眺めてみた。王宮へ続く花に囲まれた道を歩く女性の姿はない。いつもどおり、王宮から派遣された近衛兵の姿が三、四人ほど見られるだけだ。
クリストフは今度は自室のドアに耳を当ててみた。誰が聞いているわけでもないが息を潜め、話し声がしないかどうか聞き耳を立てた。しかし、館の二階は静かなもので予想していた音はしない。もしかすると、客は来なかったのかもしれない。都合のいい考えがクリストフの頭に浮かぶ。あれだけ嫌だと態度で示したのだから、さすがのローゼン公爵も自分の意見を聞き入れたのでは。
そうだ、とクリストフは急に強気になった。ローゼン公爵も言っていたではないか。妻は夫を支えるもの。何と言ってもローゼン公爵はクリストフの妻となるのだ。クリストフの訴えに大人しく従ってくれても良いはずだ。
自室のドアをそっと開け、クリストフは廊下に出た。部屋の中よりは少しひんやりとした空気を感じる。自慢の試作品を箱に入れて抱え忍び足で階段まで向かったクリストフは、人気のない吹き抜けの階段で自分の推測への確信を深めた。客が来ていないならローゼン公爵は何をしているのだろう。出かけてしまったのなら残念だ。一番にこの試作品を見せてやろうと思ったのに。
そろそろと階段を降りていくと、庭園を渡る風の音に乗って小さなさざめきが耳を掠めた。館の壁に阻まれて少し遠くに聞こえる厨房建設の音に混じり、人の声が聞こえたような気がする。作業中の職人の声に違いない。勝手にそう決めつけて、クリストフはローゼン公爵の不在を確かめるべくきょろきょろと辺りを見回した。すると聞き慣れた声が誰かに賛辞を送っている。
「素晴らしい!」
それは確かにローゼン公爵の声だった。来客は確かにあったのだ。クリストフは引き返そうとしたが「御見逸れれいたしました」などと言葉が続き、何だか居ても立っても居られなくなった。
腕の中の試作品を見る。
先程聞こえた言葉はクリストフに言うべき言葉だ。おべっかの嫌いなローゼン公爵が惜しみない賛辞を送るのなら、それは望まぬ関係であっても夫であるクリストフに送られるべきだ。この境遇を、この関係を我慢しているのだから、それぐらいの言葉があっても良いはずだ。
クリストフは向きを変え、こっそりと声のする方に近づいていった。勉強部屋の開け放たれたドアから、少し高い女性達の声が聞こえてくる。クリストフは息を殺して勉強部屋を覗き込んだ。気持ちの良い陽射しのもと、テラスで歓談する女性達とローゼン公爵の姿が見えた。
「ではイーセミスキ国のクルヴァドス兵が進軍を諦めたのは夫人のお力があってこそだったのですね」
「とんでもありません。わたくしはただ、彼の領地に住まう住民達の意見を耳にしただけのこと。後は全て夫とイーセミスキ国の大将軍閣下が行動に移したためです」
「しかしあの下品な夜会の中の会話で、そこまでお考えになられるとは」
「それは公爵閣下も行われていることではございませんこと?ベルモント公爵閣下の夜会で、エルコラ男爵の発言から不審な商会を摘発したお話は耳にしております」
「どうですかな。我々男の世界は女性が想像しているよりもずっと回りくどく、陰湿なところもあります」
「まぁ……。では、あの夜会の場で糾弾するおつもりで、あらかじめ調査しておられたのですか?」
「それはご想像にお任せいたしますよ。ところで、その後イーセミスキ国のクルヴァドス領で反乱が起きてしまったようですね」
「えぇ、残念ながら。どうやら当主が変わってしまったようですわ」
「おや、計算ずくなのでは?怖いお方だ」
「まさか。領民達はいつでも自分の手と意志で、領主を選ぶ力がございますのよ?」
「お二方、そうなりますと、次の冬に向けて東部の穀物貯蔵が心配になりますね」
「えぇ、ブレンドル伯爵夫人。ただ、幸いなことにベルモント公爵閣下とアレリード公爵閣下のご領地で臨時の対策が」
笑顔も交えながらローゼン公爵と女性達が話す内容は、国家間の問題のこと、領地のこと、食物対策のことなどなど。クリストフにはよく分からないことばかりだ。
クリストフはもう一度腕の中の試作品を見た。それから、ローゼン公爵を見た。ローゼン公爵の機嫌は良さそうだ。女性達とお喋りばかりしていないで、早くこれを見て欲しい。うずうずする気持ちとは裏腹に、彼等四人の話題の中にいきなり姿を現すこともできず、クリストフはただひたすらローゼン公爵に視線を送るだけだった。
ローゼン公爵がティーカップを持ち上げて口をつけた。クリストフに気づく気配はない。美味しそうなお菓子を女性達に勧めている。やはりクリストフに気づく気配はない。クリストフはがっかりして眉尻を下げた。
しばらく入口から中を覗き見ていたが、自室に戻ろうと思ってもう一度ローゼン公爵を見た時、ローゼン公爵の黒い瞳がクリストフを捉えた。望んでいたはずなのに気恥ずかしさが先立って、クリストフは素早く顔を引っ込めた。
「失礼」
ローゼン公爵が女性達に声をかけているのが聞こえる。それから足音が近付いてきて、頭上に差した影をクリストフは見上げた。ローゼン公爵が眼鏡の縁を持ち上げて冷たい目でクリストフを見下ろしている。
「こんな所で何をされていらっしゃるのですか」
堅い声が降ってきて、クリストフはさらに眉尻を下げた。ローゼン公爵をちらりと見上げ、それから腕の中に抱きしめた物へと視線を落とす。
ローゼン公爵はクリストフの視線を追ってその腕の中へと目を遣った。「ふむ」と口元が動き、僅かに左眉を持ち上げると肩に触れる手がクリストフを部屋の中へと促した。クリストフは僅かに抵抗した。しかし、「おいで下さい」と背を押され、女性達の前に連れて行かれた。
おずおずと視線を上げると女性達は立ち上がってクリストフに向かって美しい礼をした。クリストフはどうして良いか分からず、ローゼン公爵を見上げた。挨拶をすべきなのだろう。だが、先日フランティエ夫人に会った時のように、およそ王族とは思えない挨拶をしてしまいそうだった。ローゼン公爵から習ったマナーだとかお作法だとかそういったものはこの場でどうにも思い出せなかった。クリストフが尻込みしていると、ローゼン公爵が女性達を紹介してくれた。
「殿下。淑女会で私がお世話になっている方々です」
淡い紫のドレスの女性はルーマン侯爵夫人。青いドレスの女性はブレンドル伯爵夫人。爽やかな緑のドレスの女性はコルマフ子爵夫人。
クリストフは名乗ろうとしてまたローゼン公爵を見上げた。ローゼン公爵はクリストフが発せずにいた言葉を引き取ってクリストフのことを紹介した。女性達は微笑んでクリストフを受け入れてくれた。いつの間に現れたのか、ローゼン公爵の侍従アルベルトの姉イルザがクリストフのために椅子を持ってきて、クリストフの侍女エレナが見違えるほどの所作でテーブルに紅茶の入ったティーカップを置いた。
ローゼン公爵はチョコレートがかかったケーキをクリストフに勧めてきた。しかしクリストフは手が出せない。お茶会でのマナーも習ったはずなのだがどうしても頭の中から出てこないのだ。クリストフは縋るようにローゼン公爵を見たが、今度は何もしてくれない。仕方なく恐る恐る女性達へと顔を向ける。目の前の穏やかな視線にもクリストフの緊張は解けはしなかった。ローゼン公爵がクリストフの耳に囁いた。
「殿下からお声がけをせねば、彼女達は話すことができません」
クリストフは慌てて「こんにちは」と言った。またそれしか出て来なかった。にこやかに微笑む女性達を前にして、クリストフは研究所に思いを馳せた。クリストフに魔法技術学を教えてくれている灰色頭の雑然とした部屋。所長の出っ張ったお腹。今はそれらが恋しくてたまらない。
「まずは足を運んで下さったことに対する御礼を」
ローゼン公爵がまた囁いた。クリストフは「ほ、本日はお日柄も良く」と指示されたこととは違う台詞を口にしてしまった。座っているだけなのに膝が震えている。ローゼン公爵がどんな顔をしているのか、それを見てしまうのが嫌でクリストフは目も向けられなくなった。多分呆れているのだ。マナーを忘れた自分に対して。クリストフは視線を下げて押し黙った。
やはり貴族の付き合いなんて無理だ。王宮に来たばかりのころを思い出し、自然と肩に力が入る。こうやってクリストフが喋らないでいると、大体の人間は次に母のことを話題にする。クリストフはそれが嫌だった。
クリストフから見れば貴族は母を王都から追い出した存在だ。だが何故か貴族達はまるで本当の母を知っているかのように褒め称える。それでも、それはただの社交辞令とやらでハーマン子爵のように真心からの感謝を聞くことは本当に稀だ。
「そういえば」
ルーマン侯爵夫人が話題を切り出した。母のことかと思ってクリストフは身構えた。
「ローゼン公爵閣下よりお話はお聞きしております。国民の役に立つような魔道具を作られていらっしゃるとのこと。素晴らしいお志に感動いたしました」
「えっ」
予想に反して話題は母のことではなかった。クリストフは驚いてローゼン公爵を見た。ウーゴは商会の人間だから良い。灰色頭は研究所の人間だし、貴族らしくもないから構わない。でも、何故こんな貴族然とした女性達に自分の魔道具の話をしたのだろう。確かに口止めをなどしていなかった。でも、クリストフのことをどう話すかは、クリストフに聞いてからにして欲しい。第一、作った魔道具は貴族の間になど広めるつもりはない。市井の人々に使ってもらうのだ。
「是非今度、殿下のお作りになられている魔道具を拝見したく」
「ど、どうも!」
クリストフは立ち上がって軽く頭を下げると「殿下」と呼び止めるローゼン公爵の声も無視して試作品の入った箱を抱えたまま足早に勉強部屋のテラスから立ち去った。そしてむかむかとした気持ちのまま再び自室に閉じこもった。
ローゼン公爵の魂胆は分かった。クリストフが魔道具に興味があることを知って作らせる環境を整え、使えそうなものだったら貴族の間に広めて売る。そしてお金にする。そんな考えだからクリストフのことを簡単に他の貴族に話してしまったのだろう。
クリストフは試作品を見つめて悔しげに唇を噛んだ。自分が馬鹿だと思った。これを見せてローゼン公爵に褒めてもらおうだなんて。あの夜、クリストフの気持ちを少しは考えてくれるのかと思ったのは間違いだったのだ。
「何が清らかな心の乙女だよ」
クリストフは気持ちのままに魔法陣を殴り描きし、失敗したそれを見て魔法紙を丸めて部屋の隅へ投げつけた。その夜、エレナがいくら夕食の時間だと呼びに来てもクリストフは一歩も部屋から出なかった。ローゼン公爵も一度部屋の外からクリストフに声をかけたのだがクリストフは無視をした。
興奮醒めやらぬローゼン公爵はその後も淑女会メンバーが開催するお茶会に積極的に出向いた。クリストフはローゼン公爵の行動力に感心した。宰相補佐としての仕事をこなし、クリストフに勉強を教え、自領の統治もし、そして淑女としての活動にも精力的だ。魔道具と魔法に手一杯のクリストフにはとても想像がつかないほどローゼン公爵は多忙を楽しんでいるようだった。
しかしクリストフが気になっているのは淑女会メンバーの反応だ。男性であるローゼン公爵が参加することをどう思っているのだろう。お茶会に呼んでくれるのだから、少なくとも関係は良好なのだろうか。
そんなクリストフの疑問も知らず、ローゼン公爵は三日後に淑女会のメンバーである女性を三人ほど、この白花の館に呼びたいと言ってきた。
「素晴らしい淑女の皆様です。殿下のお力にもなっていただけそうなので是非ご招待したいのですが、よろしいでしょうか」
面倒だというのが正直な気持ちだった。館に呼ぶのは勝手にしてくれて構わない。だが貴族の交流などクリストフはしたくもない。なのにローゼン公爵はクリストフに淑女会のメンバーである貴族の女性達を紹介したいという。魔道具を作る大切な時間が削られてしまうというのに。
「面倒くさいよ」
あからさまに嫌そうな顔をすると、ローゼン公爵は目を細めて口元を引き結び、クリストフをじっと見た。招待客に顔を合わせないのは許さない、無言でクリストフにそう言っている。好きなことをやらせてもらえたと思っていたら、やはりこうやって貴族のやり方に巻き込まれてしまう。
クリストフはどうしても納得いかず、頷きも返事もせずにローゼン公爵から顔を背けた。子どものようだと言われるのは分かっていたが、その後の夕食の時もローゼン公爵とは口を利かなかった。クリストフの侍女エレナが心配しておろおろとする中、翌日もクリストフは無言を貫いて、それは淑女会の女性達が館に招かれる当日までの間、三日間にも渡って続いたのだった。
そして当日、クリストフはローゼン公爵の目を盗んで朝食を自室に持ち込んだ。今日は自分の部屋から一歩も出ない。そう決心していた。ドアの外から呼びかけるエレナの声も無視した。自身の幼さに向き合うよりもローゼン公爵への反発が、この三日間で王都の城壁にある尖塔よりも高く募ってしまっていた。
やがてエレナの声は聞こえなくなり、部屋の外は静かになった。何故か心が落ち着かず外の音に耳を澄ませると、風に乗って厨房建設の音が聞こえてくる。クリストフはしばらく、金槌が打ち付けられる音や木材を切る音などを聞きながら、完成した厨房とそこで作られる豪勢な食事を想像して気を紛らわせた。それから、併設される入浴のための設備で浴槽につかる自分の姿を思い描いた。
厨房の建設はローゼン公爵の案でその建設費もローゼン公爵が出したのだが、クリストフの心はそのことに気を向ける余裕すらなかった。望まないのに生活を共にすることになった気の合わぬ男から逃げたいという考えが、ここ数週間ぶりに強くクリストフを支配していたのだ。
穏やかな陽光が差し込む部屋の中、研究所で学んだことやローゼン公爵の講義内容の復習をしたあと、クリストフは魔道具の製作に熱中した。今日は調子が良いらしい。
あれほど悩んでいたランプの魔法陣については随分と簡略化できたし、ポーションペンの試作品も完成した。ランプは子どもでも手で持てるように改良したものと、両手が空くように腕輪の形にしたものを作ってみた。おまけに光量の調節も可能にした。くだらない貴族の付き合いなどない方が、こうやって製作は捗るのだ。ウーゴが手を揉む姿を思い浮かべ、クリストフはにやけた。そして、これをローゼン公爵に見せてやろうと思い立った。
そう考え始めるとクリストフはそわそわしてきた。早く作ったものをローゼン公爵に見て欲しくて堪らない。ローゼン公爵はこれを見て何と言うだろう。きっと驚くに違いない。この間の夕食の時のように、クリストフを褒め始めるかもしれない。「素晴らしい」とか「ご立派です」とかローゼン公爵が自分をあれこれ褒め称える姿を想像してクリストフはご満悦だった。
時刻はそろそろお茶の時間に差しかかるころだ。例の淑女会のメンバーとやらは来ているのだろうか。そっと窓から外を眺めてみた。王宮へ続く花に囲まれた道を歩く女性の姿はない。いつもどおり、王宮から派遣された近衛兵の姿が三、四人ほど見られるだけだ。
クリストフは今度は自室のドアに耳を当ててみた。誰が聞いているわけでもないが息を潜め、話し声がしないかどうか聞き耳を立てた。しかし、館の二階は静かなもので予想していた音はしない。もしかすると、客は来なかったのかもしれない。都合のいい考えがクリストフの頭に浮かぶ。あれだけ嫌だと態度で示したのだから、さすがのローゼン公爵も自分の意見を聞き入れたのでは。
そうだ、とクリストフは急に強気になった。ローゼン公爵も言っていたではないか。妻は夫を支えるもの。何と言ってもローゼン公爵はクリストフの妻となるのだ。クリストフの訴えに大人しく従ってくれても良いはずだ。
自室のドアをそっと開け、クリストフは廊下に出た。部屋の中よりは少しひんやりとした空気を感じる。自慢の試作品を箱に入れて抱え忍び足で階段まで向かったクリストフは、人気のない吹き抜けの階段で自分の推測への確信を深めた。客が来ていないならローゼン公爵は何をしているのだろう。出かけてしまったのなら残念だ。一番にこの試作品を見せてやろうと思ったのに。
そろそろと階段を降りていくと、庭園を渡る風の音に乗って小さなさざめきが耳を掠めた。館の壁に阻まれて少し遠くに聞こえる厨房建設の音に混じり、人の声が聞こえたような気がする。作業中の職人の声に違いない。勝手にそう決めつけて、クリストフはローゼン公爵の不在を確かめるべくきょろきょろと辺りを見回した。すると聞き慣れた声が誰かに賛辞を送っている。
「素晴らしい!」
それは確かにローゼン公爵の声だった。来客は確かにあったのだ。クリストフは引き返そうとしたが「御見逸れれいたしました」などと言葉が続き、何だか居ても立っても居られなくなった。
腕の中の試作品を見る。
先程聞こえた言葉はクリストフに言うべき言葉だ。おべっかの嫌いなローゼン公爵が惜しみない賛辞を送るのなら、それは望まぬ関係であっても夫であるクリストフに送られるべきだ。この境遇を、この関係を我慢しているのだから、それぐらいの言葉があっても良いはずだ。
クリストフは向きを変え、こっそりと声のする方に近づいていった。勉強部屋の開け放たれたドアから、少し高い女性達の声が聞こえてくる。クリストフは息を殺して勉強部屋を覗き込んだ。気持ちの良い陽射しのもと、テラスで歓談する女性達とローゼン公爵の姿が見えた。
「ではイーセミスキ国のクルヴァドス兵が進軍を諦めたのは夫人のお力があってこそだったのですね」
「とんでもありません。わたくしはただ、彼の領地に住まう住民達の意見を耳にしただけのこと。後は全て夫とイーセミスキ国の大将軍閣下が行動に移したためです」
「しかしあの下品な夜会の中の会話で、そこまでお考えになられるとは」
「それは公爵閣下も行われていることではございませんこと?ベルモント公爵閣下の夜会で、エルコラ男爵の発言から不審な商会を摘発したお話は耳にしております」
「どうですかな。我々男の世界は女性が想像しているよりもずっと回りくどく、陰湿なところもあります」
「まぁ……。では、あの夜会の場で糾弾するおつもりで、あらかじめ調査しておられたのですか?」
「それはご想像にお任せいたしますよ。ところで、その後イーセミスキ国のクルヴァドス領で反乱が起きてしまったようですね」
「えぇ、残念ながら。どうやら当主が変わってしまったようですわ」
「おや、計算ずくなのでは?怖いお方だ」
「まさか。領民達はいつでも自分の手と意志で、領主を選ぶ力がございますのよ?」
「お二方、そうなりますと、次の冬に向けて東部の穀物貯蔵が心配になりますね」
「えぇ、ブレンドル伯爵夫人。ただ、幸いなことにベルモント公爵閣下とアレリード公爵閣下のご領地で臨時の対策が」
笑顔も交えながらローゼン公爵と女性達が話す内容は、国家間の問題のこと、領地のこと、食物対策のことなどなど。クリストフにはよく分からないことばかりだ。
クリストフはもう一度腕の中の試作品を見た。それから、ローゼン公爵を見た。ローゼン公爵の機嫌は良さそうだ。女性達とお喋りばかりしていないで、早くこれを見て欲しい。うずうずする気持ちとは裏腹に、彼等四人の話題の中にいきなり姿を現すこともできず、クリストフはただひたすらローゼン公爵に視線を送るだけだった。
ローゼン公爵がティーカップを持ち上げて口をつけた。クリストフに気づく気配はない。美味しそうなお菓子を女性達に勧めている。やはりクリストフに気づく気配はない。クリストフはがっかりして眉尻を下げた。
しばらく入口から中を覗き見ていたが、自室に戻ろうと思ってもう一度ローゼン公爵を見た時、ローゼン公爵の黒い瞳がクリストフを捉えた。望んでいたはずなのに気恥ずかしさが先立って、クリストフは素早く顔を引っ込めた。
「失礼」
ローゼン公爵が女性達に声をかけているのが聞こえる。それから足音が近付いてきて、頭上に差した影をクリストフは見上げた。ローゼン公爵が眼鏡の縁を持ち上げて冷たい目でクリストフを見下ろしている。
「こんな所で何をされていらっしゃるのですか」
堅い声が降ってきて、クリストフはさらに眉尻を下げた。ローゼン公爵をちらりと見上げ、それから腕の中に抱きしめた物へと視線を落とす。
ローゼン公爵はクリストフの視線を追ってその腕の中へと目を遣った。「ふむ」と口元が動き、僅かに左眉を持ち上げると肩に触れる手がクリストフを部屋の中へと促した。クリストフは僅かに抵抗した。しかし、「おいで下さい」と背を押され、女性達の前に連れて行かれた。
おずおずと視線を上げると女性達は立ち上がってクリストフに向かって美しい礼をした。クリストフはどうして良いか分からず、ローゼン公爵を見上げた。挨拶をすべきなのだろう。だが、先日フランティエ夫人に会った時のように、およそ王族とは思えない挨拶をしてしまいそうだった。ローゼン公爵から習ったマナーだとかお作法だとかそういったものはこの場でどうにも思い出せなかった。クリストフが尻込みしていると、ローゼン公爵が女性達を紹介してくれた。
「殿下。淑女会で私がお世話になっている方々です」
淡い紫のドレスの女性はルーマン侯爵夫人。青いドレスの女性はブレンドル伯爵夫人。爽やかな緑のドレスの女性はコルマフ子爵夫人。
クリストフは名乗ろうとしてまたローゼン公爵を見上げた。ローゼン公爵はクリストフが発せずにいた言葉を引き取ってクリストフのことを紹介した。女性達は微笑んでクリストフを受け入れてくれた。いつの間に現れたのか、ローゼン公爵の侍従アルベルトの姉イルザがクリストフのために椅子を持ってきて、クリストフの侍女エレナが見違えるほどの所作でテーブルに紅茶の入ったティーカップを置いた。
ローゼン公爵はチョコレートがかかったケーキをクリストフに勧めてきた。しかしクリストフは手が出せない。お茶会でのマナーも習ったはずなのだがどうしても頭の中から出てこないのだ。クリストフは縋るようにローゼン公爵を見たが、今度は何もしてくれない。仕方なく恐る恐る女性達へと顔を向ける。目の前の穏やかな視線にもクリストフの緊張は解けはしなかった。ローゼン公爵がクリストフの耳に囁いた。
「殿下からお声がけをせねば、彼女達は話すことができません」
クリストフは慌てて「こんにちは」と言った。またそれしか出て来なかった。にこやかに微笑む女性達を前にして、クリストフは研究所に思いを馳せた。クリストフに魔法技術学を教えてくれている灰色頭の雑然とした部屋。所長の出っ張ったお腹。今はそれらが恋しくてたまらない。
「まずは足を運んで下さったことに対する御礼を」
ローゼン公爵がまた囁いた。クリストフは「ほ、本日はお日柄も良く」と指示されたこととは違う台詞を口にしてしまった。座っているだけなのに膝が震えている。ローゼン公爵がどんな顔をしているのか、それを見てしまうのが嫌でクリストフは目も向けられなくなった。多分呆れているのだ。マナーを忘れた自分に対して。クリストフは視線を下げて押し黙った。
やはり貴族の付き合いなんて無理だ。王宮に来たばかりのころを思い出し、自然と肩に力が入る。こうやってクリストフが喋らないでいると、大体の人間は次に母のことを話題にする。クリストフはそれが嫌だった。
クリストフから見れば貴族は母を王都から追い出した存在だ。だが何故か貴族達はまるで本当の母を知っているかのように褒め称える。それでも、それはただの社交辞令とやらでハーマン子爵のように真心からの感謝を聞くことは本当に稀だ。
「そういえば」
ルーマン侯爵夫人が話題を切り出した。母のことかと思ってクリストフは身構えた。
「ローゼン公爵閣下よりお話はお聞きしております。国民の役に立つような魔道具を作られていらっしゃるとのこと。素晴らしいお志に感動いたしました」
「えっ」
予想に反して話題は母のことではなかった。クリストフは驚いてローゼン公爵を見た。ウーゴは商会の人間だから良い。灰色頭は研究所の人間だし、貴族らしくもないから構わない。でも、何故こんな貴族然とした女性達に自分の魔道具の話をしたのだろう。確かに口止めをなどしていなかった。でも、クリストフのことをどう話すかは、クリストフに聞いてからにして欲しい。第一、作った魔道具は貴族の間になど広めるつもりはない。市井の人々に使ってもらうのだ。
「是非今度、殿下のお作りになられている魔道具を拝見したく」
「ど、どうも!」
クリストフは立ち上がって軽く頭を下げると「殿下」と呼び止めるローゼン公爵の声も無視して試作品の入った箱を抱えたまま足早に勉強部屋のテラスから立ち去った。そしてむかむかとした気持ちのまま再び自室に閉じこもった。
ローゼン公爵の魂胆は分かった。クリストフが魔道具に興味があることを知って作らせる環境を整え、使えそうなものだったら貴族の間に広めて売る。そしてお金にする。そんな考えだからクリストフのことを簡単に他の貴族に話してしまったのだろう。
クリストフは試作品を見つめて悔しげに唇を噛んだ。自分が馬鹿だと思った。これを見せてローゼン公爵に褒めてもらおうだなんて。あの夜、クリストフの気持ちを少しは考えてくれるのかと思ったのは間違いだったのだ。
「何が清らかな心の乙女だよ」
クリストフは気持ちのままに魔法陣を殴り描きし、失敗したそれを見て魔法紙を丸めて部屋の隅へ投げつけた。その夜、エレナがいくら夕食の時間だと呼びに来てもクリストフは一歩も部屋から出なかった。ローゼン公爵も一度部屋の外からクリストフに声をかけたのだがクリストフは無視をした。
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生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。
何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
【完結】ここで会ったが、十年目。
N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化)
我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。
(追記5/14 : お互いぶん回してますね。)
Special thanks
illustration by おのつく 様
X(旧Twitter) @__oc_t
※ご都合主義です。あしからず。
※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。
※◎は視点が変わります。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
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