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いち。

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 濃灰色の空から、はらりはらりと雪が舞う。玄関を出てすぐの所でその白い欠片を掌に乗せ、少女はふるりと震えた。
「急がなくちゃ」
 今日は補講も部活も無い休日。他校の彼とも休みが合って、久しぶりにデートの約束をしていた。
 周囲の音が聞こえるようにと、片耳にだけつけたイヤホンからは軽快な音楽が流れてくる。それにつられて、自転車を漕ぐ脚もリズミカルになる。
 駅に着いた彼女はいつもの駐輪場に自転車を預け、ホームへと駆けていった。
 動き出した電車の窓ガラスに映る彼女は化粧こそしていないが、リップを塗った唇が艶やかに色づいている。首に巻き付くマフラーは、手触りの優しいお気に入りのものだ。厚手の黒タイツが少しだけ、ミニスカートの脚の寒さを防いでくれていた。

 やがて目的の駅に着いた電車のドアが開く。スマホで時間を確認すると待ち合わせの時間が迫っている。
「さむ……。っと、早く行かなきゃ。間に合わないかなぁ……」
 彼女はそう呟くと、イヤホンを片付けふわふわのマフラーに顔を埋め、パタパタと駆け出した。
 人波をかき分けて辿り着いたのは駅前から少し離れた噴水前。この時期に見るには少し寒々しいそこに、彼はいた。
「遅くなってごめん、幸哉ゆきや。……待ったよね?」
 息を切らしながら彼女が声をかけると、幸哉と呼ばれた彼は微笑んだ。
はるか、おはよう」
 おいで、と広げられた腕の中に、遙が飛び込む。
「待ってないよ、と言いたいところだけど、……遅刻だね」

 幸哉は以前、なかなか遅刻癖が治らない遙と約束したことがある。
 それは、「5分以上遅刻したら、相手の言う事を何でもきく」と言うものだ。5分位なら混雑などの事情で遅れることもあるだろうから、と二人で話し合った結果だ。
 勿論、本気で嫌がることはしないし、酷いこともしない。ただ、精神的にプレッシャーをかけてみて様子をみようというものだった。
 そしてまた、遙はやってしまったのだ。約束の時間から遅れること、約10分。到着駅から走って来ても間に合わないくらいに、家でのんびりしてしまった。
 幸哉は落ち込む遙の頭をぽんぽんと撫でる。
「あのさ……。俺との約束、覚えているよね?」
 いつもより少し低い声で囁かれ、遙はビクリと身体を震わせる。忘れた、とは言えない。とぼけて誤魔化されてくれるような幸哉ではないと、遙はよく分かっていた。
 顎を取られ、視線を強引に合わせられた遙は、観念して小さく頷いた。
 幸哉は中空を眺めて何か考えたあと、胡散臭い笑みを浮かべた。
「よし……、遙へのお願いが決まったから、行こうか。ついてきてくれる?」
 戸惑う遙を引き連れ、こっち、と言いながら辿り着いたのは、比較的地味な外観をした――ラブホテル。まだ高校生の二人には、少々敷居が高い。硬直してしまった遙の耳元に口を寄せ、幸哉がそっと呟いた。
「遅刻癖が直らないと後々困るだろうから、恥ずかしい思いをしたらマシになるかなってね。でも、嫌がる事は絶対にしないから。……というよりも、俺が、君に触れたいんだ。口実にさせて……」
 甘い囁き。僅かに揺れる幸哉の瞳に、遙はとうとう頷いてしまった。




 幸哉は尻込む遙の腰を抱きながら、臆することもなく入口を潜る。タッチパネルで何やら操作して鍵を受け取る。
「こっちらしいよ」
 エレベーターを待つ僅かな間。
「手慣れてるんだね……?」
 もしかしたら遊び慣れているのか、じゃあ私とも遊びなんだろうか。迷いのない幸哉の様子を見た遙が不安を感じていると、幸哉は苦笑を浮かべた。
「そんな訳ないよ。……俺の親友がさ、色々と余計な事を言って来るんだ」
 ほら行こう、と差し出された手は、普段より冷たい。そういえば表情も少し硬いかも知れない。そこに幸哉の緊張を見た気がして、遙は少しだけ安堵した。
「そ、そっか……」
 気まずい沈黙に包まれたまま、エレベーターに乗り込む。軽快な音と共に扉が開き、絨毯敷きの廊下を進む。
「こんななんだね……」
 解錠して扉を開く。遙が思わず零すと、幸哉も小さく同意する。それが何となく擽ったくて遙が笑んだ。
「遙は、来たことあるの?……こういうとこ」
遙の笑みを余裕と取った幸哉の台詞に遙が慌てふためいた。
「……っ、あるわけないじゃん。それを言うなら、幸哉のほうがよっぽど……!」
 遙がしまった、と思うよりも早く、扉を閉めた幸哉が眉を寄せた。
「俺の方がよっぽど……何?」
 その声の低さに思わず後ずさった遙の背中が扉に当たる。
「……っ、ごめん。言い過ぎた……」
 狼狽える遙を追い詰めた幸哉がゆっくり退路を塞ぐように遙を腕で囲うと、唇が触れそうな程に距離を縮めた。
「そんな風に言うなら……覚悟して?」

「ち、近いって……」
「知ってる。……ちょっと黙って」
 幸哉がふ、と微笑んだと同時に、唇が触れ合う。驚きに眼を見開いた遙とは逆に、幸哉はその眼を閉じていて。長い睫毛が震えていた。
 長いような、短いような口付けの後。まだ互いの吐息がかかる場所で、幸哉は小さな溜息を吐いた。
「俺も……来たことはねぇよ……」
 薄く開いた眼は切なげに揺れていて、遙は小さくごめん、と告げる。
 幸哉は肩を竦めて囲いを解き、代わりとばかりに手を繋いだ。
「とりあえず、初めて来たんだし探検でもしてみるか?」
 空気が少し軽くなった、と遙は思った。気まずさはまだ残るが、せっかく幸哉が変えてくれた雰囲気に乗ることにした。
 一通り内装を見て回る。色合いは茶系で統一されていて、かなり落ち着いた雰囲気にしてあった。
「……案外普通の部屋でよかった……」
 心底安堵した風に幸哉が言うと、遙は何度もうなずいた。
「てっきりもっと派手で原色系なのかと思ってたよ」
 イメージ先行の二人はぎこちない笑顔を交わして荷物を置き、湯沸かしの準備をした後は二人でソファに腰掛けた。幸哉が隣を伺うと、遙の表情がまだ硬い。仕方ないか、と思いつつ、幸哉が話を持ちかけた。
「あの、さ。先に風呂、入っておいで」
 緊張のせいか少し声が掠れたが、遙の肩がビクッとしたのを感じた。風呂、というのは生々しくてダメだったかな、などと幸哉が考えた結果。
「それか、……このまま触っても、いい?」
よりによってこの台詞だった。

 遙の浴びるシャワーの音を聞きながら、幸哉は落ち着きなく辺りを見回す。強引に連れてきたは良いが、どうしようか。ほぼ勢いだけで起こした行動を後悔していると、ふと思いついた。
 そういえば、親友がリラックス効果のあるサプリを寄越してたな。何処に入れたんだったか……。
 そうして鞄をゴソゴソして、小さなカプセルが二つ入ったケースを取り出した。
 これで遙の緊張が和らぐなら良いけど。
 ケースを机に置き、丁度沸騰した湯で紅茶とコーヒーを淹れる。シャワーの音も聞こえなくなったし、遙もそろそろ出てくるだろう。

 遙は遙で、シャワーを浴びたものの、この後何を着たら良いのかも分からなくなっていた。
 また服を着るのも違う気がするし、かといってバスローブで出て行くのも恥ずかしい。とりあえず下着はつけるとしても。
 堂々巡りな思索をしていると、扉が小さくノックされた。
「遙、大丈夫か?とりあえず紅茶淹れたから、着替えられたら出ておいで」
「わ、わかった。ありがとう、直ぐ行くね」
 しまった、声がうわずった。などと考えながら、結局遙はさっきまで着ていた服をもう一度着ることにした。

「お待たせ。遅くなってごめんね」
 遙の姿をみて、幸哉は苦笑する。そこまでがっつり着込んで来なくても、とは思うが、却って緊張しにくくて良いかもしれない。
「あ、そうだ。なんか、リラックス出来るサプリを貰っていたんだ。俺も今からシャワー浴びてくるから、良かったらこれも飲んでて」
 そう言ってケースを遙に差し出し、コーヒーを飲み干した。
 後ろで何やら呟いている遙をそのままに、幸哉もシャワーを浴びに行った。

「行っちゃった……。これ、飲んだほうが良いのかなあ」
 手元に残された小さなカプセル。用意周到なのか、たまたま入っていたのか分からないが、緊張しすぎて色々辛いのも確かだ。
 紅茶は少し冷めていて、湯上がりでも飲みやすい。よし、と気合いを入れ直して、カプセルを口に入れて……飲み込んだ。

 シャワーを終えた幸哉も、着る服に困っていた。確かにこれは元の服を着たくなるな、と呟き、遙と同じように服を着込む。
 どういう作法が正しいんだろうな。緊張を誤魔化すために暢気に考えながら脱衣室を出る。
「遙、お待たせ」
 ソファを見ても、遙が居ない。
「あれ……?」
 鞄は置いてあるから、外に出たわけではなさそうだ。カップはカウンターに戻してあり、カプセルが入っていたケースだけがテーブルに置いてあった。
とりあえず幸哉も緊張を解しておこうと、カプセルを口に放り込み水で流し込む。
「遙ー?」
 トイレかな、と思った時。声が聞こえた。妙にくぐもった、小さな声。もしかして、とベッドを見やると、不自然に膨らんでいる。
「……見つけた。隠れん坊でもしてたのか?」
 何の気なしに布団をめくった幸哉が、絶句した。

「幸哉ぁ……」
 紅潮し、潤んだ瞳。唇はいつもよりも赤く、半開きのそこから切なげな吐息が漏れている。
「は、遙……?大丈夫か?」
 あまりの変わりように問いかけるも、遙は時折息を詰めるばかり。
 もしかして。
 色々下世話な事ばかりしてくる親友から受け取った、正体不明のカプセル。そして、苦しげな遙。

 嫌な予感がした。

「幸哉ぁ……、身体、変なの……助けて……」
「……くそ、あの野郎……」
 カプセルを寄越した親友に悪態をつきながらも、縋るように見つめられた幸哉は髪をぐしゃりと崩して覚悟を決めた。
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