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第14話 婚約の儀
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一週間後。
クリストフはアルベルトによってお気に入りの礼服に着替えさせられた。館のエントランスホールに降りると、いつもどおりに首元まで詰まった堅苦しい形の服に身を包んだローゼン公爵がクリストフを待っていた。ただ、今日のローゼン公爵の服はいつもとは違う。
美しい真珠色の生地は光が内在しているかのようにまばゆく周囲を照らし、深みのある赤と金の糸でほどこされた刺繍が首元を艶やかに彩っている。普段は黒の服ばかり着ている男がどうしたのかとクリストフがじろじろと見ていると、案の定すぐにお小言が始まった。
「そのように人を見るのは礼を失しております」
装い変われど人は変わらぬ。中身はいつものローゼン公爵である。クリストフはむっとした。
「いいでしょ、別に」
不機嫌も隠さず目を逸らすと、今度はローゼン公爵は頓珍漢なことを言い出した。
「ええ、本来であれば結構です。殿下は私の夫となられる方ですから妻を眺めて愛でることもあるでしょう」
愛でてはいない。クリストフはローゼン公爵の発言の意味が分からなかった。
「ですが、やり方というものがあります」
「やり方って?」
「不躾に見るだけではなく褒めて下さい」
「えっ?」
「装いを整えた妻の姿を見た時は、まずはその衣服や美しさを褒め」
「馬鹿じゃないの!?」
「人生の伴侶を貶めるのは感心いたしませんね」
「何だよ、美しさを褒めるって」
「私が美しいという意味ではありません。夫婦間での礼儀や女性に対するマナーのお話をしています」
「あのね、あんたの見た目なんてどうでもいいよ。綺麗なのは本当のことだからさ。だけどそれをわざわざ褒めるなんていうのは恋人同士がやることで」
「本当のこと?」
ローゼン公爵は眼鏡の縁を持ち上げた。アルベルトが驚いたようにクリストフを見た。
「本当のこととは?」
「本当のこととは?って??」
「今殿下は私が見目麗しいと仰いましたね?」
「そうだよ」
クリストフはためらわずに答えた。
「見目麗しい」とまでは言っていないが近いことは言った。思ったことは正直に口にする。良いことも、悪いことも。相手の好き嫌いには関係ない。それはクリストフが心の中で決めていることの一つだ。ローゼン公爵相手だろうと変わらない。
きっぱりさっぱり本音を告げる。それで駄目ならそこまでだ。
どんな人間でも大なり小なり必ず嘘をついている。自分の欲望を満たすため、自分の弱さや愚かさ、みじめさを隠すために。
だが、そんな嘘で自分を補うのはさらに酷いことになるだけだ。クリストフはそうして失敗した人々をたくさん目にしてきた。自分の欠けた部分に口からこぼれたゴミを詰め込んでも、不格好で哀れな人形ができるだけなのだ。
クリストフのこの考えは、幼いころから見てきた娼館で暮らす人々とその場所を訪れる人々の生き様が教えてくれたものだ。虚栄心や欺瞞が入り乱れた言葉で自分を守る人々。そんな彼等を日々目にする中で育った考え方だ。
だが、クリストフの母の考えは違った。
傷があると嘘をついて母に触ろうとする男。クリストフに仕事を手伝わせて対価を払う段になってとぼける女衒。母は何故かそういった人々を嫌うこともなく守っていた。
一度、他の娼婦の息子に騙され飴を奪われてしまったクリストフが、魔法でその男の子に仕返しをしようとしたとき、母は静かにクリストフの手を握ってそれを止めた。クリストフが納得できずにわけを尋ねると、母は目を細めて人々を見ながら語った。
嘘をつく人も他の人同様必死に生きている。皆、愛や安寧、平穏を求めて無我夢中なのだと。一見軽薄で愚かな言葉の陰に潜むのは、ままならぬ日々の中に迷い込んだ苦しさに、闇雲に足掻いている証拠なのだと。母は切なげに目を閉じた。クリストフにはよく分からなかった。
そして今でもまだよく分からない。
ローゼン公爵はクリストフを見つめて瞬いた。
「そのようなことを仰ったのは貴方様が初めてです」
「あの……、本当にそのように思われるのですか??」
「う、うん」
珍しくアルベルトが急に口を挟んできた。クリストフは何だか居心地が悪くなった。見たままを言葉にしただけだ。褒めているつもりなど全くなかった。ローゼン公爵は余程不思議だったのか、入口の扉にはめ込まれたガラスに映る自分の姿をしげしげと見て首を傾げている。
ひとしきりそうしたあと、「女性への賛辞の送り方についてはまた後日お勉強しましょう」と言った。ちなみにローゼン公爵は女性ではない。クリストフは癖毛が飛び出た頭をかいた。
「ところで、これは貴方様の色です」
刺繍の赤い糸についての話らしい。指輪同様に衣服にも伴侶となる人の瞳の色を取り入れることが一般的だとローゼン公爵は言った。あの指輪をするようになるのだから服までそんなことをしなくても。クリストフはそう思った。だがローゼン公爵は、「誰が見ても私の夫が貴方様であると分かるようにするべきなのです」と偉そうに左眉を持ち上げてクリストフを見下ろしたのだった。
さて、クリストフとローゼン公爵の一行は、まずは王宮へと足を運んだ。
最近は書庫ぐらいしか行くことがなかった王宮だが、今日は久し振りに国王や王妃が住まう正殿まで行くことになっていた。
『大樹の間』と呼ばれる一室で、クリストフは国王と王妃が現れるのを待った。この部屋は王族が家族との待ち合わせなどに使う部屋だという。部屋の両開きの扉には、その名のとおりどっしりとした大きな樹が枝葉を伸ばす装飾がほどこされている。ローゼン公爵が言うには、この部屋を使用できるのはクリストフが正式な王族として、家族として大切にされている証であるとのことだ。
だがクリストフは苦い思いだった。王宮に連れてこられたときも、その部屋で待たされてから国王と王妃と対面したからだ。国王の息子だなどと言われた時の嫌な記憶がよみがえる。仏頂面になったクリストフの背をローゼン公爵の手が押した。
「背筋を伸ばして下さい。威厳がありません」
そんなものは端からない。クリストフはますます不機嫌になった。
ほどなくして国王と王妃が現れた。
「しばらくぶりであるな」
ローゼン公爵に促されてぎこちない礼を取ったクリストフに国王は声をかけた。王妃は微笑んだ。
「最近、勉学に励んでいると聞きました。素晴らしいことです。貴方のお母様は王立学院を出てはいませんが、聡明な方でした」
クリストフはそれに答えるともなく曖昧に頷いた。神殿派の貴族が言うほどこの王妃は派手でもなければ偉そうでもない。クリストフと、クリストフの母を気遣おうとする姿勢が見える。
ただ、どうも言葉の選び方が下手だ。おそらくは、身分の低い者に対して。母は平民だし神殿にいたのだから学院に通えない理由など山程あっただろうに、それを敢えて口にすることもないのではないか。心中ため息をつくクリストフの一歩後ろでローゼン公爵も礼を取り、それから一行は神殿へと向かった。
通常、婚約の儀は神殿まで行かずに済ませることも多いのだが、幸いの女神様の神託で定められたともいえる婚約のため、神殿にて大神官達の立ち会いのもと執り行われるという。
神殿ではローゼン公爵の娘のアレクシアが宰相のハーパライネン公爵と共に待っていた。アレクシアの美しいカーテシーを目にしたクリストフはよくあんな姿勢で倒れないものだと感心した。
ローゼン公爵が祝福の花嫁として選ばれた儀式の間よりも小さな部屋の一室で、大神官や神官長達が同席し、この部屋に収まるほどの女神像を前に一同が円卓の席につく。宰相は書記官らしき男に指示をして、国王と王妃の前に、それからクリストフとローゼン公爵の前に書面を置いた。
クリストフは書面を見た。
何やら細かい文字がびっしりと並んでいる。文字は母から習い、独学でも学んだ。ローゼン公爵の授業でも改めて習うことができた。だが、読むことはできてもこんな書面に目を通す気にもならない。どうせ堅苦しい内容に決まっているし、何が書いてあるのかは知らないが、花婿という立場を断ることもできないのだ。
「ご確認の上、異議がなければご署名を」
宰相が告げた。
「良いのだな?」
国王がローゼン公爵に尋ねた。
「はい」
ローゼン公爵は頷き、自分の名を書面に書いた。
「殿下」
ぼんやりと紙の上に滑らせた視線を行きつ戻りつさせながら、足をぶらぶらさせているクリストフにローゼン公爵が話しかけてきた。
「何か仰りたいことはございますか」
書面の内容について、ということだろう。クリストフは頭を振ってローゼン公爵が示す場所に署名した。続いて国王と王妃が署名をし、これが正式な王家の書面であることを示すため、王家の契約を司る契約官が契約魔法を施して、王家の印を書面に魔法で刻んだ。クリストフは契約魔法を初めて見ることができたのでそれには満足した。
やがて少し変わった服装をした女性が指輪を持って現れた。この神殿で女神に仕える巫女の一人らしい。ローゼン公爵が小さな声でそう教えてくれた。
「さあ、仕上げじゃな」
王妃は指輪を見て微笑んだ。ローゼン公爵はクリストフを促して、二人は共に女神像の前に立った。そしてさらに、クリストフは片膝をつくように指示された。
こんなことをやるとは教えてもらっていない。
クリストフがよく分からぬまま片膝をつくと、目の前にローゼン公爵の左手が差し出され、その手を取るように言われた。クリストフよりも大きく白いその手の甲には、刻まれた花嫁の印が淡い光を放っている。
「何これ」
クリストフは小声で尋ねた。
「指輪を渡すための儀式です」
ローゼン公爵は平然とそう言ってから、とんでもないことを口にした。
「私の手の甲に口付けを」
「えっ」
クリストフの声が静かな部屋に響いた。ローゼン公爵は眉を寄せた。
「き、聞いてないよ」
「やりたくないなどと言い出すでしょうから言いませんでした」
「おかしいよそんなの。卑怯だよ」
クリストフは猛抗議したが、国王達が見ていることを思い出し、黙り込んだ。ぎゅっと目を閉じて、嫌々ローゼン公爵の手の甲に唇を近づけると勢い良く唇を押し付け、それからすぐに離した。
ローゼン公爵のため息が聞こえた。
巫女が音も立てずにクリストフの側へと跪き、磨かれた銀のトレーに乗せられた指輪を差し出す。
「私の指にそれをはめて下さい」
「どこ、どの指」
「左手の薬指に」
クリストフは指輪を手に取って、ローゼン公爵の長い薬指にはめた。少しサイズがきついように感じて、ぐいぐい押し込んだ。
「そのようなことをしなくても入ります」
「ちょっときついんじゃないの?」
「大丈夫ですから」
指輪が指の付け根まで入ったので勝手に立ち上がると、ローゼン公爵に肩を掴まれ体の向きを変えられた。そして礼を取るよう背中を押され、クリストフは少しよろけながら国王と王妃に向かって腰を曲げた。
ようやく婚約の儀は終わりを迎えたのだった。
帰り道、馬車の中でローゼン公爵が無言でハンカチを差し出してきた。口を拭っても構わないという意味なのだろう。
クリストフは少し罪悪感に襲われた。
クリストフはアルベルトによってお気に入りの礼服に着替えさせられた。館のエントランスホールに降りると、いつもどおりに首元まで詰まった堅苦しい形の服に身を包んだローゼン公爵がクリストフを待っていた。ただ、今日のローゼン公爵の服はいつもとは違う。
美しい真珠色の生地は光が内在しているかのようにまばゆく周囲を照らし、深みのある赤と金の糸でほどこされた刺繍が首元を艶やかに彩っている。普段は黒の服ばかり着ている男がどうしたのかとクリストフがじろじろと見ていると、案の定すぐにお小言が始まった。
「そのように人を見るのは礼を失しております」
装い変われど人は変わらぬ。中身はいつものローゼン公爵である。クリストフはむっとした。
「いいでしょ、別に」
不機嫌も隠さず目を逸らすと、今度はローゼン公爵は頓珍漢なことを言い出した。
「ええ、本来であれば結構です。殿下は私の夫となられる方ですから妻を眺めて愛でることもあるでしょう」
愛でてはいない。クリストフはローゼン公爵の発言の意味が分からなかった。
「ですが、やり方というものがあります」
「やり方って?」
「不躾に見るだけではなく褒めて下さい」
「えっ?」
「装いを整えた妻の姿を見た時は、まずはその衣服や美しさを褒め」
「馬鹿じゃないの!?」
「人生の伴侶を貶めるのは感心いたしませんね」
「何だよ、美しさを褒めるって」
「私が美しいという意味ではありません。夫婦間での礼儀や女性に対するマナーのお話をしています」
「あのね、あんたの見た目なんてどうでもいいよ。綺麗なのは本当のことだからさ。だけどそれをわざわざ褒めるなんていうのは恋人同士がやることで」
「本当のこと?」
ローゼン公爵は眼鏡の縁を持ち上げた。アルベルトが驚いたようにクリストフを見た。
「本当のこととは?」
「本当のこととは?って??」
「今殿下は私が見目麗しいと仰いましたね?」
「そうだよ」
クリストフはためらわずに答えた。
「見目麗しい」とまでは言っていないが近いことは言った。思ったことは正直に口にする。良いことも、悪いことも。相手の好き嫌いには関係ない。それはクリストフが心の中で決めていることの一つだ。ローゼン公爵相手だろうと変わらない。
きっぱりさっぱり本音を告げる。それで駄目ならそこまでだ。
どんな人間でも大なり小なり必ず嘘をついている。自分の欲望を満たすため、自分の弱さや愚かさ、みじめさを隠すために。
だが、そんな嘘で自分を補うのはさらに酷いことになるだけだ。クリストフはそうして失敗した人々をたくさん目にしてきた。自分の欠けた部分に口からこぼれたゴミを詰め込んでも、不格好で哀れな人形ができるだけなのだ。
クリストフのこの考えは、幼いころから見てきた娼館で暮らす人々とその場所を訪れる人々の生き様が教えてくれたものだ。虚栄心や欺瞞が入り乱れた言葉で自分を守る人々。そんな彼等を日々目にする中で育った考え方だ。
だが、クリストフの母の考えは違った。
傷があると嘘をついて母に触ろうとする男。クリストフに仕事を手伝わせて対価を払う段になってとぼける女衒。母は何故かそういった人々を嫌うこともなく守っていた。
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そして今でもまだよく分からない。
ローゼン公爵はクリストフを見つめて瞬いた。
「そのようなことを仰ったのは貴方様が初めてです」
「あの……、本当にそのように思われるのですか??」
「う、うん」
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「ところで、これは貴方様の色です」
刺繍の赤い糸についての話らしい。指輪同様に衣服にも伴侶となる人の瞳の色を取り入れることが一般的だとローゼン公爵は言った。あの指輪をするようになるのだから服までそんなことをしなくても。クリストフはそう思った。だがローゼン公爵は、「誰が見ても私の夫が貴方様であると分かるようにするべきなのです」と偉そうに左眉を持ち上げてクリストフを見下ろしたのだった。
さて、クリストフとローゼン公爵の一行は、まずは王宮へと足を運んだ。
最近は書庫ぐらいしか行くことがなかった王宮だが、今日は久し振りに国王や王妃が住まう正殿まで行くことになっていた。
『大樹の間』と呼ばれる一室で、クリストフは国王と王妃が現れるのを待った。この部屋は王族が家族との待ち合わせなどに使う部屋だという。部屋の両開きの扉には、その名のとおりどっしりとした大きな樹が枝葉を伸ばす装飾がほどこされている。ローゼン公爵が言うには、この部屋を使用できるのはクリストフが正式な王族として、家族として大切にされている証であるとのことだ。
だがクリストフは苦い思いだった。王宮に連れてこられたときも、その部屋で待たされてから国王と王妃と対面したからだ。国王の息子だなどと言われた時の嫌な記憶がよみがえる。仏頂面になったクリストフの背をローゼン公爵の手が押した。
「背筋を伸ばして下さい。威厳がありません」
そんなものは端からない。クリストフはますます不機嫌になった。
ほどなくして国王と王妃が現れた。
「しばらくぶりであるな」
ローゼン公爵に促されてぎこちない礼を取ったクリストフに国王は声をかけた。王妃は微笑んだ。
「最近、勉学に励んでいると聞きました。素晴らしいことです。貴方のお母様は王立学院を出てはいませんが、聡明な方でした」
クリストフはそれに答えるともなく曖昧に頷いた。神殿派の貴族が言うほどこの王妃は派手でもなければ偉そうでもない。クリストフと、クリストフの母を気遣おうとする姿勢が見える。
ただ、どうも言葉の選び方が下手だ。おそらくは、身分の低い者に対して。母は平民だし神殿にいたのだから学院に通えない理由など山程あっただろうに、それを敢えて口にすることもないのではないか。心中ため息をつくクリストフの一歩後ろでローゼン公爵も礼を取り、それから一行は神殿へと向かった。
通常、婚約の儀は神殿まで行かずに済ませることも多いのだが、幸いの女神様の神託で定められたともいえる婚約のため、神殿にて大神官達の立ち会いのもと執り行われるという。
神殿ではローゼン公爵の娘のアレクシアが宰相のハーパライネン公爵と共に待っていた。アレクシアの美しいカーテシーを目にしたクリストフはよくあんな姿勢で倒れないものだと感心した。
ローゼン公爵が祝福の花嫁として選ばれた儀式の間よりも小さな部屋の一室で、大神官や神官長達が同席し、この部屋に収まるほどの女神像を前に一同が円卓の席につく。宰相は書記官らしき男に指示をして、国王と王妃の前に、それからクリストフとローゼン公爵の前に書面を置いた。
クリストフは書面を見た。
何やら細かい文字がびっしりと並んでいる。文字は母から習い、独学でも学んだ。ローゼン公爵の授業でも改めて習うことができた。だが、読むことはできてもこんな書面に目を通す気にもならない。どうせ堅苦しい内容に決まっているし、何が書いてあるのかは知らないが、花婿という立場を断ることもできないのだ。
「ご確認の上、異議がなければご署名を」
宰相が告げた。
「良いのだな?」
国王がローゼン公爵に尋ねた。
「はい」
ローゼン公爵は頷き、自分の名を書面に書いた。
「殿下」
ぼんやりと紙の上に滑らせた視線を行きつ戻りつさせながら、足をぶらぶらさせているクリストフにローゼン公爵が話しかけてきた。
「何か仰りたいことはございますか」
書面の内容について、ということだろう。クリストフは頭を振ってローゼン公爵が示す場所に署名した。続いて国王と王妃が署名をし、これが正式な王家の書面であることを示すため、王家の契約を司る契約官が契約魔法を施して、王家の印を書面に魔法で刻んだ。クリストフは契約魔法を初めて見ることができたのでそれには満足した。
やがて少し変わった服装をした女性が指輪を持って現れた。この神殿で女神に仕える巫女の一人らしい。ローゼン公爵が小さな声でそう教えてくれた。
「さあ、仕上げじゃな」
王妃は指輪を見て微笑んだ。ローゼン公爵はクリストフを促して、二人は共に女神像の前に立った。そしてさらに、クリストフは片膝をつくように指示された。
こんなことをやるとは教えてもらっていない。
クリストフがよく分からぬまま片膝をつくと、目の前にローゼン公爵の左手が差し出され、その手を取るように言われた。クリストフよりも大きく白いその手の甲には、刻まれた花嫁の印が淡い光を放っている。
「何これ」
クリストフは小声で尋ねた。
「指輪を渡すための儀式です」
ローゼン公爵は平然とそう言ってから、とんでもないことを口にした。
「私の手の甲に口付けを」
「えっ」
クリストフの声が静かな部屋に響いた。ローゼン公爵は眉を寄せた。
「き、聞いてないよ」
「やりたくないなどと言い出すでしょうから言いませんでした」
「おかしいよそんなの。卑怯だよ」
クリストフは猛抗議したが、国王達が見ていることを思い出し、黙り込んだ。ぎゅっと目を閉じて、嫌々ローゼン公爵の手の甲に唇を近づけると勢い良く唇を押し付け、それからすぐに離した。
ローゼン公爵のため息が聞こえた。
巫女が音も立てずにクリストフの側へと跪き、磨かれた銀のトレーに乗せられた指輪を差し出す。
「私の指にそれをはめて下さい」
「どこ、どの指」
「左手の薬指に」
クリストフは指輪を手に取って、ローゼン公爵の長い薬指にはめた。少しサイズがきついように感じて、ぐいぐい押し込んだ。
「そのようなことをしなくても入ります」
「ちょっときついんじゃないの?」
「大丈夫ですから」
指輪が指の付け根まで入ったので勝手に立ち上がると、ローゼン公爵に肩を掴まれ体の向きを変えられた。そして礼を取るよう背中を押され、クリストフは少しよろけながら国王と王妃に向かって腰を曲げた。
ようやく婚約の儀は終わりを迎えたのだった。
帰り道、馬車の中でローゼン公爵が無言でハンカチを差し出してきた。口を拭っても構わないという意味なのだろう。
クリストフは少し罪悪感に襲われた。
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